2010年08月30日

1973年 韓国旅行 観光とキーセンパーティのツアー

1973年 韓国旅行 観光とキーセンパーティツアー

旅行会社に入り2年目に韓国に5月と10月に行きました。

5月は先輩のお客様200人前後の招待か社員旅行か覚えておりませんが、そのアシスタントとして、
10月のツアーは私が担当していた会社の社員旅行で100%観光が目的のツアーでした。

今回お話するのは5月のキーセンパーティ(韓国式宴会)付きのツアーです。

正式にはパスポートの入国スタンプでしっかりと日付がありますので5月31日発の6月2日着(2泊3日)のツアーでした。
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これが韓国入国の為の当時のVISA(査証)です。VISAは有料で確か半端な765円ぐらいだっと思う?

とにかく大所帯なのでバスは4〜5台使ったと思います。添乗員もリーダーの先輩T氏と何れも先輩ですが
3人と私と5人の添乗員だったと思います。

初日韓国の空港に着いてターミナルに入ってすぐにキムチのような匂いと目がちかちかする感じがした。

スケジュールは以下になったと思います。

1日目 
市内観光とショッピング。南山タワー・景福宮・国立民族博物館・免税店など...
観光をしていて思った事はソウルは日本の東京より、20年から30年ぐらい遅れていると、
そして小さな機械屋のような店が多かった気がする。何か金属が燃えたような匂いもした。

観光の女性ガイドさんは日本語がとても上手な方で色々な事を話してくれました。
昔は大抵の表に出ている看板は日本語か漢字が使われていたと、しかし太平洋戦後日本が負け、
体制が変わり、いっさいの日本語などの文字は禁止されたと言う事でした。

その時にガイドさんの心の中にはやはり戦中の日本の植民地支配時の事など含め心中は複雑だと感じるのでした。


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1940年代のソウル市内

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観光スポット
     
     夕食は韓国式宴会                                
     宿泊:ソウル

2日目 朝食 ホテル 終日市内観光・仁寺洞・東大門市場・青瓦台
    昼食:韓国焼肉料理c0021329_2054038.jpg

    
    夕刻よりウォーカーヒルカジノ
    夕食:ウォーカーヒル・ディナーショウ
    宿泊:ソウル


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ソウルの飲み屋横丁??

3日目 朝食 ホテル 出発まで自由行動
    空港へトランスファー
    ソウル発
    東京着
というスケジュールかと思いますが多少の違いはあるかも知れません!

さてキーセンパーティですが初日、観光が終りシャワーを浴び、着替えをして確か2班に別れて行動したと思います。バスに乗り込みキーセンパーティ(韓国式宴会)場に到着です。

玄関では全員が靴を脱ぎ、その時に一枚の番号カードが渡され、同じカード番号は靴の中に入れられました。日本と同じようにお座敷にあがり、大きな旅館の宴会場のような広い部屋に案内されました。

そこには座布団が置かれており、一つの座布団の前に小さなテーブルがありました。お箸やお茶碗、小皿など綺麗に整頓されていました。そのテーブルはひとつおきでしたのですぐに隣はきっと芸妓?さんが座ると思いました。
全員が座ったあと、15分ぐらいだろうか、チマチョゴリ(韓国の民族衣装)を纏った韓国女性が裏側に待機しており、韓国人の男性からの番号を呼ばれる、呼ばれた番号を日本男性は確認して"ハイ”という感じで手を上げます、そうすると玄関で男性の靴から番号を選んだ人がその男性の横に座るのでした。

かれこれ、20分ぐらいかかっただろうか?大所帯なのですべて時間がかかる、男性の横に全部の女性が座ると一斉に料理が運ばれて来た、スープ、前菜やら、とにかく沢山の料理だった、そして驚いた事に箸は彼女らが取って我々日本人男性はなにもせず!! そうすると何を食べたいかという感じで すべての物を口に運んでくれるのである、こんなサービス日本のどこへ行ってもないぞ〜などと別席の男性からの言葉が出てきた!私もなんとなく変な気持ちで女性のサービスに甘えながら、すべての食物を口運んでもらいました。

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食事が始まって15分ぐらいから韓国の民族舞踊や音楽などが始まり、初めて異国情緒の雰囲気を味わうのでした。

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1時間もするとお酒の酔いも回ってくる人も出てきて、笑い声がイチオクターブも上がって楽しい時間を過ぎて行くのでした。 そして2時間ぐらいだろうか食事も済んでそろそれ時間が来た感じでした。

