ロンドンを基盤とする国際金融カルテルの目的は世界とその中に住む者達に対する植民地化である。 イスラエルも米国もその道具なのである。
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東の日本、西のドイツ。
東のヒロヒト、西のヒトラー。
東の東京大空襲、西のドレスデン爆撃。
昔からそうだった。
今でもそうなんだ。
何が?
日本=ドイツ
イギリス=アメリカ
これが新世界秩序という世界での役割。
源田実や小泉純一郎の父親、小泉純也がやったこと。
日本=ドイツ=イギリス=アメリカ
他にも大勢いるが。
所詮、新世界秩序の中のやらせ、八百長。
カーチス・ルメイ
西のドレスデンでホロコースト、東の東京でホロコースト。
それでも満足できない。
こいつ、マジで人類滅亡を願ってたみたい。

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ドレスデン爆撃
http://icke.seesaa.net/article/114128419.html

ドイツ-1945年2月13日、戦争は終わった。
ドイツは負けたのだ。
ドレスデンはソビエトの殺人やレイプを逃れた多数の人でいっぱいだった。
その非戦闘地区の美しい都市ドレスデンに、英米の爆撃機は何の警告もなく、軍事的な理由もなく、焼夷弾を3300トン以上も雨のように降らせた。
爆撃は巨大な炎の嵐となり、生きながら焼かれた人たちは50万人以上にのぼる。
これは、一回限りの虐殺では史上最大のものであった。
ドレスデンで虐殺された人の数は、広島と長崎を合算したものより多かった。
避難したドレスデン動物園の職員は、後に、自分が見捨ててきた象たちの身の毛もよだつ叫び声について書いている。
ドレスデン。
忘れてはならない。

An Undisputed Holocaust
文句なしのホロコースト、ドレスデンの英文記事です。


東京大空襲
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http://susumuito.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7486.html より転載

この「焼夷弾による焼き打ち=焼き殺し作戦」の立案者、
この攻撃作戦での最高責任者がカーチス・E・ルメイだった。

そして戦後、ルメイは「自衛隊の育成に貢献した」として、
1964年、あろうことか当時の政府から
「勲一等旭日大綬章を授与されている」のだ。

自民党の源田実や小泉純一郎の父親、小泉純也の働きかけが
大きかったとされるが、
さすがに昭和天皇はルメイとの面会を拒み、
佐藤栄作首相ですら面会を拒否し、自衛隊幹部からルメイに
勲章が渡されたというが、そういう状況の中であっても、
ではなぜ結局、日本政府として「ごほうび」をあげたのだろうか?
全く理解できない。

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カーチス・ルメイの動画
人類滅亡してたかも!?軍人カーチス・ルメイにまつわる戦争の怖い話
http://nekomeshi2525.blog25.fc2.com/blog-entry-772.html


[2011/08/31 21:22] | 白人は残虐な人種である
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原文はhttp://home.arcor.de/kriegsgefangene/belgium/belgium.html


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ベルギーでは、経済を再建するために、特に労働者、鉱山労働者を必要としていた。
そこで、彼らはその仕事のためにドイツ人捕虜を使用するというアイディアを得た。
ベルギー政府は、英国に求めた。
英国は同意し、16.000人のプロのドイツの鉱山労働者を1945年10月までベルギーに移送した。
ベルギーの鉱山で囚人はかなり良い仕事を行なったので、ベルギー政府はより多くの労働者を求めることにした。

このためベルギー政府はアメリカに30.000人の捕虜を求めた。
アメリカも同意した。
しかし、移送したのは女性や50歳以上の男性や労働に適さない男性であった。
3.000人の男性しか労働に適さなかったので、アメリカはイタリア、米国およびその他の西ヨーロッパ諸国からの捕虜を移した。
1945年9月の終わりに、30.000人の男性のベルギー移送が完了したが、11.000人は鉱山での労働に適さなかった。

そこでベルギー政府は15.000人の労働者を再び英国に求めた。
またも英国は同意した。

1945年11月にベルギーに拘留されていた捕虜は64.021人だった。
52.150人は鉱山で1.617人は林業で働いた。
1.560人は地雷撤去として働いた。

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[2011/08/31 20:48] | 白人は残虐な人種である
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アイゼンハワーの狂気
徒然なるままにエッSAY!
国内外情勢、近現代史、国のあり方を考える  日本人としての誇りのために!より
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/29455651.html#


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◎ドイツ人捕虜が連合軍(米・英・仏)によって60万人も虐待死させられたことをご存知ですか?

