南京の本当の写真
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中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民ら。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)
南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)
南京市民と楽しく会話する日本兵ら(1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)
日本軍による南京占領5日目の朝日新聞
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手
製の日の丸の腕章をして笑っている。
(朝日新聞 1937.12.18付)
南京占領8日目の朝日新聞。タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら
(朝日新聞1937.12.21付)
南京の病院の中国負傷兵と看護する日本兵(ノースチャイナ・デイリー・ニュース 1937.12.18付 南京占領の5日後)
中国負傷兵を看護する日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)
「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)
日の丸の腕章をつけ、通りで野菜を販売する南京市民(1937.12.15 南京占領の2日後)
南京陥落直後、南京近郊にて中国人の子供と手をつないで歩く赤星昂(あかぼしたかし)少尉(夫人提供)
安全区で南京市民に食糧や菓子を配る日本兵ら(南京占領の5日後 1937.12.18付 東京日日新聞より)
疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)
日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)
釈放されて郷里へ帰る前に笑顔で写真におさまる中国兵捕虜たち(朝日版支那事変画報 1939.8.5刊)
劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将。彼は南京安全区に潜んでいたところを捕らえられ、しばらく苦力として雇われていたが、のちに汪兆銘の親日政府の軍の軍長となった(朝日版支那事変画報 1938.1.1刊) (Asahi-ban Shina-jihen Gaho, No. 14, Jan. 1, 1938)
南京の中国人家族に紙幣を渡す日本兵(1937.12.27影山特派員撮影 南京占領の14日後 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)
南京の街路で日本兵相手に商売をする中国人(毎日版支那事変画報1938.2.1刊)
平和の戻った南京で、ジョン・マギー牧師のもと日曜礼拝を持つ中国人クリスチャンら(朝日新聞1937.12.21付の「南京は微笑む」の記事より)
戦禍の終わったことを知り、防空壕から出てきた南京の女性たちを庇護する日本兵ら(南京陥落の翌日12月14日。朝日新聞1937.12.16付)
南京市内で日本兵に雇われて食糧を運ぶ中国人ら(1938.1.20撮影)。日本軍は食糧を市民に配ったので、南京では餓死者が一人もいなかった。(支那事変写真全集(2))
手足をもぎとられた中国負傷兵と、彼らを看護する日本兵(南京捕虜収容所で 1938年初春 毎日グラフ:日本の戦歴)
南京の捕虜収容所で、手製の楽器を演奏して楽しむ中国兵捕虜たち(毎日版支那事変画報1939.5.20刊)
日の丸と中国の五色旗を振り、南京自治政府発足を祝う南京市民ら(1938.1.3)
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「南京大虐殺の証拠」として使われたニセ写真
アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」をはじめ、「南京大虐殺」の証拠として幾度も使われてきた写真。しかし日本兵とされる男の服は立折り襟で、これは1938年6月1日の軍服改正後のものだから、南京占領当時のものではない。また写真は彼らがいかにして殺されたか――虐殺か戦死かを語っていない。また軍服を脱ぎ捨てた中国兵も多かった。
日本陸軍の軍服(上は1938年6月1日以前。下は6月1日以後)
