パラダイムシフト 〜アヒルがウサギに見える日〜

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help RSS 私の決断は、私にとって絶対的だ!

<<   作成日時 : 2012/02/17 19:41   >>

驚いた ブログ気持玉 26 / トラックバック 0 / コメント 54

前回の記事では、「人間の認識は絶対的ではない」と書きました。記事の主旨をざっくばらんに言えば、「自分の認識力なんて絶対的ではないのだから、認識力を過信せず慎重に判断したほうがいいですよ」ということになります。ところが同じ私がコメント欄では、「認識」は絶対的ではないが「決断」は絶対的だと述べています。

なんだか矛盾したように感じるかもしれませんが、コメント欄を注意深くお読くだされば、ご理解していただけると思います。核心部分は下記です。

最終的に決断するのは「私自身」です。その決断は絶対的で、他者は指一本触れられません。(中略)認識は絶対的なものではなく、あくまでも「私の決断」のための材料にすぎません。他にも、私のそれまでの人生体験も、決断の材料になります。

こちらも、ざっくばらんに言えば、「認識したものが絶対的なのではなく、私が決断したものこそ私にとって絶対的なのです。認識は、決断のための材料にすぎないのです」ということになります。よく読めば、意味が分かっていただけるものと期待します。

さて、なぜこんな前置きを書いたのかと言えば、これから私はご要望にお応えして「真の父母様をメシヤと信じるようになった経緯」を綴ろうと思っているからです。これから綴る内容は、あくまでも私にとって絶対的な決断を促した材料にすぎません。

このポイントを押さえて読んでいただかないと、「なんだ、下らない理由で信じるようになったんだね」と、下らないコメントを書かれるからです。そういうコメントは心外ですので、あらかじめ禁止とさせていただきます(削除します)。


まずは、私の少年期の悲しい体験から。拙著「意識のホログラムにアクセスしよう」の「はじめに」において、次のよう書いています。


私は7歳のときに、弟を事故で亡くしました。つい数分前まで仲良く遊んでいた弟が、冷たくなって横たわり、何の反応も示さないことに愕然としました。弟の亡骸を抱いて号泣する両親の姿は、今でも私の記憶の中に鮮明な映像として焼き付いています。「人は、かくも簡単に死んでしまうものなのか。かくも辛く悲しいものなのか」と感じました。

同時に、「自分はどうして生きていられるのか。今そこに横たわっている弟と自分との違いは、いったい何なのか」と、生と死の謎に頭を悩ませました。その解答を得たくて、科学の世界に進んでいきました。



当ブログの「昇華式」という記事の中で、弟が亡くなった経緯について、もう少し詳しく綴っています。

私は、小学1年生のときに弟を事故で亡くしました。

私が幼い弟の面倒をみなければならなかったのに、つい友達との遊びに夢中となってしまい、気づいたら行方不明となってしまいました。大勢の人が探しましたが、なかなか見つかりませんでした。

池に浮いている弟の亡骸を発見したのは、私でした。

このときの悲しみと罪悪感といったら、言葉に表現できません。大人になってからも、ずっと苦しんできました。何度か自殺も考えたほどです。



上記内容を圧縮して書けば、「自分の責任で弟を死なせてしまったので、自殺を考えるほど罪悪感に苦しんできた。それからというもの、生と死の謎に頭を悩ませるようになった。そして、その回答を得るために科学の世界へ進んでいった」ということになります。

でも、ちょっと飛躍しているように感じませんか? 生と死の謎に対する回答を得るために、なぜ科学の世界に行くのでしょうか? 普通は、宗教の世界に行くのではないでしょうか?

そうなのです。そこが割愛されています。それぞれの文章が掲載された本や記事の主旨とは直接関係ないので、省略しているのです。私は最初、宗教の世界に行こうとしました。悩める私を見かねた母が、「おばあさん(祖母)の家に行ったらいい」と進めてくれたのです。なぜか祖母はキリスト教だったのです(熱心ではないが)。そして小学生の私に聖書をすすめました。

しかし、読んでも「なんじゃこりゃ」という感じ。ちんぷんかんぷんでした。祖母には失礼でしたので、母にその旨を告げると、こう言われました。

「そうだろう。宗教なんて、所詮そんなもんだよ。だから、もうそういうことで悩まない方がいいよ。宗教はお金がかかる。うちのような貧乏人には、無縁の世界だよ」

実は母も若いころ、とある宗教団体に入信していたのです。そこで、だいぶお金を捧げたようでした。だから、私にそう言ったのでした。

ただ、行くなと言われると行ってみたくなるもので、他宗教の本も図書館で読み漁りました。読めば読むほど、「なんじゃこりゃ」でした。「よくもまあ、こんな訳のわからないものを信じているもんだ」と、完全に反宗教、宗教嫌い、宗教軽蔑少年になりました。

ところがなぜか、霊体験をするのです(詳しく書くと長くなるので、思いっきり割愛)。あるときは、ひき逃げされた現場に立っている浮かばれない霊と目が合って、付きまとわれました。悪霊が見えても、決して目を合わせないことです。向こうも「あ、気づいてくれた」と思って、付いてきます。ただ、面白いことに、霊にも礼儀があり(駄洒落か)、家にまで上がりこまないんです。まあ、私が出会った悪霊たちだけかもしれませんが…。おっと、長くなるので割愛するんだった。(^_^;)

とにかく、理性では宗教を否定しているのに霊体験をするものだから、混乱するわけです。そこで科学の登場というわけです。科学は何でもできる(と思っていた)。物理法則を解明し、飛行機を作り、ロケットを作り、テレビも作り、コンピュータも作った。必ず霊現象も解明できるだろう、生と死の謎にも回答を与えてくれるだろうと考えた次第です。

中学2年生のときには、独学で微積分を勉強していました。なぜかというと、アインシュタインの相対性理論をどうしても理解したかったので、そのために数学の基礎力をつけていたのです。ですから、理数系の成績は良かったです。しかも文系も強かった。結局、勉強するには本を読まねばならないので、読書家になり、読解力が身に付いたからです。ですから、高専入学に際しては、受験勉強は英語しかしませんでした。おっと、自慢っぽくなるのでやめましょう(だからあまり自分のことを書きたくないんだ…)。

20歳のころには、自分の中に強固な世界観が確立されていました。下記のような内容です。


・この宇宙を創造した存在がいると仮定したほうが論理的である。この宇宙が、あまりにも精巧にできていることは、科学が立証済みである。こんなに精巧な宇宙が、偶然にできる確率は低すぎる(あり得ない)。

・人間には、宇宙の観測者としての自由意志が与えられている。創造主自身ですら、人間の自由意志に干渉できない(そのように創造した)。これは不確定性原理から言えること。

・しかし、その創造主は、巷で言われているような「神様」ではない。なぜなら、世の中には不幸が蔓延しているからだ。幼い弟が苦しみながら溺死するような世界を作っておいて、何が「神様」だろうか! 戦争や犯罪や飢餓などで多くの人が理不尽にも死んでいく世界を作っておいて、何が「神様」だろうか! ちゃんちゃらおかしい。

・創造主は存在するが、「神様」とは呼べない。では何と呼ぶのか。「悪魔」がふさわしいだろう。

・では、なぜ「悪魔」は自分でも人間に干渉できないように創造したのか。それは、「悪魔」が予測可能なことを人間にされたら、「いじめる・苦しめる」という「悪魔の喜び」を享受できないからである。人間に善なる心を与えて、悪を退けようとする性質をも授け、なおかつ創造主たる「悪魔」自身も干渉できないようにしたからこそ、「いじめがい・苦しめがい」があるのだ。

・なんと酷い創造主「悪魔」であろうか! このことを多くの人々に知らせないといけない!







