木戸敏郎氏によるエッセイ「1977年東京で――《暦年》世界初演」(ベルク年報2008)を以下に転載致します。
転載を御快諾頂いた木戸敏郎先生、ならびにpdfファイルをご提供下さった日本アルバン・ベルク協会様に厚く御礼申し上げます。---------------------------------------------
《一九七七年に,東京で》カールハインツ・シュトックハウゼン作曲
雅楽の楽器と四人の舞人のための
ヤーレスラウフ(歴年)―― リヒト(ひかり)より
オリジナルヴァージョンの世界初演木戸敏郎1 大阪万博,ドイツ館で 1960年代すでにシュトックハウゼンの作品は日本でもよく知られていた。然し,私が彼の作品そのものに直接触れることができたのは70年の大阪万博ドイツ館に於いてであった。この時,ドイツ館の中にはシュトックハウゼンの指示通りの音響空間が設けられ,この空間のために特別に編成されたアンサンブルを率いて彼自身が来日して長期滞在しながら自身の作品の連続コンサートを開催していた。彼の意図が浸透した生演奏である。これまで録音や日本の演奏家による演奏で聞いていた難解なものと違って,リアリティーがある演奏から音楽の仕組みがありありと表れてくるではないか。後にトータルセリエリズムの理論として理解することになる彼の作曲手法を,この時は音楽の実態として直感的に把握することができた。これだ,この人なら雅楽の楽器の音にまっとうに対峙することができるだろう,と直感的に感じた。
「雅楽の音は噪音以外の何物でもない。」
と日本と西洋の音楽をめぐる或るシンポジュームで洋楽関係のパネラーが発言して,同じくパネラーとして出席していた宮内庁楽部の辻寿男氏を激怒させたことがあったが,これは当時のアカデミックな音楽(洋楽)関係者の常識的な考え方であった。噪音(騒)とは楽音の反対概念であり,楽音については音楽事典にも明瞭に定義されている客観的な現行音楽(洋楽)の基礎概念である。楽音と認められるにはいくつかの条件を満たしていなければならない。一つは各楽器の音高が共通の周波数によって制度化されていること,また周波数だけが特化されて他の情報量(音圧や音色など)は極力抑制されていること,等々の条件を満たしている音が楽音である。そしてこれに当てはまらない音は噪音と呼ばれて音楽から排除されることになっている。
この規準に照らして言えば,雅楽の楽器の音は疑いもなく噪音であろう。古来,楽家で守られてきた『他管に触れず』と言う,自分の持ち楽器以外の楽器については口を出さないしきたりと関係することであるが,雅楽ではまず楽器毎に記譜法(文字譜)が違っている。また,同じ文字でも楽器によって読み方が違っていたりする。例えば六は龍笛ではロク,篳篥ではリクと読む。こんな状態だからスコアはなく各楽器毎のタブラチュアだけである。更に同じ調の音階の音であっても楽器によって音の高さが微妙に違う箇所もある。また楽器の構造上音色が違うしブレスの箇所もまちまちである。同じ旋律を同時に演奏していてピッチに違いのあることをスレるといい,ブレスに違いがあることをズレるという。笙の合竹は和音ではなく不協和音である。このような状態で,笙,篳篥,龍笛が同時に同じ旋律を合奏している。雅楽は音組織の部分々々の独立を容認した上で,全体を共通の旋律で統合する音楽でヘテロフォニーという言い方が適当であろう。これは見事な調和であるが,旋律や拍節に違いはあってもオーケストレーションが同じであればどの曲も同じように聞こえるという欠点がある。雅楽に限らず有職文化として伝承されるとマンネリ化は避けられない。この弊害に対処すべく,私は国立劇場で雅楽の伝統を甦らせるための委嘱をすでに始めていた。
