受精卵や胎児は人か?その利用と人工的介入の是非について
3年A組 橋本貴子
はじめに
子どもをもつことというのは、動物だけに限らず、人間の中にもある強い欲求のうちのひとつであると思う。そして、生命の誕生というのは、とても神秘的な神の領域にあることのように思っている。しかし、近年の変化は、その生殖という分野にも変化を起こし、そして、受精卵を研究することで、そのベールを徐々に開き、近い未来には人間が意図したような形を持つ人間をうみだすことも可能になるかもしれないという状況だ。いったい人はどこまで、許されるのだろう? 私なりに、検討してみたい。
(1) 中絶の是非
まずは、基本的ともいえるような、中絶の是非について考えてみたい。まず、私の立場を示すならば私は中絶に反対ではない。望まない子を産み、子どもを不幸にするくらいなら、産まないという勇気ある選択も必要だと思っている。
中絶に絶対反対だと言う人ももちろんいるだろう。けれども、満足に避妊さえできない親に本当に子どもがきちんと育てられるのだろうか。私は、中絶をする親よりも、「仕方なく産んだ親」の方がひどいと思う。その行為はあまりにも無責任だ。中には、産んだ親の方が、子どもを殺していないだけましだというのかもしれない。けれど、中途半端な覚悟は、逆にはっきりと感情を持つようになった子どもを傷つけ、場合によっては殺してしまうことになる。また、産んでみれば母性本能というものによって、子どもに愛情を持つようになるかもしれない、という意見もあるだろう。たしかに、子どもを可愛いと思うこともあるかもしれないし、そうなってくれることが望ましい。中絶は、女性自身も傷つける。
けれども、子どもを育てるということは並大抵のことではない。ペットを飼うのではないのだ。したがって私は、出産は強制されるべきではないし、中絶は選択肢として存在しているべきであると思う。ただ、子どもを殺すということに違いはないのだから、性に関するきちんとした知識をもって、対策を講じて欲しいと思っている。
(2) 障害児だとわかったとき
中絶に関して肯定的な人でも、羊水診断によって障害児だとわかったとき子どもを中絶することに対して否定的な意見の人は多い。実際私が話し合ったグループでもかなりの人がそういう意見だった。主な理由はこうである。
・うちなる優勢思想に基づいた障害者の存在を否定することになる
・自分の子どもが一定のハードルを越えなければ生まれてこられないというのはおかしい
・たとえ障害があるとわかっても、自分の子どもである以上産みたい
私の場合は、障害児だとわかった場合人工妊娠中絶を受けたいと思っている。障害児を持つことは、精神的にも経済的にも相当な負担が予想される。そこまでして、子どもを育てたいと思わない。そこには、障害者は不幸だという前提があると批判されるが、不幸とまでは言わなくとも、実際に健常者に比べて、困難な壁が多いのは事実だと思う。障害者でよかったといえるまでに、その人がその障害を受け入れられればいいが、現実は皆が皆そうだとは限らない。「障害児だとわかりながら産んでくれたことに感謝こそすれ、恨むことなどあるはずがない」と言った人がいたが、それは本当だろうか? みんなと同じようにしたいと思うことがないのだろうか? ネガティブな私なら、逆に「どうして、わかっていながら産んだのだ。どうして、何も知らないうちに殺してくれなかったのだ」と思ってしまう。私の考えが異常なのだろうか? ならばなぜ、自分の子どもが障害や病をもって生まれてきたとき、親は必死になってそれを治してやろうとするのだろう。子どもが健康であって欲しいという願いはそんなにも自分勝手なものなのだろうか。
反対派の人は、おそらく健康な子どもを願っていたとしても、それを理由に「殺す」ことに抵抗があるのだろう。しかしながら、お金がないから、好きな人との子どもじゃないから、と理由で子どもをおろすのと、障害児を育てるだけの経済的な余裕がないから、と子どもをおろすことに大きな差があるとは思えない。
(3) どこからヒトがはじまるか
ところで、そもそもどこからヒトがはじまるのだろうか。多くの人は受精した瞬間だという。けれども、本当にそのとき、胚は人だろうか?
