2011-10-19 SK
大変有意義な食事だった。いいね!
==
あるゲーマーの記憶
(11/10追記)なるほど、文章を一部削除した現状だとあんまこの文章の主意が伝わらない可能性があるので、中盤に少し追記しておきましょう。あと一つお断りしておきますが、人間の心が何らかの仕方で大きく傾く時は、大抵の場合、その背景に長い積み重ねがあります。この積み重ねが、ひずみとして蓄積していき、どこかでバキ折れる・・・ということになっている訳なのです。そこのところご理解頂けると、私に関することは別にいいとして、あれこれの無用な誤解が減ることでしょう。
私は自分が人にどう思われるかといったことに関してあんまり興味が無い。
「ボクちゃん誤解されてるんでしゅ!」とかアタフタ自己弁護する気が起きない。というより、その気力が無いのだ。
気にしたって仕方が無いと思わないだろうか。そんなこといちいち気にしてたら神経症になってしまう。
それに、自分のことなんか考えて時間と脳力を使うのが勿体無い。もちっと他の有意義なことに使いたい。私のことは、私を知っている人が知っていればいい。
という訳なのだが・・・
twitterを介してちょっと煩わしいことが首をもたげたようなので、
少し書いておく。
本来は、あまりこういうことを書きたくない。面倒だし、他にも幾つかの理由で書きたくないのだが、今回は仕方なく書きます。
(追記)あらましを言えば、私はゲーマーへの怨嗟をつぶやき、それに対して或るゲーマーが、自分のことを誹謗されたと思って騒ぎ出したので、「別人のことだ」と伝えたのだが、どうにも納得されなかったようで自身のブログや2ch等で騒ぎ出したので、「私の目に付かないところでの発言は自由だが、私の目に付くところで騒ぎになるのだったら弁明をしておく必要があるだろう」と考え、私はその詳細を語らねばならなくなったという訳なのである。個人的にはこの件はあまり穿り返したくないのだが、本当に仕方が無く弁明をしている。
==
思うに、私の一番最初の「ゲームの知人に関する負の記憶」は何だと振り返ると、
秋葉よりまだ地元をメインにして遊んでいた頃の、あるSTGの知り合いだった。
何度も言うが、あまりこういう過去の個人のことを、特定されかねない仕方で書くのは望まないのだが、まあ仕方が無い。
その知り合いは、まあSTGをよく遊んでいる人で、また、おっかなびっくりギャラリーしていた私含め、初対面の見物客に積極的に声をかけて、ゲームを触らせようとする人だった。STGを広めたいタイプの方だったのだな。
が、まあいざ触ってみれば私もSTGが全然ヘタクソで(弾幕に対する耐性が無かった訳なのだ)、すぐ死んだ。そうすると、彼は「まあ見ててみろ」的な仕方で、弾幕稼ぎを披露してくれるのだった。
まあ私にとってはSTGは人のプレイを見るものみたいなものだった訳だ。
だが、やがて彼も、言動が妙に高圧的になってくる。ゲームを触らせようとし、相変わらずおっかなびっくりで死ぬと、笑いながらあれこれ言うのであった。
「STGは誰でも3面まで遊べる」とか、どこかから仕入れたのだろう一般的知識や、「オレは初見でラスボスまで行けた」といった自慢を聞かされて、まあ私もニコニコしていたが、
「この人はSTG仲間を増やしたいのか、それとも人に不快感を与えたいのか、どちらなのだ」と、若干イライラもしたものだった。
こういう行動の矛盾というのは存外腹が立つもので、今でも時々腹を立てる。
だが、やがて、ちょいと悲しい事が生じた。
センコロが稼動した時、私は飛びついて遊んでいた。たまたま選んだファビアンで戦い、彼も乱入したが、私はそのファビアンで何故か十連勝以上していた。ファビアンは期せずしてド強キャラのだ。
「こんなのクソだよ」と、その人はボヤいていた。
後日、私がリリで遊んでいるときに、彼がファビアンで乱入した。私がフルセットを6回繰り返して勝った。
その後、彼はこのゲームに触らなくなった。私がニコニコセンコロしている間、彼は弾幕STGを一人で遊んでいた。顔を見ると、気まずそうな顔をしていたが、曰くセンコロはクソなのでやらないということだった。
・・・
STGを広めたいのか。それとも、「いつまでもゲームの上手い自分という立場を守りたい」ために人を集めて遊んでいるのか。
アホな奴めという思いと、哀れなという思い、色々な思いが交錯したが、怒りを覚えるほど情も通っていないし、同情は失礼なので、まあ私は静かに去った。
やがて私は地元で遊ばなくなり、気づいたら地元のSTGコーナーは消えていた。
・・・
これは嫌な記憶だった。ゲーマーの一つの悪しき典型なのだろうか、とも考えたが、そう考えるのも嫌な気分だった。
上手いゲーマーが初心者を嘲笑するとかいったことを聞くと、今でもかなりイライラする。
・・・
==(以下、追記分)
そういった経験を経て、私は秋葉をほぼメインにし、シューラブで弾幕への対応を習得してからは弾幕含め色々なSTGをそれなりに遊べるようになった。
一方、ゲーセンでゲームを遊びながら、とある「こうすべきなんじゃないか」ということを徐々に感じ始めた。
例えばだが・・・格闘の新作が出るとする。そういう時しばしば聞かれるのが、上級者が初見者・初心者をボコボコにして、その人をそのゲームに近づけなくしてしまい、そのゲーセンでのそのゲームの客を根絶してしまう、という状況だ。
これ、自ら遊びの可能性を、つまり「今後そこで楽しみを享受する」可能性を狭めている行為だ。
色々な意味でそうだ。そのゲームが盛り上がらなくなることは勿論、格闘の新作の入荷をお店側が見送るという結果を導きかねない。そのジャンルのコーナーそのものの体力を奪っているじゃあないか。今は昔と違う!人はそんなに熱心にゲームに食いつく必要はない!飢えてないんだから!だったら楽しい思いや楽しさの予感を経験しない限り遊びやしないさ!