雅楽の楽器の音を素材として新しい作品を創作するという課題に,真向から立ちはだかる問題が,この「噪音」という概念であった。アカデミックな作曲法は十二平均律という制度化された音を前提として編み出されたものであるから雅楽の楽器の音にはなじまない。和音も作れないし転調もできない。無理に和音を作ろうとすると汚い音になる。それは油彩で赤と青を混ぜると紫になるのに,岩彩で同じことをすると紫にはならないで赤と青が混じった汚い色になるのと同じである。大正時代の京都画壇で土田麦僊が「汚い絵」と呼んだ一群の日本画がこれであった。雅楽の楽器を無理強いして十二平均律に近付けようとする作曲家がいたし,今もいる。洋楽器と合奏するためにはそうせざるを得ないだろうが,これでは音色だけが雅楽で,音のシステムは洋楽の下手なまがいものになる。日本でも平均律がスタンダードグローバリゼーションになったいま,雅楽のアイデンティティーにこだわれば音楽の中の噪音というエントロピーとして,有職文化としては尊敬されながら芸術音楽としては軽蔑されていた。
ドイツ館で聞いたシュトックハウゼンの手法はそんな偏見に悩まされていた私にとって思いもかけない福音だった。彼の音楽は洋楽の楽器という制度化された道具の音を音素材に使っても,その音の中から制度化されていない情報量を選び出してアカデミックな作曲法とは違う手法で構造化していた。彼の指導による生演奏でそのメカニズムがレントゲン写真を見るように見えてきたのには驚いた。この手法なら,雅楽の噪音と罵られている音のエントロピーを逆転して一気にネゲントロピーに転換することができるだろう,と判断。私はその場で彼に雅楽の楽器のための作曲について打診,彼の委嘱があれば作曲しようという答えを得て,この時は後日を期して別れた。
2 キュルテン,シュトックハウゼン邸で 1974年,聲明のヨーロッパ公演ツアーで渡航した際,私はケルン近郊の小村キュルテンに在るシュトックハウゼンの自邸を訪問した。先年(1970)大阪できっかけを作っていた雅楽の楽器による委嘱を具体化するためである。
山の斜面に腰掛けたように建っているかなり大きい家である。外観は不整形で仕組みがよく解らない。中に入ると平面プランに一つの理念があって,その平面を立体化したのが外観であることが納得された。シュトックハウゼン自身の基本設計であるという。私がその構造に興味を示すと彼は家の内部や外観を案内しながら説明してくれた。玄関,サロン,書斎,書庫や共同で使用するバス,トイレなどの設備は一ヶ所にまとめてコアとしての役割をなし,その周囲に家族それぞれの個人として使用する部屋が独立して設けられていて,各部屋は他の部屋を経由しないでコアと直接連結されていた。そして各部屋には庭ヘ出られる出入り口が設けられていて,殆んど雑木林のままの広い庭に家族はそれぞれ自分専用のコテージを持っており,母屋の自分の部屋からいつなんどきでも家族共同の出入り口を経由しないで直接コテージへ往き来することができるようになっていた。その各コテージの窓は互いのコテージが見えない方向に開かれていて,プライバシーが保たれると共に自分ひとりが林の中で孤独になれる仕組みになっていた。
このそれぞれの部屋が自らのアイデンティティーを保ちながらコアと関連している母屋や,相互に邪魔にならない状態になっていながら自らは自由に存在しているコテージの在りようが彼の音楽そっくりであることに気が付いた。音の情報量を音高だけに特化せず,時価,音圧,音量,音色も含めて平等に情報量と認め,それらをトータルにパラメータでコントロールしながら統合(統一ではない)するシステムはヨーロッパの伝統には無かった新しいメカニズムである。
