気象・地震

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検証・大震災:医療現場、想定外の連続

 未曽有の災害で、地域の拠点病院では何が起きたのか。直後に被災地に駆けつけ救命医療を担う医療チーム「DMAT」との連携はどう図られたのか。岩手、福島の二つの病院から教訓を探った。

 ◇静寂、津波、そして--爆発

 福島県内に8カ所ある災害拠点病院の一つ、南相馬市立総合病院。金澤幸夫院長(58)は地震発生直後から207人の入院患者や病棟に異常がないことを確認すると、患者の救急搬送が続くと予想し、玄関脇の救急外来で待ち構えた。ところが、救急車のサイレンは全く聞こえてこない。不思議なほど静かだった。通信インフラが崩壊し、119番が通じないのだ。「当然だ」と気づくには、かなりの時間がかかった。

 静寂を破ったのは「津波だ」と階段を駆け下りてくる病院スタッフの叫び声だった。市内で最も高い病院の7階に上ると、まるで水面がじわりと広がるように海岸一帯が水につかっていくのが見える。防災無線を抱えた消防署員が駆け込んできた。「電話が通じず、連絡できないが、患者は全部引き受けてほしい」

 海岸から2キロの老人福祉施設が倒壊して津波にのまれ、真っ黒になった患者が次々に運ばれてきた。着衣を脱がし、泥をタオルでぬぐっても、圧迫による皮下出血のため、黒ずんだままの人も少なくない。

 外来の待合室のいすを撤去し、マットレスを15枚ほど敷いて急ごしらえの集中治療室(ICU)を設けた。搬送された患者を治療の優先度に応じて4段階に振り分けるトリアージ訓練も年1回行ってはいたが、重症患者の続出で、タッグを付ける余裕すらない。泥水を飲んだ重症者に挿管を施し、低体温症の患者にはお湯を直接胃に注いだ。「心肺停止でも普段なら1時間はマッサージして蘇生を続けるが、あの状態では無理だった」。死亡を表す黒のタッグ。金澤院長も数人に付けたというが、はっきりとした記憶はない。それほどまでに混乱していた。

 病院全体が落ち着きを取り戻したのは11日の深夜。金澤院長は院内を巡回し、症状が重い順に8番まで患者に番号を振った。DMATも翌12日未明には2チームが到着して、より大きな病院へと8人を搬送する。早朝にはドクターヘリも来た。「確かに混乱はした。だがここまでは病院はちゃんと機能していたんだ」

 12日午後3時36分。東京電力福島第1原発が水素爆発を起こす。政府の避難指示の範囲は拡大し、病院は次第に孤立を深めていく。

 ◇ここは難破船になったんだ

 震災当日、学会のため東京・秋葉原にいた及川友好副院長(52)は、タクシーで12日午後8時過ぎにようやく病院に到着した。防災本部の設置を指示し、情報共有のため2階のエレベーター前にホワイトボードを置き、決まった方針を張り出すことにした。政府の避難指示の範囲は20キロに広がっていた。「原発事故でこの病院は死んだ。もう逃げるしかない」。パニックを起こしかけた医師もいた。

 「ここは原発から23キロ地点です」と張り紙をし、患者に少しでも安心してもらえるよう努めた。13日には20キロ圏内に位置する同じ市立の小高病院の患者・スタッフ68人を受け入れた。国や県、市からは何の連絡も指示もない。「行き場がない人を放っておけない」。災害拠点病院としての役割や、医師としての使命もある。負担がさらに増すことにスタッフから反発もあったが、断ることはできなかった。

 13日午後、エックス線技師から患者のレントゲン写真に黒いしみのような点が多数映り込んでいるとの報告を受けた。放射性物質が院内に入り込み、感光したのだ。窓を閉じ、換気扇を止め、隙間(すきま)を目張りした。線量計で放射線測定を始め、院内放送で2時間ごとに知らせた。院内に入る人は全員、体に付着した放射性物質の量を測定したが、14日までに10人が10万CPM(通常の2000倍、CPMは1分間に検出した放射線の数)を超えた。

 震災関連の情報は震災から3日経過してもなおテレビから得るしかない。14日午前11時過ぎ、3号機が爆発した映像に及川副院長は慄然(りつぜん)とした。「科学立国の日本で、2回目の爆発が起こるとは」。自身の死も覚悟した。金澤院長と相談し、直後に医師や看護師、事務員ら約250人全員を集めた。自主避難を認める決断を伝えるためだ。生死がかかった極限状態で「残ってくれ」とは言えない。

