彼女の声が、会場すべてを魅了している。
アリーナの中央に設置されたステージからは、360度すべての方向にいる観客たちを見下ろすことができる。
とにかく、人、人、人──なにかの罰かと思うぐらい、ぎっちりと詰め込まれたような会場内。
ライトの青に染まった世界で、ステージの上方に照らされた巨大スクリーンが、彼女の姿を大写しにしていた。
流れている歌は、相当昔の洋楽である。ダイアナ・ロス。
If we hold on together
液晶の配列が、なめらかに彼女の姿を画面の中に写し取っていた。
日々の移ろいに心くじけそうになっても──どうか自分を見失わないで。そう、歌っている。英語で紡がれる──明日への希望を、夢見るようなバラード。
熱狂している観客の興奮は、言葉で表せないぐらいだった。誰もが、彼女の歌に痺れるような感動を示している。
燃え尽きた、というのが一番近い。
彼女も、観客たちも、例外はなく心地のいい疲労感を共有していた。
ステージから降りた彼女に、まずはじめにタオルを手渡す。
「お疲れ様です。プロデューサー」
「ああ、お疲れ。──千早」
歌の出来については、挟むべき言葉はない。
人の魂を揺さぶれる音。
小さな身体に、鋼の意志を凝縮させている。
「……千早、今日のステージは何点だ?」
俺は、そっと千早の顔を正面に捉える。
彼女は、なにひとつためらわなかった。
「80点といったところでしょうか。イメージと、そう違わないステージを演じられましたから」
言葉からは、迸るような自信が溢れていた。
よく笑うような子ではない。
けれど──
この四ヶ月の積み重ねで。
少しずつ、笑顔を見せてくれるようになっていた。
なぜだが、こちらが干渉する──というよりは、むしろ干渉されることが多いのだが、事務所を散らかすな、だの──ジャンクフードなんて栄養の偏る者を食べるな、だの。
「そうか──」
千早の自己評価は、概ね正しい。
が──
ごんっ!
俺は、そのまま、千早の額に頭突き喰らわせた。
「ばかかっ。お前はばかなのかっ!」
「なんですかプロデューサー。馬鹿馬鹿言わないでください」
千早が、打ち付けたおでこを押さえながら言い返してくる。
「うるさいこのド馬鹿。
なんだあのステージはっ!!」
「なにか問題が? 最高のパフォーマンスを見せつけただけです。感謝されることはあれ、非難されるようなことはありません」
満足げだった。
自らのやった行為に、一点の疑いも抱いていないように見える。
「千早。このイベントはなんだ?」
「チャリティーコンサートです。恵まれない国の人たちへ、無償で参加している私も、この活動の末席に加われて、光栄に思います」
この活動の末席。
そう、彼女は言った。
ちなみに、彼女の言葉は、謙遜でもなんでもない。
一流のテレビ曲が主催し、アイドルの格も相当高い。本来、千早のようなFランクアイドルが名前を連ねられるようなクラスの仕事ではない。
「ああ、お前の仕事はその、チャリティーコンサートの──『前座』だ」
「あら?」
千早は、すっとぼけているようだった。
「前座は、場を暖めるのが仕事だ。
それで、その空気を維持させたまま、メインに繋ぐ。それを、お前は。観客を満足させるな。涙ぐませるな。完全燃焼させてどうする?
──っていうか、これでいいところは全部見た、と思って、もう帰りだしてる客とかがいるぞおい」
「それは、私が悪いのではなく、メインを張るアイドルたちの努力が足りないだけでしょう。
メインが、前座に喰われる。
残る事実はこれだけです。
プロデューサー。あなたも──そう言うつもりですか?
