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2011-01-17 05:46:52 posted by alf21

16年前の出来事

テーマ:テーマ未指定
毎年くる日なんですけど
去年は遠征帰りの渋滞の中で
思い出すことも無く過ぎ去ってましたが
今年は、やたらとニュース記事に出会う

そう阪神淡路大震災の日

日々思うことはないけれど
一生忘れることは絶対にないあの日

いきなり襲ったいつもと違う、あの地震
一体何が起こってるのかわからないし
揺れが収まっても
寒いし、電気はつかないし
タンスとかも倒れて、まともに歩けないし

テレビもラジオも何も情報源がなくて
そのまま夜が明けるの待つしかない
その後も、揺れは続くから
もうどうしていいかわからない

明るくなって
部屋の状況が見えるようになって唖然
食器は砕け散り、テレビもステレオも落ちてるし
レコードボックスの直撃をウケた
パソコンデスクが折れ曲がってたり

あー私の頭に落ちたのって
テレビだったんだって、この時に理解した
そして私は負傷者の一人に数えられる事になった

そして電気が回復
テレビの電源が入ったときに
目の前に映った光景、最初理解できなかった
なんだろう?あのでっかい壁は

…阪神高速が倒れてる…
そんな事があるのか?

その後段々マスコミも動きはじめることができ
衝撃の映像が伝わる

朝建っていたビルが昼には倒れ
成人するまで使っていた伊丹駅が落ち
親戚の家が長田にあった為、大騒ぎ

自家用車に緊急車両通行の許可書をもらい
長田に向かう間の悲惨な光景は
二度と見たくない地獄絵図

いつもなら1時間もかからない所に
半日くらいかけていくことに
そしてようやくついた時、親戚は無事避難をしていた
ほっとした

でもその後、親戚が近くの学校に
非難している間に、長田の電気が回復し
その時、家が燃えた…
復旧があだになった火災だった

本人達が燃えたことを知ったのも数日後
とにかく町が機能してないし
なんの情報伝達もできていない状態だった

その長田へ何度か通っている間に
支援の問題にも直面
おにぎりや缶詰やパンが毎日のように
届いていたのだけれど
それが現地に余っているという事実
配分がうまくいってないのだ

しかも毎日同じ物
贅沢になった現代においては苦痛だったに違いない

私のような個別で神戸入りする親戚、家族も多く
そういう身近なところから届く食べ物などもあるため
余計に、そういうものがあまり
逆にもってかえってくれと渡される事度々

行政の采配の悪さと言ってしまえば
それまでだけれど、あの町をみて
平等、完全な支援が出来る人がいたら
その人は、神だと思う

なので、誰も責められない
あーすれば、こーすればと
個々を見れば思うことはいくつもあるけれど…

そしてある日、自分の部屋から
外が見えてることに気づく
天井の端から、外の光が見えていた

家の裏路地の石垣も落ちていたり
あーウチも決して
無事立ち続ける保証はないなと実感

でも運良く、家が倒壊することは無く
事無きを得た

それから、何ヶ月かにわたり
神戸へ通うことになるのだけれど
復興いていく地区としていかない地区の差を
目の当たりにし

この不公平感はなんだろう?と
綺麗になっていく区画の横には戦場のような
倒壊したままの地区があるなど
見ていて、あなりキツイものがある

夜、その区画を通ったときは
もう恐怖しかなかった

あの地震で沢山の命が奪われ
今なお、障害を背負い苦しんでいる人もいれば
あの時から、生活基盤が狂ったままの人も居る

それが忘れられていっていて
またそれらを解決する支援をどうしていけばいいのか?
我々個人はもちろん
行政的にもわからなくなっている状態

そんな状態であっても
とりあえず出来ること、それは忘れないこと
それが一番簡単で
かつ未来につながる事かなと思う

アメンバーの人達にも
関西に住み、あの年に生まれた人達がいる
おそらく、ご両親は大変な苦労をされた事だと思います
どうか、その生命大切にしてください

なんか重いですね…

ちょっと軽くなる話を

あの日、電話がつながり始めた時に
当時付き合っていた彼女に電話したんですよ
そしたら笑われたという…^^;

そこの妹と、その彼氏が大騒ぎしてて
そのあと、私から電話があったから
なんかウケたんだと
おーい、心配損かいな(笑)