ヨーロッパのアカデミックな音楽は,本来的には歴史も構造も違う各種楽器をコンソートシステムという近代の音楽概念のもとに改良して音高だけを特化し,個々の音は全体を構成するパーツでしかなく,その頂点にあるオーケストラは独裁者のような指揮者のもと強引に一つに統一するファシズムである。シュトックハウゼンのトータルセリエリズムはその対極にあるもの,60年代のドイツでまだ濃く残っていたナチの記憶に対する強い反省はさまざまの形で芸術運動に現れていた。例えばラッヘンマンの感情に訴えない冷ややかな音楽はかつてヒトラーの演説に熱狂した過去に対する反省の表れだ,と聞いている。トータルセリエリズムが音高以外の音の情報もすべてをトータルに情報量として評価してパラメータでコントロールしながら統一ではなく統合するのも,ファシズムに対する反省の傾向の一つと見ることができよう,と思う。
雑木林のような庭を散策したあと母屋に戻り,ダイニングルームでドイツケーキと紅茶が出された。そのテーブルは分厚い板が相当使い込まれて磨滅していた。日本の寿司屋などの桧の分厚いカウンターが閉店後に翌日の客を真新しい装いで迎えるために,その日の汚れをタワシでごしごし洗い流す,それが永年続いた板は節などの堅い部分を残しながら磨耗して波打っている,丁度あんな状態になっていた。ドイツではタワシでなくサンドペーパーを使うそうだ。イタリアの〈アルテ・ポーヴェラー〉の彫刻家ジュゼッペ・ペノーネの作品に酷似していた。「彫刻とは砂に埋もれている石を掘り出すようなものだ。」と言ったミケランジェロの言葉を思い出した。テーブルの周囲に並んでいた木の椅子も同じ状態のものであった。
この部屋の窓に掛けてあったカーテンも異様なものであった。カーテン仕立てのヒダもない白一色の一枚の布,それが継ぎはぎだらけである。傷んだ箇所に布を当てて補強したものが更に傷んだ箇所を切り取って別の布に替えて繕ったりしている。それも一度や二度ではない。その都度いろいろな布が使用されているが白一色であることは統一されていて,然も真っ白く洗濯されている。ある作品を初演するために演奏家達とシシリー島で合宿練習していた際,近所の農家の洗濯物干場で見つけたシーツが余りに美しかったので,真新しいシーツを持って行って交換してもらったものだという。そういえば傷んだ部分は人間の体に則した有機的な痕跡であった。シーツに隠されていた情報の発見である。20世紀の終わり頃になって世に知られるようになったフランスの〈シュポート・シュルファース〉という芸術運動の作品にこんなものが有る。
私はシュトックハウゼンの邸のたたずまいを見て,彼なら雅楽の楽器の音に未知の情報を発見して新しい作品を再構造化することが可能だ,と確信した。
私が提示した委嘱の条件は次の二つであった。
1 雅楽(管絃)の楽器だけを使うこと。あれこれ選択しないですべての種類を使用し,編成も古典の三管通りに準じること。そして,雅楽以外の楽器は一切持ち込まないこと。――雅楽の楽器だけを使用したとしてもいずれかの楽器に偏った編成にすれば音の情報量は変質する。また洋楽の楽器と混成されると肝心の箇所は洋楽器が活躍して雅楽の楽器は音色効果程度の使用になることを恐れて釘をさしたのである。洋楽の楽器の活躍の場となっては雅楽の再生を目指す委嘱の意味は無い。
もう一つの条件は,
2 国立劇場開場十周年記念作品としての委嘱であること。1966年に開場した国立劇場が10周年を迎える1976年に初演するスケジュールで作曲すること。――然し,実際には彼がアメリカ建国200年記念を祝福してドイツ政府がアメリカに贈るシリウスの作曲のために時間をとられ,1年遅れの1977年初演となった。アメリカ建国200年と日本の国立劇場10年とではケンカにならない。
10周年記念という条件を出したついでに,雅楽の古典では管絃の渡物(季節に合せて移調)や舞楽の番舞(左方と右方の交代を昼夜とみなす)など時間の経過がテーマであることを説明した。これがヤーレスラウフのヒントになったのではないか,と私は思っている。初演当日のプログラムノート冒頭に,『国立劇場の木戸敏郎氏より雅楽の管絃と舞のための作品の作曲を委嘱されたとき,私は音楽によるヤーレスラウフのヴィジョンが浮かんだ。』と,シュトックハウゼンは書いている。