・・・自らが楽しみを享受する根に唾を吐くというこの行為、私にはどうにも矛盾的に見える。
これと同じ事が、前の地元での経験では起きていたのだと私は思う。
上級者が、周囲のプレイヤーに侮蔑的態度を取る(言い方は悪いが、つまりそういうことだ)。
上級者が、遊びの可能性を狭めるような言動を行う。
(例えば、具体的なことを言ってしまえば・・・)そのゲームの全国一位が、そのゲームに失敗作の烙印を押すと公言した上で、反論に対してグダグダ粘着して「ああもうこの人には触れないほうがいいや」という気分にさせる。
そして、バグだ運ゲーだと言い立てながら、移植時の改変には頑なに反対する姿勢を見せたりする(「改変を許さないなら発言を取り消すべきなんじゃないの、どうにも理屈に合わないぞ」と素で思わされたものだった)。
私はそういう行為が端的に「矛盾的」に、つまり「自分で自分の首を絞める行為」に見えるのだ。
昔はこういったことを「忌み嫌っていた」。
今は嫌悪感もあるが、むしろ端的に「矛盾的」に見えるという方が大きい。
何故昔はそうだったのかと問えば、昔は「ゲーセンのゲームが無くならないで欲しい・出ているゲームや好きなゲームがより多いお店でより多いインカムを出せれば、次回作の入荷の可能性が少しでも高まる」と思っていたからだった。だからこそ、やりこんでいる上級者は、つまり「そのゲームの魅力により深く食い入っている人」は、それを伝えて欲しい、と思っていたし、ポジティブな伝達を阻害しないで欲しい、と思っていた。
さもないと「滅びる」んじゃないか、滅びたら、困るのは、より多くの労力をそのゲームに費やしてきた「上級者」の方なんじゃないか、と思わないだろうか。
だが、今はこの「忌み嫌う」はかなり形骸化してきている。
つまり、私の心の中で一つの前提が崩れた訳だ。
「滅ぼしたくない!」という前提は、「滅ぼしたいならどうぞ勝手に滅ぼしてろ、自分で自分の首を絞めてろ」という、諦めというか苛立ちに変わっていき、やがて無関心に変わっていった。
出るゲームがヘボ「過ぎる」とか、ゲームを出す側の言動が楽観的「過ぎる」、とか、そういう状況も私の愛好心をボディーブローのように削っていった。
・・・
「ゲーム素人」と「ゲーム慣れを経た後」とを同時に経験として保持している身には、少なくとも「STG」は、遊びにいたるまでに巨大な前提を踏まえねばならないもののように見える。
「ゲーマーにとってのアタリマエ・常識」は、ましてや「ビデオゲーム黎明期のあこがれの中で生きてきた人にとっての常識」は、言わばそれを知らない人にとっては「何それ、楽しいの?」なのだ。
ゲーマーは自分のゲーム来歴や苦行を自慢げに振りかざすだけでは、そのジャンルを維持できないんじゃないか。
ゲーマーの持つ理論では、必ずしも現状をより適切に解釈することは出来ないのではないか。
私は常々そう思っている。
じゃあ、私はSTGを遊びながら、「そーゆー常識」を習得しただけなのか、というと、決してそんなことは無かったのだった。
==(以上、追記分)
・・・人はゲームから何を学ぶのだろう。
私はゲームから何を学んだ?
私はいろいろとゲームを遊んできたが、それで学んだことは、スコアの稼ぎ方とか弾幕の対処法とかいったことだけではなかった。
何を学んだのか!
そのことは、明日書きます。
10月21日追記。書いた。
この内容は本来、この記事の内容とワンセットになっているのだが長くなるので日を改めた訳だ→http://d.hatena.ne.jp/no-norm-systems/20111021/p1