<小休止>

大丈夫ですかあ〜? 頭の中が、ぶっ飛んでいませんかあ〜? (^_^;)







だいたい、こんなことが20歳の私の世界観でした。今から思えば、愛のない創造原理みたいです。初めは友人に話したりもしましたが、あまりにもぶっ飛んだ仮説ゆえに、みんな引いていきました。(^_^;) そこで私も学習して、「ストレートに語っても駄目だ、小説にして啓蒙していこう」と決め、小説家を志すのです。

高専といえば20歳で卒業なのですが(高校+短大)、就職先も決まっていたのに卒業間近で休学し、山中のレストランで住み込みのバイトをしながら、執筆していました。厨房担当だったので、このころ料理を覚えたのです。だから、妻よりもずっと料理がうまいのです。妻がいないときに私が料理を作るので、「お父さんのほうがおいしい」と子供たちには大好評ですが…、妻の機嫌を損ねるのでこの辺で割愛。

ところが、レストランで働いている最中に、ある事件に巻き込まれました。これも長くなるので割愛しますが(割愛ばっかりだなあ〜)、当時の世の中を騒がせた有名な事件です。たぶんこれも悪霊現象でしょう。ともかく刑事2人に張り付かれ(あ、私は全然悪いことしていないんですよ、参考人です。犯人のアリバイ証人)、客商売のレストランにいずらくなって、バイトをやめて学校に復学したわけです。

2年休学したので、2年遅れで卒業。むろん、技術職に就くつもりはなかったですので(かといって小説家にすぐなれるわけでもなく)、何とか新聞社に入って文章関係の仕事にありつきました。ゆくゆくは、「悪魔」の所業を世の中に晒すべく、文章に磨きをかけていた次第です。

もちろん、上記のような期間には、ギャンブラーとしての華々しい経歴もあるのですが、まあこれも割愛です。

そのころは、人間に自由意志があるということと、「悪魔」も「自由意志に干渉しない」というルールに従っていることから、「人間の良心を啓発すれば、世の中を平和できるはずだ」という希望的な思いも持っていました。「悪魔」は、人間に自由意志を与えた時点で、「もしかしたら人間が善なる世界を築き、自分(悪魔)を悔しがらせるかもしれない」という可能性(リスク)を残しているからです。

「いやあ、悪魔も一流のギャンブラーだよな」と感心していたくらいです。「自分の楽しみ(人間いじめ)のために宇宙を創ったのだけれども、その楽しみを得られず逆に歯がゆい思いをするかもしれない世界にしておいたということは、一流の遊び人だなあ」というわけです(ハイリスク・ハイリターンな遊び、まさにギャンブルの醍醐味!)。

とにかく、「必ずしも世の中は不幸に満ちるとは限らない」というのは、人間側としては希望的だと思っていたのです。変な考えですけれども、「だからぼくも世のため、人のために生きるぞ」と燃えていたのです。そういう時期に伝道された次第です。


伝道されて、統一教会に入教していくところの証は、過去に当ブログで書いていますので、そちらをお読みください(下記)。

私が出会った神様(1)
私が出会った神様(2)
私が出会った神様(3)


さてさて、入教前に私が持っていた「悪魔教」とも呼ぶべき世界観をみれば、どうして私が統一教会の教理を受け入れたのか、統一教会員の方々であれば分かると思います。あえて説明する必要はないと思います。あの世界観に、「真の愛」という概念と堕落論が加われば、私の世界観における悪魔は神様に変わることが、ご理解いただけると存じます。

私には、読者の皆様には想像し得ないくらいの科学的知識があります(決して傲慢になっているのではないです)。それら科学的知識の1つ1つは、すべてが統一原理を否定する材料にもなるし、肯定する材料にもなります。

なぜなら、科学にそもそも限界があるからです。科学を学べば学ぶほど、科学の限界は分かるのです。霊能力とか超能力を肯定する人が、しばしば「科学にだって限界があるんですよ」といって科学者に反論しますが、正直いって腹が立ちますし、赤面します。そんなことは、科学者のほうが何億倍も分かっていることです。それでも、一歩一歩、科学的方法論に則って現象を解明しているのが科学者であって、一足飛びに自分たちの認識を絶対化するべく科学批判をする似非(えせ)宗教者は嫌いです。

だから、まずは科学を学ぶ。そして「決断」する。自分が持っている科学的知識を、否定材料に使うのか、肯定材料に使うのか、ということの決断です。私は後者、肯定材料に使うことを決断したのです。こうなると、いくら統一原理や統一教会を否定されても、信仰は微動だにしません。内部で問題があろうがなかろうが、「ぜ〜んぜん問題な〜い」と感じます。

問題が生じることが問題ではなく、問題を解決できないことが問題です。問題が生じたら、外野に逃げて内部を批判しているのが問題です。問題を解決するために勤しむことが、神様への礼儀というものです。科学者も、そうやって問題解決に勤しんでいるのです。似非宗教者は、どうも一足飛びに結論に至ろうとするから困ります。だから、ちょっと問題があると分派を作ったりする。極めて非科学的方法論です。

真の父母様が再臨主、メシヤであるということは、統一原理を受け入れれば当然の帰着です。もっというと、統一原理を受け入れていなければ、文鮮明師と韓鶴子総裁は真の父母として認識できないし、再臨主としてもメシヤとしても認識できません。

総じて言えば、私が真の父母様を再臨のメシヤだと受け入れるようになったのは、あの世界観の中の「悪魔」が「神様」に入れ替わった瞬間です。そのときに、私のパラダイムはシフトしたのです。アヒルがウサギに見えた瞬間です。

宗教的回心というものは、多かれ少なかれ、そんなものでしょう。もともと自分がもっている思考の枠組み、すなわちパラダイムが、突然違ったパラダイムに移行することが回心だと思います。そしてパラダイムシフトしたら(回心したら)、もうアヒルはウサギに見えないのです。私にとって真の父母様は、再臨のメシヤであって、それ以外には見えないのです。


そういえば最近、例のブログ村を見たら、お父様がボケてきて正常な判断ができないとか、お父様だって嘘は見抜けないのだ(統一教会幹部がお父様に嘘の報告をして問題が生じている)とか、下らないことを言っているグループがいました。さらに、そのグループに対して、躍起になって反論している教会員らしきブログもありました。よく見てみたら、日韓歴史論争をしていた人々でした。

