未曽有の大規模災害をもたらした「3・11東日本大震災」への初動対応は、日本政府にとって、最も困難な時期だった。被災地救援のための自衛隊派遣、世界を震撼(しんかん)させた東京電力福島第1原発事故、過酷な移転生活を強いた周辺住民への避難指示、日本政府に疑念の目を向けた米国……。菅直人前首相はそのとき、何を考え、どう行動したのか。前首相の証言をもとに構成した。(肩書は当時、日本時間)
■3月11日 午後2時46分 地震発生
3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9・0の大地震が東日本を襲った。宮城県北部は震度7を記録。東北を中心に太平洋沿岸は津波にのまれた。緊急災害対策本部を設置した菅首相が最初に指示したのは「自衛隊は最大限の活動をすること」だった。
「(95年1月の)阪神大震災のとき、自衛隊の出動要請が遅れた。兵庫県知事から(派遣要請が)なかなか来なくて、出動できなかったことを覚えていたから、とにかく準備に入ってくれと言った。いろんな(被害)状況が想定できるので、北沢さん(俊美防衛相)に、最大限自衛隊を出動させてくれ、と話をした」
北沢防衛相は11日夜までに陸海空自衛隊約8400人の派遣態勢構築を指示。しかし、菅首相は12日朝の現地視察後には5万人、13日には10万人と目標を立て続けに引き上げ、防衛省・自衛隊を翻弄(ほんろう)する。
「10万人というのは最大限という意味だった。『そこまで無理だというなら考えるけど、目いっぱいで10万人、なんとかなりませんか』とお願いして。(防衛相は)えっ、という感じだったけれど実際に対応してくれた。被害が非常に大きいこともあったが、自衛隊は軍隊であると同時に危機管理では最も能力がある。だから無理を言った」
自衛隊に「無理を言った」という背景には、北沢防衛相との個人的な信頼関係もあった。
「昔から勝手に北沢さんは私の家庭教師だと言ってね。それで非常に助かった。総員二十何万人のうち10万人っていうのはすごいこと。(防衛任務など)本来業務をぎりぎり下げてやってくれたのは、北沢さんの存在が大きかった」
昨年11月、当時の仙谷由人官房長官は参院予算委員会で自衛隊を「暴力装置」と表現し、批判を浴びた。
「そういうイデオロギー的な発想はない。頼むときには一切ない。総理になってから自衛隊の基本的な式典には全部出ていた」
■3月11日 午後3時42分 外部電源喪失
午後3時半ごろ、東京電力福島第1原発に津波が襲来。同42分には外部電源が落ち、緊急炉心冷却装置が機能しなくなり、最悪の事態に陥る。菅政権は大地震と大津波による被災地救援と原発事故対応という二つの課題を抱える。緊急災害対策本部、原子力災害対策本部とも、本部長は菅首相だった。
「これが最初は大変だった。まずは地震、津波は救出、救命に全力を挙げなければならない。それでかなり早い段階から自衛隊に入ってもらった。一方、原発事故でも関係部局から人を集めた。この二つに同時に対応するのは大変だった」
救命作業を自衛隊に委ねた菅首相は、原発対応へのめり込んでいく。官邸地下の危機管理センター横の小部屋に海江田万里経済産業相、東電元副社長の武黒一郎フェロー、内閣府原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長らが参集した。
「最初に全電源が落ちて、冷却機能が停止し、原子力災害対策特別措置法第15条事象となった。冷却が止まることがどういうことか私には分かっていたから。『なんとしても冷却機能を復活できないか』と言ったら、『電源が落ちている。電源車が必要だ』となった」
東電と政府が総力を挙げて電源車を手配する。しかし、電源回復は思うように進まない。
「東電はもちろん自分でも必死になって(電源車を)探した。在日米軍基地からも借りた。それでヘリコプターで輸送しようにも重さと大きさを測ったら、とても無理。陸路で最初の1台が到着して、これで大丈夫かなと思ったら、(プラグが)合わなくてつなげない。それからもいろいろあって、電源は回復しない。目の前の事態収拾に追われる状態が、ずっと続いた」
■3月12日未明 格納容器異常
12日未明には1号機の格納容器の圧力が異常上昇していることを確認。菅氏によると、官邸では東電、原子力安全・保安院、原子力安全委員会が格納容器の弁を開放して、放射性物質を含む水蒸気を逃がし、圧力を下げるベントの必要性をそろって指摘した。