するとある人は個人ですでにキーセン会場を出て行く人などあり、自分でホテルへ帰るのかな〜などと思っていたが先輩のT氏はちゃんと心得ていて現地の手配業者と連絡等すべておこなっており心配ないとの事だった。

大半の人達は又バスに乗ってホテルに戻りました。 各自部屋に入る前に明日のスケジュールなど確認して
その日はお開きとなりました。

私も部屋に入り 夜の10時頃だと思いました、ドアをノックする音がするので英語でどちらさまでしょうかと、てっきり先輩(T氏)かもと思ったのですが女性の声でした。

とりあえず部屋に入れましたが....え!まさか!と心の中で一瞬そうかこれはきっと現地の旅行社が
添乗員に特別手配をしたのだな!とわかりました。

彼女は英語を僅かに話すのみ、大半は韓国語・ハングル語で私はヨボセヨ!カムサハムニダ、アンニョン ハシムニカの3つしか話せず、とにかく初めての経験でどのように対応するか、こちらからはアクションはとれず待ちの態勢でした。

彼女は昼はオフィスで働くOLのようでした。とはいっても大会社では無く小さな会社のようでお金が必要のようでした。

そして........わかったようなわからないような会話をしながら彼女は帰るかと思いしや、ここに泊まるというのです...それはいいけどどうしてと聞くのは紳士?の言う事でも無いし...

そうでした韓国は深夜0:00時〜朝の4:00まで韓国人は外出出来ない、戒厳令がしかれていたのです。当時は日韓の歩み寄りの政府間のやりとりに反対する韓国国民のデモなどで厳重な態勢をとっており
ソウルは1970年代に戒厳令が挽かれていました。

ここでちょっと気になる事がありました。
私の部屋に来た女性はちゃんと韓国政府?が認めた何らかのライセンス(許可証)を持っていたように思います。それはきっとへんな言い方ですが"いたす”為の許可証かと思います。

このころの韓国は外貨獲得の為、一生懸命でした。
日本に追いつけ、追いこせと韓国政府は経済発展の為に当時はこのような方法でも外貨獲得をしたと思います。
そして韓国政府は知っていたのです! 日本からすべてを学べば必ず世界に通用するという事です。

1950年以降に朝鮮戦争の勃発、2つの国に別れ、国の発展や過去の悲しい出来事を経験して、何れも前途多難な状況におかれながら、経済発展の大きな目標をアメリカやヨーロッパからで無く、日本だけに絞り
日本からの経済援助から始まり、彼らの深い心中からの憎しみと平行して日本から得る金銭的援助、工業技術などすべてにおいて研究し続けました。

そして日本と同様に人口でも半分に満たない国でありながら、韓国は現在 世界経済にも影響を持つ、重要な国となっております。それは経済、スポーツ、芸能、音楽界(特に日本)や今や国際連合のトップの事務総長にも任命されたりと考えられなかった発展は驚くべきというしかありません。

アジアは沢山の国がありますが、韓国ほどのパワーを持った国はないでしょう!
それは彼らが持つ日本に対する対抗意識が日本人が思っている数十倍もあるという事かと思います。
そして昔はダサい韓国製品、車、などでしたが、今はすべての面でやることがスマートになっているということもいえるでしょう!例えば世界的なイベント ギリシャオリンピックや国際サッカーなどスポーツ関連には大変な金額を投じてスポンサーにもなっています。

日本は終戦後僅か20年もかからず経済の発展と個人の生活なども改良、向上して、いわゆるオシャレする人達が増えて行きました。 私は戦後1947年生まれで幼少時代の服装にしても、食生活にしても、写真など見る限り、日本全体は大半は貧しかったと思います。
それが17歳の高校2年ぐらいから学校に着ていくシャツはVAN(ヴァン ジャケット)であった。このころだろうか日本は食生活、ファッション、レジャーなどに変化が出ていく訳ですが、それは経済が繁栄して行く様子を証明していると思います。
このような事から日本は敗戦後、僅か20年足らずで経済発展を遂げたという事が証明されます。

私は終戦後生まれで、戦争の事は知りません、学校でも戦争についての細かな授業も無かったし、今でこそ、戦前の日本軍人がした(犯した)現実はここ海外のカナダにいて時々、自元の新聞やテレビニュースで取上げられています。カナダの友人達からは、一度も戦争についての話など話題や非難された事はありませんが時々日本とカナダ、アメリカ人も含め彼らから見る視点は我々戦争を知る、知らない日本人とは少々考えの違いがあるかも知れない!