アイゼンハワーの狂気

1950年、戦後5年も経てからドイツのアデナウワー首相は議会で、
140万7千人のドイツ人捕虜が今も連合軍捕虜収容所に入れられているという声明を出した。
これに対する米・英・仏の回答は100万人以上もの行方不明者はソ連の強制収容所で死亡しているか、
さもなければ監禁されている筈だというものであった。
西側の人間はソ連ならやりかねないとこれを素直に受け取った。

しかしこれはとんでもないウソだったのである。

敗戦国ドイツの将兵が収容された米仏管理下の捕虜収容所は
ドイツ、フランス等を合わせて1800箇所、
米軍捕虜収容所内の全戦死者は1945年9月末まで60万1533人であると見られている。

捕虜が全員釈放される46年までには死者数が更に増えているものと見られる。
(「捕虜・武装解除敵軍」の統計資料の中の「OTHER LOSSES」の項目を分析調査した結果) 

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*******************************「アメリカの封印された汚名」から引用

●米軍捕虜収容所の実態

一九四五年四月、西部戦線で降伏した百万人以上のドイツ兵の大多数はライン河畔の「捕虜仮収容所」に集められた。
しかし収容所とは名ばかりで、何もない大地に鉄条網を張り巡らしただけのところだった。
四月の寒空の下、捕虜たちはテントも食料も与えられず昼夜、野外で過ごさなくてはならなかった。

次に紹介する収容所内の状況は、バック自身の捕虜体験者へのインタビューに基づく。

夜、暗い穴に横たわる男たちの上にサーチライトのまぶしい光が投げこまれる。
彼らは自分たちの頭上、サーチライトに照らされた穴と穴の間の細い道に立っている黒ずんだ男たちの姿を不安気に眺める。
この男たちは水をもらいにいくために一列に並び、
すべりやすい土手道を一晩中足を引きずりながらのろのろ歩いていた。

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☆カール・フォン・ルティヒョーの場合

カール・フォン・ルティヒョーは戦闘で捕まったのではない。
家に入ってきたアメリカ軍に進んで降伏したのだ。
彼は長息いで療養中だった。
降伏しなければ地下抵抗をたくらんでいると告発されるかもしれないと思ったのである。

「私たちはほとんど食べ物もなく、人で埋まった鉄条網の収容所でずっと野外暮らしをしていた」

彼はドイツ・ライン河畔のレマーゲン近郊にあるクリップ収容所について語った。

「便所と言っても、鉄条網の柵の隣の掘割に丸太を渡しただけだった。
眠るために私たちができることと言えば、地面に穴を掘り、寒さをしのぐために捕虜同士しがみつくぐらいだった。
収容所は鮨詰め状態だった。
病気になった捕虜は地面に排便しなくてはならなかった。
しばらくすると、多くの捕虜がひどく衰弱し、まずズボンを脱ぐことができなくなった。
だから、衣服は病原菌だらけだった。
私たちが歩いたり、座ったり、横たわっている泥も病原菌で一杯だった。

当初は水も与えられず雨だけが頼りだった。
二週間後に貯水塔から少し水をもらうことができた。
しかしほとんどの者が水を運ぶことができず、数時間、時には夜通し行列してやっと数ロ飲めるだけだった。
穴を掘って地面に投げ上げられた軟らかい土の上を、穴に落ちないように歩かなくてはならなかった。
だからよく穴に落ちて、なかなか這い上がることができなかった。

その春、ライン地方はほとんど雨降りだった。
半分以上が雨だった。
そして半分以上の日は、まったく食料を与えられなかった。
食料は少量のK号携帯食料(第二次世界大戦中に用いられた非常食、三箱で一日分)である。
私が与えられる量はその箱から判断してな米兵たちの十分の一であることが分かった。
米軍の標準の食事のおそらく五パーセントだ。

私は米軍収容所の所長にジュネーヴ条約違反ではないかと文句を言ったが、
『条約など忘れてしまえ、ここではお前たちに権利はない』と言われただけだった。
数日も経たないうちに、健康を害した捕虜が死んでいった。
収容所の門の方に多くの死体が引きずられていくのが見えた。
死体は門のところで、トラックに互い違いになるよう無造作に投げ込まれ運び去られた」