その後、彼女とは別れ
2年半後、アル妻と結婚

アル妻とは
この地震が無かったら、おそらく一生であってません
縁とは不思議なものですね…

※この記事は3:30頃に書き
5:46:52の未来記事として保存しました

コメント

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1 ■忘れない

16年も時が過ぎたんですね。当時愛知に住んでましたがテレビから見る映像には言葉を失いました。主人が神戸に出張してて生まれたばかりの息子をおんぶして神戸まで向かいました。無事がわかった時は涙がとまりませんでした。その息子も高校生。一緒に握手会に行ってます。あの日のことは絶対忘れない忘れない。

2 ■無題

あれから16年なんですね。

早いのやら遅いのやら。

テレビであの時の映像を見た時は言葉を失いました。

それと同時に自然の恐怖を思い知らされたのを覚えています。

こうして今、生きている中でも一瞬先には何があるかわからない。

生命があること、生きていられることに感謝して一瞬一瞬を大切にしていかなければいけませんね。

3 ■無題

あの日のあの酷い風景は会社のテレビで知りました。
すぐに家内に(たまたま神戸に…)連絡をとろうとしても、なかなかとれず
5日後にやっと無事なことを知り、安心したことを覚えてます。

今でも、ちょっとした地震でもかなり怯えるようになっちゃいましたが、
それがあの日のことを物語ってますね。
次は東海だとか東京だとかいってますが、あの時の教訓を生かしてほしいですね、行政には

4 ■無題

私は当時2歳だったから記憶は全然残ってないですけどおっきくなってから映像とかを見てすごい衝撃を受けた記憶があります…


私は去年の今日はちょうどセンター試験だった気がします(;´д`)
思い出したくもない過去…

5 ■無題

僕はその年の7月に生まれたので、高速が
倒れているなどの悲惨な光景は教科書で
しか見たことがないんですよね。
けど日本はいつどこで地震があるかわから
ないので、この地震はホントに日本の未来に
貢献してくれた大切な地震だと思います。

今生きていることを誇りに思わないといけないですね。

重くなってごめんなさい(^_^;)

6 ■無題

当時4歳で東京にいたためおっきくなってから悲惨さ、ことの重大さに気づきました…
忘れちゃいけないことですね。

7 ■無題

僕は、おととしまで義務教育を神戸で受けてました

生まれた後の震災ですが

当時の両親の苦労は、すごく頭に残っています

8 ■無題

その前の年?の、1994年(平成6年)12月28日。

私たちは三陸はるか沖地震の被害に合いました…

震源地の本当に近くで、当時6歳ながら、未だに恐怖を思い出されます…。

今日という日がどれだけ平和で幸せな日なのか、改めて思い出されますね。

9 ■16年

当時○○歳でした。←
確か、遅くまで起きてたか、
早く目が覚めたかで、地震速報から見てた気がします。
次第にテレビ中継でわかってくる惨状、
衝撃だったのはやはり阪神高速でしょうか。
500キロ以上離れていても、
もしかしたらそこで起こるかもしれないと思うと怖かったですね。

多分あの頃から重傷者と軽症者を見分けるタグみたいなのを
日本でも使うようになって、
復興のスピード差にもそんな考えがあるのかなと思いました。
まあ、がんばっていきましょう(^◇^)

10 ■無題

わたしはまだそのとき
生まれてなかったのですが
社会で習いそのときの状況や
写真を見たとき衝撃を
受けました。

修学旅行でも疑似体験映像を
みて、この日は100年たっても
何千年とたっても
忘れてはいけない日と
自分で思いました。

11 ■無題

その頃の記憶はないんですがやっぱり後々忘れちゃいけないなって思うようになりましたね。






もう16年も経ったんですね……

12 ■無題

いい話ですね
俺のところは震度4きました
怖かったです

13 ■無題

16年前はまだ小さかったので当時のことはよく覚えていませんが
ここ数年、能登や新潟で大きな地震があって、自分もいつ被害にあってもおかしくないところにいるのだと、身の引き締まる思いがしました。

ボクが神戸を訪れたのは既に復興されたあとでしたが
そこには被害にあわれたたくさんの方、復興を支えたたくさんの人々の力があることを忘れてはいけないですね。

地震の多い国であるということはわかっていますが、今後このような大きな地震が起きないことを心から祈ります。

14 ■無題

あれから16年なんですよね・・・・
ぼくも姫路ですごいゆれました

まさか・・・・です

でも人間ってすごいですよね


たすけあいましたもん!