「ベントをすべきだと3者とも言った。じゃあ、それで行こうと。(東電に)伝えてくれ、伝えましたというやりとりだった。(しばらくして)『やったのか』と聞くと、『まだやってません』。『なぜできていないんだ、もう一回伝えてくれ』『伝えました』。官邸にいる東電の責任者はベントをやるべきだというが、実行されない。(自分の)目の前で何回も電話していたんだが……」
午前1時半には海江田経産相が東電にベント実施を正式に指示する。午前3時過ぎからは海江田経産相、寺坂信昭原子力安全・保安院長、小森明生東電常務が記者会見し、ベント実施方針を発表するが、状況は前進しなかった。菅首相は焦りを募らせていた。
「清水(正孝)社長がこう言ってますとか、現地の吉田(昌郎・福島第1原発)所長がこう言ってますという話がないんだ。(ベント実施を)判断する人がいないのか、技術的な問題があるのか、いろんな事情が当然ありうるわけだ。だが、官邸にいる東電の責任者は東電本店に伝えるだけなので、(現場とは)ワンクッションある。結局は、伝言ゲームだった」
■3月12日 午前7時過ぎ 現地視察
「伝言ゲーム」に業を煮やした菅首相は、「おれが現場と直接話す」と、枝野幸男官房長官らに伝え、現地視察を決意する。危機対応の初動で首相が官邸を離れることへの慎重論は官邸内にもあった。
「被災地を上空から見ておくのが一つ(目的として)あったが、とにかく(原発の)現場の人間と話をしようと計画を立てた。(官邸の指示が)現場に伝わっているのか、現場の正確な情報がこちらに伝わっていないんじゃないか、と思わせる状況が続いたから」
12日午前7時過ぎ、福島第1原発に陸上自衛隊ヘリコプターで降り立つと、現地本部がある免震重要棟に案内され、指揮をとる武藤栄副社長、吉田所長と向き合った。吉田所長は机の上に1号機の図面を広げ、ベントの手順と、困難な理由を説明した。二つの弁があり、手動で開放する必要があった。
「武藤さんは何も言わないので、吉田さんに『すぐにベントをやってください』と言ったら、『はい、わかりました』と言った。吉田さんはこちらが聞いたことにちゃんと答えてくれた。だから、東電がそれまでベントをどういう方針で進めていたかはわからない」
ベントの開始は、視察から約3時間後の12日午前10時17分。菅首相は後に「吉田所長と会えたことは、その後の対応策を進めるうえで非常によかった」と周辺に漏らし、ベント実施を妨げた要因が、高い放射線量と電源喪失による暗闇での作業だと知る。だが、1号機はその約5時間後、原子炉建屋内で水素爆発を起こす。
■3月12日 午後3時36分 1号機爆発
12日午後3時36分に1号機が水素爆発を起こしたとき、菅首相は官邸で与野党党首会談に臨んでいた。その最中にメモが差し入れられ、後にみんなの党の渡辺喜美代表は水素爆発の報告メモだったのではないかと追及した。
「あのときのメモは全然別のメモだった。水素爆発が起きたという東電からの報告は実際には1時間ぐらい来なかった。テレビでやっているのに、現場の状況が、すぐにはこっちに来ない」
爆発について東電から官邸に伝えられたのは50分後の午後4時26分。敷地境界での放射線量の異常が報告され、「1号機付近で午後3時40分ごろ白煙が上がっていることを確認した」という内容だった。
「後の解析では、水が十分入らなくて燃料棒が溶融し、水素が出たということだった。格納容器は窒素を入れているから爆発しないというが、当時は建屋まで水素が漏れることは、原発関係者も想定していなかった」
14日には3号機原子炉建屋でも水素爆発が起きる。原子力安全・保安院は6月6日、1号機の原子炉が大地震から約5時間後の11日午後8時ごろ、メルトダウン(炉心溶融)に至ったとする解析結果を公表した。爆発時点ですでにメルトダウンしていたことになる。
「(当時は)原子炉の正確な状況がわからず手探りだった。とにかくベントをして、注水してという作業を必死にやった。保安院はまだメルトダウンしていないということだったけれど、他からはメルトダウンしているのではないかという情報もたくさん入っていた」
■3月12日夕 避難指示拡大
原発事故は、周辺住民の大量避難という難題を政府に強いる。原子力安全委員会の防災対策指針は「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」(EPZ)として「原発から半径8~10キロ以内」を目安としているが、節目は12日未明、範囲を3キロ圏内から10キロ圏内に拡大したときだ。政府高官は「指示したベントが行われず、安全委の班目委員長が『容器が破裂する恐れがある』と発言し、急きょ範囲の拡大を決めた」と振り返る。
