Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
聞き手:布施岳人 松本由麻
文責:松本由麻
2001年7月27日 喫茶店にて
【谷川茂】
ジャーナリスト。1964年生まれ。神奈川大学卒業。旅行でベトナム、カンボジアを訪れカンボジアに興味を持ち始める。その後、出版社に勤務しながら独学でカンボジアについて勉強する。ポル・ポト時代に「なぜカンボジアで同じ民族同士が殺し合いをしたのか」を明らかにするため、1990〜2000年の10年間カンボジアに滞在。途中、大学院へ入学。現在、生活費稼ぎのために旅行会社P.I.T.TRAVEL(CAMBODIA)[1]社の社長、テレビ番組のコーディネーター、研究のために神奈川大学大学院経済学研究科博士後期課程に在学、週刊誌などに記事を書いたりといったジャーナリストと、幅広い活動をしている。近々、カンボジアでの10年間の滞在をまとめた本を出版予定。
JR日暮里駅北口に現れた谷川さんは、Tシャツにジーパン、そしてサンダル、というラフな出で立ちであった。日に焼けた肌が、カンボジアで自分の足で歩き回って調査、取材する谷川さんの姿を想像させる。 第一印象は、テンポ良く話をする方で、人と接することが得意なのだろうと感じた。10年間もカンボジアに滞在し、広く、深くカンボジアに関わってきた谷川さんからどんなお話を聞くことができるのか。私たちはわくわくしながら、喫茶店へ入った。
―谷川さんがカンボジアに関わっていった経緯を教えてください。
俺、夜間の神奈川大学に在学中に、東南アジアやベトナム戦争にすごく興味を持って、徹底的に勉強したの。そのベトナム戦争の話の後半部分に、カンボジア紛争が出てきた。でも、大学の段階ではあんまりカンボジアに興味はなかったんだよね。で、1989年に旅行でベトナムとカンボジアに初めての海外旅行をしたんだ。この旅行の目的は、ベトナムを見るために行ったんだ。でも、カンボジアに行ってみたら、カンボジアの方に興味がわいちゃったんだよ。
―カンボジアのどこに興味がわいたのですか。
それはね、ベトナムはこれからも自分たちでやっていけるという人々の息吹が感じられたんだよ。でも、カンボジアはそうじゃないんだよね。どよーんとしてて、本当にこの人達は大変だったんだろうなというのを、肌で感じたんだよね。あと、ベトナムとカンボジアでは人の気質が違う。ベトナムっていうのは中国文化圏で、悪く言えばずるがしこくて活気に満ちあふれている。一方、カンボジアの人はおっとりしていて、かといって目の奥には厳しさみたいなのがある。こういったことが、カルチャーショックだった。結局、ベトナムとカンボジアのどちらにショックを受けたかというと、カンボジアから受けたわけですよ。
帰国してから出版社に入って、働きながらカンボジアのことを勉強し始めた。本を買ったり、カンボジアから来た難民の人と交流したりして、自主的に活動してたんです。そんなことをしていて、1年経ったら、ベトナム・カンボジアツアーを手配した旅行会社の社長が、「カンボジアに現地法人を開きたいんで、行ってみないか」と俺に直接話を持ちかけてきたんだよ!
