心のない獣 Dragon Complex
プロローグ
冷たさで満たされた夜。
地上にある熱は、全て空に吸い取られてしまったようだ。あの夥しい星の瞬きも、ぞっとする月の微笑みも、きっとその熱で生まれたのだろう。それらの輝きは、太陽とは異なり、何の暖かさも感じられない光だった。しかし、そこが上品さの秘密でもある。少なくとも、目を焼かれることはないのだ。
辺りは暗く、静かだった。森林は形を失い、巨大な影となって月明かりを遮っている。時折、思い出すように風が吹くと、影は輪郭を取り戻した。枝が軋み、木の葉が擦れる。そのさざ波は森の奥深くまで伝わっていき、この闇の果てしなさを物語っていた。
エスカラは、空を睨んでいるつもりはなかった。木の幹に寄りかかっていたので、自然と目に留まったのだ。自分は感傷的な人間だったろうか、と彼は自問した。今まで、こんな風に空を眺めたことなどなかった。もちろん、ぐずついた天気を恨むぐらいの経験は、数え切れないほどある。こんなことを問う時点で、感傷に浸っている証拠だ、とエスカラは認めた。
今夜は快晴。移ろう枝葉は、今も天の寵愛を一身に受けている。そのため、月明かり
はほとんど遮られてしまい、地面にまで届かなかった。
エスカラは、二つのものを諦めようと決めた。人生は諦めることの連続だ。そうではない世界、そうではない他人が、当然、存在することだろう。それを理解し、許容している。その上で諦観した。
人は全能ではない。
神でさえ、全能ではなかったのだから。
あるいはそれを、全く逆の可能性として解釈することもできるだろうが、そんな希望を抱けるほど、もう若くはない。それは、身体にも如実に現れていた。
自分はここで果てるだろう。四名もの戦士を容易く屠った怪物に、たった一人で挑もうと言うのだ。それは蛮勇でさえない、ただの自殺行為でしかない。しかし、人は死に場所を選ぶこともできる。それが人に残された最後の尊厳だろう、エスカラはそう信じていた。
逃げることはできない。死を恐れたのではない。エスカラは、卑怯者ではないと自負している。本来なら、街に戻り、怪物が迫っていることを早急に伝えるべきだった。それが仲間たちに託された使命でもあった。しかし、月の魔力か、怪物の魔性か、方位磁石は使い物にならなくなり、方向感覚も狂ってしまった。
樹木に背中を預けたまま、膝を伸ばして立ち上がった。闇に呑まれぬように、一歩ず
つ、地面を確かめながら歩いた。地面に刺しておいた剣に近づく。まるでエスカラの心を見透かすように、刀身が妖しく光った。
蟻食みの剣。セーブ・ザ・クイーン。女王の剣。
何とも皮肉めいた銘を考え出すものだ、とエスカラは自嘲してみせた。こんなものに縋るしかないのだ。
この剣は、刀身から無数の蟻を産み続ける、正に魔剣と形容するに相応しい一振りだ。無論、ただの蟻ではない。毒を持った人工生命体だ。戦場で、頑丈な鎧を着込んだ相手に叩きつけてもいいし、誰かに売りつけて、深夜に発動するように仕掛けてもいい。どちらかと言えば後者のような利用目的で、野党にわざと盗ませるために所有していた行商人から、教会が買い取り、エストラの手に渡ってきたものだった。この人造の蟻が持つ毒は、大規模な魔術によって、ある程度の変更ができる。既に教会によって、ある毒を分泌するよう、処置が施されていた。
この魔剣なら、上手くいけば、致命傷を与えることができるだろう。
我らが愛しの怪物、
天使に。
柄を握り、魔剣を解き放った。
刀身に、無数の染みがじわり、じわりと浮かんでいく。やがて、染みは意思を持ち、肉を得る。瞬く間に、刀身は蠢く蟻の群れで埋め尽くされた。
天使は巨大だ。これだけの林が密集している中を、無音で通過することはできない。
竜穴を介して地中を移動するか、地表に出て木をなぎ倒しながら進むしかない。そこを狙う。日の光を浴びることのできない天使は、朝を待つつもりはないはず。必ず仕掛けてくる。
エスカラは、前に跳んだ。
跳ぶというよりは、前転に近かったが。
今まで背中を預けていた樹木の上、梢を、注意深く見る。
何か、音がした。
そう思った。
この森の動物は、日没前に姿を消したはずだ。エスカラは頭を巡らせた。野生の嗅覚は人が及ばぬほどに鋭い。彼らが、天使の出現に気づかないわけがない。辺り一帯に獣は一匹もいない、それは間違いない。しかし、天使の身体で木に登ることなど不可能だ。そもそも、なぜそんな馬鹿げた真似をする必要があるだろうか。取るに足らない、矮小な老戦士一人を相手に?