モントリオール在住のベテラン(ユダヤ系カナダ人80歳を超えております。)は現在でもアジアで捕虜となり、肉体強制労働をさせられ、これは許される事では無く、正式な日本政府の謝罪を求めているが、オタワの日本大使館前にプラカードを掲げ、抗議をしている姿などカナダの新聞記事やカナダCBC国営放送でドキュメンターとして1時間番組として放送されたり少なからずとも我々カナダに住む日本人は複雑な気持ちになるのです。

さて日本政府は韓国に対して

以下の文面はある知識人から得たものです。

昭和20(1945)年、敗戦国となった日本は7年間の占領期間を経た後の昭和26年に、サンフランシスコ条約を結んで連合55国ヶ国中48ヶ国と講和をしました。この条約とそれに続く個別の国との協定で、戦争で日本が与えた損害に対して賠償を行なうことを約束し、ここから戦後処理が始まったのです。

例えばフィリピンには賠償約1980億円、借款約900億円、インドネシアには賠償約803億円、借款約1440億円を支払っています。この他、別表にあるように、賠償、補償の総額は約3565億5千万円、借款約2687億8千万円で併せて6253億円にのぼります。これ以外にも事実上の賠償として、当時日本が海外に保有していた財産はすべて没収されました。

それは日本政府が海外にもっていた預金のほか鉄道、工場、建築物、はては国民個人の預金、住宅までを含み、当時の計算で約1兆1千億円に達しています。

ーーーーーー
現在の経済大国、日本ではなく、戦後のまだ貧しい時代に、時には国家予算の3割近くの賠償金を約束し、きちんと実行してきていたのです。ちなみに昭和30年のスチュワーデスの初任給は7000円でした。

さて最近、韓国から個々人に補償を要求する動きが新聞やテレビで報じられていますが、これについても一言ふれておきましょう。

昭和40(1965)年、日本と韓国は日韓基本条約を結び、日本は無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、民間借款で3億ドルを支払いました。そこで、日本が韓国内に持っていた財産を放棄することも含めて「両国民の間の請求権に関する問題が 完全かつ最終的に解決された」としたのです。民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1.45倍にあたる膨大な金額です。韓国はこのお金の一部を「軍人・軍属・労務者として召集・徴集された」者で死亡したものの遺族への補償に使いましたが、大部分を道路やダム・工場の建設など国づくりに投資し「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げました。韓国は日本から得たお金を個人補償として人々に分配することよりも、全国民が豊かになることを選び、それが成功したのです。そして韓国のとったこの行動は韓国自身が決めたことですから、出した日本がその使い道にあれこれ言うことはできません。
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というような事ですが、これを読んで当時の事を思うと本当にそのとおりと感じました。
今でこそ韓国政府が外貨獲得の為=韓国経済の発展の為この様にお金の必要な女性を使い認めていた
という事になるかと思います。

**補足 

「従軍慰安婦」問題で オノ・ヨーコが日本擁護!?

最近(2011年1月)の日本のネット ニュースであるが「従軍慰安婦」問題について、オノ・ヨーコさんが米「ニューズウィーク」のBBS(電子掲示板)に論陣を張ったと、ネットで話題になっている。「人さらいや奴隷はフィクション。
日韓条約が1965年に批准されたのに、謝罪と賠償を今頃持ち出すのはおかしい」などと書かれているとされ、ネット上には拍手喝采も起こっている。
ただ、ヨーコさん本人だという証拠はまったくなく、名前を語ったニセモノだという可能性もある。

「拉致やセックスの奴隷というのはフィクション」

ネット上では「オノ・ヨーコ発言」が話題になっている アメリカで過熱している「従軍慰安婦」批判に対し、オノ・ヨーコさんが真っ向から立ち向かったとされるのは07年3月29日の「ニューズウィーク」BBSへの一連のカキコミだ。07年4月上旬に日本のネット上で一時期話題になったが、

07年5月2日にスカパーの「桜チャンネル」の番組「報道ワイド日本」でも紹介され、ブログや掲示板でこの話題が増えていった。
オノさんが書いたとされるBBSにはアクセスできなかったが、翻訳が載っているブログを調べると、概ねこんなことが書かれていたという。

「日本国民は戦時中の慰安婦や売春婦の存在を否定していないが、拉致してきたり、セックスの奴隷にしたというのはフィクション。
業者や女衒が60年から70年前にやっていたことが、いつの間にか日本軍のせいになっている」
「日韓基本条約(1965年)で、日本は巨額の補助金と長期低金利の融資を行い、以後の賠償請求はしないことになっているのに、謝罪と賠償を今頃持ち出すのはおかしい」

