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ファシズムの狂気を正気に戻す条件 - 歴史意思と他力
秦郁彦の中公新書『南京事件』には、「あとがき」で次のように書かれている。「日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳たる歴史的事実である。それにもかかわらず、中国は第二次大戦終結後、百万を越える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引きあげを許した。昭和47年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。当時を知る日本人なら、この二つの負い目を決して忘れていないはずである。それを失念してか、第一次史料を改竄してまで、『南京大虐殺はなかった』と言い張り、中国政府が堅持する『30万人』や『40万人』という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が『多すぎる』とか、『まぼろし』だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の『虐殺』と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する」(P.244)。「つくる会」の主要メンバーである秦郁彦ですら、26年前は殊勝にこう反省を言い、中国に謝罪し、南京での大量虐殺の事実を認めている。


26年前の1986年、土地投機とNTT株でバブルが盛り上がっている頃だが、この当時は保守派でもこうした歴史認識が一般的だった。同じ年、「韓国併合は合意で、韓国側にも責任がある」と言った藤尾正行が、中曽根康弘から閣僚を罷免される事件があった。現在であれば、この発言で罷免に至ることはないだろう。今と違うのは、「放言大臣」を糾弾して罷免に追い込んだ主力が野党や市民勢力であり、韓国からの抗議ではなかったという点だ。マスコミもずっと健全で、野党や市民の側にペンで加勢して、復古反動の悪臭が強烈な大臣の首を奪りに出た。同じ問題が起きたとき、26年前と同じく韓国からは強い反発が上がる。これは同じだが、国内の野党やマスコミが閣僚を叩く図が全くない。国民の大勢の反応は26年前と逆になるはずで、放言大臣を大阪・名古屋・東京の首長が猛然と擁護し、ネットで右翼が韓国を激越に悪罵し、侵略を正当化する怒号の渦を逆巻かせ、民放の政治番組で右翼系の論者(三宅・山際・宮崎・勝谷)が集って韓国批判と大臣擁護のプロパガンダを絶叫するというお決まりの展開になるだろう。大臣はお咎めなしで、官房長官も素知らぬ顔で流し、朝日が口をモゴモゴさせるような意味不明の社説を書いて幕引きとなる。26年間でこんなにも日本は変わった。国内では、誰も放言大臣を正面から批判しない。

日本の新聞の中では、琉球新報が2/24付の社説で「歴史の歪曲許されない」と正論を述べている。また問題の現場である中日新聞も、2/28付の社説で「なぜ素直に撤回しない」と河村たかしを批判している。一方、社民党党首の福島瑞穂はこの件で沈黙を守っていて、Twitterでも何も発言をしていない。素通り状態だ。マスコミで顔を売っている論者たちが、河村たかしを正面から批判する場面が見られない。確かに、南京事件について口を開くのは面倒で億劫なことだろう。そのことは私もよく分かる。言論を思い立つことが容易でないと言うか、現下の状況で何をどう訴えるか、どういう言葉と表現なら大勢の人の心に響くのか、説得力になるのか、立論の中身を組み立てるのが難しいのである。材料と論理を考えようとすると草臥れる。また、それなりに自信のある論説を仕上げたとしても、その首尾や成果については客観的な期待を持つことができない。どれだけ頑張っても、現在の狂気を1986年頃の正気に戻すことができない。この10年から15年、われわれは同じ試みを何度も繰り返し、奏功せず、事態は悪化の一途で、無力感や徒労感ばかりが積み重なっているのだ。今の日本の言論空間は、丸山真男が戦前の日本を喩えて言ったとおり、まさしくオウム真理教のサティアン状態で、そういう中で正論を言い、批判すべきものを批判するのは心の力が要る。

歴史認識の問題については、心ある者は自然と口が重たくなってしまう。四面楚歌の中で、狂気のイデオロギーを妄信する信者多数に囲まれた中で、有効な理性の議論を組み上げて対抗するのは簡単ではない。けれども、口を開かなければ、それはそれで政治であり、市民が沈黙すれば右翼が増長する。右翼が言論世界のシェアとヘゲモニーを拡大し、捏造や歪曲を真実に変えてしまう。若い者たちを数の力で洗脳し、政治の実勢の既成事実を作り、マスコミ報道の前提を作る。座視することはできない。したがって、この問題で必要なのは勇気なのだ。言論の力業に挑む意志であり、徒労に終わることを覚悟しつつ、諦めることなく言葉を探して立論を模索する努力なのだ。1986年当時のような正常な思想環境にどうすれば戻すことができるのか。そこから思考して、あるいは思考停止かもしれないが、多分に断念だろうが、行き着くのは二つのことである。一つは、何が日本人の思想を現状の狂気から解放し、正常な精神に戻すかという設問と解答からの想像だ。よく辺見庸が言う。このままで済むはずがないと。このままで始末がつくはずがないじゃないかと。始末をつけさせられると。ヘーゲルではないが、歴史が理性の支配の下に収まる運動法則を持つのなら、今の日本の狂気はどこかで破滅と終末を迎えるときが必ず来る。1945年の敗戦と東京裁判の原点に立ち戻り、あの戦争を反省し直すときが来る。

