岐阜県各務原市に住む稲葉啓太さん(20)は、上唇と上あごがくっつかず、すき間が残る形成不全「口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)」の状態で生まれた。生後7カ月で上唇、2歳で上あごの奥のすき間を閉じる手術を受けた。
声を出すときには、上あごの奥の粘膜がのどの壁をふさぎ、呼気はすべて口に流れる。呼気が鼻へ抜けると正確な発音ができない。上あごの奥の手術は、のどをふさぐ機能を向上させる目的もある。執刀した河合幹・愛知学院大歯学部教授(当時)は「言葉は正しく発音できるでしょう」と太鼓判を押した。
上あごの手術から3カ月。2歳4カ月になった啓太さんは、単語をしゃべり出した。だが発音は不明瞭で、母音だけで構成されているように聞こえた。
のどを閉じる機能が不十分だと、口の中で作る「破裂音」という音をのどで作る自己流の発音が、身につくことがある。啓太さんは、手術前に覚えたこの発音が抜けなかった。
「言葉が大変」。母のなつるさん(51)は言語治療の施設を探し、市の「ことばの教室」に2歳半から小学校に上がるまで、毎週通うことになった。
担当したのは、現在、同市の「福祉の里」で幼児の通園施設長を務める安田香実(やすだ・かぐみ)さん(52)。啓太さんの呼気は鼻に漏れてしまい、息を吹いても、直径1センチほどの発泡スチロールの軽い球ですら動かせなかった。
「発音の前に、基礎練習をしっかりやらないといけない」。安田さんはそう考えた。ヘビの形の笛のおもちゃを吹かせて強く息を吐き出す練習や、口の周りにつけたお菓子を舌先で取って食べる舌の運動を、根気よく続けた。
4歳から同大歯学部付属病院で言語治療を始めると、啓太さんの発音はみるみる上達した。小学校に上がるころには、日常会話に困らなくなっていた。
2歳から小学生までは、耳鼻咽喉(いんこう)科にも毎月1〜2回通った。口蓋裂があると、鼓膜の奥の中耳に液体がたまる「滲出性(しんしゅつせい)中耳炎」になりやすい。啓太さんも4歳のときにこの中耳炎になり、左の鼓膜に穴を開け、液体を抜くための細い管を入れた。小学5年生のときに管を取ったが、中学生までプールでは耳栓が欠かせなかった。
※ 「患者を生きる」は、2006年春から朝日新聞生活面で連載している好評企画です。病気の患者さんやご家族の思いを描き、多くの共感を集めてきました。
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