「10キロにしたときは夜中だった。周辺住民を避難させることができるのか、という問題があった。自衛隊にもずいぶん手伝ってもらって、一軒一軒逃がすわけだから。『ここまで逃げた方がいい』『ちゃんと逃がすことができるか』、その総合判断のなかで(安全委と)相談して決めていった」
だが、市町村への連絡にも手間取り、住民は大きな混乱に陥った。12日午後、1号機が水素爆発。政府はさらに避難指示範囲を20キロに拡大した。一方、17日未明、ルース駐日米大使は原発から50マイル(約80キロ)圏内に住む米国人に退避を勧告した。
「状況が把握できなかった。何が起きるかわからないなかで、かなり幅を持たせて拡大していった。格納容器が壊れたら、ものすごい量の放射性物質が出るわけだ。いろんな危険性、可能性を含めて考えた」
「生活を含めた受け入れ態勢をどうするかという問題があって、20キロという範囲を決めた。避難させるといっても、その方々を受け入れるところが必要となる。20キロはかなり広い範囲だ。原子炉によほど異常なことが起きても、一挙に何かが来る(放射性物質の飛散拡大)にはある程度の時間がかかるはずだから、安全だろうという判断だ」
避難指示決定の際、官邸は放射性物質の飛散に関するデータを使っていなかった。安全委が「緊急時迅速放射能影響予測システム」(SPEEDI)のデータを公表したのは3月23日。「なぜSPEEDIのデータを避難に活用しなかったのか」と批判が出た。
「この避難指示は、原子炉の状況が危ないからという観点から行った。SPEEDIは放射性物質の線量を予測するものだが、原子力安全委はあの段階では、SPEEDIを判断材料にしていなかったと聞いた」
■3月15日 午前3時 東電撤退意向
海江田経産相が「ちょっと相談があります」と連絡してきたのは、15日午前3時ごろだった、と菅氏は記憶している。電源車の手配、ベント実施、半径20キロ圏内の避難指示、計画停電……に続く新たな難題だった。
「海江田さんが『東電が第1原発から撤退したいという意向を持っている』というから、『えっ、本当なの?』と。撤退ってどうするんだ。第1原発だけで六つの原子炉があって、放っておいたら全部がメルトダウン起こして世界中に放射能が放出される。命に懸けても止めるしかないのに、放棄して逃げるなんて。一時的に線量が高いから退避するのは別だが、撤退するなんて考えられん。それで清水社長を呼んだ」
午前4時17分、清水社長が官邸を訪れた。
「『撤退したい意向があると聞いたけど、どうなんですか』と言ったら、はっきり言わない。撤退したいとも、まったく考えていないとも言わない。一時的に退避するようなしないような」
東電は「全面撤退」を否定する。だが、菅氏は「あとになってそういう話ではなかったと東電から聞こえてくるが、経産相を通じたのだから、本格的な提案だと当然思う」と反論する。会談で菅首相は政府と東電の統合連絡本部設置を提案し、午前5時35分、東京・内幸町の東電本店に乗り込む。勝俣恒久会長ら東電幹部をはじめ、約200人が出迎えた。菅氏によると、発言内容は次の通りだった。
<(放置すれば)すべての原子炉と使用済み核燃料プールが崩壊することになる。そうなれば日本の国が成り立たなくなる……>
<逃げても逃げ切れない。金がいくらかかっても構わない。日本がつぶれるかもしれないときに撤退はありえない。撤退したら、東電は必ずつぶれる……>
放射線の危険と隣り合わせの事故対処に、「覚悟を決めてくれ」と迫った菅首相。このときの思いを、こう振り返った。
「放射性物質がどんどん放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる。国際社会が当然、日本に何とかしろと圧力をかける。黙って指をくわえてみていて、日本が何もやらないなら、国際社会だって黙っていない。ものすごい危機感があった。(放置すれば)間違いなくチェルノブイリ事故どころじゃない量の放射性物質が出る。国際的な部隊がやってきて対応しなければいけなくなることだって十分にありえる、と思った」
菅首相は東電幹部を前に「60歳以上が現地に行けばいい。私はその覚悟でやる」とも言った。政府高官によると、菅首相は海江田経産相や側近議員らにも同様の発言をしている。
