「一億人の英文法」。本屋さんに行ったら、ベストセラーの棚にあって驚きました。そこって「ジョブス」だの「采配」だのが置いてある棚だから。「ありがたいなぁ」は当然の感想ですが、同時に「学校文法ではないまともな文法を必要としてきた方はたくさんいるのだなぁ。今まで僕は何も貢献できていなかったのだな」と我が身の拙さを反省していました。ですが50年以上動かなかった、学校英文法がやっと読者のみなさんのご賛同で改善への道を辿り始めたと感じています。そして、それは「thinkの後ろは名詞節なのです」と理由の定かでないご神託が限りなく並んでいる学校文法を、学習者の手に取り戻す作業でもあると考えています。
さて、私がツイッターに「わけのわからない批判をされた」と書いたことを評者がお読みになったようなので、少し思うところを書いておきましょう。けっこう見てるんだね、ついった。まいった。はは。
Amazon
私が「わけがわからない」と書いたのは、まず「書評」は読者が「本の内容」の是非を判断する場所だからです。この書評には「一億人」の内容と、他の人に当てたコメント内容が混在しています。本の評価は本で述べられたことだけに関して行うべきなのは自明のこと。まして私のコメントは、学校文法の不備のせいで悩んでいる方に「学校文法のことば」で申し上げたコメントであることは明らかですので、これでは書評の体を成していません。
次に、この評者はしきりに「理解不足かも」「誤解かも」と書いておられますが、自分の理解不足の可能性を十分に認識しながら本の評価をしようとする態度は、私には理解できません。本の内容に疑義を惹起するような、今般のケースではさらにそう感じます。私は滅多に否定的な書評は書きません。本の執筆には応分の努力や苦しみが伴います。自分の誤った理解がその信憑性を傷つけ他人の努力を無にする可能性を恐れるのです。本の内容に関して作者よりも明晰な理解をしている自信があり、且つそれがその他の人の利益になる、そうした場合にのみ、私は自分に否定的書評を許します。まぁ文法関連の書評を私に依頼するのはパンドラの箱を開けるようなものだから、そもそも誰からも依頼は来ないんだけどね。
以上の点を踏まえれば私の「わけがわからない」という「つぶやき」は十分理解していただけると思います。
不十分な理解に基づいた「リビュー」に、私がリプライする必要はまるで感じませんし、親切と思って誤解を解く作業があだとなる事態にもうんざりですが、何が誤解かを簡単に示しておきます。
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ここから先は「一億人の英文法」の読者の方々は読む必要はありません。学校文法的バイアスのかかった疑問に詳しく答えているだけのことですから。安心して学習をお進めくださいね。
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(1) My wife's beautiful.
評者はbeautifulの機能を僕が「説明」とすることを、「矛盾」と呼びます。それは私が(読者に対するコメントの中で)制限関係節という後ろ配置の語句に「指示物をnarrow downする働き」を与えたことに由来します。この文は「narrow downしていない」という理屈ですね。そりゃそうだよ。当然。ただね、よく説明を読んでいただければ書いてあることなのですが、私は「説明=narrow down」としているわけではありません。コメントの中にも「「指示物の制限」は説明修飾が行われる典型的なケース」とし、読み間違えがないように同じ内容をもう一度繰り返しています。narrow downは「典型的」に過ぎず他の可能性を除外しているわけではありません。「説明」は上の「僕の家内はね....(美しいんだよ)」という叙述的な説明もあれば、指示物を制限するように働く説明もある。単にそれだけのことです。名詞句内部(あるいはα句内部)の説明は後者。主語という「文のテーマ」に関する説明は前者、と考えることも出来ますが、それは不必要だと判断しています。「説明」という日常言語はどちらにも十分常識的に適応でき、またそれがネイティブの語感だからです。どこにも「無理」も「矛盾」もありません。理解がその程度なら、こうした強いことばは厳に慎むべきかと思います。
(2) 「イェスペルセンという文法学者があげている例ですが、The industrious japanese will conquer log run.という英文にはA日本国民は勤勉だから勝利を得るだろう。B日本国民のうち勤勉な人々が勝利を得るだろう。の二つの意味があるそうです」
ここから評者は「大西先生の「説明」「限定」の定義では矛盾や無理が生じるように思えるのです。他にもよく分からないところが色々ありましたが、長くなるので書きません」という結論に至っています。まぁ至るのは勝手なんだけど。もちろんこの文、正しくは
The industrious Japanese will conquer in the long run.