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☆ゲオルク・ヴァイスの場合

戦車の修理を担当していたゲオルク・ヴァイスはぎっしりと捕虜の詰め込まれたラインの収容所にいた。

「きちんと横になることもできなかった。
お互い体がくっついていたので、一晩中体を起こしていなければならなかった。
だが、水がないのが一番堪えた。
三日半の間、水は一滴も与えられなった。
私たちはよく自分の尿を飲んだ。
ひどい味だったが、ほかに何ができたろう。
捕虜のなかには身を屈めて、地面の湿り気を舐めていたものもいた。
やっと少し水が飲めた時には、私はひどく衰弱していて立つこともできなかった。
水がなければ死んでいたと思う。
ライン川は鉄条網のすぐ側を流れていたのに。

看守は鉄線ごしに水や煙草を売っていた。
煙草ひとつが九百マルク。
何千人もの人が死んでいくのを見た。
看守はトラックに死体を乗せ運び去っていった」 

☆ウォルフガング・イフの場合

ウォルフガング・イフは、ラインベルグの推定一万人ほどの収容所で毎日三十人から四十人の死体を引きずり出していた。彼は埋葬要員の一人で、収容所でどんなことが行われていたかしっかり把握できる立場にいた。

彼は収容所の門まで死体を引きずる手助けをしていたので余分に食料を与えられていた。
埋葬要員は、いくつかある大きな鋼鉄製の車庫に一輪車で死体を運び込んでいた。
そこでイフたちのチームは死体から衣服を剥がし、
軍人が首からかけているアルミニウムの認識票をポキリと半分に折り、
死体を広げて十五から二十体積み重ねて、
積んだ死体が1メートルほどの高さになると、生石灰をシャベルで十回かけた。
それからアメリカ人のバッグのなかに死体の所持品を入れて立ち去った。

死体のなかには四月の凍えるような夜、しもやけに苦しんだ後、壊疽になって亡くなった者もいた。
あまりに衰弱が激しく便所の溝に渡した丸太にしがみつくことができずに落ちて、溺れ死んだ者もいる
(そのなかには十四歳の少年もいた)

時には一日二百人もの死者がでた。
同規模の収容所で、イフは一日六十から七十の死体が引きずり出されるのを目撃した。

「トラックが動き出すとこの寂しい貨物も揺れ動いた。
ほんとうに背筋の凍る光景だった」
とイフは語る。

捕虜は死体がどう始末されるのか知らされていなかったが、
ラインベルグにおいて五〇年代にドイツの建設作業員が、
そして八0年代には墓掘人が棺も墓標もない共同墓地で、
第二次世界大戦中のドイツ軍のアルミニウム製認識票とともに、
もはや姿をとどめぬ遺骨を発見している。

三百メートル四方に三万人 

長い間、ラインベルグの収容所で問題になっていたのは人間が鮨詰めにされていることだった。
約三百メートル四方の囲いには、当初一万人の捕虜を収容することになっていたが、
三万人もの人間が押し込まれた。

一人につき三平方メートルの空間しかなかった。

捕虜のテレンは、有刺鉄線越しに息子に一日三百三十人から七百七十人が死んでいるとささやいた。
その時、収容所には十万から十二万人の捕虜が収容されていた。

ラインベルグの牧師がケルンの大司教と連れだって、米軍の収容所長に抗議に行った。
大司教は法王ピウス七世に直接手紙を書いたという噂だった。
しかし、ヒトラーの死の収容所にも平然としていた法王からは、相変わらず今まで通りなんの音沙汰もなかった。

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☆ハインツ・Tの場合

ハインツ・T(匿名を条件にインタビューに応じてくれた)がまだ十八歳になったばかりの四月十八日、
入院中の病棟に米軍が入ってきた。
患者は全員パート・クロイツナッハの収容所に連れて行かれた。
何万という人と一緒にパート・クロイツナッハに移されたとき、
彼が身につけているものといえば靴とシャツと半ズボンだけだった。
収容所は、狭い田舎道と西へ続く低い山並みの間の長い平野に広がっていた。
ここで彼は(強制労働でフランスに引き渡されるまでの)数週間、
屋根もないところで、食も水もほんのわずかしか与えられず
郵便など自分の状況を知らせる手段さえ奪われて過ごした。