いやあ〜、懲りずに下らない議論をしているものです。日韓歴史論争はどうしちゃったんですかね。「論争が目的」、「論争によって精神状態を保っている」としか見えませんでした。

お父様はメシヤなんですから、ボケないんです。そこに理由なんかない。メシヤなんですから。普通の人間ではないのです。お父様に嘘など通用しないんです。神様と直結するメシヤなんですから。こう言い切るのが信仰というもんです。それで終わり。論争にならないはずなんです。

例えば……。4,000万双祝福準備員会のビデオ記録担当だった私は、万物の日を前後してアメリカへ打ち合わせに行きました。会長中心とした十数人の小グループでした。万物の日の式典に参加する恵みにあずかりましたが、「日本からきた者だけ残りなさい」と言われ、その小グループだけでお父様を中心とした会議になりました。

会議の詳細は割愛しますが(また割愛か)、とにかくお父様に怒られました。お父様が1人1人の前に立って、1人1人に怒るのです。私の前にも立たれ、怒られました。それはもう、その怒り方といったら……、言葉では表現できません。あ、暴力はありませんよ。迫力について言っています。

私は一瞬、気を失いました。気を失う直前に、「ひえ〜」とか「ぎょえ〜」という声を聞きました。

気が付くと私は、さっき座っていたところから5メートルくらい後ろに立っていました。でも、5メートル前には私が座っているのです。そう、霊人体が肉体から離れてしまったのです。幽体離脱って、その前も何度か経験あるので、対処方法は心得ていました。とにかく、早く意識を集中して、肉体に戻らないと、死んじゃいます。

「ひえ〜」、「ぎょえ〜」という声は、私に貼りついていた悪霊さんでした。もがき苦しみながら、天に昇って行きました。

「早く戻らないと死んじゃう…」と、焦って肉体に戻ろうとするとき、お父様がこっちを見ました。「こっち」とは、すなわち私の霊人体の顔のことです。そして、ニヤッと笑うと、隣の人の前に移動して怒り始めました。

私は無事に戻って、ほっと一息。するとお父様が、こっち(今度は肉体)を見て、「戻ったね」とひと言。そして、また隣の人を怒り続けました。たぶん、なぜ「戻ったね」と言われたのかは、誰も意味が分からなかったでしょう。

その後、私は身体が爽快になりました。実はそれ以前、たいへんな肩こりと腰痛に悩んでいたのですが、きれいになくなりました。お父様に直接怒られるということは、清平の役事の何十倍、いや何百倍、何千倍も効果があるのだと思います。


おおっと、また話が脱線しましたね。もう収拾がつかない…。(^_^;) 何が言いたいかと言えば、メシヤはこんなにすごいんですよ、と私の体験から証しているんです。ボケるだの、嘘を見分けられないだの、ありっこないのだと言いたいわけです。神様と直通の、絶大なる霊能力の持ち主だからです。



いやあ、長々と書きましたが、なんだか脈絡がないですね〜。(^_^;) まあ、たまにはこんな駄文もよろしいのではないでしょうか。まだまだ語り尽くせないのですが、あとは何なりと質問してください。できる限り回答いたします。

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コメント(54件)

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すごい。こんな緻密な悪魔観(神観)を青年時代に形成していたんですね。だから、説得力がある。しかも、独りよがりではなく、目的を持って、いろんな職業を経験され、その仮説を証明していったことが読み取れます。
はじめまして
2012/02/17 22:00
神様に召命された「私の」証詞。
その召命を「自らの決断」によって受け入れた証詞。

やっぱり証詞(認識ではなく決断の部分)というのは、間違いなくその人自身にとって「絶対的」なものなんですね。それを否定することは誰にもできないことだとの前置きを読み、信仰的にも、また理屈としてもまったくその通りで納得いたしました。

そうはいっても小林さん、不特定多数のいろんな立場の人々が目にするブログです。ここまで踏み込んだ証詞を掲載するにあたり、いくらかの勇気も奮い起こされたことでしょう。敬意を表すとともに、さらにお聞きしてみたい気持ちにも駆られます。

神様が絶対的で尊い存在であるように、神様に導かれた(そしてその道を選び取った)その人自身の証詞も、同じく尊く、かけがえのない価値ある宝物ですね。

私は読ませていただいてとても清々しく感じました。
ポポポヤ〜ン
2012/02/17 22:30
すごいのひとことです。圧倒されました。ブログ村の論争が、幼児のケンカに見えますね。再臨主のみことばを出版する会社の社長になる器とはこういうものなんだなと、あらためて感動させていただきました。ありがとうございました!
さち
2012/02/17 22:38
素晴らしい証しです。

お父様との証しがありましたが、実は昨年私も直接お父様に怒られる機会がありました。
その時は5〜60人の集まりでしたが、その迫力は物凄いものでした。
体験した私ははっきり言えます、お父様は微塵も呆けてません。(当然ですが)
印象としては「雷」です。
小林さんの記事を読んでそれだけは皆様にお伝えしたいと思いました。
在米
2012/02/18 00:52
尊い人生の道!
教えて下さりありがとうございました。
沢山の方に知ってもらえるといいですね。
『大きな力になる』と感じさせて頂きました!
経ていらした犠牲や傷にさえ、申し訳なくも感謝しかありません、…越えて下さってありがとうございました!

心が喜びに満たされました(^^)
スマイル
2012/02/18 02:21
まめ改め、まめっちです。
こちらのブログは、いつも拝見しています。
証ありがとうございました。
感動したというかすごいと思いました。
頭もとてもよい方だということも改めて思いました‼
実は、こちらに来てからの信仰生活は、危機の連続で社長のブログで姿勢を正される事が多くあってありがたく感じているんです。
分派も多いし、実際に行ってしまう人もそうですよね。
これからも参ります。
在韓

まめっち
2012/02/18 09:17
「何なりと質問してください。できる限り回答いたします」とあったので、お言葉に甘えて1つ質問させていただきます。

顕進様派の人がブログで「お父様も肉体の持つ原理的な限界の影響を受けることは避けられない」と言って、呆けているとか幹部に騙されているとかの根拠にしていて、「お父様を神格化してはならない」と強調しています。