のことかと思いますが、こちらの誤解は私の定義に起因するものではありません。実は、この例は私の説明の矛盾や無理を証明するモノではなく、むしろサポートする例なのですが、一見反例に見えるのは(もしイェスペルセンの説明がこの限りであるとすれば)、このデンマーク人の不手際です。
まずここの名詞を固有名詞ではなく、一般名詞---たとえばguys に変えてみましょうか。するとBの解釈しか生き残りません。正しく「限定」解釈です。「日本人は勤勉だから」と叙述的解釈が可能なように見えるのは、固有名詞の場合に限られています。このコンビネーションでは、たとえばhardworking Germans, stingy Scots, efficient Swiss(まぁこうしたステレオタイプは私の好むところではありませんが)などさまざまな例を作り出すことが可能です。さてこうした例を「日本人は勤勉だから」などと、叙述的解釈と等価だと考えるとしたなら、語感鈍(にぶ)すぎ。だから僕はツイッターで「イェスペルセンの尻ぬぐいをする必要もあるまい」と書いたのです。
こうした前置形容詞+固有名詞のコンビネーションで一貫しているのはそれが名前に冠されたタイトル(Mr. やMrs.、Prof. など)として機能しているということです。「ミスター山田」と同じ感覚で「勤勉日本人」。ニックネーム的な強い意味---それがこのコンビネーションの基本語感。「日本人は勤勉なので」と悠長に説明しているわけではありません。Mr. と同じ強度の「勤勉」という不変のカテゴリーを名前に冠しているのです。categorically categorial な発言。はい、もちろん「(種類)限定」です。
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このレビューには「大西先生の信者」というワーディングがあり、たいへん不愉快に思ったのですが、まぁそれほど悪気はなさそうだし機嫌も直ったから以下500行文句を割愛しました。ただね、それは事実無根だし失礼なことだと、僕はやっぱり思います。「信者」というのは「盲目的」で「理屈なく」ということだからね。使用にはくれぐれもお気を付け下さい。
さて、私がツイッターに「わけのわからない批判をされた」と書いたことを評者がお読みになったようなので、少し思うところを書いておきましょう。けっこう見てるんだね、ついった。まいった。はは。
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私が「わけがわからない」と書いたのは、まず「書評」は読者が「本の内容」の是非を判断する場所だからです。この書評には「一億人」の内容と、他の人に当てたコメント内容が混在しています。本の評価は本で述べられたことだけに関して行うべきなのは自明のこと。まして私のコメントは、学校文法の不備のせいで悩んでいる方に「学校文法のことば」で申し上げたコメントであることは明らかですので、これでは書評の体を成していません。
次に、この評者はしきりに「理解不足かも」「誤解かも」と書いておられますが、自分の理解不足の可能性を十分に認識しながら本の評価をしようとする態度は、私には理解できません。本の内容に疑義を惹起するような、今般のケースではさらにそう感じます。私は滅多に否定的な書評は書きません。本の執筆には応分の努力や苦しみが伴います。自分の誤った理解がその信憑性を傷つけ他人の努力を無にする可能性を恐れるのです。本の内容に関して作者よりも明晰な理解をしている自信があり、且つそれがその他の人の利益になる、そうした場合にのみ、私は自分に否定的書評を許します。まぁ文法関連の書評を私に依頼するのはパンドラの箱を開けるようなものだから、そもそも誰からも依頼は来ないんだけどね。
以上の点を踏まえれば私の「わけがわからない」という「つぶやき」は十分理解していただけると思います。
不十分な理解に基づいた「リビュー」に、私がリプライする必要はまるで感じませんし、親切と思って誤解を解く作業があだとなる事態にもうんざりですが、何が誤解かを簡単に示しておきます。
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ここから先は「一億人の英文法」の読者の方々は読む必要はありません。学校文法的バイアスのかかった疑問に詳しく答えているだけのことですから。安心して学習をお進めくださいね。
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(1) My wife's beautiful.