「アメリカ人にはほんとうに腹が立った」とハインツ・Tは開ロー番ロにした。
収容所に樹木があったとき、捕虜のなかに大技を切って火を燃やしたものがいた。
看守は火を消すように命令した。
多くの収容所では、シェルター用に地面に穴を掘ることも禁じられていた。

「食べることができたのは草だけだった」 
捕虜のなかにはクルミの木に登って、その葉をたばこや食料にしているものもいた。

ハインツは最年少の捕虜ではなかった。
六歳ぐらいの子供、妊婦、六十歳以上の老人も収容所の捕虜に含まれていた。
収容所の記録はほとんど廃棄されているので、どれくらいの民間人が収容されていたのか知る者はない。
しかしフランスの報告によると、
アメリカがおそらく労働力としてフランスに引き渡した捕虜約十万人のなかに、
三万二千六百四十人の女性、子供、老人がいたことが明らかになっている。
バート・クロイツナッハの報告を作成したヴァレンタイン・バーンズ中佐は
四月二十二日、「A-3収容所で女性捕虜が女子を出産した」と記している。

一九五〇年、西ドイツ首相アデナウワーは行方不明者には兵士ばかりでなく、
十九万人の民間人も含まれていると議会で公表した。
この行方不明者のなかには米軍収容所の捕虜になったものも多かったはずである。

*********************************ここまで引用

● 誰が捕虜の虐待を命じたか

その人の名はドワイト・D・アイゼンハワー英米軍総司令官(後の34代アメリカ合衆国大統領)である。
当初のドイツ占領政策はモーゲンソー・プランでドイツの再起を防止し、その産業基盤を根絶やしにすることを狙った。
この推進者はまさにアイゼンハワーであった。

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● なぜアイゼンハワーはドイツを目の敵にしたか

イギリスとカナダの軍隊がオランダに進軍しているとき、
ドイツ戦線の背後に閉じ込められる格好になったオランダの民間人が飢餓に陥る恐れが出てきた。
アイゼンハワーはドイツに対してオランダに食料を供給するよう求めたことがある。
無視されたことにより「私はコケにされた! 
ドイツに仕返しをしてやると怒ったという。
強制収容所で行っている身の毛もよだつ話にドイツ風の自分の名前を恥じるようになったという。

● この捕虜虐待がなぜ外部に漏れなかったか

・全マスコミを支配下に置き検閲をした。

・ 米仏軍は死者の数を何十分の一にでっち上げた。
ドイツも支配者に対するヘツライからあえてインチキ数字を受け入れた

・ 後になってもこれを追求するとアメリカとウソを認めたドイツの敵になるのを避けた。
中国・韓国に対する日本の対応と同じである

・ 関係者が公表しようとするとペンタゴンが圧力をかけて潰しにかかる。


Saturday Night 1989年9月号英文記事
http://www.whale.to/b/bacque1.html

In 'Eisenhower's Death Camps': A U.S. Prison Guard's Story By Martin Brech
アメリカ監視兵が書いたアイゼンハワーの死のキャンプ

http://www.scribd.com/doc/14020/In-Eisenhowers-Death-Camps-



[2011/08/31 20:35] | 白人は残虐な人種である
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徒然なるままにエッSAY!より
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◎リンドバーグの衝撃証言

チャールズ・A・リンドバーグ(1902~74年)
アメリカの飛行家。
1927年5月、二ューョークーパリ間を愛機「セントルイスの魂」号で33時間30分かけて飛び、
世界初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功した。


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書籍名 孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記 上下
著者名 チャールズ・リンドバーグ
出版社 学研M文庫

絶版となっているチヤールズ・A・リンドバーグ著の
『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』(新潮社、1974年)がある。
リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋◇下巻「戦時下の南太平洋にて」
(1944年4月~1944年9月)から

*******************************************************

ライフ誌に載った日本人の頭蓋骨のお土産*6月21日水曜日

 日本兵士殺害に関する将軍の話

一数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、
もう2年以上も太平洋地域で、戦闘部隊と行を共にしながら、
ついぞ実戦に参加した経験がなく
帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。
軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。…

「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。 無抵抗だ」
「ちえっ、戦争だぜ。 野郎の殺し方を教えてやらあ」

偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。
煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、
喉元が 「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」 のだった。

*6月26日月曜日

小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。
日本軍兵士の死体から取ったものだという。
その一枚は記念品(スーベニア)として10ポンド(33ドル)の値打があると、ある将校は説明した。
日本軍将校の軍刀を所持する男は250ポンドなら譲ってもよいと言った。