ネズミの解剖のときに、私がネズミの身体から取り出した胎児は十二日目だった。手もきちんとあったし、同じ斑の人のネズミの胎児は、ピンセットで触れれば微かに動いた。
ここまでくると、いくら非情な私でも、それは命をもった生き物だと感じざるをえない。しかし、九日め、七日め、六日めまでさかのぼると、それは水の中の浮遊物にさえ見えなかった。たった一日での胎児の成長ぶりには目を見張るものがあり、命が連続した過程の結果なのだということはよくわかった。しかし、肉眼でみるのが困難にまでなってくると、やはりモノのように感じてしまうのである。「見えないけどあるのです」とは言うが、見えないものはやっぱりみえない。おそらく、ただの細胞としての受精卵に対して愛情を抱く人はあまりいないはずだ。愛情を抱く対象は、あくまでも人間の形になった自分の子どもであると思う。
また、受精した瞬間に人がはじまるのだというならば、クローン人間はどうなのだろう。今のところクローン人間を作ることは禁止されているが、成功率は低いとはいっても理論上はまったくの不可能ではない。
クローン人間の場合、人の体細胞を使うのだから、その体細胞ができる、つまり受精が行われるのは、そのクローン人間のもととなる人間が生まれたときである。
ではどこなのかときかれたら、私自身困ってしまう。いろいろな本を読み、いろいろと考えたが、やはりわからないのである。母親という閉じた世界から、この世界に生まれたとき、確かにその子は人だろう。パーソン論でいくと、乳児も人ではなくなるのだが、私はそこまで機械的にみられない。乳児は、泣くという手段をもってこちら側に働きかける。それなのに、その子を人でないとは思えない。
だいたい妊娠5、6ヶ月で胎動が始まるそうだが、この時はどうなのだろう?自分の意志とは無関係に、別の何かが存在することをはっきりと感じるのがこの頃らしい。ということは、少なくとも命ということにかわりはないだろう。では、このときこの存在を失うことになったら、どう感じるか。それは、大切にしていた動物が死ぬ悲しさなのか、それとも夜店で買った金魚くらいだろうか、それとも友人や家族を失ったくらい? おそらく、動物と同等の悲しみでは語れないと思う。ならば、やっぱり私にとってはこのときも人なのだろう。
では、その前からか? しかし、胎動が始まる前に胎児が死んだ場合もやはり親は激しい悲しみを覚えるらしい。
こうなると、本当にわからないのだ。ただの細胞といえばただの細胞。でも、命の種と言われれば確かにそうなのだ。自分に関り合いのない動物にたいしてなら、ただの細胞と言えてしまうのかもしれない。けれど、人間の場合は、その先を予測したり、結果を期待したりする。受精卵であるという事実の中にその先に起こりうることを見、感情を抱く。相手から働きかけられていなかったとしても、だ。
人がいつからはじまるか。普遍的な線引きは人間が皆一人一人違う感情を持つかぎりできない気がする。しかも、自分自身の感情さえ、理路整然とは説明できない。
けれども、少なくとも受精卵の状態のときは人間ではないと、私は思う。
(4)ES細胞
ES細胞。なんじゃそりゃ、といいたくなるようなわかりにくい名前だが、和訳も実にわかりにくい、胚性幹細胞だ。
このES細胞は、万能細胞とも呼ばれている。それは、この細胞があらゆる細胞になる可能性があるからである。そのうえ細胞の分裂回数の限界というものを無視した、癌のような増殖能力をもった細胞であり、
このES細胞の元はなにかというと、ずばり受精卵である。受精約3〜6日目には外側の一層の細胞と内側の細胞塊からなるブラストシストというものができる。このブラストシストのときの内部細胞塊こそがES細胞だ。
私の意見をのべるならば、ES細胞の利用には基本的に賛成だ。
上の説明だけでおわかり頂けると思うが、ES細胞は着床前の状態の細胞であり、胎児の形をとっているわけではない。私にはES細胞を人だと感じられない。
ES細胞のもたらすものも、大きいと思う。
たとえばトランスジェニック・マウスやノック・アウトマウスに関してである。
