前阪良晴さん(左)と津波伝説が残る江津浦自然公園周辺を調べてみた=福井市城有町で
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東日本大震災では大津波が押し寄せて、街並みをすべて押し流す甚大な被害が発生しました。県内では、津波といわれても正直、ピンとこないのですが、最近、この地方にも大津波があったとの伝説が残っていると聞きました。これ、本当?
越廼の集落が壊滅に
言い伝え残る
若狭の史料も
確かに、福井で津波とは、これまでほとんど意識したことはなかった。この地域に大津波の伝説が残っているなんて、正直、聞いたことがない。早速、調査開始だ。
いろいろ情報を集めてみると、どうも福井市越廼地区に伝説が残っているらしい。歴史愛好家が研究を進めているとか。まずは向かってみよう。
地元の越廼公民館で尋ねると、「私がそうですよ」と非常勤で市社会教育指導員を務める前阪良晴さん(64)があっさり名乗り出てくれた。「八ツ俣町、城有(しろあり)町の海岸部辺りに、かつて江津浦(こうづうら)という集落があった。そこが滅亡したらしい。津波が原因との言い伝えられています」とのこと。
前阪さんが津波の伝説を初めて知ったのは、旧越廼村職員だった三十年近く前。八ツ俣町に自然公園を整備する際「地元の年寄りに『もともとそこは江津浦っていう集落だったけど、津波で壊滅したんや』と聞いて忘れられなかった」。
地区に残る史料や伝説を調べ、平安時代中期から室町時代までの間、戸川家という豪族が「河水浦(江津浦)」を支配していたことを突きとめた。しかし「室町時代に入ると、戸川家は地名とともに忽然(こつぜん)と消え、太閤検地でも出てこない」という。
その末裔(まつえい)とされる渡辺家の文書には「古(江)水浦に地雷風起って悉(ことごと)く水没し…村名を八俣と改む」との記述。前阪さんが、このことを公民館だよりで披露すると、読んだ人から「隣の棗地区や越前町にも、似た言い伝えがあると電話があった」という。
前阪さんと高台に上がってみる。眼下には江津浦自然公園。かつてこの地を大津波が襲ったのか。怖くなってきたけど、万一の対策は大丈夫?
県危機対策・防災課の小杉敏明課長補佐(48)によると、今回の震災を受けて沿岸十一市町すべてで避難マニュアルが整備された。その基は一九九六年に作られた浸水予想図。
「一九八三(昭和五十八)年の日本海中部地震で高浜町和田港の岸壁に一・九メートルの波跡が残ったのが、県内の最大遡上(そじょう)高。それに“満潮分”をプラスした二・五メートルの波高を考慮して作られた」ものとのこと。さらに坂井市のように、想定の倍の五メートルの高さを基準にした津波ハザードマップを作成する動きも。
津波伝説が残るのは、何も越廼地区に限られたことではない。しかし「今残る記録は、気象庁ができた明治以降だけ」と指摘するのは、地震学専門の福井高専、岡本拓夫教授(52)。
だから東日本大震災発生以降、過去の地震調査を始めた。地震の記載がある手紙や日記などの史料を集めた「収新日本地震史料」(東京大地震研究所編)から「越前」「若狭」などの記述を探すと、織田信長に仕えた宣教師、ルイス・フロイスの手記が出てきた。
一五八六(天正十三)年に現在の岐阜県を震源地に発生した地震で、若狭地方に「高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸(うな)りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せ…、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった」と記載。
岡本教授は「能登から鳥取の沖には断層と推定される崖があり、陸の地震に連動して津波が起きる可能性もある」と警鐘を鳴らし、地震や津波に関する伝承などを調査するため、研究者や歴史愛好家によるネットワークづくりを進めている。
六月の中央防災会議の中間報告では、古文書の分析や海岸地形の調査も必要とされた。われわれにとっては大昔のことでも、地球にとっては、ついこの前のこと。詳しく調べ、備えておかないと。
津波に関する伝承 福井市越廼地区には「サメ漁のえさに使うイカやイワシが手に入らず、漁師がニワトリを殺してえさにしたところ大漁。ほかの漁師もまねをしていたら、ある日、何百羽ものニワトリが羽を広げて襲ってくるような津波が漁師たちの集落をのみ込んだ。生き残りは八ツ俣に移り住んだ」との民話が残る。国道305号が通るまで、城有町、八ツ俣町の集落は高台にあり、海岸部は田畑。開通とともに旅館などができた。このほか、県内では敦賀市や美浜町を津波が襲った史料が見つかっている。
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