双葉町の双葉厚生病院は東京電力福島第一原発から4キロしか離れていない状況下、事故の情報が何も届かないまま、患者の緊急避難に当たった。避難用ヘリコプターの到着は日付をまたぎ、患者を乗せた一部の車両は「迷走」を続けた。震災直後の混乱の中、産婦人科病棟では新しい2つの命が誕生した。
■3月11日
【午後2時46分、東日本大震災発生】
激しい揺れで病室内のベッドは患者ごと1カ所に寄せ集まり、本館と新館をつなぐ連絡通路には20センチほどの段差ができた。当時、一般病棟(内科、外科、眼科)に70人、産婦人科病棟に10人、神経精神科病棟に56人が入院していた。外来患者は数10人いたが、けが人は1人もいなかった。
強い余震が続く中、緊急管理者会議を招集。副院長で内科医の草野良郎(56)は患者の安否確認とともに、自力で歩ける患者を速やかに屋外に避難誘導するよう職員に指示した。しかし、浜通りでは珍しく雪が降っていた。冷え込みが厳しく、屋外に避難した患者をすぐに1階の外来ホールに戻して揺れが収まるのを待った。
この時、病院前の道路は車が数珠つなぎになっていた。病院統合担当部長の横山泰仁(58)は運転していた1人に尋ね、大津波が迫っていることを知った。病院は太平洋から2キロほどしか離れていない。直ちに患者を神経精神科病棟の2階に移し、歩けない患者は職員が4人1組になってマットに寝かせたまま運んだ。
津波は700メートルほど手前で引き、病院に津波の被害はなかった。そのころ、産婦人科病棟では30代女性が出産の時を迎えていた。
【午後5時30分、産婦人科で手術開始】
電気はまだ通じ、水もタンクに備蓄があった。地震発生から約3時間後、副院長で産婦人科医の加藤謙一(62)は緊急手術を決断した。午後5時半に帝王切開を始め、午後6時49分に無事取り上げた。身長49センチ、体重2876グラム。元気な女の子だった。
出張先に向かっていた院長の重富秀一(61)が引き返し、午後6時から最初の対策会議を開いた。地震や津波による負傷者が多数運び込まれることを想定し、看護師の担当を入院患者と外来患者に振り分けるなどの受け入れ態勢を敷いた。
福島医大の応援医師3人を含め、医師14人で負傷者の治療に当たった。大熊町の県立大野病院にいた福島医大の整形外科医も駆け付けていた。病院に担ぎ込まれた住民の中には内臓損傷、溺れたことによる呼吸不全など重症患者が4人いた。病院の設備は地震で壊れるなどし、治療が難しかった。しかし、通信網が遮断され、応援を求める手だてがなかった。
この夜、福島第一原発から半径3キロ圏内に避難指示が出されたが、診察・治療に追われる医師、看護師らには伝わらなかった。