シュトックハウゼンからは作曲のために次のような資料が要求された。
1 雅楽(管絃)のすべての楽器について,その音を低音から高音へ,一音ずつ4~5秒程度に録音したテープによる資料
2 この資料の音を五線譜で採譜した楽譜による資料
の二点であった。
3 東京,国立劇場で 資料は帰国後演奏者に予定していた宮内庁楽部の楽師と私のアシスタントをしていた茂手木潔子さん(現上越教育大学教授)とに協力していただいて作成し,送った。彼とはその後も何度も手紙で連絡を取り続けた。彼はこの作曲は非常に困難であると言って,一度はキャンセルを申し出てきたが私は受け入れなかった。すると今度は舞を伴った作品にすることを提案してきた。私は雅楽(唐楽)の楽器のすべてを使うことを条件としていて,すべての楽器が含まれるのは管絃の編成であり,現行の舞楽では絃楽器は除外されているので私が提案した楽器編成に舞を伴うということは,現行の雅楽ではあり得ない。然し,歴史的には管絃舞楽という舞が存在したから雅楽の伝統に反することではない。委嘱のねらいは雅楽の古典に埋没している伝統を掘り起こして新しい音楽概念で再構造化することであるからあくまでも雅楽の古典作品に埋没している音の情報量だけに則して再構造化することであるが,管絃舞楽の歴史的事実に照らせば平舞(四人舞)の情報量が含まれてもいい,と判断した。私は舞を伴う作品でもいいが,ダンスではなく舞楽の舞人四人による平舞であること,という条件で了承した。
1977年,先年私が送った作曲のための音素材に則って作曲した作品のスコアの冒頭部分数ページが送られてきて,来日早々に実際の楽器の演奏でその効果を確認したいから事前に演奏家に渡して欲しい,という。私はコピーを作って宮内庁式部職楽部の楽師に渡した。同年9月来日,久し振りに来日して東京の空気が汚くなっていることに驚いていた。目から涙が出て止まらないという。バブル時代の東京は今の北京のようなものだったのであろう。私は平気だった。国立劇場大劇場のステージを下見するため楽屋の廊下を通り抜けていた時,タタミの匂いがする,と言った。夏の休館している時期を利用して楽屋の畳替えをしたばかりであった。作品がシアターピースとなったことで大道具が必要となったが,彼の基本プランはステージの床にデザインをするものである。ヨーロッパのオペラ劇場は前傾したランプステージになっているから,何の問題も無いだろうが,歌舞伎を上演する国立劇場のステージは平床で客席一階の椅子に腰を下ろすと舞台の床面は見えない。これを見せるためにはステージの上に前傾した平台を組まなければいけない。彼の基本プランを尊重しながら,劇場側のスタッフが実施設計を作ることにした。
国立劇場大稽古場で宮内庁の楽師と初顔合わせの日のことであった。先年私が送った作曲のための雅楽の楽器の音のデータは非常に役に立った,と上機嫌だった。練習に入る前,楽師達はそれぞれ自分の楽器の調律を始める。種別毎に演奏家が集合して,笙は電気コンロで暖めながら,篳篥は逆に湯呑のお茶で簧を湿らせて音を作る。箏は柱を立てて音階を作り,琵琶は転軫で絃のテンションを調節して音階を整える。それぞれの都合でばらばらに音を出している全員の音が一緒になったクラスター状の音をシュトックハウゼンは注意深く聞いていたが突然隣にいた私に
「琵琶の音が聞こえない。どうしたのか。」
と言った。おかしなことを言うものだ,琵琶の音はちゃんと聞こえていた。
「聞こえているではないか。私にははっきり聞こえている。」
と言うと
「絃が振動する音は聞こえるが,楽器の響鳴する音が聞こえない。」