社長は、お父様も人間であるから神格化してはいけないという主張について、どうお考えでしょうか?
さち
2012/02/18 19:02
貴重な証しをありがとうございました。
特に真のお父様の証しの部分は圧巻でした。驚きと共に、やはり真のお父様というお方はすべて見通していらっしゃるのかと、確認することができました。(私は霊体験がほとんどないので、お父様の霊的感覚を知ることができません。)
なんか、単なる感想文になってしまいましたが(笑)、証しをしてくださったことにあらためて感謝いたします。ありがとうございます。
大久保直也
2012/02/18 19:06
実に感慨深い体験経過を率直に書いて下さり、親近感と理解が増しました。
やはり、認識に関する絶対性は結果的存在である人間には限界があり、近寄ろうとしても未達成な領域が残るものだと感じます。
しかし、決断であるとか自分自身の選択責任による自由行動は、100%自己に由来しますから本人にとって確かに絶対的なものですね。
「信仰」という信ずる行為は疑わない事であるので、そこに到る決断をする前に、徹底的に検証する意味で科学的な観点から様々な「疑い」を持って吟味する過程は重要だと思いました。
そんな視点を越えて課題や不安に取り組む意味合いを転換できたら、不変的信仰に近づく足掛かりになるのでしょうね。

どんな経過を辿っても究極の真理は普遍性があるので、結果的に同じ目的地に到達するようになりますから。

最近の内部問題を考えると、教会員であってもお父様を浅はかに人間的な観点から捉えて、自分なりに認識して判断している部分が多いのかも知れません。

自叙伝風に表現していただいたこの記事を読んで、信仰するに到る原点を思慮深く考える事ができました。
周辺の環境や出来事が中心でなく、私の心が支点になりますので幅広い器を持てるよう日々修練だと自覚させられました。ありがとうございます。
光太朗
2012/02/18 19:48
皆様に喜んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。コメントが多くて1人1人返事ができませんが、ご了承ください。さちさんの質問にだけ回答です。

●さちさん
>社長は、お父様も人間であるから神格化してはいけないという主張について、どうお考えでしょうか?

そういうことを言っている人がいるんですか? その人は統一教会員ではないと思います。「神格化してはいけない」と言うからには、「お父様は普通の人間だ」と言いたいわけでしょうからね。それはもはや、我々の信仰とは異なります。以下、天聖経からの引用です。

「無形の神様には実体がないので、その形状を表したのが真の父母です。(中略)霊界に行ったのちにも、真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのは、それです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かというと、レバレンド・ムーンの形状を神様が使おうとしていることです。」(『天聖経』P124より)
小林浩
2012/02/18 21:04
小林社長が同じ統一教会員であることに
誇りを感じます。
ありがとうございました。
信仰者っていいですね。
感覚的ですがそう思いました。
まこ
2012/02/19 22:46
まずタイトルの「私の決断は、私にとって絶対的だ!」というのが良いです。その通りっ!と言いたくなります。
小林さんの信仰を持つまでの経緯を読み、自分の経緯にさらに誇りを持ちました。
また、さちさんの質問に対する回答の引用も的確ですばらしい!感動します。
ぱあ子
2012/02/20 06:45
●まこさん、ぱあ子さん
ありがとうございます。今後も声援、よろしくお願いします!
小林浩
2012/02/20 20:57
 光言社への企画提案です。

 小林さんの体験を含めて、信者の体験記を単行本にしたら、どうでしょうか。

 小林さんの体験記に、コメント欄での信者読者の反応に新鮮な感じを覚えたのが企画提案の動機です。もう一つは、オセロの中島さんの報道を読んで。

 企画の狙い(マーケット性を含む)は、以下の通り。

その1・同じ信者でありながら、「あいつ(あの人)はどうして統一教会を信じたのか」を知らない。それを知ることによって、自分の信仰を客体化できる。統一寄りの観かたをすれば、信仰心が試され、強化される。
(御利益を求めて入った未亡人信者は恥ずかしくなって、退会するかもしれないけど、でも、「寂しかったから、何かにすがりたかったの」という手記もありだと思う。家族はそのことを理解しなければならない)

その2・信者家族(マスコミを含む)は、どうして「うちの子どもが(うちの母が・妻が)統一教会にはまったのか」、まるで理解できない。
 信者は親に、夫に、子どもに、いつかは説明しなければならないときがくるけど、これまでのパターンをみると、まるで説明できていない(本人は説明しているつもりでも、ひとりよがりの説明だから、家族はチンプンカンプン)。
 説明しなければならなくなったときに、信者は家族に本を差し出し、「この中のAさんの手記が比較的私と近い」と、材料を提供することができる。
 また、マスコミも資料として参考にできる。

 タイトルはそうですねえ。
『私が神を信じたわけ』
『私はこうして統一にはまった』
『巷の食口たち』

 ソフトカバーで240頁。紙は安いの。70Kで大変だから、定価は980円。

 小林社長、いかがでしょうか。 
米本
2012/02/21 17:45
●米本さん
実におもしろい提案ですね!

「光言社の社長」という立場を抜きして考えると(なぜ抜きにするかというと、抜きにしないと社内外の事情や制約に縛られて自由な発想ができないため)、一信徒としても読みたいし、信徒でない人にも読ませたい本です。

また、私が仮に信徒でない場合でも、やはり読みたいでしょうね。オセロの中島さんの話題もあるし、実にタイムリー。「どうしてあんな自称占い師なんて信じちゃうんだろうねえ」と、20歳前後の科学オタクのみの私だったら、とても疑問に思ったことでしょう。統一教会だって、外からみたら同じこと。疑問に思うでしょう。

そういう意味では、教会員向けにするより、かえって非教会員向けの本にできたら最高です。そちらの方が普遍的。信徒の人でも読めるし。(教会員向けにすると、証しが原理用語満載でも可ですが、非教会員にはちんぷんかんぷんになる。)

で、「光言社の社長」という立場に戻ると、結構ハードルが高い企画です。(ハードルの詳細はここでは書きません。)

ハードルを越えるための声が聞きたいですね。この場でちゃっかりマーケティングリサーチをしてみます。

当ブログの読者の皆様の中で、上記のような企画本を読みたい、読ませたいと思う人は、コメント欄にその旨を書いてみてください。まあ、細かい理由は書かなくても結構です。
小林浩
2012/02/21 19:15
いやあ、米本さん、無茶苦茶面白いですね。面白いと同時に、実はここが我々の盲点でもあります。

つまり、毎週教会の礼拝に参加していながら、意外と隣の兄弟姉妹の復帰路程を知りません。お恥ずかしい限りです。みんな関心なくはないはずなんですけどね…。知れば必ず内部から復興し、米本さんのおっしゃる通り、自身の信仰も強くなるはず。当然のように伝道にも力が入るというもの。小林さんのこの証詞だって、読んでみて初めて分かるわけですし、私にとっては新鮮な“神体験”です。

本来は、地元の教会において、このような『伝道の(あるいは伝道された)証詞』の心霊復興の渦を、日常的にもっともっと巻き起こさなければならないし、私もこれを機にがんばってみようと思うようになりました。