「アメリカは戦後日本で暴行強姦を数千件も行い、吉原に慰安所を作るように命令したくせに今頃になって正義面して何を言っているのか」 これに反応してネットの掲示板には、

「拍手喝采しました。立派な大和撫子ここにありと嬉しくなりました」
などというカキコミが現れる。

「2ちゃんねる」にも07年5月8日にこれに関するスレッドが立ち、

「本当か、本当か、1時間泣いたぞ。たぶん新聞には出ないだろうが。オノヨーコ万歳」
「反戦、平和のオノヨーコだから社民党みたいな事を言い出すかと思えば流石世界のオノヨーコ、みずぽたんとはちょっと違う。GJ」
「ヨーコはやっぱり日本の誇り。社会的影響力あるし、嬉しいね」
という感激のカキコミが並んでいる。

「でっちあげ」説もカキコまれている
しかし、書いたのは「オノさんのニセモノ」説や、カキコミはもともと存在しない、
という「でっちあげ」説もカキコまれている。

ニセモノの根拠としてあげられているのは、投稿者の名前が「yoko ono」ではなく、「yoko lennon」になっていることだ。
『yoko lennon』という署名の仕方が過去にあまりなく、ネット上での「釣り」の疑いもある。

「なるほど。『yoko lennon』ってヤシ『イコール』オノヨーコ タソではないって事なんだNE!完全に『釣られて逝る』じゃまいか!」
「これデマだろ。オノヨーコはこんなこと絶対に言わない」
また、あるブログは「オノ・ヨーコ本人が日本擁護のコメントを書き込んでいるという怪情報を流してる人物がいます」と書いていて、
そのブログによるとその怪情報を流しているのは、先に紹介した「桜チャンネル」に関係ある人物なのだという。
オノさん本人が書いたのかどうか確かめようがないが、これを読んで溜飲を下げた人が少なからずいたことだけは確かなようだ。

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1936年のソウル、南大門通り 右側にはレートクレーム(化粧品の名前)と右側がキリンビールの看板

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1937年にソウルに開業した丁字屋デパート、その他に三越・平田・和信(韓国系)などの百貨店があった。
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何と韓国政府も認めた慰安婦を募集している新聞広告? 

これは真実の事であり、現実はもうこのような事はありえないと思いますが、すでに38年前、以前の韓国であり、現在は日本女性が沢山訪れる魅力的な韓国であり当然今の韓国政府は当時の女性の特別な職業に関しては認める事もありえないし、返答を拒む事でしょう!何故なら今の韓国は経済大国の仲間入りと果たし昔とは違うという事です。

私は日本を離れ28年経ちましたが、その間、アジアの人達(女性)と出会う事もあり、すべて日本軍国主義の時代の植民地支配をした国の人達ですが、たとえは、フィリピン人、中国人(2人)、ベトナム人、台湾人の方と民間レベルの友情があったと思います。それぞれの家庭へも夕食に呼ばれていった時などそれは彼女らの旦那さまは私を見て驚きの顔でしたが、やがて彼の妻(の友人は私)の話を聞きながら私を受け入れてくれる様子がわかりました。韓国の女性は日本で友人の紹介で2度お会いした事があるのみで家にまでは行っておりませんが...戦前の話は一度も出たことがありませんでした。

年齢にもよりますが彼らの心の中には絶対に忘れられない日本軍人が犯した罪(今はその様になってしまいますが、当時は先進国などヨーロッパやアメリカなどはアジアやミクロネシア、いや世界中の後進国に植民地として侵入?しており、そのやり方は日本のその方法と違う事が大きな事だと思いますが...日本と昔のドイツがいつも槍玉に上がりますが...

とにかく日本とお隣の一番近い外国 韓国は今では経済的にも日本と同格になりつつ、なっているので、本当に両政府間の山積みの問題の中でのやりとりは難しいと思いますが政治家の方は政治家として生きる事を選んだのですから先ずはスマートに心の中から何らかの解決策を探し持って行かれる事を願ってなりません。

民間レベルではとてもいい感じで進行しているので韓国人の書いた日本語新聞をご覧ください!

http://www.chosunonline.com/news/20100829000024

http://www.chosunonline.com/news/20100829000023




気分転換で スコルピオン Wind of change







posted by デコイ-Lover at 10:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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