獣ではない……。
天使ではない……。
エスカラの頭脳が答えを導き出しそうとした、その瞬間、彼の身体は吹き飛んでいた。先刻までそうしていたように、だが、先刻とは異なる形で、別の木の幹に激突した。
何が起こったのか、全く分からない。
まるで人形のように、エスカラの眼は、地面をじっと見ていた。
その視界の隅で、影が横切ったのを捉えた。
再び衝撃。
今度は、地面に叩きつけられた。
身体が跳ねながら転がっていくのが分かった。
動きが止まり、気がつくと、
目の前には、あの星空があった。
そして、月がいまでも微笑みを投げかけていた。
頬まで裂けているかのような、
歪な笑みを。
激痛が走った。
エスカラは、自分の呻き声を聞いた。
朦朧とした意識のまま、身体を起こそうと苦労する。右手がやけに動かしづらい。いや、違う。魔剣だ。まだ、魔剣を持っていたのだ。手放さなかったのか。
止めを刺しにこないのは何故だろう……。
止め?
ああ、そう、そうだ。攻撃を受けたのだ。
だから、早く、身体を、起こさなくては……。
不意に、目の焦点が合った。森林は、その様相をすっかり変えていた。エスカラがそれほどの距離を移動したのか、それとも、死の間際に見ている夢なのか。そこは、まるで切り取られたように枝葉の屋根がなく、月明かりが演出する幻想的な風景だった。その中心に、青年が立っていた。
光によるものなのか、それが地毛なのか、髪の色は白い。光を反射して、まるで銀のように輝いていた。後ろ髪は肩先まで、前髪は目にかかるくらい伸びていた。髪と髪の隙間から、憤怒の眼が覗いている。
着ている服はぼろぼろだった。ほとんど布を被せているだけような左の袖を、手で押さえている。出血しているらしい。
エスカラは、顔を動かさずに魔剣を見た。相変わらず蟻たちが忙しなく動き回っているが、その切っ先が僅かだか血に塗れていた。どうやら二度目の攻撃の際、無意識に斬りつけていたらしい。それで、三度目の攻撃はなかった。
獣でも、天使でもない。
だが、人でもない。
青年は不死者だろう。
天使の血によって、再びこの世に生を受けたアンデッド。
天使の忠実なるしもべ。
恐らく、青年の首筋にある生々しい傷が、彼の死因だろう。
エスカラは、魔剣を杖のように使うことで、ようやく立ち上がることができた。
青年に、生前の理性は微塵も残ってはいないだろう。さきほどの攻撃からも、それは分かる。人外の力を有しながら、一撃で仕留めることもできず、夢うつつに振るったようなエスカラの反撃を受けてしまっている。
なんとおぞましく、なんとむごい。
これが死者に対する仕打ちだろうか……。
だが、諸悪の根源たる天使は、傷一つ負うことなく、街へ向かうことだろう。
それは、決して許容できないことだ。
「君の腕には、毒が入った」エスカラは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
獣ならば、牙を剥いたかもしれない。
人ならば、耳を傾けるだろう。
天使は、決して意に介さない。
何者でもない不死者に、言葉は届くだろうか?