そうした機運があちこちで巻き起これば、自然と発刊への期待にもつながるような気がします(漠然としていてスミマセン。無責任なことは言えないので…)。

あと、米本さんは手助けの意味で助言して下さっていましたが、自身の証詞を氏族や誰かにする際は、本に頼らず、堂々と自分の言葉で証詞できるようになりたいものですよね。

結論としては、もっとよい意味で社会に話題性を提供できる教会になれば、世の中の関心も高まって、こうした本のニーズもさらに高まるような気がします。

でも、米本さんのこれまた最後のオチ(?)、

> ソフトカバーで240頁。紙は安いの。70Kで大変だから、定価は980円。

「70Kで〜」は大きなお世話ですよ〜(笑)。
ポポポヤ〜ン
2012/02/21 20:25
はじめまして
いつもブログを楽しみに拝見しております
質問の回答ですが、とても読んでみたいと思いました。
教会員でない人でも、ああ そうなんだ
と思ってもらえたらうれしいし、
こんなに身近に神様は働いておられたんだ
と自分自身も神様を近くに感じられるような気がします
海のもくず
2012/02/21 21:09
それは物凄く良い企画だと思います。
「神様との出会い」
「神様の愛を知って」
副題で統一教会信仰の証言
シンプルにこんな感じでどうでしょう?
在米
2012/02/21 21:20
小林浩さん。お久しぶりです。正統派右翼のクローザーです。科学的政治ネタ、なかなか書いてくれませんね。首を長くして待っています。

米本さんの企画、おもしろそうだと感じました。どうして北朝鮮の田舎出のじいさんをキリストの生まれ変わりだなどと信じてしまうのか、部外者には大変興味があります。正直、今回の小林浩さんの証言でも、そこのところはよく分からなかったです。信者さん向けに書いているからでしょうが…。

そういう意味でも、ぜひ我々部外者が読んでも分かるような本にしてくれたら売れると思います。信者さん同士は、ポポポヤンさんのいうように、内輪の礼拝などでもっとコミュニケーションをとったら済むはなしですから、それより部外者向けの本がいいです。

タイトル案。
「“マインドコントロール”の真実 〜参議院議員有田芳生の嘘〜」
「献金地獄 心は天国 〜統一協会信者の証言〜」
「わたしをカルトと呼ばないで」

ふざけすぎ?
クローザー
2012/02/21 22:15
僕もこの企画は、断固賛成です。タイトルは、米本さんが提案されたものがいいかなと思っております。

大久保直也
2012/02/21 23:20
この企画絶対いいですよ!
伝道過程の話しを沢山の人に聞きたいと思ってるけど、小心者の私はなかなか言い出せなくて、、、
聞き出したら相当時間がかかりそうだし、、、
私も伝道の証を早く文章にしないと忘れてしまいそうです。
いつかは子どもたちに話す機会がやってくると思うので教会員全員提出するようにしたら良いと思います。
せんとぱぱ
2012/02/22 02:00
 劇的な証もそれなりにいいですけど、巷でAKB●○が流行っているように「等身大」というか、典型的というか、日本人の標準的な証集というのが出版されればいいですよね。こんな箸にも棒にも引っかからない私も信徒ですってのが。
 私にも「あるある!」ってのというか。
その方が、誰でも(あなたも)神の子と言う証明[説得か?]につながるのでは?
はじめまして
2012/02/22 09:02
さらに意見です。
証特設サイトを教会と共同で開設するというのはどうでしょうか?
証をワードやテキストで募集して教会で校正校閲し、光言社に送り、最終確認してWebに載せる。
いかがですか?
せんとぱぱ
2012/02/22 12:33
小林さんのように壮絶な手記もいいし、どこにでもいるような人が食口になった話もいいですね。

自分的に読みたくない、興味がないのは、
・自慢話か?と思える手記
・生真面目な人がそのまま食口になった手記で、食口としても優等生の雰囲気が漂う手記
・原理用語や教会内語がある文章で教会外の人には意味不明な手記
・教会の内務の人の手記、社会経験のあまりない人の手記
・手記の最後に、その人の商売の宣伝がある手記

参考にはならないかも知れませんが・・・
ぱあ子
2012/02/22 12:42
 ぱあ子さんの提案に大賛成です。

 このことに触れる前に、企画提案の背景にはこんな経験もありました。意識下に眠っていたこと。

 私は「ルポライター」という肩書を、新橋のスピード印刷屋さんに名刺に刷り込んでもらったときに、いくつか書きたいことがありました。
 その一つに、なぜ若者は宗教に惹かれるのか、宗教に走った若者はどうして変容するのかといったテーマがありました。

 話は飛んで、その後、いわゆるカルト批判の記事を書くようになりましたが、その第1弾は「幸福の科学」でした。

 最初に、この団体を批判するルポを書きましたが、批判しても納得できないところがありました。それは前述した「どうして」という疑問が芽生えたのです。

 それで、「幸福の科学」の学生会員数人に集まってもらい、「なぜ惹かれたのか」と、座談会形式でインタビューしました。最初の計画では100人にインタビューし、回答を得たいと考えていました。
 しかし、当時私は30代になったばかり。理解不能でした。
米本(1)
2012/02/22 17:15
 話はさらにさらに飛んで現在に。私の故郷、松江市に白亜の小殿堂といってもいいような幸福の科学の会館が立っています。
 最近、大川隆法さんが来るというんで、会館がある国道9号線は大渋滞。
 つまり、老若男女は「幸福の科学」に惹かれ、同団体は興隆しているのです。

 30代のときと同じような問題意識が首をもたげてきます。
「どこがいいの?大川さんを本当に仏陀の生まれ変わりと思っているの?」

 つまり、私の疑問はこの数十年間、なにも変わっていない(進歩していない)ということなのです。

「幸福の科学」を批判することはたやすい。されど、なぜ団体が興隆するのかまるで理解できていないのです。

 こんな経験もあります。
 子どもが通っていた保育園の園長さんは「真如苑」の信者さんでした。
 きっと、私が新興宗教に理解があると勘違いして、告白されたのだと思いますが、あるときコソコソっと、一冊の本を渡してくれました。

 肩書がルポライターが書いた本で、「なぜ、真如苑に人々は惹かれるのか」といった趣旨の本でした。

 読み始めると、ぱあ子さんが読みたくないとおっしゃったような本でした。
米本(2)
2012/02/22 17:18
ぱあ子さん、米本さんに賛成。信者でなければ理解できない本なら私は読みません。
クローザー
2012/02/22 17:26
 話はさらにさらに変わって、「拉致監禁by宮村裁判の記録」です。

 現在、12年監禁された後藤徹さんの妹さんの陳述書がアップされています。
 ぜひ、お目通しを。
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-78.html
 そこの一節にこういう記述があります。

<私は、ずっと統一協会にいたらどうなっていただろうと考えることがあります。正体を隠してビデオセンターに誘ったり、霊感商法でお金を出させたり、言われるがまま多額の献金をし、自分の意思ではなく全く知らない人と結婚させられていたことでしょう>

 強制脱会者で反統一になった人のワンパターン的記述なのですが、「あとで騙された」と真に思ったとしても、ここには瑞々しい能動性が全くないのです。

 それにしても、こうした言説がまかり通っているのです。
「統一教会に惹かれた」のではなく「惹かれるように仕向けられた」

 もっとも、これは裁判に勝つための書面ゆえ割り引いて考えてあげないと、後藤さんの妹さんに悪いのだけど。でも、真にそう思わされているかもしれませんね。

 結局、統一教会の場合、今のところ世俗に流布している「統一教会に惹かれたのは、統一教会にマインドコントロールされたから(思い込まされたから)」といったものしかないのです。