●談たまたま捕虜のこと、

日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。
「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。
「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」

「*****では2千人ぐらい捕虜にした。
しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった。
残りの連中にはちょっとした出来事があった。

もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、
投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」
と、別の将校が調子を合わせる

*六月二十八日水曜日

第475飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。
話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。
わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。
敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、
敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。

ある議論の最中に私は意見を述べた。

日本兵が何をしでかそうと、
われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、
また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。

「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。
しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、
将校の一人が言い訳がましく言った。

*7月24日月曜日

丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。
そこには一人の日本軍将校と、
10人か12人の日本軍兵士の死体が、
切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で
四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。

…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。

ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、
他の場所では遺体に首が無かった。
なかには四肢がバラバラになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。

そして同行の将校が言ったように、
「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。
つまり、戦利品として金歯を悉くもぎとったというのである。

洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。
山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。
穴の底には5入か6入の日本兵の死体が横たわり、
わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。

同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
敵を殺す、これは理解できる。
戦争の欠くべからざる要素だ。
敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。

しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、
敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、
残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。

*8月6日日曜日

「たとえば第42連隊だ。
連中は捕虜を取らないことにしている。 兵どもはそれを自慢にしているのだ」

「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。
ところが、捕虜1名に付きシドニーヘ2週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。
お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。
兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」


別冊歴史読本21孤島の戦闘玉砕戦

GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた 小学館文庫

残り半分を続いてどうぞ

「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を知ってるかね?
あるパイロントなど、僕にこう言ったものだ。
捕虜を機上から山中に突き落し、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。
わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」

*8月14日月曜日

戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的に定期的なパトロールを実施し、
相当数の“ニップス”を殺したと将校たちは語る。
そのリーダー格は管制班に所属するチェロキー・インディアンの混血であった。

「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの人腿骨を持ち帰り、
それでペンフォルダーとかペーパー・ナイフとかいったような品を造っている」。

*8月30日水曜日
 …タラワは多くの血が流された戦場にしては驚くほど小さな島だ。
同行の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、
海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。

激戦であった。
わが方も将兵の損害が甚大であった。

敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。
捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。
英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、
あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。

*9月9日土曜日

話題は何となくロイ島の侵攻作戦と占領当時のことに及ぶ。

将校の話によれば、穴の中の遺体を「ブルドーザーにかける」前に、
何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、
ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。
金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。

その将校はさらに、耳や鼻を切り落されている日本軍の戦死体を幾つか見たとも言った。

「兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、
乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。
日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。
頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、
悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」。

行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ。

*9月14日木曜日
 
通関を済ませ、車でエワの基地に向った
(税関吏は荷物の中に人骨を人れていないかと質問した。
日本兵の遺骨をスーベニアとして持ち帰る者が数多く発見されたので、
相手構わずにこのような質問をせねばならないのだと言う。
税関吏はまた、手荷物の中にまだ「緑色をしている」日本兵の頭蓋骨を二個も忍ばせていた男を発見したことがあるとも言った)。

*****************************リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋  

[2011/08/31 19:37] | 白人は残虐な人種である
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・人間篇 11
 マキアヴェッリ語録 塩野七生

同じ地方に生まれた人々は、時代が変わろうとも、同じような気質を持ち続けるものである。
識者たちは、人間のほんとうの姿を知りたいと思えば、過去に眼を向けよ、と言っている。
人間はなぜか、常に同じような情熱に駆られるものであり、
結果もまた同じように終わるものだからである。
 
とはいえ、このように時代による変化は見られないとしても、地方による変化はあるのだ。
それは、地方によって、生活態度とか教育のしかたとかが違うからである。
だからこそ、過去を見ながら未来を予測したいと思えば、その地方の住民が長期にわたって、
どのような習慣をもち、どのような長所と短所を持っていたかを調べればよい。

要するに昔ケチであれば今もケチだし、狡猾ならば、いつになっても狡猾なのである。



これ 見逃すな
http://miko.iza.ne.jp/blog/entry/131844/ より転載

ドクロの寄贈者にお礼の手紙を書こうとしている少女

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ライフ・マガジン、1944年5月22日、34f頁。

「今週の写真、
背の高いハンサムな海軍中尉が
アリゾナ州フェニックスの軍需工場労働者ナタリー・ニッカーソン(20歳)に
2年前にお別れを言ったとき、彼はジャップを約束した。
先週、ナタリーは頭骸骨を受け取った。
そこには彼女の中尉とその友人13名の署名があり、
『これは良いジャップです。
ニューギニアの海岸で拾い上げた死んだジャップのものです』
との書付があった。
ナタリーはこのプレゼントに驚いて、それをTojoと名づけた。
軍当局は、この種のことに強く反対している。」 


