第六回


「お母さん、今日の晩ご飯、なに?」
「今日はねぇ、もうすぐクリスマスだから、サバミソよ」
「全然関係ないじゃん」
「関係なくないわよ。クリスマスになると、チキンとか肉ばっかり食べるでしょ。だから、いまのうちに魚を食べておけば、栄養のバランスが取れるってわけ。んー、完璧な論理。お母さん、冴えてるわあ。ゆうべ脳トレの本読んだから、左脳が活性化しまくってるのね、きっと」
「魚かぁ……」
「ダメよ、好き嫌いは。サバとかイワシみたいな青魚にはDHAがたっぷり含まれていて、食べるとアタマがよくなるんだから。脳トレの本に書いてあった」
「ウソだあ。だって、DHAがたっぷり含まれてるのに、サバとかイワシはアタマよくないじゃないか」

 たしかにね。何千、何万年も前からイワシやサバにはDHAが含まれてたはずなのに、あいつら全然賢くなった気配がありませんよね。DHAで本当にアタマがよくなるなら、そろそろ、サバが東大に現役合格してもいいころです。
「もう、やめてよ大将まで。こどものヘリクツだけでも、うんざりなんだから」
 ヘリクツは、相手のいうことを鵜呑みにせず考える訓練にもなりますから、いちがいに悪いこととはいえませんよ。息子さんは将来有望です。それより、なんでも鵜呑みにしちゃう奥さんのほうが心配です。脳が活性化するだのDHAだのと、いったいどんなインチキ脳トレ本を読んでるんですか。
「ちゃんと脳科学者が監修してる本だったわよ」
 ちゃんとしてない学者のほうが、真偽の怪しい珍説・新説を平気で紹介してくれるから、テレビや出版社はおもしろがって使うんですよ。
 まともな脳科学者はまともなことしかいわないから、インパクトが弱く、テレビ向きじゃありません。まともな脳科学者に聞けば、脳の活性化なんて現象には、たいした意味などない、と教えてくれるはずです。
「そうなの?」
 要するに、人間は慣れない作業をするときには、脳をフルに使うんです。これが活性化してる状態。ところが慣れてくると、脳を活性化させなくても、無意識に作業ができるようになります。
 奥さんだって新婚当時、料理をはじめたころは作業に集中してたはず。でも慣れたいまは、全然ちがうこと考えながらネギきざんだりできるでしょ。料理中に脳が活性化しなくなったいまのほうが、料理能力は向上してるわけです。
「そういわれちゃったら、活性化ってなんなのよ、って話になるわよね」
 活性化だけにかぎらず、あやしげな脳理論を宣伝に使って教材を売りつけようとする悪徳業者や出版社は、後を絶ちません。
 だからぜひとも、ちゃんとした本を読んで正しい脳科学の知識を身につけていただきたい。ちょっとカタめだけどこんなのはどうでしょう。『脳からみた学習』。世間にはびこる脳科学のウソ知識を、神経神話とか脳科学神話として、まとめてぶったぎってます。
「ニコタマ最強神話みたいなもんかしら?」
 それはどうか知らんけど、この本、原書は2007年に出版されてます。2007年の時点ですでに否定されていることが、いまだにまちがった常識として世間でまかり通っていることに驚かされますよ。
 たとえば、よくいわれるもっともらしいウンチクだと、右脳人間、左脳人間なんて区別。それから男脳と女脳はちがうみたいな説。どちらも脳科学ではすでに否定されているそうです。
「みんな、いまだに信じてるわよ。だってそういうこと書いてる本がベストセラーになったし、テレビでもよくやってたのに」
 脳に関する重要なことは、3歳までに決まってしまうので、早期教育が大切である、なんて強迫めいた宣伝をよく耳にしますけど、これも根拠がありません。
「ウチの子が赤ちゃんだったとき、そんな宣伝につられて、高い教材買っちゃったわよ」
 古い常識に反して、脳の学習能力は生涯持ち続けるものだということが明らかにされました。3歳までにやらなければ身につかないことなど、とくにないそうです。
 でもこれって、朗報じゃないですか。だって、人間いくつになっても学ぶことが可能だとわかったんだから。
「はじめるのに、遅すぎることなんかないよ~って、ありがちなメッセージソングの歌詞は本当だったんだ。そういえば、人は脳の10パーセントしか使ってないとかいうし」
 あっ、それもウソです。実際には、脳は100パーセント活動してるそうですよ。この本には重要なアドバイスが書いてあります。もし、あなたの脳が本当に10パーセントしか活動していないのなら、脳が損傷してるおそれがあるので、ただちに病院に行きなさいとのことです。
「もしかして10パーセント活動説って、〝アタシまだ本気出してないから〟みたいないいわけと一緒なのかしら」
 それもどうか知らんけど。


◆今回紹介した本

『脳からみた学習 新しい学習科学の誕生』

OECD教育研究革新センター編著

小泉英明監修 小山麻紀、徳永優子訳

明石書店 2010(原書:2007)

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パオロ・マッツァリーノ(Paolo Mazzarino)

イタリア生まれの戯作者。現在、千葉県民。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。著書に『コドモダマシ――ほろ苦教育劇場』、『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』、『13歳からの反社会学』、『つっこみ力』などがある。

著者公式ホームページ http://pmazzarino.web.fc2.com/

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