1937年秋にAP通信は、この写真を、日本兵が生身の中国人を銃剣の練習台にしているものとして報じた。アイリス・チャンの本でも、同種の写真が幾つか載っている。しかし左の兵士は立折り襟で、当時の日本兵は誰も立折り襟ではなかったから、これは日本兵ではない。1939年1月の米国「ローダウン誌」は、これはじつは中国共産兵が中国人捕虜を苦しめている写真だとしている。
「日本兵によって生き埋めにされる中国人たち」とされた写真。しかし「日本兵」らは銃をもって彼らを脅していない。中国人らはあたかも自ら進んで穴の中に入ろうとしているかに見える。また各人の大きさに不自然さがあり、東中野教授らは、これは複数の写真の合成と考えている。
「揚子江岸の虐殺死体と、そこを歩く日本兵」とされた写真。しかしこれらは虐殺死体ではなく、戦闘で死んだ中国兵の戦死体だった。揚子江方面で戦った日本兵たちの証言によれば、中国兵は銃を持っていても誰も軍服を着ておらず、降伏もしなかった。そのため最後まで戦闘が続いた。これは戦死して岸辺に打ち上げられた中国兵の死体である。
これも南京大虐殺の犠牲者と偽られた写真。こうした「さらし首」の風習は、日本では明治以降にはなく、中国では1930年代になってもまだ各地でみられた。1938年2月12日にも、上海のフランス租界で、さらし首事件が起きている。これは、中国の内戦の犠牲者、あるいは中国人によって殺された政治犯か馬賊の首であろう。
「中国人を処刑する日本兵」とされた写真。しかし、日本人は日本刀を片手では振り下ろさない。必ず両手で振り下ろす。この刀のかまえ方は、中国の青龍刀の振り下ろし方である。つまり、これは中国人によるヤラセ写真だ。この「日本兵」になりすました男は、他のニセ写真にも現われる。
中国の南京大虐殺記念館で、日本軍の虐殺の証拠として展示されている写真。だが、これは南京で撮影されたものではない。幼児虐殺の風習は、日本の全歴史を通じてなかった。しかし中国や朝鮮半島にはあった。虐殺否定派は、これは中国の内戦の犠牲者、あるいは朝鮮半島でとられた写真と考えている。松井大将は、南京戦のさなか赤ん坊の声を耳にし、部下に赤ん坊を救いに行かせた。そしてミルクをやり、その子を南京入城式のときに部下に背負わせ、その後も赤ん坊を育てたことは有名だ。
この写真は、1938年1月10日付の米国「ライフ」誌に掲載されたもの。その解説には「南京陥落の直前、12月14日に……」とあるが、12月14日は「南京陥落の直前」ではない。解説はまた、このさらし首になった男は「反日的だった中国人」とし、あたかも犯人が日本軍であったかのような印象を読者に与えている。しかし、日本軍にはこうしたさらし首の風習はなく、おそらくこれは中国内戦の犠牲者、あるいは私怨の犠牲者であろう。
空襲で負傷した息子を抱く中国人(「ライフ」1938.1.10付)。1937年12月6日撮影となっているので、南京攻略戦の時のものではない。左の兵士は、帽子の形からして中国兵であろう。ところが、「バトル・オブ・チャイナ」などの反日映画の中で、これは「南京大虐殺」の一部として使われた。
「南京での日本軍の公開処刑」とされた写真。しかし、周囲の人々は夏服を着ていることからみて、これは冬に起こった南京陥落当時のものではない。また公開処刑の風習は明治以降の日本にはなく、一方中国には1930年代にもまだ各地にあった。否定派は、これは中国人によるヤラセ写真と考えている。
「日本兵によって殺され、膣にパイプを押し込まれた老女」とされた写真だが、犯人が日本兵であるという証拠は何もなかった。またこうした殺し方は、典型的な中国式であり、日本人の殺し方ではない。
「日本人水兵が中国人の首を切り落とした直後」と説明された写真。しかし刀を持つ男の服は日本海軍のものではない。また首の男は髪が短く、こんな持ち方で重い首を持てるだろうか。また首の下の黒塗りにも不自然な点があり、否定論者はこれは中国人がつくったヤラセ写真と考えている。
南京とは関係ないが、上海の爆撃跡で泣き叫ぶこの赤ん坊の写真は、中国系アメリカ人H・S・ワンの撮影で、1937年10月4日付「ライフ」に掲載された。アメリカ人の反日感情を一気に盛り上げたことで有名である。しかし、のちにシカゴ・トリビューンの特派員が同じ場所、同じ時間に撮られた他の写真をも紹介し、これはカメラマンが赤ん坊をここに連れてきて、悲惨な光景に見えるようにして撮ったヤラセ写真であることを明らかにした。
貴重な当時のドキュメンタリー映画「南京」(YouTube)も参照下さい。
*南京安全区の避難民の様子
*兵民分離のため南京市民に「良民証」を発行する日本軍
*新年1938年を迎えた日本兵と、共に喜ぶ南京の子供たち
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