南北朝時代、九州の有力な南朝勢力だった菊池武光と阿蘇惟直に対し、後醍醐天皇はそれら諸勢力をまとめる存在として懐良親王を下向させ、征西将軍に任命した。天授4年(1379)有馬隆泰は親王に味方して兵を挙げ、この城を築城して籠り、鎮西探題今川了俊の大軍を退けたという。ただ、有馬氏の室町時代以前の動向がはっきりとせず、「澄」や「純」といった通字も使われていない為、隆泰が有馬氏のどの系統の人物にあたるのかや、誰に比定できるのかなどはちょっと判らなかった。
戦国時代には、佐賀を本拠とする龍造寺氏と島原半島を支配する有馬氏が領境の城として争奪したが、詳しい事跡はよく判らない。天正15年(1587)の九州征伐後、諫早に封じられた龍造寺家晴が竹崎も掌握し、石垣を備えた近世的な防御設備を整えて本拠諫早城の支城として機能させたが、いつの頃からか廃城となった。それは、恐らく江戸時代の初期か元和元年(1615)の一国一城令の頃と思われる。そして、寛永14年(1637)から翌年にかけて勃発した島原の乱の後には、その影響を恐れた幕府の命で他の九州の古城と同様に破壊された。
竹崎島は、竹崎港を火口とする古火山だが、その程よい大きさや有明海に突き出た立地を考えると、竹崎城が水陸両方の拠点として重要視されたとは言え、海上拠点としてより強い機能を持っていたと思われる。龍造寺家は佐賀のデルタ地帯を本拠とし、有馬家は原城などの海城を持つ家で、共に水軍兵力を擁していたと考えられることから、往時には両家の水軍が重要拠点として争奪したのは間違いないだろう。
現在は、雲仙や熊本まで見渡せる櫓の形をした展望台が建っている。この展望台の近くには特にそれらしい遺構は見当たらなかったが、他の場所には石垣の一部と空堀が残っているらしい。展望台の場所は、和銅2年(709)に行基によって開かれ、後には仁和寺の末寺として33もの寺坊が建ち並んだという観世音寺の拝み堂跡とされる所にあるので、もしかしたらかつての城地とは関係ないのかもしれないが、この展望台と同じように、竹崎城も観世音寺のかつての寺坊跡を城の郭として利用していたという可能性は高そうだ。 |