前座の実力が凄すぎた。
──だから、メインが目立たなかった。誰があんな奴を使おうとしたんだ。あのFランクアイドルを、閉め出せ──と」
あー。
完全に、確信的にやっているな、これは。
「ほー、じゃあ、さっきお前が歌った曲が、これから出てくるアイドルの代表曲と同じモチーフの曲だったり、似たような曲だったりするのは、すべて偶然だとでも?」
「ええ、不幸な偶然ですね」
彼女は、顔色ひとつ変えなかった。
「ふぅん。
俺には、お前が、これから出てくるアイドルたちの歌唱力に不満たらたらで、ステージで歌うのが恥ずかしくなるぐらいに、圧倒的な力量差で叩き潰しにいったようにしか見えなかったんだがな」
大人げない。
ガキの行動だ。
ナントカに刃物というが、千早にこそ、その表現はあてはまる。これは、ジャイアントキリングとも言えない。
天才による、弱者への圧倒的な搾取。
──獅子が、兎を嬲るのに等しい。
俺は、ため息をついた。
如月千早。
15歳。
『ギガス』プロダクションに所属して、四ヶ月。
彼女の階層は、未だFランク。
まともにやれば、一年でAランクにも上がれる逸材は、最下層で燻るばかりだった。
大人になりたい。
それは、思春期によくあるような変身願望ではない、はずだ。そうだ、私は一人前になりたい。自分一人の力で生きていきたい。私は、誰かの顔色を伺うような生き方をしたくないのだ。
プロデューサーとは、あのステージのあとで、喧嘩別れをしていた。
別れの言葉が、まだ胸の奥に突き刺さっている。損な性格だということはわかっている。
妥協を覚えれば、少しは楽にはなるのだろう。
私は、なにかを変えたくてステージに上がったはずだった。
未だ、Fランクアイドル。
やることはすべて空回るばかりで、つかめたものはひとつもない。
けれど──
生き方を変えたら、私は私でなくなってしまう。
『ギガス』プロダクションを、気に入ってはいる。
というよりは、あからさまに居心地がいい。
一階にはコンビニだってあるし、二階には喫茶店とカレー屋がテナントとして入っている。三階は麻雀もできる漫画喫茶。四階には美容室と、カラオケボックス。
そして──五階に『ギガス』プロダクション。
外まで出て行かなくても、エレベーターのボタンを押すだけで、たいていのものは揃ってしまう。
プロデューサーなんて、儲かったとしても、自社ビルを建てるなんてめんどくさいから、ずっとここにいようなどと言うぐらいだ。
そして、なにより──そこにいる人がみんな温かい。
英国あたりにたくさんいそうな執事の恰好をしているのが、この『ギガス』プロダクションの代表取締役であるジョセフ・真月社長。
先日、五十歳の誕生日を迎えているのだが、とりあえずさっぱり仕事はしない人だ。
代わりに、自伝を出版したり、講演会に出てみたり、テレビの討論番組で自説を展開したり、そちらで社会的な評価を戴いているあたり、なぜアイドルプロダクションの社長をやっているのか未だによくわからない。
「ひどいじゃないですかぁー、社長。私に仕事全部押しつけてー」
事務所に一台だけの最新型パソコンを前にして、べそをかいているのが、宗方さん。
通称、名瀬姉さん(21)。
「千早。聞いたよ。また面倒を起こしたのかい」
ニヤニヤとやる気なさげな女性は、安原蛍さん。23歳。近くの高校で、女だてらに高校野球のコーチを務めていた。ひいきにしている球団が勝った日には、やたら気前がよく、私におこづかいをくれたりもする。
「心外です。
プロデューサーはなにか言っていましたか?」
「言ってたよ。あの坊やは、たしか、くそっ、あいつのスケジュールを全部水着のグラビア撮影だけで埋め尽くしてやる、とか──?」
「あの人は──」
私は、ため息をついた。
「あんたね。自分で自分をめんどくさい女だと思わないかい? 若いうちからそんなだと、後々苦労するよ。男と女なんてね、どっちかが譲らないと決着がつかないんだから」
実感がこもっていた。
たしか、安原さんには婚約者がいたはずだった。
つかみどころのない人ではあるが、実は一番心配してくれているのかもしれない。
──というよりは。