 こうしたことを断ち切らないと、オセロの中島さん現象は手を変え、品を変え、続いていくと危惧しているのです。(おしまい)
米本(3)
2012/02/22 17:53
さすがカルトと呼ばれる団体に的を絞り探求してこられた専門家は、提案の切り口も鋭い指摘だと感心します。
米本さんはこの分野で正に超一流ルポライターだと思います。

一般向けに教会員の証しや、信仰観と対社会に関して思う内容を綴った手記集などを発表するのは、私も大賛成です。

しかし小林社長が立場やハードルと言われる観点も想像できますので、この企画に関して食口の良心と科学的認識力に期待したい処です。
文先生を救世主と信じる統一教会は、ある意味で特殊な事情も内包してますが、究極は普遍的な価値観が中心ですので、正直で率直に飾らない純粋な胸の内を表現する方が理解されやすいと感じます。
光太朗
2012/02/22 21:16
確かに小林さんが仰るように統一原理を理解しなければ御父母様をメシヤとして認識できないということですから、そこを抜きにしてしまうと米本さんのようにいくら話を聞いても理解できないということになってしまうかもしれませんね。

でもまあこれだけ教会員でない方も興味があるということですから、この企画は面白いと思います。

ちなみにこちらアメリカでは地元の牧師が、原理抜き(原理の勉強をしていないという意味)でも文師を尊敬するという方が大勢いますので、いろいろシリーズで出してもいいかもしれませんね(笑)
在米
2012/02/22 21:55
小林さんに質問なんですが、最初に原理を学んだきっかけは、例えば原理のどこが間違ってるか教えてあげようとしてとか、そんな理由ですか?

在米
2012/02/22 22:30
皆さんの意見を総合すると、やはり原理用語なし、一般人向け、ということになりそうですね。確かに、教会員向けならわざわざ本にしなくても、トゥデイズワールドジャパンや祝福家庭といった機関誌に掲載すればいいわけですし。検討してみましょう。


●在米さん
新聞休刊日にパチンコひまわり(パチンコ屋の名前)へ行く途中で、「神様がいると思いますか?」と尋ねられたのがきっかけです。当然、「創造主はいると信じているが、それは悪魔だ」と、街頭で1時間くらい、自論を講義しました。霊の親も、よく分別せずに聞いたものです。

こちらの講義が終わったら、「今の理論を包括する理論があります。まず講義を聞いてみてください」と誘われ、一通り受講した末、「これは本物だ」と確信するに至りました。

創造原理は、ほぼ解明していた(?)ようなものなので、特段感動しませんでした。スパークしたのは、なんといっても堕落論ですね。神が堕落に干渉できない理由です。キリスト教神学でも説明しきれていない「悪の問題(神義論)」を見事に解決しています。
小林浩
2012/02/22 22:57
小林さん

最高ですね。
小林さんとはレベルは違うにせよ、自分も似てます。
霊の親が小一時間熱心に宇宙の真理やら、歴史が紐解けるやら語るもんで、この人かわいそうだから助けてやりたいという思いになりました。
でも完全に信じてしまっているこの人を救うには、何が間違っているか知らないといけないと思い、原理を聞きました。

そして実は私も堕落論でした。
在米
2012/02/22 23:24
いつも楽しく拝見させていただいております。

皆さんがとても熱くなっておられるのに、冷たい事言うようですが、この企画、外部向けに作ってもまず売れないと思います。わたしなら、悪いうわさばかりの教団が教団サイドから書いた本を、まず手にも取らないと思います。

代案です。親達の二世三世向けの証しはどうでしょうか?親達が過ごした青少年期、何をどう考え、どう悩んだのか。そしてどのように御言に出会いどのように確信を持つように至ったのか。人生を変える程に至った神様・御父母様との内的あるいは外的出会い。親からの子供達への等身大の証しです。

御言を良く理解していない青少年向けの証しですから、原理用語はあまり使えないはずです。

私の主人は大工ですから、時々教会関係の建物を修理するのですが、子供達が手伝ってくれる事がよくあるのです。一緒に仕事をしながら自分の体験を話してあげるのだそうですが、訊くと親からそういう話を聞いたことがないと言う答えが必ず返って来るそうです。私達は子供達のもっと私達の体験を話してあげるべきではないでしょうか。また、外部でも同じような悩みを持ちながら、良い出会いができなくて道に迷っておられる方、子育てに苦しんでおられる方が読んでも、参考になるのではないかと思います。

たい君のママ
2012/02/23 05:44
アメリカでは昨年「トゥリビュート」と言う本が出版されました。一昨年、777家庭の40周年記念に40年以上の信仰暦をお持ちの先輩方の証しを公募し、本にまとめたものです。有名無名の諸先輩方の証しが100以上掲載されています。仁進様の企画です。そんな本が日本でも出版されたら良いかと思います。

ただし、タイトルは外部の方が見ても違和感のないものにされることをお勧めします。タイトルに教会用語が入っていると内容がどんなに良くても外の方に薦められません。題までは考えられませんでしたが、副題の案は、「親達が贈る子供達へのエール」みたいなコンセプトです。

すみません。私はこう考えました。
たい君のママ (2)
2012/02/23 05:46
たい君のママさんの「悪いうわさばかりの教団が教団サイドから書いた本を、まず手にも取らない」との意見は理解できる。しかしこの見立ては、そういう教団に属する者の被害者意識のような感覚から出たものだと思う。なぜなら、非信者の私は手に取るから。

要は中身の問題。教団が出版しようが、教団外のジャーナリストが出版しようが関係なく、どれだけ興味深く書かれているかということにかかっていると思います。

ただし、教団は当然PR目的につくる傾向になる。それでは売れないに決まっている。金を払ってまで、宗教の宣伝広告を買う奇特な人間はいない。

教団の外側からみて「ここを知りたい」というニードを押さえなければ売れないのであって、教団自身ではなかなかそれが難しいということ。しかし、発行元が教団だろうがが外部だろうが、それは関係ないということです。

それともう1つ。パラダイムシフトの読者(外部の私も含む)は、長い期間ブログを読んでいるので小林浩さんに親近感がある。だから、この日記のような体験談を読んでも、さほど違和感なくすんなり受け入れられる。

ところが、何の面識もない教団信徒の体験談となると、同じ教団内ではない人間にとっては親近感がわかないから、単なる体験談では売れないのは必至。外部の人間のニードをいかにつかみ、そのニードにあった体験談にしないとだめだと思います。たとえば米本さんが書いたように、今話題のオセロ中島とマインドコントロール問題に絡めて、じつはマインドコントロールなんてないんだというような体験談を「今」出版すれば売れると思う。

