16年前の出来事
テーマ:テーマ未指定去年は遠征帰りの渋滞の中で
思い出すことも無く過ぎ去ってましたが
今年は、やたらとニュース記事に出会う
そう阪神淡路大震災の日
日々思うことはないけれど
一生忘れることは絶対にないあの日
いきなり襲ったいつもと違う、あの地震
一体何が起こってるのかわからないし
揺れが収まっても
寒いし、電気はつかないし
タンスとかも倒れて、まともに歩けないし
テレビもラジオも何も情報源がなくて
そのまま夜が明けるの待つしかない
その後も、揺れは続くから
もうどうしていいかわからない
明るくなって
部屋の状況が見えるようになって唖然
食器は砕け散り、テレビもステレオも落ちてるし
レコードボックスの直撃をウケた
パソコンデスクが折れ曲がってたり
あー私の頭に落ちたのって
テレビだったんだって、この時に理解した
そして私は負傷者の一人に数えられる事になった
そして電気が回復
テレビの電源が入ったときに
目の前に映った光景、最初理解できなかった
なんだろう?あのでっかい壁は
…阪神高速が倒れてる…
そんな事があるのか?
その後段々マスコミも動きはじめることができ
衝撃の映像が伝わる
朝建っていたビルが昼には倒れ
成人するまで使っていた伊丹駅が落ち
親戚の家が長田にあった為、大騒ぎ
自家用車に緊急車両通行の許可書をもらい
長田に向かう間の悲惨な光景は
二度と見たくない地獄絵図
いつもなら1時間もかからない所に
半日くらいかけていくことに
そしてようやくついた時、親戚は無事避難をしていた
ほっとした
でもその後、親戚が近くの学校に
非難している間に、長田の電気が回復し
その時、家が燃えた…
復旧があだになった火災だった
本人達が燃えたことを知ったのも数日後
とにかく町が機能してないし
なんの情報伝達もできていない状態だった
その長田へ何度か通っている間に
支援の問題にも直面
おにぎりや缶詰やパンが毎日のように
届いていたのだけれど
それが現地に余っているという事実
配分がうまくいってないのだ
しかも毎日同じ物
贅沢になった現代においては苦痛だったに違いない
私のような個別で神戸入りする親戚、家族も多く
そういう身近なところから届く食べ物などもあるため
余計に、そういうものがあまり
逆にもってかえってくれと渡される事度々
行政の采配の悪さと言ってしまえば
それまでだけれど、あの町をみて
平等、完全な支援が出来る人がいたら
その人は、神だと思う
なので、誰も責められない
あーすれば、こーすればと
個々を見れば思うことはいくつもあるけれど…
そしてある日、自分の部屋から
外が見えてることに気づく
天井の端から、外の光が見えていた
家の裏路地の石垣も落ちていたり
あーウチも決して
無事立ち続ける保証はないなと実感
でも運良く、家が倒壊することは無く
事無きを得た
それから、何ヶ月かにわたり
神戸へ通うことになるのだけれど
復興いていく地区としていかない地区の差を
目の当たりにし
この不公平感はなんだろう?と
綺麗になっていく区画の横には戦場のような
倒壊したままの地区があるなど
見ていて、あなりキツイものがある
夜、その区画を通ったときは
もう恐怖しかなかった
あの地震で沢山の命が奪われ
今なお、障害を背負い苦しんでいる人もいれば
あの時から、生活基盤が狂ったままの人も居る
それが忘れられていっていて
またそれらを解決する支援をどうしていけばいいのか?
我々個人はもちろん
行政的にもわからなくなっている状態
そんな状態であっても
とりあえず出来ること、それは忘れないこと
それが一番簡単で
かつ未来につながる事かなと思う
アメンバーの人達にも
関西に住み、あの年に生まれた人達がいる
おそらく、ご両親は大変な苦労をされた事だと思います
どうか、その生命大切にしてください
なんか重いですね…
ちょっと軽くなる話を
あの日、電話がつながり始めた時に
当時付き合っていた彼女に電話したんですよ
そしたら笑われたという…^^;
そこの妹と、その彼氏が大騒ぎしてて
そのあと、私から電話があったから
なんかウケたんだと
おーい、心配損かいな(笑)
その後、彼女とは別れ
2年半後、アル妻と結婚
アル妻とは
この地震が無かったら、おそらく一生であってません
縁とは不思議なものですね…
※この記事は3:30頃に書き
5:46:52の未来記事として保存しました
1 ■忘れない
16年も時が過ぎたんですね。当時愛知に住んでましたがテレビから見る映像には言葉を失いました。主人が神戸に出張してて生まれたばかりの息子をおんぶして神戸まで向かいました。無事がわかった時は涙がとまりませんでした。その息子も高校生。一緒に握手会に行ってます。あの日のことは絶対忘れない忘れない。