―谷川さんは、客だったんですよね(笑)。
そうだよ、客だったんだよ(笑)。その旅行会社、ピース・イン・ツアーは、ただ商売をするだけではなくて、カルチュラル・スタディーズ・ツアーみたいなところで、プラスワンを追求している会社だったんだよ。私が行ったときも石川文洋[3]さんっていう戦場カメラマンが水先案内人で、アジアに対してすごい問題意識を持っていて、俺も彼に共感していて、その点で俺にお呼びがかかったんだろうね。
で、俺、ジャーナリズムの仕事をやりたいと思ってたんだけど、そんな機会もないじゃないですか。旅行会社なんか全然やりたくなかったけれども、お金を稼ぎながらカンボジアで暮らせるなんて機会もないと思って、行っちゃったんですよ。もっと勉強したかったんですけど、行ってからでも遅くはないっていうのもあったし。タイミングがあるじゃないですか。90年といえば、カンボジアが社会主義の時代で、これからどんどん社会が変わっていくのが見られるチャンスだと思ったしね。
―突然カンボジアに行くことになって、苦労されたことはありますか。
行くに当たって、何にも準備もしてない。言葉も文化・社会も何にも分からないでしょ。カンボジア語できないし、英語もほとんどできない。だから、カンボジア外務省の英語のできる優秀な人がカウンターパートになって、その人に、おんぶにだっこだったね。つまり、結局カウンターパートナーの言いなりだよ。社会主義の国で旅行会社を開くといっても、参考になるような会社が一つもないわけだしさ。岡田木材っていうのがあったけれど、農業省と一緒にやってたからジョイントベンチャーなの。でも、俺らは完全に独立だから、わけが分からなかった。お金がいくら取られているか、何に使われているかが分からなくて、すごいお金を提供していたと思いますよ。そのかわり、92年ぐらいまでの日本人のカンボジア旅行は俺のところが独占していたから、濡れ手に粟でしたよ(笑)。それでまあ、大学院の学費とか、在学中に日本に住む資金が作れたんだけどね。あと、この旅行会社のつながりで、テレビ番組のコーディネートの仕事も来るようになったんだよ。
―では、ポル・ポト時代に興味を持ち始めたのは、いつだったのですか。
カンボジア紛争があって、その続きに虐殺があった、と大学で学んで知っていた。その上で、実際カンボジアに旅行をしたことが始まりだったと思う。ツールスレン虐殺博物館とか回ったり、ガイドさんの話を聞いて、ショックを受けた。その後、帰国してから、少ないカンボジアの文献を読みあさって、難民の人と仲良くなって、体験談みたいなものを少しずつ聞いたりした。それで、あらかじめ日本で勉強していったんだけど、そんなの全然アマちゃんだった。カンボジアに行ったら行ったで、過酷な体験をしてる人たちが大勢いるわけですよ。最初は被害者ばかりに目がいってて、被害者の話を聞けば、ポル・ポト時代が分かったような気がしてたけど、それは全く間違った認識だった。やっぱり、一般的に加害者と呼ばれている人たちの話をきちんと聞かないと、本当のことが分からないですね。大学院に入ったぐらいからそう思うようになってきた。
―加害者と言われている人のお話を初めて聞いたのは、いつですか。
ずいぶん遅いですよ。97年ぐらいかなあ。97年にテレビ番組のリサーチでタイ国境のパイリンに行ったんだよ。ただ元クメール・ルージュの人がたくさん住んでいる場所を見に行きたいと思って、NHKの友達と行った。そしたら、いつのまにかイエン・サリ[4]の家の前に来てしまったんだよ。イエン・サリが地面に水をまいていたんだ。
そこで、彼に会いたいと思って、上智大学の共同研究員の名前が書いてある名刺を出したんだよ。そしたら、なんと、会ってくれることになったんだよ!なぜかっていうとね、イエン・サリがその名刺を見て、ラオ・キム・リアン[5]さんと俺が上智大学の同僚だとわかったからなの。実は、民主カンプチア政府時代に、イエン・サリやその奥さんが日本に来たとき、ラオ・キム・リアンさんは通訳をやっていて、それでイエン・サリはラオ・キム・リアンさんを知っていたんだよ。あとは、元クメール・ルージュの人と会うためには、バッタンバン、バンテアイ・ミエンチェイのタイ国境の周辺を、とにかく歩き回った。そのときに多くの人たちと知り合いになったんだよ。
