■3月13日
【午前8時すぎ、自衛隊ヘリによる避難再開】
一夜明けた午前6時ごろ、自衛隊員が双葉高に残っていた職員にヘリによる避難再開を告げる。午前8時すぎから二本松市への搬送が始まり、看護部長の西山は昼ごろ、最後の患者と一緒に3機目に乗った。避難がたびたび中断しても全員無事だったことに胸をなで下ろした。
しかし、前日に始まった車両による避難は思わぬ事態を引き起こしていた。
【患者35人が一時不明】
最初の車両2台で避難した患者35人の行方が分からなくなっていた。川俣町へ向かったはずが、患者は途中の浪江町の特別養護老人ホーム「オンフール双葉」で降ろされ、施設に屋内退避していた。このうち24人が一時とどまり、残る11人は自分で他に移動した。医師や看護師らが同乗していなかったため、この事実を誰も把握していなかった。
■3月14~16日
【バスが迷走】
職員が携帯電話で関係機関に電話をかけ続けた結果、14日夜にようやく所在不明の患者35人の居場所を突き止めた。県災害対策本部が手配したバスで、自主移動者を除く24人が翌15日に二本松市の県男女共生センターに搬送されることになり、二本松市に避難していた職員らが受け入れ準備に取り掛かった。
ところがバスは再び「迷走」する。二本松市ではなく、南相馬市の相双保健所に向かい、患者はスクリーニングを受けた後、西郷村の国立那須甲子青少年自然の家へ。自然の家で患者1人と同乗していた避難住民らが降り、残りはいわき市のいわき光洋高に移動した。西山ら職員が2班に分かれて直接確認に出向き、全員の所在と安否を確認したのは16日のことだった。
バスの手配や移動先について県災害対策本部の担当者は「当時は職員20人余りでローテーションを組み対応したが、相当混乱していた」と説明する。当時の状況については、一部のメモ書きが残る程度で詳しく把握できていないという。
◇ ◇
12日の避難開始から14日にかけ、避難先などで死亡した患者は4人。いずれも末期患者で病死だった。避難中に転院した患者は108人、退院した患者は23人、他の施設への入所者は1人だった。
◇ ◇
県や関係機関の原発事故対応訓練は原発敷地内での放射性物質の拡散を想定しており、周辺病院の患者ごと避難する訓練はしていなかった。
院長の重富は「多くの重症患者を1度に避難させる場合、相当の救急車を確保しなければならず、病院単独では不可能」とし、関係機関と広域的な緊急避難計画を作成する必要性を強調する。原発立地地域の病院の在り方にも触れ、重症患者を運ばなくても済むよう数日間は診療できるシェルターを設けるなどの対応も考慮すべきと説く。
看護部長の西山は、避難マニュアルに基づく訓練を継続することを基本とし、衛星通信機器の配備など情報入手手段の確保も重要と力説。受け入れ先として遠隔地の病院など複数の病院との連携強化も訴える。
いわき明星大現代社会学科の高木竜輔准教授は「複合災害が発生し、入院患者全員が別の病院に移動するケースが2度と起こらないという保障はない。『最悪』を想定し、県外を含め行政や他の医療機関などと連携した広域的で細密な避難計画を策定する必要がある」と指摘している。