商売は、当然のこと商品品質とタイミングがすべてですよ。ね、社長様?(笑)
クローザー
2012/02/23 08:12
私も実をいうと、たい君のママさんの意見に近く、一教会員としては発刊それ自体には喜んで賛成しますが、「この状況下で果たして売れるのか」と聞かれると、正直「?」でした。

でも、クローザーさんの意見はさすがですね。いいトコ突いていらっしゃるのではないでしょうか。まったくの外部向けなら、どう見ても“教会宣伝用書籍”は売れませんし、絶対にもうひと工夫、普遍性を与える加工が必要なのは納得できます。

「マインドコントロール問題に絡める…」というのも面白い着眼点ですね。さあ、ここはひとつ“光言社の腕の見せ所”といったところでしょうかね。
ポポポヤ〜ン
2012/02/23 08:39
ポポポヤ〜ンさん。賛同ありがとうございます。ノセラレついでに、信者さんには耳の痛い意見を述べておきます。

「文鮮明師 自叙伝」というサイトがあります。
http://sekaijin.jp/
教団本部のサイトからリンクがはられているので、教祖様自叙伝の公式サイトと判断していいでしょう。このサイトでは現在「300万部突破」とうたい上げています。こういうのは「どうせ組織買いだろう」と部外者からは思われ、PRとしては逆効果。私のような人間は「そこまでして宣伝したいのか」と反感すらおぼえる。

そのサイトの下の方に、2011年の『2/7 <100万部突破記念>』、『9/9自叙伝200万部突破』とあるから、2011年には少なく見積もっても100万部は売れている計算になる。しかし、本の問屋であるトーハンの「2010年 年間ベストセラー発表」には、文さん自叙伝はない。
http://www.tohan.jp/cat2/year/2010_1/

年間100万部以上も売れてランクインしないはずがなかろう。気になって出版元の「創芸社」をネット検索してみたら、これがわけのわからぬ会社。どう見ても「普通の出版社」ではない。かといって、小林浩さんの会社のように統一協会の会社だとも公表していない。胡散臭くてネットでも話題になっている。

参考サイト「謎の出版社、創芸社」
http://togetter.com/li/241105

「自費出版を手掛ける会社」との情報もあった。こういう情報をもとに我々一般人が判断すると、こうなる。(続く)
クローザー
2012/02/23 12:51
・統一協会の出版社ではない「一般の出版社が教祖様の自叙伝を出した」(つまり世間が認めた)ということにしたかった。

・しかし、どの出版社もカルト教団と言われたところの本など出したくないので断られた。だから、カネさえ払えば出版してくれる自費出版会社に頼んだ。

・当然、メジャーな出版社ではないからトーハンなどのメジャーな流通にのせられない。すなわち一般の書店に並ばない。だから、信者が版元から直接買っている(だから売り方は小林さんの会社と同じ)。

・通常はトーハンなどの流通業者のデータでベストセラーかどうか判断されるから、当然その発表にはのらないのだ。

申し訳ないが、こんなことをやっているから、世間から白い眼で見られるんです。姑息、卑怯ということ。堂々と一般市場でたくさん売ってこそ、ベストセラーと言い張る資格がある。

幸福の科学だって組織買いしているが、それでも一般流通にのせている点で統一教団よりも一歩先を行っている。なぜそれが重要かと言えば、それによって一般書店にも利益が落ちるからだ。

企業や宗教の社会貢献とはそういうもの。内輪や特定の者だけで利益をグルグル回しているうちは、世間から受け入れられません。自己チューというやつです。地域社会に利益を与えてこそ、意味がある。

失礼を承知で、右翼からの諫言でした。勝共さんには頑張ってほしいから言っているのです。気を悪くしないでくだされ。
クローザー
2012/02/23 12:52
失礼。訂正です。2010年でなく「2011年 年間ベストセラー発表」を引用しないといけませんでしたね。
http://www.tohan.jp/cat2/year/2011_1/

ちなみにこの年の20位に大川隆法さんの本がランクインしています。
クローザー
2012/02/23 13:07
うわ〜、だいぶ盛り上がってしまいましたね。(^_^;)

クローザーさんのご意見、真摯に受け止めます。とくに下記の個所は「そのとおり」と思います。

>地域社会に利益を与えてこそ、意味がある。

弊社の書籍もトーハンや日販の流通に乗せて一般書店で販売することも可能です。

参考「光言社の書籍は一般書店でも購入できます」
http://hiroshi-kobayashi.at.webry.info/201004/article_6.html

しかし、信徒の皆様からすると、所属教会を通して直接弊社へ注文したほうが面倒くさくないので、結局一般書店での販売は長続きしません。

教会がある地域社会の経済に貢献することまで考えれば、一般書店での販売のほうがよいのです。クローザーさんのおっしゃるとおりです。

ぜひ、チャレンジしたい教会がありましたら、弊社までご連絡ください。


(むろん、書店だけに限らず、教会の近所を掃除するとか、教会がある地域の自治会活動を支援するとか、地域貢献にはいろいろあると思います。ぜひ取り組んでください。それが「為に生きる」ということです。)
小林浩
2012/02/23 21:14
伝道が進めば、いろいろ本を近所で注文しようと思うのですが、今は…、
はじめまして
2012/02/23 22:35
理解力に難があるもんで、ちょっと整理したいんですが…。

『一般人向け』の本を一般書店に置いてもらうためには、教会員がお願いした上で、まずはその本を一斉に買いに行かなければならない、ということでしょうか? あるいは『教会員向け』を置いてもらって継続的に購入実績を積みながら、あわせて『一般人向け』も並べてもらう、といった感じですか?

やっぱり、一般の方々がダイレクトに手に取って読んでいただけるような『信徒の体験記』なる本を出版・販売するまでには、光言社だけにとどまらず、教会全体においてそれ相当の意欲と継続的な努力が必要なのでしょうね、あたりまえですが。

ただ、私自身の気持ちとしては、少なくとも今年中までに、こうした本の企画を準備しておくこと自体は、間違っていないのではないかと。

何だか光言社で企画会議やってるみたいな気分ですね(笑)。
ポポポヤ〜ン
2012/02/23 23:52
●ポポポヤ〜ンさん
>まずはその本を一斉に買いに行かなければならない、ということでしょうか?