―テレビ番組「ポル・ポトの悪夢」[6]では、元クメール・ルージュの人たちを取材してますね。そのときは、通訳は付けていたのですか。
通訳いましたよ。あの時は、日本国籍のカンボジア人通訳が日本語をカンボジア語に通訳して、俺が聞き取って、それをディレクターにその場で同時通訳してた。こういった取材の時には、絶対二人いた方がいいんですよ。俺がよく一緒に仕事をしている奥澤俊さんは、日本に帰化して、カンボジア人名もある日本人なんだ。簡単な通訳は俺がやっちゃうし、簡単な仕事だったら彼には依頼しないけれど、こういった人間に焦点を当てたもので難しいインタビューなんかだと彼にお願いしています。
あと、カンボジア人の通訳は、頼みませんね。完璧に日本語を話せるカンボジア人がいないんですよ。日本人って結構、抽象的な質問するじゃないですか。それではカンボジア人は、分からないわけですよ。それを聞いた瞬間に、こうやって説明した方がいいと判断することが、できる人とできない人の大きな差があるんです。そのまま言っちゃたら、変になっちゃって、向こうはぽかんとしてしまうことが多いからね。カンボジア人でマスコミレベルで働ける人は、まだなかなかいないね。
―この番組では謝礼は払っているのですか。
NHK側は、一切お金は払っていない。もの、NHKの記念品をあげます。NHKにはこういった謝礼品がたくさんあるから、その中でその人が喜ぶようなものを持っていって差し上げている。
―谷川さん自身が、取材で謝礼を払うことはあるのですか。
払いますよ。でも、取材交渉や出演してくれるかどうかを頼むために、お金を払うことはないです。了承してもらって、いろいろとやってもらって、お世話になったから謝礼やものを差し上げたりします。ここの生活レベルだったら、これぐらいが適正だろうと考えたりします。短い取材だったら、ラジオとかTシャツとか。いかにお金に頼らずに取材をするかが、重要だと思ってやっていますね。
―お金に頼らずに話を聞き出す、という谷川さんのモットーの理由は何ですか。
お金が絡むと話もつまらなくなるし、言ってくれることは言ってくれるのだけれど、本当のことまで言ってくれないと思うんだよね。取材も学術的な調査も、こういった関係ではだめだと思う。だから、お金の絡んでいない関係を作ってから、その後にお金の話をしようという感じです。というのは、対象者は全面的に協力してくれて、結果、生活のペースを乱して取材することが多いから絶対にお礼はすべきだと思うからね。
―では、具体的に話を聞き出す谷川さんのテクニックを教えてください。
まず、基本的なこととして官憲の力を利用しないこと。役人を通して取材や調査の依頼をしたり、役人と一緒に歩いているだけで、対象者たちは警戒してしまうからね。私は、官憲の力を使って調査や取材したことはない。何から何まで一人でやるのがポイントだね。なおかつ、自分は外国人なのだから、カンボジア語が話せて、面白い奴だと思わせてしまえば、相手も結構話してくれるわけだよ(笑)。逆に、カンボジア人の通訳を交ぜると、その通訳がまた誰かに言うかもしれないという不安を持ってしまって駄目なわけです。だから、緊急な場合や表面的なことだけで良い時だけ通訳を連れて行き、本質的な部分で知りたい時は自分一人でやってる。
話を聞き出す時は、調査者の人間的な魅力によって相手の心を惹き付け、心を開いてもらうのが重要。だから、聞き取りは誰でもできることではないと思う。相手を自分に惹き付けるためには、いろいろな話題を持ってないといけないからね。例えば、おばちゃん相手には下ネタとかね(笑)。やっぱり色んな経験してないと、ぱっと臨機応変に話題は出てこないわけだね。過去にいろいろなものを見て、いろいろな体験して、初めて出てくる。それは、第一印象で相手に警戒心を与えない態度だね。お笑い芸人みたいなノリとかね。俺は、鉄道会社、公務員、日雇い労働者、出版社、旅行会社と、いろいろやってきていて、その経験はそれなりに役立っているよ。