15 ■無題

同時、幼稚園で募金活動をし、園児代表で新聞社に寄付したのを覚えています。幼いながらもTVで悲惨な映像を見たときは恐怖でした。

16 ■無題

僕はこの8ヶ月後に生まれたので実際のことは全く知りません。ですが、テレビであのときの映像を見たときは衝撃を受けました。
あの高速が倒れるのか、これだけの建物が崩壊するのかと地震の恐ろしさを感じました。

いま、生命があって普通に生活できることは本当に幸せなことなんだ、絶対に自分で生命を絶つということはしてはいけないと思いました。
今という時間を大切にして生きていかないとだめだなと思います。

17 ■無題

自分は被災もしてないし、小さすぎてこの地震が起きたことすら記憶に無いのですがアルさんや関西のかたの被災した方々のコメントを見て、当時は一言で「すごかった、大変だった」と言ってはいけないと感じました。



今までこの阪神淡路大震災について「歴史的な大きな地震があったんだなー」と思っていました。でもアルさんの細かい当時の状況や復旧が生んだ二次災害を初めて知りました。知って良かったです。





いろいろと心打たれるエピソードをありがとうございましたm(__)m

18 ■涙!

 どうも、久しぶりのコメントになります。
 ゆっしーです。

 アルさん、阪神大震災発生時・発生後の詳細な現地の状況報告ありがとうございます!
 アルさん・・・無礼なるカキコですが、テレビが頭に落ちたけど、死亡する事無く、障害を負う事無く 現在も仕事できて、ヲタ活動を行えるのは 奇跡で、神様に感謝ですよね・・・あぁ 泣けてきます。゚(T^T)゚。
 増田有華さん も阪神大震災についてブログで記事に 挙げていますが、それも含めて 改めて大震災の恐怖を実感しました。
 
 あっし 老人ホーム職員ですが(95年当時に勤めていた)職場で、被災した地域の高齢者福祉施設の為に 募金でわずかながらも寄付した思い出があります。

 ちょっと外れてしまいますけど、政治の話になりますけど、地震大国の日本なのに、地震に対する政治対策は 結局国民一人一人の対策で  というのが悲しいですな。
 高速道路ETC割引やら 児童手当やら の他に 地震対策で家具転倒防止製品にも 補助金を雀の涙でも良いから 支援できたら良いな と
ふと 思いました。

 最後 飛躍した表現になりましたが お許しくださいませ。m(_ _ )m
 
 

 


 

19 ■無題

16年前のこの日
私は学生で、
京都に居ました。


ちょうど後期試験の期間中で、
前夜、遅くまで勉強をしてから布団に入り…
激しい揺れに起こされたことを
今でもこの日には思い出します。


家具が倒れたりするほどの
揺れではなかったですが、
それでも、
これまで経験したことのない大きさの地震で…

ただ、
この日の午前中に
試験を受ける科目があったので、
普通に通学をして…




あれ?
試験なのにずいぶん人が少ないなぁ~、
京阪とか止まったのかな?とか
違和感を感じながらも試験を受けて、
家に帰ってテレビを付けて………


ただただ、絶句でした。



とりとめのない文章でごめんなさい。

20 ■無題

おれは、まだ
産まれてませんでした。

21 ■無題

高速道路が
横に倒れてる映像は、
おぞましかったです。

自分は
被災者ではないですけれど、
当時、
何回も夢にでてきて
うなされた事を
思い出します。

22 ■皆さんへ

皆さんから色々な話、しっかり読ませて頂きました

皆さんの思いがすべてだと思いますので、コメ返は控えさせてもらいますね

コメントありがとうございました

23 ■無題

田舎から出る理由として東京か神戸の学校しか受験しなかったほど大好きな街が、一瞬にして壊れてしまったあの時の衝撃は今も胸に刻まれてます。
(ヲタ的には西村しのぶファンですし、思い入れ強すぎてうまく書けません…)


もう、16年も経ちますか…


「生かされてる」

背筋を伸ばさせられる言葉ですね。
自分なりに精一杯、生きて行きます。


被災された方々へ哀悼の意を込めて。

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