トランスジェニック・マウスは特定の遺伝子の働きを知るのに利用される。これによって人の遺伝病に関する発症のメカニズムなどの研究がなされている。そして、最近それよりも活発に利用されているのが、ノック・アウトマウスである。遺伝子の特定の一部を壊すことで、マウスにどのような影響が現れるかを調べるのがこれである。
以前からもトランスジェニック・マウス等は作られていたが、ES細胞が使われるようになったことで、遺伝子組みかえの効率が格段にあがったのである。今までは、マウスが誕生、あるいは成長してからでないと、その組みかえができたのかできなかったのかがわからなかったが、ES細胞の利用により、細胞の時点で成功か否かがわかるようになったのである。
これらの研究によって、さまざまな遺伝子の役割や、生命がどのように作られるのかが解明されるかもしれない。
また、ES細胞の利用としては、薬のスクリーニングが挙げられる。薬を一つ作るのにだいたい30年かかると言われている。安全のためには動物実験もやむを得ない。だが、ES細胞を使用することで、より人間に近い状態で実験が行え、かつそれによって動物実験によって使われる動物の数も減らせるというのである。つまり、ES細胞は薬の開発を早め、安全性を高め、実験動物を減らすことができるという、まさに希望の細胞なのである。
また、ES細胞を用いた実験によって、人間の体細胞を初期化するための因子が見つかれば、オーダーメイド医療という道が開け、将来拒絶反応を起こさない臓器移植が可能になるかもしれないのだ。
これほどの利点のあるES細胞をどうして利用しないようなことがあろうか。
(5)クローンと遺伝子操作
クローンといえばドリーを思い出すが、このドリーの生みの親である、ウィルマット博士の研究チームは当初、羊のES細胞を見つけ出そうと苦心していた。これをみつけて培養し、それをもとに、乳に人間のための医薬物質を含む羊を作ろうとしたのである。
しかしながら、この試みは培養技術の開発には至らずクローン羊の開発に研究が転換されたのである。
このドリーの誕生は、世界中の人々に衝撃を与え、人間のクローンの可能性を示した。
この技術に対して嫌悪感を抱く人はすくなくない。なるほど、クローンは各人のアイデンティティーの喪失をもたらしかねないかもしれない。
けれども、家族とクローンについて話していた時、私はあることに気がついた。
SFと現実を一緒に考えてしまっているのである。例えば死者の体細胞からできたクローンがまったく同じ性格になると考えている。これは絶対にありえない。クローンといえども、遺伝子が同じなだけであって、環境がかわれば性格も変わる。その似かたは一卵性双生児程度だ。一卵性双生児は皆、兄弟、姉妹の存在故に、自己の同一性を失っているだろうか? そうではないはずだ。
以上の理由で、ヒトラーのクローンを作っても大虐殺を起こす可能性は普通の人と変わらないくらい低いだろうし、有名なスポーツ選手のクローンを作ったところで、その子がそのスポーツで天才になるとは限らない。それは、ノーベル賞受賞者の子どもが必ずしも、ノーベル賞を受賞しないのとおなじことだ。全ては可能性にすぎない。しかも、親は自分の子どもに成功して欲しいのであるから、こういうことのためにクローンを作る人はいないと思う。死者をクローニングするという発想自体、気持ちはわからなくはないが悪趣味だと言わざるを得ない。コピーでいいなら、原画は初めからいらないのである。しかも、クローンを作るための費用は決して安いものではないし、そのための苦労も軽い気持ちでできるほど簡単なものでもない。