―具体的に「ポル・ポトの悪夢」の取材ではどういうことをしたのですか。
元クメール・ルージュの人の取材を行うときは、当然彼らは過去を話すのを嫌がりますよ。言ったって一つも得することないんだから。しかもテレビで、顔出しだからね。だから何回も訪ねた。仲良くなれば、本音で話してくれるからね。果物を持っていったり、子供をあやしたりといろいろやって、それでお互いにうち解けあったんだ。あと、信頼関係を作るために、俺も自分のことを話して、日本のことも全部説明して、彼の話も全部聞いた。それで、彼は子供も奥さんもいるから、家では話したがらない。奥さんは彼の昔の素性を知ってるんだけどね。だから、「ちょっと水路を見に行こうよ(笑)」って言って水路の方に連れ出して、日陰で二人で話し込んだ。基本的に取材の時には最低限の人数しか連れて行かないんだよ。
ケ・ポック[7]の取材の時は、ケ・ポックには最初はクメール・ルージュが活動していたタイ国境付近の状況を聞きたい、ということにして取材を許可してもらった。でも、実際は、彼のポル・ポト時代のことを聞いたしね(笑)。「話が全然違う!」ってね(笑)。
―人を捜す時に苦労した点はありますか。
ポル・ポト時代にはみんな偽名を使ってたでしょ。その癖がまだ今も残っていて、本当の名前を言っても見つからない人が結構いる。特に元クメール・ルージュの偉い人たちは。
―こういった人たちを突き止めるには、どうしているんですか。
聞く量だよね。ある程度、人を絞って、その人と集中的につき合う。話しこんで、「また来るよ」って言って、長くつきあっていくことを前提にして接する。そうすると、段々と「そいつならそこにいるんじゃないか」と教えてもらえる。あとは、だんだん慣れてくると、どういったコードネームを使っているかが分かってくるんだよね。
―ポル・ポト派の幹部に会った印象はどういったものですか。
いいオヤジばっかりだよ(笑)。みんな。イエン・サリも、物腰が柔らかい。一度、パイリンで朝食に招かれたけど、いきなりフランスパンと目玉焼きの洋食風の朝ご飯。首に絹のスカーフを巻いて、ワイシャツ着て、スラックスをはいて出てきたんだよ。すごくオシャレなんだよね。政権をしょってきただけの貫禄みたいなものがあるし、人を包み込むような、ちゃんと人を自分の下に置いて主導していくことができる人だったのが分かる。あと、やっぱり頭がいい。イエン・サリは、かなり優秀だからね。でも、それを変な方に使っちゃったんだけどね。
一方、ケ・ポックは、農村のリーダータイプ。彼は、親分肌で、素行は悪いのだろうけど、ついて行く人がいるというのは分かる。ユニークだもんね。うまく冗談も言えるしね。話をしてておもしろい。その辺はインテリの人とは違う親しみやすさっていうのがある。やっぱり自分が農村体験してるから、農民の気持ちも分かるわけ。だから、農民もあいつなら分かってくれるだろうと思うわけだよね。直接会うとみんないい人だよ。みんなそうだよ。
―「ポル・ポトの悪夢」の取材などを通して、谷川さん自身の考える「ポル・ポト時代」に対する考えを教えてください。
被害者、加害者で分けるのはおかしいんじゃないかって思った。今まで被害者側の意見だけで、ポル・ポト時代が語られてきたけど、それはおかしい。被害者っていうのは、どうしても自分の痛みを訴えたいから、事が大きくなるわけですよ。ちょっと痛かったけど、すごく痛かったと表現してしまう。そういうことは、絶対あると思うんです。だから聞いた側が、割り引かないといけない。そこで、どうやって割り引くかというと、そのときにいた加害者、管理する側、統治する側であった人たちの話を聞くんだよ。その人達は逆に小さく言うわけですよね(笑)。その二つのバランスの中で判断しないと、実態は分からない。