必ずしもその必要はありません(むろん、そのほうが理想的ですが)。本の問屋は、どんな本であろうが全国書店に配本してくれます。しかし書籍流通業界には「返品システム」という、書店には有利な(出版社には不利な)決まりがあります。書店は、売れ残った本を無償で返品できるのです。書店の在庫にならないので、書店経営にはリスクが少ないわけです(在庫は資産になるから、課税対象になってしまう)。

書店はもともと薄利な商売ですから、そのようにして保護してあげるわけです。しかしこれは、弱小出版社にとっては不利。返品された本は一銭にもならずに、こちらの在庫になってしまうからです。しかも返品されたものは汚れたり破れたりしますから、基本的にもう売り物になりません。ですから出版業界は、基本的に財力のある大手の数社が幅を利かすわけです。

弊社のような弱小出版社では、そういう仕組みの中で売るのは難しい。弊社だけの利益を考えれば、現在のような直売システムのほうが良いのです。しかし、地域貢献とか伝道PRなどを考えるなら、ずっとそのままではいけないだろうと思っています。

教会員が最寄りの書店をなじみにしてちゃんと毎月コンスタントに買うようになってくれれば、返品リスクがなくなるのでありがたいということです。書店は、確実な固定客が得られるなら、その客が求める本を問屋から仕入れるのは当然です。

創価学会さんや幸福の科学さんは、そのような出版流通の仕組みの中でちゃんとベストセラーを出しているわけです。その点は、クローザーさんが言うとおり、我が統一教会よりも地域社会(地元書店)に貢献していると認めざるを得ません。
小林浩
2012/02/24 08:34
 私が初めて光言社の本(『統一協会の検証』)を買ったのは、旧浦和市にある、埼玉県では大手書店の須原屋でした。
 へ〜、光言社は取り次ぎコードを持っているのかと妙に感動しましたね。

 話変わって、拙著の『我らの不快な隣人』が出版されたとき、面識のあった大阪の教会員から「みんなに配りたいから100冊欲しい」と言われました。
 出版社の情報センター出版局から、著者買い(定価の2割引き)扱いで、100冊その人に送っても良かったのですが、大阪駅前の紀伊国屋と隣の大きな書店(名前失念)で50冊づつ注文して欲しいと頼みました。

 出版社にとって直接注文のほうが利幅は大きいのですが、書店からの注文のほうを好みます。
 なぜなら、書店に注文してくれれば、「この本は読者に関心が持たれているのだと、書店が見込み注文してくれるからです。
 数冊仕入れれば、平台扱いになります。
 そうすると、来店客の目に触れ、購入する機会が増えます。出版社にとっても書店にとっても、メリット大なのです。
 ところが、一般の人、ましてや統一教会員(失礼)は、書店で注文すれば本が買えることを知らないのです。

 書店で注文して光言社の本を買うようなスタイルが定着すれば、幸福の科学のように、光言社の本も常時、店頭に並びます。「公文」で流せばいいのにネ。
米本
2012/02/24 09:16
 >書店で注文して光言社の本を買うようなスタイルが定着すれば、幸福の科学のように、光言社の本も常時、店頭に並びます。「公文」で流せばいいのにネ。

実は去年、私この提言をしてみようと真剣に考えたんです。私たち在米組みは、普通ニューーヨークの日本人教会出版部に注文するわけです。でも紀伊国屋さんとかその他の日本の書店がある都市も有るわけで、送料とか税金とか考えて、地元で買ってもあまり変わらなかったんです、以前は。『我らの不快な隣人』も、そうやって購入させていただきました。でも米国経済の困窮と、日米為替レートの問題で、昨年あたりから日本の書物は異常に値上がりしてしまったので止めました。でも日本ではこれ、真剣に考えてみてはいかがかと思うのです。私たちはもっと一般社会に出て行けたらいいと思います。
たい君のママ
2012/02/24 11:44
すみません。表現の間違いを一つ見つけました。

>でも米国経済の困窮と、日米為替レートの問題で、昨年あたりから日本の書物は異常に値上がりしてしまったので止めました。

上記は、>書店での日本の書物が異常に値上がりしてしまい、本部から購入する値段との差が広がってしまったのでやめました。の間違いです。
たい君のママ
2012/02/24 12:18
米本さんがおっしゃる通り、まさに「公文」で流せば済む話のように私も思ってしまうのですが(それにしてもよくご存じで…)。

地元書店への貢献にもなるし、書籍を通じて教会に尋ねてくる人だってきっといるはずです。私の知っている人ですが、かつて世界日報の愛読者で、その新聞広告で紹介されている本を片っ端から読んでいく中で教会に関心を持ち始め、祝福家庭になった方がいらっしゃいます。

「善は急げ」ということで、さっそく私も所属教会に提案してみようと思います。
ポポポヤ〜ン
2012/02/24 18:11
>書籍を通じて教会に尋ねて

「尋ねて」ではなく、「訪ねて」ですね、たぶん…(涙)。
ポポポヤ〜ン
2012/02/24 18:14
小林さん、はじめまして。

いつも楽しく読ませていただいています。
一度見た記事なので、コメントとかあるかなあ、と見ると、
すごい事になってましたね。

で、証しの件ですが、提案です。
@どこかのサイトに投稿する形で、
A誰でも閲覧できるようなインターネット版でまず始める。
B基本的には仮名(イニシャル)での投稿、
C匿名だが細かい採点の投票制度、
Dそして編集者がチェックして売れそうならば本にする、
という形ではどうでしょうか。

多数の投稿になる可能性もありますので、
E最初の時点でタグを決めておくとか、
都会、田舎、系統、街頭、証し伝道から、万物復帰から、男、女、その他色々なタグを決めて、
自分がお目当ての証しが探しやすいように工夫していただければ、
とても嬉しいです。

長文になりましたが、この話が上手くすすめば、
統一教会にとっても、教会員以外の人にとっても、
大きな変化が起きるような気がします。
ありがとうございました。
daniyyel
2012/02/24 20:56
皆様、いろいろなコメントをありがとうございます。せんとぱぱさんやdaniyyelさんが言うようにweb上で証しを募集するというのも「あり」だと思います。むろん、越えねばならないハードルはいくつもありますが…。ともかく貴重な意見だと受け止めています。

一般書店で弊社書籍を買うよう「公文」で通達するという米本さんの案は、私は「やるべきではない」「やってほしくない」と思っています。上から言われてやることは、長続きしないからです。あくまでも教会員の主体性、伝道意欲、地域貢献マインド、などに期待しています。
小林浩
2012/02/24 21:23
「公文」を出したのがまずかったですねえ。

 通達、指示といったものではなく、「一般書店でも注文すれば、光言社の本は買えますよ」「そのほうが社会での認知度が高まりますよ」というアナウンスです。

 こうしたアナウンスができるコミュニケツールが教団にはないため(あれば別)、「公文」を使っただけです。小林さんがおっしゃっるように、上から一方的な「指示」は長続きしません。
 
米本
2012/02/25 11:31
●米本さん
なるほど、そういう意味でしたか。そういうコミュニケーションツールは、教会本部HP、光言社HP、機関誌、信徒のブログなどもあるでしょう。かえって、そちらのほうが可能性はあるかもしれません。「公文」は事務的文章ですから、印象に残りにくいと思います。
小林浩
2012/02/25 18:53
念のためですが、私も『指示』というより『推奨』の意味合いで考えていました。今現在、こういったことを知るすべがないのがもどかしいですしね。

確かに小林さんのおっしゃるとおり、HPや機関誌などで継続的に知らせていただくのがベストだと思います。
ポポポヤ〜ン
2012/02/25 23:33

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