「この事故で命を懸けている。放射能障害の問題を考えたら、ある程度世代の高い人がやった方が相対的には影響が少ないとされている。実際、おれたちもやってもいいという原子力の専門家から連絡があったりした」
■3月17日朝 ヘリで放水
大震災から5日後の16日。2日前に原子炉建屋で水素爆発を起こした3号機、前日に火災が発生した4号機の使用済み核燃料プールの冷却が急務だった。菅首相が防衛省に打診したのが、地上と上空からの両面で放水する案だ。
「通常の注水ができなかったので、どうやって水を入れようかと。(爆発などで)上部が吹っ飛んでいるから、上から水が入る可能性があった。阪神大震災のときに上空から火事を消すのに(自衛隊ヘリを)使うかどうかの議論があったと本で読んだ記憶があった。阪神のときは1月で(被災者が)凍え死ぬという説があって火災用の放水は最後までしなかったが、それを北沢さんに『どうですか』と聞いたら、自衛隊内部で話し合ってくれて、初めてのことだが、やってみようとなった」
このころ、米国は日本の対応に疑念を持っていた。東日本大震災対応で米軍の被災地支援活動「トモダチ作戦」の米国務省タスクフォースの調整官を務めたケビン・メア氏(「沖縄の人々はゆすりの名人」などと発言したとされ、日本部長を更迭された直後に調整官に就任した)は、8月18日、東京都内での記者会見で、当時、米政府内で東京在住の米国民9万人や在日米軍を避難させることが検討されたが、自分が拒否したと明かしている。
「明示的に言われたわけではないが、(当時、米国からは)日本がどこまで(本気で)やるのか、という雰囲気が伝わってきた」
政府内では地上から消防車、上空からヘリコプターの2面作戦の放水を立案。地上の放射線量が高く、ヘリコプターを先行させた。17日朝、山火事を消火する要領で陸上自衛隊ヘリコプター2機から3号機めがけて海水を放水した。水蒸気爆発を招く危険性もあった「決死の作戦」といわれた。
「16日にいったんヘリが飛んだが、放射線量が高くてできなかった。なんとか(やってほしい)と(自衛隊に)言ったら、(折木良一)統合幕僚長が『国民を守る責任を負っている立場ですからやります』と言って、北沢さんがその雰囲気を感じて、2日目の17日は何があってもやるんだという覚悟で臨んだことは間違いない」
政府高官は、首相秘書官室の市場速報を映し出すモニターで東京株式市場の株価が下げ止まるのを見て、「自衛隊は経済にも影響力を持つようになったのか」と漏らした。菅首相とオバマ米大統領の電話協議は、その直後だった。
「偶然だったが、タイミングとしても(電話協議の)直前にやったから。(効果としては)どの程度注水されたかということはあるが、結果的には日本も全力を挙げて原発事故収束をやっていますというメッセージになったと思う。(放水を)自衛隊も警察も消防もやろう、となって。国内的にも象徴的な効果があった」
■3月17日夕 500ミリシーベルト提案
自衛隊がヘリ放水を実施した17日、防衛省に「線量限度の引き上げについて」と題する文書が届いた。政府は3日前、緊急作業時の被ばく線量の上限を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げたが、それをさらに国際放射線防護委員会(ICRP)の基準に合わせて倍の500ミリシーベルトに再度引き上げる内容だった。夕方、菅首相、北沢防衛相、海江田経産相、細川律夫厚生労働相らが会議を開く。
「外国の事例を含めてどうだろう、という一般的な議論はあった。外国の例だと志願した場合は上限なしとかルールがあるが、日本にはない。作業員の安全と事故収束を両立させなければいけないが、作業員が少なくて、線量が高ければ、250ミリシーベルト以上はいけないとなれば作業がはかどらないということが起きる」
一方、原発の事故現場では作業する東電も放射線との闘いが続いていた。
「(東電は)確かに板挟みになる。水素爆発で放射線量が高くなる。そのなかで人の体制を組まないといけない。作業する人の安全性は大事だけれども、一方で国が崩壊するかしないかという瀬戸際のときになんとしても事故を食い止めなければならない、という思いだった」
しかし、自衛隊を指揮する防衛省の反対が強く、250ミリシーベルトに引き上げたばかりだったため、見送られた。
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聞き手と構成は及川正也、尾中香尚里が担当しました。(グラフィック 加藤早織、編集・レイアウト 深町郁子)
毎日新聞 2011年9月7日 東京朝刊