また、すでにデザイナー・ベビーが誕生しているとも思っていたらしい。しかも、なぜそう思ったのかと聞いたら、テレビでそう言っていたと言うのだ。話をよくきけば、それは単に胚の選別を行っただけだった。しかも、デザイナー・ベビーといえば、なんでも自分の思う通りになると思っているらしいが、実際はどうなのだろう? あくまでも基本となるのは両親の遺伝子だ。親は自分の子どもが欲しいはずだ。自分の子とは自分たちの遺伝子を受け継ぎ、女性ならば自分自身が産んだ子、というのがもっとも一般的な定義のはずだ。外見がまったく似つかないほどまでに遺伝子をいじろうとは思わないのではないだろうか。仮に我々に子どもの遺伝子を選ぶ権利が与えられれば、自由を与えられた大衆は雑誌で流行を追うように、子どもの姿を作ってしまうのではないだろうか。そうなれば今我々の体の中にある、人間が誕生したとき、あるいはもっとそれ以前から進化の歴史を刻んできた壮大な歴史書ともいえる遺伝子を、皆が皆不必要なものにしてしまうことになる。現実に画一化がすすみ、遺伝子プールが貧しくなれば、突然の変化に対応できずに――例えばたった一種の突然変異を起こしたウィルスによって――滅ぼされるだろう。そこまで人間は愚かではないと思う。
最後に、一番難しい問題について考えて見よう。
それは、病気の治療のための遺伝子操作である。
私は、欲望を満たすための遺伝子操作は馬鹿らしいとさえ思う。けれども、子どもの命がかかっていたら、治してやりたいと思うのが親の気持ちだろう。それこそ、どんなことをしてでも、だ。
ところが、この線引きがまた難しい。
なぜなら病気と言っても千差万別あるからだ。命に関る病気から、日常生活に軽く支障が出る程度のもの、あるいは生活習慣病……。
いや、この因子を取り除くことだけにとどまらず、逆に通常以上に強くすることを望む人もいるかもしれない。例えば、感染症などにたいする免疫をあげる、などである。このながれでいけば頭を良くするため、なども出てくるかもしれない。
ここまでくれば、私の頭はパンク状態だ。これらをすべて認めれば、激しい格差社会が予想されるだろう。親は子にできる限りのものを、生まれる前から与えたいと願い、金持ちはそのための費用をいくらでも払うだろう。彼らは、「それは教育費の一種であり、権利だ」と主張するだろう。その一方で、お金のない人達はどんどんと上流階級から引き離されていく。
クローンについては、私は反対だが、病気の治療のために臓器を作るのには反対できない。欲のための遺伝子操作にも反対だが、子どもの命が関るとなれば、そうも言っていられなくなるだろう。白黒はっきり、なんてとてもじゃないができない。
おわりに
わからないことがたくさんある。けれども、これも私の中での結論としてあっていいと思う。価値観はいろいろなものに影響されて変わっていく。わからないということが、わかった、ということだ。人の意見を聞くのは面白いし、反論するのも面白い。自分と全く違う切り口や考え方で迫られると、つい激しく反論してしまうのだが、その一方でそういう考え方のできる人に対してすごい!と感じる。生活環境が違えば、基準も異なる。その中で私が思ったこと、考えたこと、言いたかったことを書いたつもりだ。知れば知るほどわからないことが増えていくが、もっと知りたいと思うことも増えていく。それがとても楽しい。そうして、こうして正しい知識を学んだことで、すべてをうのみにせずに、少なくとも、自分の頭で考えてから情報を判断できるようになったと思う。
参考文献
・『複製されるヒト』(リー・M・シルヴァー:著 翔泳社)
・『ES細胞万能細胞への夢と禁忌』(大朏博善:著 文藝春秋)
お話ししてくださった先生方から頂いたプリンと類、及びそのメモより
論旨
大きくわけて、中絶に対する意見、ヒトとみなす基準に対する考え、胚の利用や操作とその関連事項の3つで構成されている。
今では当然の権利となった人工妊娠中絶は、子ども自身のためにも、そして女性のためにも仕方のないことだと思う。産むならば必ず幸せにしてあげたい。だからこそ産まない。そういう考え方も必要だ。そして、その立場から着床前診断の是非について考えると、健常児の場合、経済的理由でその中絶を認めるのに、障害児ならば通常よりも経済的負担が重くなるにもかかわらず認められないというのは妙だ。また、どこから人間であるか、を誕生からさかのぼるように考えてみた。そして、胚に由来する夢の細胞、ES細胞の持つ可能性と将来性。そして最後に、最も積極的な介入である遺伝子操作と、クローンについての私の正直な感想が「わからない」となる理由を述べた。