と言った。確かに雅楽の楽器の中で琵琶だけは異常である。アルペジオ風に掻撥で演奏されることが多いが,便宜上アルペジオ(分散和音)と言うことにしているが正確には和音ではなく不協和音であるから音が濁ると汚くなるので分離していることが望ましい。そのせいで意図的に胴の内刳りを浅くして響鳴を押えて残響を短くしているものだと思う。然し,こんなことを説明している余裕はない。
「この楽器の音はこういう音だ。」
と答えた。それで納得したのかどうか判らないが,この問題はこれですんだ。然し,私はこの人は音をこんな風に分析的に聞いているんだ,と,ちょっと驚いた。
ドイツで作曲してきた楽譜の,楽譜を見ただけでは解らない彼が工夫した特殊奏法(一種のタンギングやフラッターなど)による演奏について楽器毎に一音一音確認してゆく進め方であった。曲の姿はまだ見えてこないが音の様子は明らかになった。楽器の機能としてはやれば可能な奏法であるが現行の雅楽の古典には行われていない奏法である。約2時間程度で彼は必要なことは確認できた様子であった。
終わった後,彼は私に
「あなたが送ってくれた楽器の音のデータは充分ではなかった。あの資料にない音も,雅楽の楽器から出ているではないか。これから作曲する部分ではその音も使って作曲する。その部分がずっと面白いものになるだろう。」
と言った。これは私の認識の甘さであった。雅楽の音階の音と雅楽の楽器の音との区別を認識していなかった。雅楽には六調子有ってそれぞれの音階を構成する音が決まっている。これらは雅楽と言うシステムの中で制度化された音である。然し雅楽の楽器からはこれ以外の音も出す気になれば出る。特にダブルリードの篳篥は音程が不安定な楽器で,ということは音域内の音であればどんな微分音でも出せる,ということだ。彼が欲しかったのはそのような音も含めたデータだったのだ。雅楽の古典を脱構造してこそ伝統を抽象することが可能であり,これが不徹底であれば伝統の概念があいまいになり,ひいては創造も中途半端なものとなろう。この仕事を通じて私が学んだ最も大きな教訓であった。
彼は修正した音のデータを持って京都へ行き,都ホテルに滞在して残りの部分を書き上げた。京都には京都1200年の歴史プラス東洋何千年もの文化が堆積している,と言い,続けて東京には戦後40年の堆積しかない,と付け加えた。舞台の実施設計がまとまると私はその道具帳を持って京都を訪ね了承をとった。彼は観光客が多くなっていることに驚いていた。しかし,空気はきれいだという。涙は止まっていた。窓を開けて風を入れると蚊が入るので,渦巻き蚊取り線香を焚いていた。これが気に入ってキュルテンへも持って帰った。山のそばだから蚊がいるのだろう。
作品を完成して再び東京に戻り,国立劇場の大稽古場で本格的な練習に入る。このプロセスは彼にとっても宮内庁の楽師にとっても妥協の出来ない修羅場であった。彼の作品と対峙することで雅楽は自らの拠り所にしている伝統と称するものがさまざまな形で試されることになったが,シュトックハウゼンについて論じる本稿のテーマと反れるので省略する。
4 プログラミングカールハインツ・シュトックハウゼン作曲
雅楽の楽器と四人の舞人のための
ヤーレスラウフ(歴年)――リヒト(ひかり)より
曲名のヤーレスラウフはヤーレス(年)とラウヘン(走る)という二つの語の合成語であり,字書にはない。国立劇場開場十周年記念委嘱作品であることにちなみ,僅か10年でも歴史的成果であり,時の流れをテーマとしている。
1977年10月31日,11月1日の2日間,東京の国立劇場大劇場で世界初演された出演は宮内庁式部職楽部の楽師であったが,古典作品でない作品の上演ということで雅楽紫絃会という任意団体を装って出演した。当時は古典以外の雅楽作品は創作であれ復曲であれ異端視されていた。伝承された古典の制度化された形式美が伝統と考えられていたのである。