現地の人たちは、ポル・ポト時代のことに対して寛容で、風化してもいいや、みたいな雰囲気だけど、それではいけないと思う。現政権に元クメール・ルージュがたくさんいるので、政府まで追及されてしまうから無理もないんだけどね。カンボジアの人は、内に込めて、溜めて、爆発するんだよね。また爆発されたら大変。外の人があまりとやかく言う問題じゃないが、やっぱり責任というのは明確にしないといけない。同じ事が起こるからね。俺は、あの国に同じ事が起きてほしくない。だから、俺のできることはやって、なぜ、ああいった事が起きたのかという仕組みを明らかにして、カンボジアから去っていければなあと思ってます。何年かかるかわかりませんけどね。
―ポル・ポト時代、同じ民族同士が殺し合いをしてしまった仕組みというのは、どのようなものだと考えているのですか。
あの仕組みはカンボジア特有ではなくて、人間に普遍的な仕組みだと段々と思い始めてきたんです。人を差別化したり、排除したり、均質化したりという仕組みっていうのは、ポル・ポト時代やカンボジアだけではないと思うのです。そういう意味で、日本にとっても仕組みを暴くことが有効になるかもしれない。なんせ不思議なのは、カンボジア人同士が殺し合ったことが不思議なんですよ。民族とか宗教というような旗印がない中で、差別化されてたり、均質化されたりした。すごい変な仕組みになってるわけですよ。均質化された場合、ちょっとはみ出ると排除される仕組みとか、そういうのがどんどん浮かび上がってくるし。こういうのは、みんなあると思うんですよね。日本の学校の教室の中とか。自分がジャーナリストとして取材していきたいと思っている論点が、この「人は他者を排除する」という考え方なんだよね。
―「人は他者を排除する」という考え方とは、どのようなものなのですか。
「第三項排除理論」[8]という理論と関係があるんだよ。すごく単純化すると、人は自己保存のために他者を排除するものであり、そこで起きる暴力を防ぐためには、代わりになる第三者が必要になる、ということ。例えば、現在、日本の学校の40人のクラスにはガキ大将も、特に目立った子供もいなくて、だんだん均質化して、その状況の中でいじめが生まれている現実だよね。これは子供たちが自分も排除される可能性があるから、誰かを排除したいという欲求の表れ。ちょっとした違いを見つけ出して、そういう奴を見つけると、そいつに集中攻撃して追い出しちゃう。そうすることで、追い出してる間は自分は安心していられるわけだよね。人間って、自分の欲望を満たすために人のことを考えない自分勝手な性質なんですよ。
でも、こういった性質が人間にあることが悪いというのではなく、あるのが分かっていることが重要だと思うんです。自分はいつも他人を排除してしまう可能性があると思っていれば、気づいて予防もできるのです。でも、みんな、人を排除してしまう衝動を分かっていない。だから、その衝動を理解するための事例として、ポル・ポト時代のカンボジアの事例を提示したいのです。それは、私が孤児で養護施設にいた体験があるから、排除されたり差別されたりする理由がなんとなく分かるからなんです。だからこそ私が問題提起したいって思うんですよ。
―1995年に修士論文を書くために、シェムリアップで村落社会調査をしていますが、なぜ村落社会調査というテーマで行ったのですか。
まず、神奈川大学大学院に入った理由は、ポル・ポト時代をよりよく理解するということだった。そのためには、もっと基本的な勉強から始めて、もう少し基礎的なことを分かった上でアプローチをかけていく必要があると思ったの。それで、自分の得意分野を一つもうけて、そこから切り込んでいくようにしたいなあというのがあった。そこで、経済学研究科に入ったんだよ。経済学を使って、カンボジアを一つの共同体としてとらえた場合に、ポル・ポト時代の共同体が、どのようなものだったのかというのを知りたかったわけです。
ポル・ポト時代のオンカー政策は、サハコーという農業生産共同体を中心に回っていた。それは、元々は集落や村が基本となってるわけなんですよね。共同体といえば、やはり、人と人とのつながりだから、どのような形でつながっていくか。その中で、自分のできるのは、一つの集落ぐらいじゃないかと思って、どんどん縮めていった。なおかつ上智大学アンコール遺跡国際調査団[9]が調査しているバンテアイ・クデイ遺跡の近くなので、支援もあったりして、そこで農村調査をやり始めたんです。