評者はbeautifulの機能を僕が「説明」とすることを、「矛盾」と呼びます。それは私が(読者に対するコメントの中で)制限関係節という後ろ配置の語句に「指示物をnarrow downする働き」を与えたことに由来します。この文は「narrow downしていない」という理屈ですね。そりゃそうだよ。当然。ただね、よく説明を読んでいただければ書いてあることなのですが、私は「説明=narrow down」としているわけではありません。コメントの中にも「「指示物の制限」は説明修飾が行われる典型的なケース」とし、読み間違えがないように同じ内容をもう一度繰り返しています。narrow downは「典型的」に過ぎず他の可能性を除外しているわけではありません。「説明」は上の「僕の家内はね....(美しいんだよ)」という叙述的な説明もあれば、指示物を制限するように働く説明もある。単にそれだけのことです。名詞句内部(あるいはα句内部)の説明は後者。主語という「文のテーマ」に関する説明は前者、と考えることも出来ますが、それは不必要だと判断しています。「説明」という日常言語はどちらにも十分常識的に適応でき、またそれがネイティブの語感だからです。どこにも「無理」も「矛盾」もありません。理解がその程度なら、こうした強いことばは厳に慎むべきかと思います。
(2) 「イェスペルセンという文法学者があげている例ですが、The industrious japanese will conquer log run.という英文にはA日本国民は勤勉だから勝利を得るだろう。B日本国民のうち勤勉な人々が勝利を得るだろう。の二つの意味があるそうです」
ここから評者は「大西先生の「説明」「限定」の定義では矛盾や無理が生じるように思えるのです。他にもよく分からないところが色々ありましたが、長くなるので書きません」という結論に至っています。まぁ至るのは勝手なんだけど。もちろんこの文、正しくは
The industrious Japanese will conquer in the long run.
のことかと思いますが、こちらの誤解は私の定義に起因するものではありません。実は、この例は私の説明の矛盾や無理を証明するモノではなく、むしろサポートする例なのですが、一見反例に見えるのは(もしイェスペルセンの説明がこの限りであるとすれば)、このデンマーク人の不手際です。
まずここの名詞を固有名詞ではなく、一般名詞---たとえばguys に変えてみましょうか。するとBの解釈しか生き残りません。正しく「限定」解釈です。「日本人は勤勉だから」と叙述的解釈が可能なように見えるのは、固有名詞の場合に限られています。このコンビネーションでは、たとえばhardworking Germans, stingy Scots, efficient Swiss(まぁこうしたステレオタイプは私の好むところではありませんが)などさまざまな例を作り出すことが可能です。さてこうした例を「日本人は勤勉だから」などと、叙述的解釈と等価だと考えるとしたなら、語感鈍(にぶ)すぎ。だから僕はツイッターで「イェスペルセンの尻ぬぐいをする必要もあるまい」と書いたのです。
こうした前置形容詞+固有名詞のコンビネーションで一貫しているのはそれが名前に冠されたタイトル(Mr. やMrs.、Prof. など)として機能しているということです。「ミスター山田」と同じ感覚で「勤勉日本人」。ニックネーム的な強い意味---それがこのコンビネーションの基本語感。「日本人は勤勉なので」と悠長に説明しているわけではありません。Mr. と同じ強度の「勤勉」という不変のカテゴリーを名前に冠しているのです。categorically categorial な発言。はい、もちろん「(種類)限定」です。
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このレビューには「大西先生の信者」というワーディングがあり、たいへん不愉快に思ったのですが、まぁそれほど悪気はなさそうだし機嫌も直ったから以下500行文句を割愛しました。ただね、それは事実無根だし失礼なことだと、僕はやっぱり思います。「信者」というのは「盲目的」で「理屈なく」ということだからね。使用にはくれぐれもお気を付け下さい。