 会議室が静まりかえる中、金澤院長が口を開く。「これからはボランティアです。自分と一緒に残ってもいい。避難したいと思う人は避難してください」。あちこちですすり泣く声が響いた。残ったスタッフで患者を守り、助けを待つ予定だったが、非常勤を含め270人いた職員は、翌朝には3分の1まで減った。

 14日夜からは給食を作る職員もいなくなった。看護師らでおにぎり1個とスープを配膳し、清掃も分担。病院に残ったのは重症患者だけだ。

 「ここは難破船になったんだ」。及川副院長は思った。

 ◇30キロ圏内に行けず、撤収余儀なくされ

 11日から15日までに全国から福島県に集まったDMATは49チーム約200人。実質的に仕切ったのは救命救急が専門の福島医大の島田二郎医師(50)だ。及川副院長とは福島医大の同期で、統括DMATの資格も持つ。震災の4カ月前には東北ブロックのDMATを集める訓練を行ったばかりだった。「訓練と同じことをやればいい」と自分に言い聞かせたが、原発事故への対応は活動要領にもなく、訓練もしていない。不安だった。

 「患者が運ばれる病院に入って支え、立て直す」。福島に集まったDMATチームは研修での教え通り、各病院に向かった。南相馬市立総合病院にも3チームが12日までに到着した。しかし、1号機の爆発でこの方針が揺らいだ。12日夕、DMAT事務局が「放射能漏れの恐れがある。十分気をつけた活動を」とインターネット上のEMIS(広域災害・救急医療情報システム)に注意喚起の知らせを掲載した。

 これは命令なのか、アドバイスなのか。現場は迷った。「DMATは避難区域には入るな、と受け取った。命令だと思った」。島田医師が後に事務局に確認すると「行くな、とまでは言っていない」と説明を受けた。だが、原発事故を想定した訓練を受けていない以上、防護服などの装備もない。避難区域内で活動することは選択肢から消えた。

 1号機に続く14日の3号機の爆発は、DMATの活動拠点だった福島市内の福島医大にも不安を広げる。「ここもだめかもしれない」。政府が原発から20~30キロ圏内に屋内退避指示を出した15日には「圏内に急性期の患者はいない。活動の場は残されていない」と福島県の統括DMATが事務局と相談したうえで撤収を決めた。被災から72時間以上が経過していた。災害発生から48時間をめどに救助に当たる自己完結型の活動が原則だ。撤収は当然の流れだったが「原発の影響がなかったといえばうそになる。やばいぞ、という気持ちはあった」と島田医師は明かす。

 DMAT事務局次長の近藤久禎医師(41)は13日まで岩手で沿岸部に医師を送り込む調整業務に没頭していたが、福島の混乱を知り、14日にヘリで福島医大へ向かう。3号機爆発は、その直後。救急車で福島県災害対策本部のある自治会館へ行くと、ほとんどの職員が立ったまま電話対応に追われていた。

 「住民に安心してもらうことがまず必要。DMATの仕事じゃないが、おれの仕事だ」。危険なレベルの被ばくをしていないか、線量測定の差配を引き受けた。20日までに142カ所で約7万3000人が測定を受けた。その間も新たな問題が次々に起こった。福島市内の大規模避難所が「被ばくの可能性がある以上、受け入れられない」と避難民を拒否する場面もあった。

 ◇規制が地域をめちゃくちゃに

 混乱のなか、福島県災害対策本部では20~30キロ圏内の病院から患者を徐々に退避させる準備も16日から同時並行で進められた。医師が搬送に関われず患者が多数死亡した双葉病院(大熊町)の前例から、島田医師、近藤医師ともに「医療がタッチしなければ、1割の患者が死んでしまう」と危機感を募らせた。

 搬送する6病院の患者は1000人規模。では誰が搬送にあたるのか。30キロ圏内にはDMATは送り込めず、15日に撤収したばかりだった。17日の夕方までにDMATを再び招集し、搬送に関わってもらうことになった時は、議論を始めてから30時間以上が経過していた。「枠組みを決めるのにそこまでかかったのは空費以外の何ものでもなかった」と近藤医師は言う。

 搬送先を事前に決めるかどうかの議論も紛糾した。国や県の担当者は、双葉病院の教訓もあり「患者の搬送先を決めるマッチングを待ってから」と強く主張したが、時間がかかりすぎるのがネックだった。18日午後、県や厚労省など関係者が集まった会議では、内閣官房の担当者が「上の判断なんていらない。今ここで決めるべきだ」と声を張り上げた。近藤医師も机をたたいて決断を促した。

