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東日本大震災:原発警戒区域の部品会社「福島に残る」 「従業員裏切れぬ」不安抱え苦闘

福島第1原発事故後も福島県内にとどまり、操業を続けるフジモールド工業の工場=福島県相馬市で2012年2月22日、小林努撮影
福島第1原発事故後も福島県内にとどまり、操業を続けるフジモールド工業の工場=福島県相馬市で2012年2月22日、小林努撮影

 東日本大震災で被災した多くの企業は「事業の継続か断念か」の厳しい判断を迫られた。1年近くを経てもなお苦闘する現状を報告する。(3面に「大震災1年」)

 工場では、1000分の1ミリ単位のずれも見逃さないように顕微鏡をのぞきながら針のような工具で部品の位置を細かく調整する従業員らが黙々と働いていた。その光景は1年前と変わらない。だが、見慣れていた同僚の姿は消えた。線量計で放射線量を測ることも日課になった。

 福島第1原発から30キロ以上離れた福島県新地町と相馬市で、デジタルカメラのレンズ筒やその型枠の金型などを製造しているフジモールド工業。福島出身の岡田利一(としかつ)社長(61)が1974年に創業し、金属製が主流だったレンズ筒のプラスチック化に成功。デジカメの軽量・低価格化に貢献し、ペンタックスなど著名ブランドにこぞって使われてきた。

 1年前は福島第1原発から約7キロの富岡町にある本社が主力工場だった。だが、原発事故で状況は一変した。

 震災で富岡町の工場も激しい揺れに見舞われた。大きな被害はなかったが、原発事故を知り、従業員は町外に避難した。原発から20キロ圏の警戒区域内にあり、操業はできない。岡田社長は「せめて金型を持ち出せば生産はできる」と、子会社のある新地町までトラックで金型を運び、新地町の小さな工場で何とか操業を続けた。

 金型は県の放射線検査をクリアしたが、風評被害で取引停止や返品が相次いだ。事故前の売上高は年20億円以上あったが、事故後は4割近くも減り、創業以来の赤字に転落した。中国など海外に5工場があり、「生産をすべて海外工場に移すか、それとも事業そのものをやめるか」。事故の収束が見えない中、岡田社長は悩んだ。

 富岡町で働いていた約100人の従業員に「福島に残る」と告げたのは昨年6月。事業をやめても海外に移っても従業員は全員解雇せざるをえない。「事故で苦しい時についてきてくれた従業員を裏切れない」と福島に踏みとどまることを決意した。「経営が厳しかった創業直後に地元の取引先などが支えてくれた」ことも決断を後押しした。従業員には「残れる人は残ってほしい」と呼びかけた。

 ただ、「家族と相談する時間がほしい」と態度を決めかねた従業員も少なくなく、4カ月後の昨年10月にようやく全員の意思が固まった。約30人は「放射線の子供への影響が心配」などと職場を去った。約70人が残り、その一人の男性従業員(38)は「取引先が『風評被害に負けるな』と励ましてくれた」と語る。福島第1原発が立地する双葉町に自宅があるが、今は相馬市の仮設住宅から通う。

 新地町の工場は手狭なため、相馬市が探してくれた空き工場に1月から生産を移し始めた。だが、生産量は回復せず、政府が「収束」を宣言した原発事故への不安も消えない。岡田社長は、福島に残った決断について「今も迷路にいるようなもの」と複雑な胸中を打ち明けた。ただ、「弱音を吐いたら迷路から抜け出せない。自分の力ではい上がりたい」と自らに言い聞かせるように語った。【種市房子】

毎日新聞 2012年2月27日 東京朝刊

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