うちの事務所で、まともに相談とかができそうなのが、この女性しかいないという事実もあった。
社長を除けば、最年長でもあるし。
「いらいらするんです」
いい機会だった。
自分でも、よくわからない気持ちをはき出すことにした。一度紐解けば、驚くほどスムーズに、言葉がわき出てくるのがわかった。
「………だって、歌なんですよ。
歌なんです。私のすべてなんです。それを、あのアイドルたちは、リズムもバラバラで、振り付けも明らかに練習不足で、歌のトーンも外れていて、Bランクアイドルなら、多分一度は完璧に振り付けられたはずなんです。
あの人たちは、現状を維持するのが、どれだけ大変かも気づいてなくて。
──ねぇ、安原さん? 音楽に真摯に向き合うって、そんなに難しいことですか?」
「ん、難しいことだろうね。
誰もが、如月千早になれるわけじゃない」
「でも──」
「千早。まずは、訊かせてくれるかい? 昨日、坊やになにを言われたのか」
安原さんの問い。
思い出したくない。
そう、私は思ってしまっている。
なにも言い返せない。
私は、なにも言い返せなかったのだ。
昨日の、ステージ後の言い争い。
「お客は喜んでいました」
「アイドルのメンツは潰れたけどな」
「でも、観客は歌を聴きにきたんですよ?」
食い下がる。
私は、間違ってはいない。
そうだ。
ここでそう思いこめないのなら、最初からあんな真似はしない。
「そうだな。お前が叩き潰したアイドルたちの曲を、な」
「あんな未完成品が、アイドルの平均値だと思われるなんて──少なくとも、私は耐えられません」
彼は言った。
死刑宣告を告げるように。
「ああ、千早の気持ちはわかる。
それでも、
それでもここは──お前のステージじゃない」
「うんめいのひとはどこかしらー。あとじむしょのばしょはどこかしらー」
唇を噛む私の心情などまったく関係なく、近づいてくる歌声の持ち主は、階段を上ってくるようだった。
心なしか、声に少し泣きが入っているのはどうなのだろう?
「千早ちゃん。今日も荒れているようだね」
はじめに入ってきたのは、副社長だった。
朔響(21)。
社長と安原さんが道楽で遊んでばかりいるため、事実、この所属アイドルたった四人(三浦あずさ(20)、如月千早(15)、源千佳子(16)、鈴木空羽(15))の弱小プロダクションを、一人で仕切るかたちになっている。
「金田の奴が、愚痴っていたよ。くそっ、あいつのスケジュールを全部、グラビア撮影だけで埋め尽くしてやる、とか。競演は全部巨乳系アイドルにしてやる、とか。他のアイドルの紹介文にゴールデンボディとか縛熱果実とか煌びやかな笑顔とかなってる中で、千早の紹介文だけ、こんな変化球もたまには、とかにしてやる──と、言っていたけどね」
さっき、訊いたときよりひどくなっていた。
すごく子供じみた嫌がらせだった。
「しかし、千早ちゃん。あれはいただけないな。金田のやつ、そのうち苦情処理に押し潰されて、ストレスで死ぬぞ」
「う」
アパートの一室で、床に転がって冷たくなっているプロデューサーの姿を想像してしまった。
「そんなに千早ちゃんを苛めなくても」
ワンテンポ遅れて、入ってきたのはあずささんだった。
「きっと、あれは千早ちゃんの愛情表現よ。犬が甘噛みしているようなものね?」
「……あずささん? たしか、犬の甘噛みは相手を下に見るための威嚇行為だったはずですが」
「あらー?」
担当プロデューサーでもある副社長の言葉に、あずささんが首を傾げていた。
「あっ、ママはそこで黙ってて。ママに任せたら、お肉が固くなっちゃう」
「リ、リファちゃーん」
鍋奉行をかってでる娘(リファ)に対して、母親(あずささん)が怨めしそうな声をあげていた。鍋はぐつぐつと煮えている。
すき焼きだった。あらかじめ作っておいた割り下を注ぎ、豆腐と水炊きと肉とねぎと白菜としいたけが仲良く運命共同体となって、鍋の中で断末魔の悲鳴をあげていた。
「じょーいちろーくん。リファが盛ってあげるね」
「ああ」
俺は、わけのわからないまま、そう返すことしかできない。