正統史観年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.htmlより

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日本兵の頭部で遊ぶ米軍マクファーソン中尉。
(1944年4月30日、ニューギニア、アメリカ海軍魚雷艇341甲板にて)

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[2011/08/31 19:30] | 白人は残虐な人種である
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さてはてメモ帳 Imagine & Think!
http://satehate.exblog.jp/14312467 より

飢餓は古代の武器であり、そしてそれは大英帝国によって
その植民地をコントロールするために激しく使用された。

ジョージ・モンビオットはガーディアン紙で書いている:
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彼の2001年に出版された本『後期ビクトリア朝のホロコーストの中で、
マイク・デイビスは、1200万から2900万のインド人たちを殺した飢饉の物語を語っている。

これらの人々は、彼が実証するように、英国の国家政策によって殺害された。
一つのエルニーニョによる干ばつが、1876年デカン高原の農民を困窮させていたとき、
インドでは米と小麦の純剰余があった。
しかし、総督、リットン卿は、何ものもそのイングランドへの輸出を妨げるべきではないと主張した。

1877年と1878年、飢饉の真っ最中に、
穀物商人たちは6.4億ポンドを記録する小麦の輸出を行った。

その農民たちが飢え始めるにつれて、
担当官たちは「あらゆる可能な方法で救済の仕事を阻むこと」を命じられた。

1877年のその反慈善的貢献法は、
「穀物価格の市場での固定化によって潜在的に妨げられた個人的な救済寄付を、投獄の苦痛によって、」禁止した。

ほとんどの地方で許可された唯一の救済は重労働で、
そのことから飢餓の進んだ状態にあるものは誰であれ追い払われた。

その労働収容所では、労働者たちはブヘンバルトの被収容者よりも少ない食糧を与えられた。
1877年、そのキャンプでの死亡数は、年間死亡率94%に匹敵した。

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[2011/08/31 19:17] | 白人は残虐な人種である
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さてはてメモ帳
書籍紹介:藤永茂「闇の奥の奥」:今後、中国を支配する者達の正体 by オルタより抜粋
http://satehate.exblog.jp/8816674

かつてベルギー領であったアフリカのコンゴでは、
ベルギー国王レオポルト2世の経営する無数の大規模ゴム農園で、
黒人が凄まじい奴隷労働を強制された。

この奴隷農園を経営していた実働部隊が、
ロスチャイルド一族とその盟友・銀行ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックである。

黒人には1日に採集するゴムの量が1人1人割り当てられた。
1日でもその割り当てノルマが達成できないと、
ロスチャイルドはその黒人奴隷の手首をオノで切断し、制裁を加えた。
相手が少年であっても容赦はされなかった。
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本書に掲載されている写真が残されている事は、
「写真という技術が登場し、
しかもアフリカの奥地にまで持ち込める携帯用のカメラが開発・販売されるようになったつい近年まで、
ロスチャイルドによる黒人奴隷の手首切断が実行されていた」事実を示す。

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ロスチャイルドは、逆らった黒人、病気・ケガで働けなくなった黒人を射殺する事を農園の監督人に命じた。
しかしライフル銃の弾丸を節約するために、
殺害に使用した弾丸の数と同一の数の黒人の手首を持ち帰る事を監督人に要求した。
殺害された黒人1名につき弾丸1個しか使用してはならない、という弾丸の節約命令が出されていた。

黒人の命より、弾丸1個の方が「もったいない」という事である。

一方、監督人は木の棒等で黒人を撲殺し、弾丸を未使用のまま残し、
「黒人が逆らったので銃殺した」とウソの報告を行い、
弾丸を銃器販売店に「横流しし」、
その利益を「小遣い」として着服する事が常態化していた。

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真実を語るものが絞首刑になり、
デマを「タレ流す」者だけが「大作家」、「巨匠」になる。
現代世界と芸術界は、ニセ者だけが表通りを歩く事の出来る肥溜めと化している。


[2011/08/31 19:09] | 白人は残虐な人種である
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