第1原発事故当時、現地対策本部長を務めた池田元久・前副経済産業相に、当時の状況や反省点などを聞いた。(肩書はいずれも当時)
原発事故は通常の事故や災害とは次元が異なり、地元のオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)を中心にした従来の「ローカル型」の態勢では決して対応できないということを痛感した。
事故の際、オフサイトセンターは最悪の状況下で一定の役割は果たした。しかし、原子力安全・保安院はシビアアクシデントをまったく想定しておらず、非常用発電機が一時ダウンしたり、仮眠設備がないなどの問題があった。3月14日夜には、2号機で炉心溶融の可能性が強まり、福島県庁へ移動せざるを得なかった。今後は県庁などに拠点を設置し、万が一の場合はそこに専門家や物資を結集させる国家ぐるみの態勢で事故に臨むべきだ。
一方、危機の際のリーダーのあり方についても教訓を得た。
3月12日早朝に、菅直人首相が第1原発を視察した際のことだ。バスに乗り込んだ菅氏は、東電の武藤栄副社長と話し始めたが、最初から詰問調で、「なぜベントをやらないのか」と詰め寄っていた。怒鳴り声ばかりで、話の内容はそばにいても分からなかった。
免震重要棟に着いても、菅氏は一般作業員が玄関にいるにもかかわらず「何で俺がここに来たと思っているんだ」と怒鳴り始めた。「これはまずい」と私は思った。吉田昌郎・第1原発所長がベントについて「決死隊を作ってでもやります」と断言したので、菅氏の態度が一瞬軟化した。
しかし、東電社員だけでなく、福島県幹部や班目(まだらめ)春樹・原子力安全委員長にも激しく当たったため、同行していた寺田学首相補佐官に「(菅氏を)落ち着かせろ」と言わざるを得なかった。
そもそも災害発生から72時間は遭難者の生存率が高く、その間は官邸にとどまり地震・津波の行方不明者の捜索に全力を挙げるべきだった。国家の指導者は危機に直面した際にも、冷静に大局観をもって事態に当たらなければならない。
第1原発はまさに「連鎖事故」だったが、この1年を振り返れば、よく事態が落ち着いたと思う。しかし昨年12月に政府が出した「収束」宣言については疑問だ。事故は現在も収束したわけでも、収拾したわけでもない。今も事故に苦しむ福島県民への心遣いが大切だった。言葉をもっと慎重に選ぶべきだった。
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■人物略歴
民主党衆院議員(神奈川6区)。NHK記者を経て90年衆院選で初当選。当選6回。副財務相、副経産相などを歴任。政府の現地対策本部長は3月11日から5月中旬まで務めた。
毎日新聞 2012年3月2日 東京朝刊