最近気になった色々なサイトやページのアドレスと最近聖書から思う事
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十人十色とは相手を尊重する時に使う時は正論ですが、自己正当化に使う人に信念を持って強く生きてる人を見た事がありません
一般的な物事として、考え方や価値観、役割は人それぞれというのは理解出来ます。
自分の生き様の伴わない無責任な発言や矛盾点を振り返ろうとしないで、十人十色だからと考えを押し付けるほうが間違ってるんだと自己正当化する人に真実な心は存在しないと感じます。
人それぞれと自己正当化するならば、過去の自分の行動、発言の間違ってた部分や暴走して事実と違う事を使って他人を責めた部分については反省してから自分なりの考えを述べるべきだと思います。
特に、自分はクリスチャンだと思う人であるならば、事実を本気で調べようともしないで誰かを責めて間違っていたならば、御免なさいというのがキリストの十字架の御業を信じる者の態度ではないでしょうか?
一方的な話を信じて最初から相手が嘘つきである事を前提とした会話を神を信じる人がする行為とは思えません
自分は真面目に神を信じているクリスチャンだと思うのならば、自分は心が弱いからとか、ここはブログの世界だからと言い訳するのは神様の前でどういう事なのか黙想を持って神様に聞くべきだと思います。
弱いのも間違えるのも、反省する人にとっては大した問題ではないと思います。社会で仕事する場合には弱さも間違いも大問題の場合が多いですが・・・・。
本当に立派な人は、相手を愛する故に相手を責めたり叱咤激励する事があっても、基本的に自分自身に一番厳しいのです。
あの人この人と言いながら、美しい言葉を並べながら他人を責め立てる人がクリスチャンならば、貴方はどうなのですか?と貴方を指してキリストは言うと思います。貴方は本当に私に癒されたいと思ってますか?と
自分の問題を他人に隠して、キリストの言葉や聖書の箇所を自分の都合に応じて利用して自分という存在を飾るインテリアとして聖書の言葉や御絵を身の回りに飾る事が信仰なのでしょうか?
新約聖書を通読してドキュメントの物語として熟読されるならば、キリストの無償の愛から来ている癒しの業を心と体に受け止める時には、殆どの場合、反省が伴うと解る筈です。癒される=本来の正しい身体、心の状態に快復するということです。
僕自身もそうでした。癒されたい助けてもらいたい、同情してもらいたい、しかし、神様は僕が思っている以上に厳しく、しかし、愛も忍耐も犠牲もそれ以上に激しい
聖書に書いてます。神の恵みと厳しさを見分けなさいと
神様の厳しさを知らない人は神様の恵みも愛の深さも知りません
神様は愛で優しくて思いやりのある方だと信じてる?ならば、聖書に書いてる言葉の厳しい部分も、神様の愛から来ている厳しさだと何故理解出来ないのでしょうか?優しい神様、厳しい神様と何人も居るのでしょうか?
同じ唯一の神様とその独り子イエズス様から発せられた、全て動機が愛である言葉です。
旧約聖書も新約聖書も、神様のアプローチの仕方の段階が変わっただけで、神様からのメッセージは一貫しています。
理解出来ない自分を正当化してまで遠回しに神様の言葉を否定するのでしょうか?
神様の愛が信じれないから、親として心配して語る神様の厳しい言葉を信頼出来ないのではないでしょうか?