 30キロ圏外に設ける患者の搬送拠点にDMATが待機。病院から拠点までの搬送を担当する自衛隊・消防から引き継ぎを受け、全国から集まった救急車や県警のバス、海上保安庁のヘリで、新潟など11都県に運ぶ仕組みが整った。患者の受け入れ先となる各県にもDMATを配置し、搬送のペースは上がっていったが、連絡ミスで緊急度の高い患者がいることが伝わらないケースもあり、混乱も生じた。3月22日までに6医療機関約700人の6県への搬送が終了した。

 南相馬市立総合病院では医薬品や食事、燃料が届かなくなり、16日から物資の供給を自衛隊に頼るしかなくなった。

 南相馬市原町区の川崎フミさん(81)は津波に遭い、市立総合病院で治療を受けた後、市内の大町病院へ転院。18日の避難指示で群馬県内へ転送され、さらに2カ所の病院へ移された後、体調を崩して9月27日に亡くなった。次男の博祐さん(55)は「県外に避難していなければ絶対にもっと長生きしたと思う」と悔やむ。群馬の病院で口数がめっきり減ったフミさんは天井を見つめたまま「原町に帰りたい」とつぶやいたという。

 及川副院長は「搬送のリスクを考えれば重症患者は残すべきだったのではないか」と今も思う。国への怒りは収まらない。「屋内退避を指示して何が起こるのか誰も考えていなかった。ここに住んでもいいが、入ってはいけない、という行政をやった。規制が地域をめちゃくちゃにした。そして国は何一つとして責任を負わなかった」

 ◇災害医療態勢発動。DMAT招集

 3月11日午後2時46分。秋田県湯沢市にある雄勝中央病院の外科医、奥山学さん(41)は手術中だった。一瞬停電し、自家発電に切り替わった。急いで手術を終わらせ、携帯電話を見ると厚生労働省のDMAT事務局から「待機せよ」とメールが入っていた。

 奥山さんはDMATの一員だ。DMATは医師や看護師、事務職員ら計5人程度でチームを作り、被災地に入る。病院のDMATメンバーである女性看護師3人らを急いで招集した。

 岩手県立大船渡病院の脳神経外科外来で診察していた山野目辰味さん(53)は震度6弱の揺れが収まると同じ1階にある院長室へ走った。「発動します」。中にいた八島良幸院長(65)に大声で伝えた。発動とは、病院全体が救急搬送患者の受け入れに専念することだ。災害医療科長の山野目さんが指揮官になる。

 午後2時49分、院内放送が流れた。「災害医療態勢を発動します。これは訓練ではなく本番です」。山野目さんはロッカーに常備していたDMATのワッペン付きベストに袖を通し、ブーツに足を突っ込んだ。

 岩手県宮古市で生まれ育ち、救急医になってからは常に津波被害を想定して訓練を重ねてきた。「必ず津波は来る」と直感した。

 大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町で構成し約7万人を抱える「気仙医療圏」の災害拠点病院だ。午後3時5分、患者を優先度に応じて振り分ける「トリアージ・ゾーン」を1階に設置した。

 固定電話、携帯電話、インターネットは途絶えた。頼りは衛星電話と県の防災無線電話各1台。「情報を出せないほど混乱していると察知して、明日には必ず応援が来る」。腹をくくった。

 午後4時20分ごろ、岩手県への派遣が決まった雄勝中央病院の奥山さんは厚労省の広域災害・救急医療情報システム「EMIS」のホームページを開き、現地の医療機関が入力しているはずの被災状況を確認しようとしたが、情報はほとんど入っていない。「相当混乱しているな」。午後6時、担架や血圧計など340種類以上の機材を2台のワゴン車に分けて積み、雪が舞う中、スタッフとともに出発した。

 ◇患者搬送止まるが…残留を決め避難所へ

 11日、大船渡病院に運ばれた救急患者は通常の5倍以上の109人に上った。うち、重篤は20人。すでに亡くなっている人も9人いた。ところが、午後10時を回ると患者がぴたりと止まる。日没後、停電で街が闇に包まれると救出作業が難航する。津波から逃げた人も道路が寸断されて病院に来られないのではないか。「なんだか気持ち悪い静かさだ」。医師らはいぶかしんだ。

 翌12日午前6時、奥山さんのDMATチームは大船渡病院に到着した。「あれ?」。患者でごった返す待合室を想像していたが、違った。他にも3チームいた。奥山さんは、海水や土を飲み込んで炎症を起こす津波肺患者のヘリコプター搬送を要請された。ヘリの高度が上がると患者の血圧が下がり、昇圧剤を投与した。盛岡市近郊のヘリポートに着陸後、別のDMATに患者を引き渡し、救急車で再び大船渡病院へ戻った。