「頼みたいことがある」
自分の熱が何かに奪われていくのを、エスカラは感じていた。
冷たさで満たされた夜。
地上にある熱は、全て空に吸い取られてしまったようだ。あの夥しい星の瞬きも、ぞっとする月の微笑みも、きっとその熱で生まれたのだろう。それらの輝きは、太陽とは異なり、何の暖かさも感じられない光だった。しかし、そこが上品さの秘密でもある。少なくとも、目を焼かれることはないのだ。
辺りは暗く、静かだった。森林は形を失い、巨大な影となって月明かりを遮っている。時折、思い出すように風が吹くと、影は輪郭を取り戻した。枝が軋み、木の葉が擦れる。そのさざ波は森の奥深くまで伝わっていき、この闇の果てしなさを物語っていた。
エスカラは、空を睨んでいるつもりはなかった。木の幹に寄りかかっていたので、自然と目に留まったのだ。自分は感傷的な人間だったろうか、と彼は自問した。今まで、こんな風に空を眺めたことなどなかった。もちろん、ぐずついた天気を恨むぐらいの経験は、数え切れないほどある。こんなことを問う時点で、感傷に浸っている証拠だ、とエスカラは認めた。
今夜は快晴。移ろう枝葉は、今も天の寵愛を一身に受けている。そのため、月明かり
はほとんど遮られてしまい、地面にまで届かなかった。
エスカラは、二つのものを諦めようと決めた。人生は諦めることの連続だ。そうではない世界、そうではない他人が、当然、存在することだろう。それを理解し、許容している。その上で諦観した。
人は全能ではない。
神でさえ、全能ではなかったのだから。
あるいはそれを、全く逆の可能性として解釈することもできるだろうが、そんな希望を抱けるほど、もう若くはない。それは、身体にも如実に現れていた。
自分はここで果てるだろう。四名もの戦士を容易く屠った怪物に、たった一人で挑もうと言うのだ。それは蛮勇でさえない、ただの自殺行為でしかない。しかし、人は死に場所を選ぶこともできる。それが人に残された最後の尊厳だろう、エスカラはそう信じていた。
逃げることはできない。死を恐れたのではない。エスカラは、卑怯者ではないと自負している。本来なら、街に戻り、怪物が迫っていることを早急に伝えるべきだった。それが仲間たちに託された使命でもあった。しかし、月の魔力か、怪物の魔性か、方位磁石は使い物にならなくなり、方向感覚も狂ってしまった。
樹木に背中を預けたまま、膝を伸ばして立ち上がった。闇に呑まれぬように、一歩ず
つ、地面を確かめながら歩いた。地面に刺しておいた剣に近づく。まるでエスカラの心を見透かすように、刀身が妖しく光った。
蟻食みの剣。セーブ・ザ・クイーン。女王の剣。
何とも皮肉めいた銘を考え出すものだ、とエスカラは自嘲してみせた。こんなものに縋るしかないのだ。
この剣は、刀身から無数の蟻を産み続ける、正に魔剣と形容するに相応しい一振りだ。無論、ただの蟻ではない。毒を持った人工生命体だ。戦場で、頑丈な鎧を着込んだ相手に叩きつけてもいいし、誰かに売りつけて、深夜に発動するように仕掛けてもいい。どちらかと言えば後者のような利用目的で、野党にわざと盗ませるために所有していた行商人から、教会が買い取り、エストラの手に渡ってきたものだった。この人造の蟻が持つ毒は、大規模な魔術によって、ある程度の変更ができる。既に教会によって、ある毒を分泌するよう、処置が施されていた。
この魔剣なら、上手くいけば、致命傷を与えることができるだろう。
我らが愛しの怪物、
天使に。
柄を握り、魔剣を解き放った。
刀身に、無数の染みがじわり、じわりと浮かんでいく。やがて、染みは意思を持ち、肉を得る。瞬く間に、刀身は蠢く蟻の群れで埋め尽くされた。
天使は巨大だ。これだけの林が密集している中を、無音で通過することはできない。
竜穴を介して地中を移動するか、地表に出て木をなぎ倒しながら進むしかない。そこを狙う。日の光を浴びることのできない天使は、朝を待つつもりはないはず。必ず仕掛けてくる。
エスカラは、前に跳んだ。
跳ぶというよりは、前転に近かったが。
今まで背中を預けていた樹木の上、梢を、注意深く見る。
何か、音がした。
そう思った。
この森の動物は、日没前に姿を消したはずだ。エスカラは頭を巡らせた。野生の嗅覚は人が及ばぬほどに鋭い。彼らが、天使の出現に気づかないわけがない。辺り一帯に獣は一匹もいない、それは間違いない。しかし、天使の身体で木に登ることなど不可能だ。そもそも、なぜそんな馬鹿げた真似をする必要があるだろうか。取るに足らない、矮小な老戦士一人を相手に?
