今どきゾンビは人間臭い

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「キツツキと雨」から。右は役所広司

 生きているしかばね、ゾンビ。腐りかかった体を引きずり、人を食う。そのイメージに異変が起こっている。映画やゲームで、おぞましく恐ろしい敵として描かれてきた彼らが、このところ妙に人間臭いのだ。ゾンビの進化? いや、むしろ人間のゾンビ化ですか。

■映画・ドラマ・マンガ…

 今月は時ならぬ「ゾンビ月間」になっている。映画は古泉智浩のゾンビマンガを元にした「ライフ・イズ・デッド」、小栗旬がゾンビ映画監督にふんする「キツツキと雨」、エロホラー「ゾンビアス」が封切られ、米国で大ヒット中のゾンビ大河ドラマ「ウォーキング・デッド」の日本語版DVDボックスと、コミック第2巻が発売された。

 ゾンビはブードゥー教由来の伝承で、ハイチから米国へもたらされたらしい。ただし、人を食う、かまれるとゾンビになる、頭を撃たないと止めることができない、などの「ゾンビ原則」を広めたのは、1968年に公開されたジョージ・A・ロメロ監督の映画「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」である。

 さらに同監督の「ゾンビ」(78年)のヒットとその後のホラー映画ブーム、日本製ゲームソフト「バイオハザード」(96年)のロングセラー化が、知能がなく、欲だけに駆られて、よろよろ歩く屍鬼(しき)のイメージを決定づけた。

 けれど、量的な爆発は最近のこと。『ゾンビ映画大事典』の編著者で「特殊書店タコシェ」の伊東美和(よしかず)店長は「映画化された『バイオ』の成功に、感染症の恐怖や終末感の拡大が加わって、4、5年前から急激に増えました」という。

■人間との境界、あいまいに

 前世紀のゾンビと異なり、21世紀の彼らは猛スピードで走ったり、道具を使ったり、動物を食べたりする。人間との境界は、あいまいもことしたものだ。

 コミック版「ウォーキング・デッド」2巻で、ゾンビだけでなく人間を殺すこともためらわなくなった主人公は「おれたちが、生きた屍(ウォーキング・デッド)なんだ」とうめく。

 現実の街を、ゾンビの格好をしてうろうろするイベント「ゾンビウオーク」も盛んになってきた。北米で発生し、世界に拡散。国内でも、昨年10月に札幌・大通公園で開催され、今年は東京でも試みられている。

 米文化に詳しい小澤英実(えいみ)東京学芸大准教授によると、米国におけるゾンビは、今や国民的怪物の座を狙おうかという勢い。

 「吸血鬼が欧州貴族なら、ゾンビは公民権運動以降の合衆国が生んだ、怪物界のマルチチュード(多様性を持つ群衆)。無力でバラバラな個性が、集まることで力を持つ。特に9・11以後は、言説の虚構性があらわになり、身体しかない『ゾンビとしての自分』のイメージが多くの人にしっくりくるようになった」

 昨年夏に出たS・G・ブラウンの『ぼくのゾンビ・ライフ』は、そんな気分を受け、ゾンビ視点から描かれた小説だ。「息する者(ブリーザーズ)」に虐待され続ける、声なきサバルタン(従属的社会集団)が、ゾンビとしての自己認識を打ち立てていく。

 火葬が専らで、同質性を求める我が日本において、ゾンビは、感染症への恐れや、コミュニケーション不全へのいらだちを帯びる。

 邦画「ライフ・イズ・デッド」の主人公はイケメンのニート。ゾンビ化することで友人や家族からも疎外されていく。原作者の古泉さんは「童貞にさえ優越感を持たせる、究極の非モテです」と解説する。「キツツキと雨」でも、役所広司演じる木こりが、心通わぬ無職の息子と、劇中のゾンビの子を重ねて涙ぐむ。

 マンガ誌「週刊少年チャンピオン」に連載中の、さと作「りびんぐでっど!」の主人公はゾンビ女子高生。家庭に居場所がなく、学校にも行けず、男子の家に転がり込んだ。幸薄いが、普通にいそう。顔色が不健康に過ぎ、ときどき首が取れたり内臓が出ちゃったりすることを除けば。(編集委員・鈴木繁)

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