 午後8時の全体会議で、治療しなければならない患者がほとんどいないことが報告された。大船渡病院災害医療科長の山野目さんはDMATチームに「撤収しても構わない」と伝えた。10年にDMATの資格を取った奥山さんにとって初の任務だったが、「もう終わりか」と無力感を覚えた。

 だが、山野目さんは内心迷っていた。病院や都道府県ごとに医師や看護師、薬剤師などで編成され、慢性期の治療を担う医療救護班が岩手県の要請を受けて到着するという情報も届いていない。DMAT撤退後にもし患者が殺到したらどうするのか。市がまとめたデータを見つめた。避難所52カ所、避難者7545人。市民の約2割が避難している異常事態だ。

 翌13日午前7時、山野目さんはひげをそって全体会議に臨んだ。「方針を転換したい。避難所の状況を手分けして調査してほしい」。奥山さんは残る決断をした。

 午前8時半、首相官邸はDMAT事務局に活動を縮小してもよいが、各拠点での機能は残すよう伝えた。事務局も現地での活動継続を決めた。大船渡病院には新たに加わったDMATを含め5チームが残った。

 ◇遅れた救護班派遣要請

 奥山さんは13日午前9時に病院を出発し、市中心部に近い避難所を回った。「足を動かして」と血栓予防を指導していると、地元の保健師と出くわした。「道路が寸断された末崎(まっさき)地区に医療が届いていません」。直ちに病院へ引き返し、薬を車に積んで末崎地区の避難所へ向かった。

 「具合悪い人、いませんか」。飲んでいる薬と血圧が書かれたメモを持った高齢者から次々と手が挙がった。メモは先に避難所を回った保健師が、医師が到着した時に備えて被災者から体調を聞き取り、持たせていた。血圧や糖尿病、風邪の薬が流された被災者が多い。メモのおかげで、持参した薬ではとても足りないとすぐに分かり、奥山さんは病院との間を往復した。

 心臓に人工弁がついた男性がいた。血栓ができないように1日1回飲まなければならない薬が流され、3日間飲んでいない。すぐに抗凝固剤を処方した。この日、末崎地区の避難所2カ所で計約50人を診察した。

 14日、大船渡病院は災害医療態勢を解除し、トリアージ・ゾーンを解消する。一方、待合ホールは薬を求める患者でごった返し、建物の外にまであふれた。病院にカルテがなくて薬の種類が分からない人のために、薬の見本を並べて患者に指さしてもらった。被災地の医療ニーズは、骨折や外傷を負った人を救命するDMAT本来の任務とは明らかに異なっていた。県内に駆けつけたDMATの中には、装備が診療に合わず、いったん引き揚げたケースもある。

 夕方、奥山さんが病院に戻ると撤収準備をしていた1チームしかいない。「誰もいなくなるのか」。DMATの活動は災害発生から最長で72時間としており、14日午後3時が限度だった。奥山さんのチームも疲労が激しく、15日に病院を後にした。だが、岩手県が各都道府県に医療救護班の派遣を求めたのは15日になってからだ。県医療推進課は「沿岸地域との通信状態が悪く、災害現場に慣れたDMATの活動継続を先に要望していたため、医療救護班の派遣要請が後になった」と説明する。

 医療救護班が15日に入るまで診察を待たなければならない被災者は少なくなかった。避難所に着いた保健師が容体の悪い高齢者に気付き、救急車を呼んで大船渡病院に搬送する事態も相次いだ。山野目さんは「慢性期の医療に関わる救護班が来るまでの間、どう手を打つか。今回の大きな教訓だ」と振り返る。

 ◇地域診療待ち望む声

 DMATが撤収して以降、避難所などに出向いて医療を担う医療救護班が全国から集まってきた。

 「あとは滝田先生に診てもらいますから、先生はいいですよ」。大船渡病院を拠点にしていた医療救護班の一つで、自治医大病院(栃木県下野市)から派遣された医師、神田健史さん(38)は4月2日、末崎地区の避難所に入り、患者の声に驚いた。患者のほとんどが、この地区で開業していた唯一の医師、滝田有さん(51)の診療を求めていた。

 滝田さんは3月11日、診療中に医院の2階で津波に襲われた。一緒にいた妻が水を大量に飲み、東北大病院(仙台市)に搬送された。4月3日、末崎地区へ戻ってきた滝田さんに神田さんは避難所で向き合った。診療所もカルテも失い、見るからに打ちのめされた様子だ。