―カンボジア人の家に滞在して、一緒に田植えから収穫までやったのですよね。
俺なんか都会っ子、シティ・ボーイ(笑)だから、全然田舎のことなど分からないんだよね。だからまず、一緒にやろうということで、耕起から田植え、稲刈りまで全部一緒にやったんだよ。やらないと分からないと思ってね。それで、少しずつ分かってきて、一緒にやる中で信頼関係を作って、戸別調査をやった。この時の体験がテレビ番組のコーディネートにおける、短い時間で取材対象者とどれだけの人間関係がつくれるのかという技術を身につけた点で役に立ったと思います。
―現在はどういった活動をしているのですか。
基本的に自分の好きなことしかやってないですよ。旅行会社は、俺は社長なんだけど、現地スタッフに全ておまかせしちゃってます(笑)。今は生活費や学費を日本に送金してもらってる(笑)。あと、テレビ番組のコーディネーターは、初めから演出する前提で番組が成立していたりといったつまらない番組はやりたくないから、コーディネーターは仕事にはしてない。半分趣味的なものなんだよね。
―名刺には、「ジャーナリスト」という肩書きが書いてありますね。
そうそう、本職は何ですかと聞かれたら、ジャーナリストと答えますよ。あまりまだ、言ってないけれど。自分の取材で自分の記事を書いたときはジャーナリストという肩書きを使うつもり。それ以外の仕事では、まだ名乗れないね(笑)。ジャーナリストと名乗る限りは、それなりじゃないとまずいからね。まあ、これからです。それは映像、文章、写真になるかもしれない。修行しながらやっていこうと、全部少しずつ今やってる。そのときには、カンボジアの経験がどんな場合においてもすごく活きると思う。というわけで、旅行会社、テレビ番組のコーディネーター、ジャーナリストと、まあ要するに自由業ってことですね。
―谷川さんは、様々な活動をうまくこなしていてうらやましいですね。
一番重要なことは好きなことをやってるかどうかだよね。それが前提で、それをどうやってお金に絡めていくか。やっぱり学術調査の限界は、お金でしょうね。研究をしていると年間50万から100万円ぐらい本代で飛んでいくんだけれど、稼いでいれば本なんて好きなだけ買える。また、一般的には補助金が下りなくなってしまうと、調査も終わりで、人との付きき合いも終わってしまう。でも、俺みたいに自分のお金でやっていると、とことんやれる。好きなようにできるし、その成果も学術調査に負けないものができる。いかにこういう方向、手段を見つけていくか。これが俺は少し上手だったのかもしれないな。
自分の職業は何であるかをはっきりさせて、自覚を持ってやることも大切だけれども、やっぱりフレキシブルに、アンテナの向く方に、触覚の向く方に、行ってみるのも重要だと俺は思うよ。みなさんも、やりたい事なんてまだこれから分かるんだから、色々やってみてくださいよ。初めから大きな会社に入るのもいいけれども、それで一生決まってしまうのは非常にもったいない。でも今の日本はそれを外すとなかなか入れないから、迷うこともあるかもしれない。でも、実力、能力、経験を積んでおけば大丈夫。要は、楽しく生きられるか(笑)。組織に入ると世間が狭くなるからね。
―今後の活動としては、どういうものをお考えですか。
年内に、カンボジアの10年滞在記本を出したいですね。内容は、遺跡、文化、農村、ポル・ポト時代といった項目を立てたものになる予定。その中で、批判することはすると思う。例えば、テレビ取材のヤラセ問題、現地の人とどうやってつき合うべきか、遺跡保存の是非等を批判していきたいね。あとは、博士論文を書きたい。加害者側もしくは体制側に属していた人々の証言を加味した上での、ポル・ポト時代の再構成したものを書きたいね。みなさん、買ってくださいね(笑)。
谷川さんのフレキシブルな生き方には、日本社会に翻弄される私たちには驚きと感動を与えた。常に自分のやりたいことをやり、問題意識を持っているのがうらやましい限りだ。今後、ジャーナリストとしての活躍にも注目していきたい。
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