と、そう想定したとき、「始末をつけさせられる」とは具体的に何なのか。私は、それは次の戦争だと答えを出す。犠牲者と流血だと思う。1945年8月をもう一度経験することだと直観する。何がファシズムかの定義は別にして、ファシズムはすでに十分に形になっている。マスコミもネットも言論は一つで、河村たかしと石原慎太郎が正統であり、われわれ(中日新聞・琉球新報)は異端である。組合活動禁止と改憲と核武装が正統であり、われわれ市民の護憲と9条が異端である。憲法9条も、72年の日中共同声明も、村山談話も、事実上死文化させられていて、内政でも外交でも生きてはいない。中国とは冷戦状態に入っていて、冷戦はいつでも熱戦に転化するし、右翼は有事下での改憲と対中戦争を狙っている。小泉・安倍のときは、小沢一郎の民主党の要素があった。今回、そうした歯止めの政治勢力の出現は期待できず、選挙は確実にファシズムを固める方向が見えている。人の死が突然に訪れるのと同じで、病院に行ったら末期癌を宣告されるとか、いきなり心筋梗塞に襲われるのと同様、気がついたときは遅いのだ。しまったと思ったときは終わりなのだ。それが、辺見庸の言う「始末をつけさせられる」瞬間だろう。そのとき、正気に戻るのである。憲法9条や村山談話が正気だと知り、自らを狂気だと悟るのだ。戦争は一方だけの思惑では管理できない。相手がある。政策として始めたものが、政策の論理ではない終わり方をする。

つまり、一つ目の考え方は「行き着くところに行き着く」という絶望で、行き着いたところで正気に戻り、憲法9条や村山談話の意義を再確認するという諦観である。無論、行き着いたときに、始末をつけたときに、自分の生命が無事であるかどうかは分からない。1945年に日本人が正気に戻ったときは300万人が戦没していた。この数は当時の列島の人口の4%程度だろうか。ときどき思うのである。正気に立ち直ったが、すぐに再び狂気に戻り始め、戦後35年を過ぎた頃からはどんどん理性を裏切る方向に転がってゆく。「政治改革」などというおぞましい過ちを犯す。今は戦後67年。犠牲者が足りなかったのだろうかと。憲法9条の誓いを普遍的に守り、世界の諸国にエバンジェリズムして、日本車を売るように9条を世界中に輸出する民族に生まれ変わるためには、犠牲者は300万人では足りず、600万人くらい必要だったのだろうかと。例えば、県人口の2割が地上戦で犠牲になった沖縄。沖縄では憲法9条が人の心の中に生きている。経験が社会の原理を支える。ドイツと日本の違いを筑紫哲也が紹介していたが、何が違うのか考えると、近代市民社会と個の自立が云々という社会科学の一般論とは別に、もっとプリミティブな洞察として、戦争を2回やったか1回だけかの違いではないかという単純な想念が浮かんだりもする。この一つ目の考え方を私はヘーゲル的な問題解決と呼ぼう。歴史意思が日本人を正常に戻す。残酷で悲惨な経験と犠牲を媒介させて。

二つ目の着想は、私らしく「他力」である。他力本願。そう言えば、丸山真男も「在家信徒」という語を開発、提言していて、丸山真男の戦後民主主義の政治学の中で重要な位置を占める範疇だということ、あらためて説明するまでもない。私の「他力」と丸山真男の「在家信徒」は意味が同じではないが、全く違うという感じでもない。日本人を1986年頃の正気に戻してくれる環境パワーたる「他力」。現時点の「他力」を構成する展望を列挙しよう。具体的に五項目ほどある。(1) 5月のフランス大統領選で社会党政権が誕生すること、(2) 12月の韓国大統領選で左派政権が復活すること、(3) 欧州市場で金融資本への課税と規制強化が措置されること、(4) 米国でOWS運動の第二弾が大規模に起き、「新しい民主主義の革命」の波を世界に伝播すること、(5) アフガンで米軍が潰走して撤退すること、以上である。どれもあり得る事態だし、(1)-(5)が現実化すれば日本の政治に大きな影響を与える。5年前の民主党の「国民の生活が第一」と同じような左からの刺激材料となり、橋下・石原的なファシズムの空気を緩和し、その狂気と毒性を抑制する方向に作用するだろう。(1)-(5)は夢想とは言えない。世界の動向に敏感に反応する習性を持つ日本は、(1)-(5)の底流をなすトレンドに国内環境が影響を受ける。「他力」は受動的で無力に見えるが、世界はますます狭くなり、そして一つに繋がっている。(1)-(5)を前へ動かそうとしている人々は、私と同じ市民であって「他力」の信仰の一員だ。「他力」は希望になり得る。

(5)で闘っている者は、(1)-(4)の実現を夢見ている。他も他の4項目について同じ。


by thessalonike5 | 2012-03-02 23:30 | Trackback | Comments(0)
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