 「保険診療をやるべきです」。神田さんは切り出した。前日に診た患者たちを思い出した。まるで自分の親戚のことを話すような口ぶりで、滝田さんの診療再開を心待ちにしている。過疎地で医療に携わった経験がある神田さんでさえ、「コミュニティーの一員としての医師とはこういう人のことなのか」と感じ、地域医療のお手本を見たような気がしていた。

 滝田さんは悩んでいた。大船渡市ではすでに多数の医療救護班が活動し、被災者が無料で診療や投薬を受けることができた。そんな中、自分だけお金を取って診療していいのか。だが神田さんは、この地域の医療システムを再生させるために診療所の維持がどうしても必要だと考えていた。「先生を手伝えることは何でもやりますから」

 4月4日、滝田さんの仮設診療は、避難所があった「ふるさとセンター」の2階で始まった。自治医大の医療救護班は、末崎地区に10カ所ほどある避難所を巡回する班と、滝田さんのサポートをする班との二つに分かれて活動した。神田さんは滝田さんの後ろに控えて処方箋を手書きした。このおかげで滝田さんが患者と話す時間が削られずにすんだ。「支援に入ってくれた医師たちに心を打たれ、『やらなきゃ』と思った。震災前と同じ土地で、同じ患者さんを診させてもらえるありがたさを感じた」

 大船渡病院を拠点にした自治医大の医療救護班の活動は、7月1日まで続いた。

 ◇入院患者、震災前の半分

 南相馬市立総合病院がある20~30キロ圏内は昨年4月22日、入院患者の受け入れが認められない緊急時避難準備区域に指定された。区域は9月末に解除されたものの、放射線への不安から医師や看護師がなかなか戻らず、入院患者を震災前の半分程度しか受け入れられない状況が続く。

 金澤院長は「入院医療を十分にできないと経営的に持たない。病院がつぶれれば、地域社会が崩壊する」と危機感を隠さない。2月に入り、全国から医師の公募を始めた。

 福島県によると、南相馬市を含む相双地方16病院の医師数は昨年12月現在で61人。同3月1日時点の半分にとどまる。

 ◇8開業医、診療とりやめ

 大船渡病院では5月の連休明けから一般診療を再開。だが陸前高田市の県立高田病院が津波にのまれて入院施設がなくなり、震災後は大船渡市と陸前高田市で計8カ所の開業医が診療をとりやめた。気仙医療圏で震災前に築かれていた、かかりつけ医と急性期、慢性期の役割分担が崩れてしまった。

 今年2月、高田病院は仮設診療所を増築し、被災前と比べて29床少ない41床の入院設備を再開させた。「気仙医療圏を立て直す第一歩だ」。震災からまもなく1年。山野目さんには一段落ついたという実感はまだない。

 ◇活動拡大へ見直し必至

 東日本大震災はDMATのあり方に多くの課題を突きつけた。直後の救命医療が重要だった阪神大震災とは異なり、今回は津波や原発事故、慢性疾患への対応など想定外の事態に直面。より広い活動ができるよう国は見直しを始めている。

 厚労省の検討会は昨年10月、今回の対応を踏まえた災害医療の検証報告書を作成。DMATが幅広い疾患に対処できるよう研修内容を見直し、活動が長期に及ぶ場合は今回のように2次隊や3次隊を派遣することなどを提言した。

 だが、原発事故への対応は「文部科学省や経済産業省の所管」として触れられず、DMATの活動要領の見直し作業は道半ばだ。

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 石川隆宣、久野華代、神保圭作、尾中香尚里、永山悦子、中島和哉が担当しました。(グラフィック、日比野英志/編集・レイアウト、野村房代)

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 ■ことば

 ◇DMAT(ディーマット)

 災害派遣医療チーム(DisasterMedicalAssistanceTeam)の略。大規模な災害や事故が発生すると、隊員は事務局のある厚生労働省の派遣指示を受け、おおむね48時間以内で活動する。阪神大震災で緊急医療体制が整っていればより多くの人が救えたと指摘され、05年4月に発足した。医師や看護師、事務職員ら1チーム5人程度で構成する。隊員になるには研修を受講しなければならない。今回は47都道府県の約380チーム(1800人)が被災地に入った。

 ◇トリアージ

 「選別」という意味のフランス語が語源で、災害時などに病気やけがをした人の重症度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。優先順位が高い順に、赤=一刻も早い処置が必要▽黄=早期治療が必要▽緑=軽症で搬送必要なし▽黒=死亡もしくは救命不可能--に4分類し、トリアージ・タッグを付ける。日本では阪神大震災(95年)を機に普及した。

毎日新聞 2012年2月26日 東京朝刊

 

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