目覚めた瞬間から、こんなカオスな状況が繰り広げられていた。どうやらここは病室らしい。動きづらいと思ったら、左腕についたチューブを通り、パックの点滴につながっていた。
体調は最悪だった。
機械の身体が欲しい。息をするのすら煩わしい。無呼吸無補給で、エンドレスで動き続けられる身体が欲しい。
それでもメンテナンスで、余計に手間がかかるのかもしれない。リファによそってもらったすき焼きを口に入れながら、俺はそんなことを考える。
「それで、この状況は?」
「倒れたんですよ」
一瞬、誰が──と聞き返しそうになった。
病室に縛り付けられているのは、俺以外にありえなかった。
これが判断力の低下だというのなら、本気の生死の境ぐらいは彷徨ったのだろう。全身の倦怠感がハンパなかった。
「ああ、千早のやらかしたことの後始末で、もう二日ぐらい寝てなかったな」
「じょーいちろーくん。無理しすぎ」
六歳児にたしなめられる。
「気をつける」
大盛りでよそられた肉を、むぐむぐと咀嚼した。
「うん。いーこいーこ」
ベッドの上までよじ登ってきたリファが、俺の頭を撫でていた。あずささんの真似事であることは間違いがない。
見た目が全く違うのに、親子なのだと理解できる。
いい娘だ。千早にこの娘の百分の一でも素直さがあれば、世渡りもちゃんとできるようになるだろう。
「実をいえば、プロデューサーさんを見つけたのは、千早ちゃんなのですけど──」
あずささんは、限りなく重要そうな事柄を、限りなくのんびりとした口調で言った。
「書類の山に埋もれているプロデューサーに、出社した千早ちゃんがコーヒーを煎れてきて、返事がなくて揺さぶり続けたら、机の下にずり落ちていって、救急車の出番になったそうです。発見が遅かったら、どうなっていたことか──」
現実感がなかった。
あずささんの語り口が、あまりに現実離れしていることもある。
あ、ちょっと思い出してきた。
プロデューサー、プロデューサー、と白く霞む世界で、泣いている少女の顔が、意識に焼き付いていた。確信はない。錯覚だったかもしれない。人は、なにか馴染みのない事態に陥ったときに、後から説明されたことを元に、偽りの記憶を作り上げる、そんな話を聞いたことがあった。
でも──
たかが四ヶ月の付き合いでも。
彼女の泣き顔なんて想像できなかったし、これからも見ることなんてないと、そう思っていた。
だから──
きっと。
あれは、記憶の混乱なのだと。
本当にあったことなのだと信じることが、できない。千早はいつも取り澄ましていて、血液の一滴も流れていないような少女だけれど、それでも、人をいたわることができると、そう信じているはずなのに。
「それはそうと、今日と明日は有給扱いにしておくから、しっかり疲れを抜いておくようにっていう、社長からの伝言です。響さんが、休日返上で代わりに働いている分、明後日からしばらくは、プロデューサーさんに、私のプロデュースをお願いすることになるでしょうけど」
「まあ、そうですね」
ちなみに、あずささんが俺をプロデューサーさんというのは、単に自分の最初のプロデュースが彼女だったというだけのことである。
三浦あずさを現在のBランクアイドルにまで押し上げたのは、まぎれもなく朔の手腕ではあるが。
「寝てなきゃだめー」
リファが、こっちの頭をぺしぺしと叩いていた。
「あの、プロデューサー」
消え去りそうな、声だった。
いつからそこに立っていたのか、いつもの漲るような自信は、微塵も感じられない。
病室の入り口に、如月千早がいた。
その頼りなさに、記憶の一部が刺激される。
「千早。心配かけたな」
「いいえ」
「救急車呼んでくれたんだな、すまない」
それは、ただの礼のはずだった。
が──
「覚えてる、んです──か?」
なぜだか、千早の動揺が広がった。
ふむ。
「思い出すと、あの時、千早だったと思うんだが、たしか泣いていたような気が──」
「気のせいです」
即時で、否定される。
「でも、千早ちゃんがあそこまで取り乱すのは、私もはじめて見たわ。昨日一日、プロデューサーがこのまま目覚めなかったらどうしようって、プロデューサーさんの手を握りながら………」
「そ、そんなことはありませんっ!!」
むきになって、千早が否定の言葉を吐く。