入り組んだ作品の構造を判りやすくするためにコンピュータのプログラミングになぞらえて説明する。
レイアウト 舞台のデザイン 制度化された古典では,舞台は四間四方の高舞台の上に三間四方の平台を置いて地布で覆う。正方形であるが,南面する天子に対するものとして北を正面とする。楽屋(管方の居る所)は左方と右方に分かれるが,北向きの舞台の左方が東,右方は西である。
然し,ヤーレスラウフの舞台は国立劇場大劇場の歌舞伎のための横に長い舞台に合せてデザインされていてアクティングエリアは矩形である。この平舞台に前傾したランプステージを設け床面に大きく1977の数字が描かれている。言うまでもなく初演された年の年紀である。この数字はその後ヨーロッパで再演される度にその年の年紀に変更されている。背景の大道具には四桁の数字それぞれの真後に窓孔が開けられていて,数字がデジタルで表示される仕組みになっている。(その他いろいろの仕掛けが有ったが音楽に直接かかわる事項についてのみ触れ,他は省略)
サンプリング 楽器のグループ分け 制度化された古典では雅楽(管絃)の楽器の種類を三管,両絃,三鼓と呼んでいる。
三管とは三種類の管楽器 笙,篳篥,龍笛
両絃とは二種類の絃楽器 琵琶,箏
三鼓とは三種類の打楽器 鞨鼓,太鼓,鉦鼓
で,三管が音のテクスチャーを,両絃と三鼓が拍子を作る。即ち,音が持続する笙がいわば盆のようにモノを載せる台の役割を果し,その上に音が大きい篳篥が主旋律を,細かい動きをする龍笛が装飾音を施しながら全体がヘテロフォニーの合奏。拍子は音が大きい太鼓と音が鋭い鉦鼓を同時に打って大まかな拍子をとり,拍子と拍子の中間で鞨鼓と琵琶・箏が細かい指示をする。新しく作曲される多くの雅楽楽器のための創作も概ねこのシステムに則っている。
ヤーレスラウフではこの制度化されたシステムを脱構築して,テーマが歴史であることにちなんで時価(持続)という音の情報量に特化して時価の順に楽器を組み替えるという独自のシステムで四つのグループに分類した。
一番時価が長い楽器
笙は吹いても吸っても音が出る,もし希望するなら延々と音を持続させることも可能である。即ち雅楽の楽器の中で最も時価が長い。
二番目に時価が長い楽器
龍笛はブレスの必要があるが,比較的長く持続することができる。比較的とはもう一つの管楽器篳篥と比較して,と言うことだ。
三番目に時価が長い楽器
篳篥は肺に負担のかかる楽器である。当然ブレスをする回数も多く,従って,雅楽の三種類の管楽器の中で最も時価が短い。
時価が最も短い楽器
琵琶と箏の二種類の絃楽器はいずれも撥絃楽器であって音は撥絃した瞬間だけ存在してすぐ消滅する。即ち時価は最も短い。
もう一つの拍子を作る打楽器は音高(音の高さ)という情報量を特化して高さの順に
高い音 鉦鼓 小さい金属製の体鳴楽器で音高は最も高い
中間の音 鞨鼓 小さい皮張りの膜鳴楽器で音高は中間音
低い音 太鼓 大きい皮張りの膜鳴楽器で音高は最も低い
と三段階に分けた。
インプット 舞人と管方の配置 古典の舞楽では左方の楽屋には唐楽,右方の楽屋には高麗楽が当てられる。左方の舞人は左方の楽屋から,右方の舞人は右方の楽屋から登場する。
ヤーレスラウフの舞人はステージ床の四桁の数字,千,百,十,一の各位の数字の上に四人の舞人が一人ずつ割り当てられる。
また各舞人の後方に,各舞人のための音楽を奏する楽器が位取りに応じて時価の順に割り当てられる。即ち
千の位には時価が最も長い 笙
百の位には時価が二番目に長い 龍笛
十の位には時価が三番目に長い 篳篥
一の位には時価が最も短い 琵琶と箏
となる
そして四桁の数字の中間三箇所に三種類の打楽器を位取りの高さに応じて音高の順に配置している。
千の位と百の位の中間に音高の高い 鉦鼓
百の位と十の位の中間に音高が中庸の 鞨鼓
十の位と一の位の中間に音高が最も低い 太鼓
とした。 (つづく)