傷だらけの弱った心を神様は死ぬほど癒して助けたいと願って、神様も拷問のような心の苦しみを耐えて愛する者が信頼して御自分の癒しの御手に自らを委ねてくれる事を待ち望んでおられます。
多くの人は癒されたい、助かりたいと願っています。神様に祈ったり、聖書を読んだりもします。しかし、愛であり、助け主、癒し主である方の言葉も癒しの御手も自分の心の扉から拒絶してしまいます。
癒されるとは、過去の傷に拘る、他人を赦せない気持ちを捨てれずに、自分が愛され赦された事の感謝を忘れてる今の状態からの変化が必要な事だから、今の自分を捨てれない人は神様の愛すら拒んでしまうのです。
神様は愛であり癒し主ですが、自由意思を死ぬほど尊重される方です。十字架の業が完成され、天の門が開いたとしても、キリスト教を信じているつもりの人ですら、そこを通るか否かは本人の自由意思による選択です。
キリスト教徒が救われるのではなく、キリストの十字架の御業によって、自分の、キリストを十字架に磔にするほどの深い罪が赦された事を信じて、神の義に従う人が救われるのです。
十字架感謝、神様感謝と言っても、自分はキリストが十字架に磔にされるほどの罪は神様の前で犯して無いと神様の前で主張するならば、キリスト教の組織の一員であったとしても、キリストを信じてる人ではありません。
自分がキリストを磔にしたほどの罪を神様に免除してもらったと信じるならば、なぜ調べもしないで一方的な話を信じて他人を責めるのでしょうか?
確かに、パウロが言うように、自分達の間から悪を取り除きなさいとあります。真実が明らかにされるためにも、ある程度の分裂も必要だとすら書いてます。
しかし、本気で調べも確認もしないで決めつけて裁いて断罪する態度は本当に信仰者としての姿勢でしょうか?
キリストに習う者は、使徒、預言者、殉教者達がそうであったように、生きている間、悪人扱いすらされるものなのです。真実を語る者を自分自身を誇りたい考えの世に属する人は憎むからです。
キリストは当時人間的に立派だった律法学者からなんと言われてますか?
大酒飲みの大喰らい、罪人や取税人の仲間だと言われています。
私達(ユダヤ教指導者)が貴方(キリスト)が悪霊に憑かれてると思うのは当然ではないですかとキリストは言われています。
※聖書を通読している人は皆知っています。
貴方の論法は真実を求めてる論法ですか?
それとも、自分の考えや価値観を正当化する為に、都合の悪い事を否定する為の論法ですか?
真実を求めていない人の論法には穴が多いのです。なぜなら、都合の悪い真実、現実を自ら見ようとしないので見落としてしまうからです。
見ようとしないから、いつまでも自分の穴だらけの論法の穴に気が付かないのです。何故なら気が付きたくないからです。
愉快に楽しく自分の都合の良い部分だけ見て、無責任に他人を否定して自分を肯定して生きたら良いだけの人だからです。
真実・現実(光)を見ようとしない人が、自分の矛盾(闇)に気が付かないのは当然の事です。
真実・現実が難しいのではなく、自分を誇れなくなる真実・現実を憎んで遠ざけようとする人間の心が難しいのです。
幼子のように天の国を受け入れなければならないのです。
幼子は立派でも賢くもないですが、父の愛を屁理屈を言わずに理解するからです。怒られて泣いたとしても、親を親として認識出来ます。厳しいと思って反抗期になったとしても、どこか親としての信頼があります。
私達クリスチャンは、いつのまにか聖書の理屈は腹いっぱい言えるようにはなっても、神様が自分を無条件に愛してくれる親父である事を忘れています。余所余所しい遠い美しい聖なる御方・・・。
言葉上知ってる=理解出来てるということにはなりません。
聖書を読む時、いかに自分がまだ神様の愛も厳しさも解ってないかを学ぶ時間になるべきです。
今まで解ってなかった事を知る瞬間こそが、本当に前より学べた瞬間だと思います。
神様は事実に反して自分を誇ろうとする態度を是とする事は絶対にありません
弱さ思いやって、真実を無理矢理伝えないということはありますが、聖書を使いながら、自分の弱さを隠して自分を神の前で正しい者のように言う人間を神様が御自分の器として任命する事は無いと思います。
事実を事実として把握する謙虚で神の義に従う心に神の栄光は現されると思います。
神ではなく、その人自身が褒められるような会話が多いなら、その会話は神の義に逆らっています。
神に従う人は、言葉の全てににじみ出る心の態度によって、神に全ての栄光を返します。
神の義に従うとは、十字架のキリストを信じるとは、使徒パウロが言うように、人間の誇りは取り去られる事になります。なおも自分を誇るならば、その人は神の義に逆らい、キリストの十字架を本当の意味では信じていない事になります。
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