獣ではない……。
天使ではない……。
エスカラの頭脳が答えを導き出しそうとした、その瞬間、彼の身体は吹き飛んでいた。先刻までそうしていたように、だが、先刻とは異なる形で、別の木の幹に激突した。
何が起こったのか、全く分からない。
まるで人形のように、エスカラの眼は、地面をじっと見ていた。
その視界の隅で、影が横切ったのを捉えた。
再び衝撃。
今度は、地面に叩きつけられた。
身体が跳ねながら転がっていくのが分かった。
動きが止まり、気がつくと、
目の前には、あの星空があった。
そして、月がいまでも微笑みを投げかけていた。
頬まで裂けているかのような、
歪な笑みを。
激痛が走った。
エスカラは、自分の呻き声を聞いた。
朦朧とした意識のまま、身体を起こそうと苦労する。右手がやけに動かしづらい。いや、違う。魔剣だ。まだ、魔剣を持っていたのだ。手放さなかったのか。
止めを刺しにこないのは何故だろう……。
止め?
ああ、そう、そうだ。攻撃を受けたのだ。
だから、早く、身体を、起こさなくては……。
不意に、目の焦点が合った。森林は、その様相をすっかり変えていた。エスカラがそれほどの距離を移動したのか、それとも、死の間際に見ている夢なのか。そこは、まるで切り取られたように枝葉の屋根がなく、月明かりが演出する幻想的な風景だった。その中心に、青年が立っていた。
光によるものなのか、それが地毛なのか、髪の色は白い。光を反射して、まるで銀のように輝いていた。後ろ髪は肩先まで、前髪は目にかかるくらい伸びていた。髪と髪の隙間から、憤怒の眼が覗いている。
着ている服はぼろぼろだった。ほとんど布を被せているだけような左の袖を、手で押さえている。出血しているらしい。
エスカラは、顔を動かさずに魔剣を見た。相変わらず蟻たちが忙しなく動き回っているが、その切っ先が僅かだか血に塗れていた。どうやら二度目の攻撃の際、無意識に斬りつけていたらしい。それで、三度目の攻撃はなかった。
獣でも、天使でもない。
だが、人でもない。
青年は不死者だろう。
天使の血によって、再びこの世に生を受けたアンデッド。
天使の忠実なるしもべ。
恐らく、青年の首筋にある生々しい傷が、彼の死因だろう。
エスカラは、魔剣を杖のように使うことで、ようやく立ち上がることができた。
青年に、生前の理性は微塵も残ってはいないだろう。さきほどの攻撃からも、それは分かる。人外の力を有しながら、一撃で仕留めることもできず、夢うつつに振るったようなエスカラの反撃を受けてしまっている。
なんとおぞましく、なんとむごい。
これが死者に対する仕打ちだろうか……。
だが、諸悪の根源たる天使は、傷一つ負うことなく、街へ向かうことだろう。
それは、決して許容できないことだ。
「君の腕には、毒が入った」エスカラは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
獣ならば、牙を剥いたかもしれない。
人ならば、耳を傾けるだろう。
天使は、決して意に介さない。
何者でもない不死者に、言葉は届くだろうか?
「頼みたいことがある」
自分の熱が何かに奪われていくのを、エスカラは感じていた。