そこまでむきになると、それが真実だと態度で肯定しているようなものだと思うのだが。
「あー、そうか。そうだな。記憶が混乱していたし、きっと夢だったんだろう」
「ええ、倒れた時に、打ち所が悪かったようですね。脳の精密検査をして頂けるように、お医者様にお願いしてみます」
「………千早ちゃん。プロデューサーさんに、なにか言うことはないの?」
あずささんは、千早の態度になにか思うことがあるようだった。
「あずささんは口を挟まないでください。これは私と、この人の問題ですから」
つんけんとした態度に、なんの狂いも見られない。
「いやあの、あずささん。すみません」
千早も、普段はあずささんにこんな失礼な態度はとらない。
「仕方ないわよ」
あずささんは、笑って。
「仕方ない、ですか」
苦笑い。
「『子供』のやることに、いちいち目くじらを立てていても、仕方ないでしょう?」
穏和なあずささんの言葉。
そう──口調だけは変わらない。
『子供』
それが千早のNGワードだと、あずささんが知らないはずがない。
俺は恐る恐る、病室の入り口に立ちつくしている千早に視線を移した。その両目が、まっすぐにあずささんに据えられていた。なんのリアクションもない。睨むこともしていなければ、怒気を顔にだしているわけでもない。
ただ、そこから、一切の表情の色が消え失せていた。
「あ、あのあずささん?」
「千早ちゃん。飴をあげるから、落ち着いて」
と、あずささんがポケットから棒つきキャンディーを取り出した。
しかも、二本。
これみよがしに、片方を自分の娘に渡す。
「わーい。ママ大好き」
抱きついてきた娘の頭を、よしよしと撫でた。
一方、
千早は、怒ってはいなかった。
ただ──あずささんを見る瞳に、軽い侮蔑の感情が交じったようだった。
なにも考えずに、他人を子供扱いする。そこいらの大人と同じカテゴリに、千早はあずささんを放り込んだようだった。
違う。
それは違うぞ千早。
あずささんが、そんな浅慮な人間だと思ったら大間違いだ。
──というか、俺はもう、左腕に刺さってる点滴を引き千切って、一刻もはやくここから逃げ出したい。
いつでも逃げられるように、俺の膝の上に乗っている重し(リファ、22kg)を、ちょっとずつ端によせていく。
「そもそも、千早ちゃん。あなたがFランクなのは、歌手としての器がその程度だからよ。そのしわ寄せを全部プロデューサーさんに押しつけるのは、どうかと思うのだけれど」
ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっっっ!!
千早は、最初──そのあずささんのイヤミを理解できないようだった。
ほんの一瞬の空白。
その後で、弾かれるようにその言葉の意味を理解したのだろう。
全身が、小刻みに震えていた。
顔が、怒気に染まっている。
「なにか、私に言いたいことがあるようですが」
「ええ、この間の前座のライブを、私も見せてもらったわ」
あずささんが、開けっ放しの窓から吹く風によって持ち上がった髪を、右手で押さえた。俺の身体が後ろに引っ張られる。首にあずささんの両手が巻き付いてきて、頭がちょうど彼女の胸の谷間にジャストで埋まった。
おっぱいが。
あずささんのおっぱいが。
感触がっ!!
「すごく無様なステージだったわ。千早ちゃんは早く帰ってしまったから知らないでしょうけれど、あの後で、動揺したアイドルたちは曲を間違えるし、客はしらけるし。あんな風に、歌を──人を傷つける凶器にするのが、千早ちゃんの望んだことだったかしら?」
これは──
あずささんの言うべきことではない。
けれど、これは他の誰でもない──彼女しか言えないことでもある。
そうか。
アイドルとしてではない。
先輩としてでもない。
三浦あずさという個人として、でもない。
彼女は、一人の大人として、如月千早とも向き合っている。
そして。
あずささんの放った台詞に、病室の空気が氷結した。
「千早ちゃん」
「──アイドルを辞めなさい」
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