第八回
らっしゃい!
「大変。うちのマンションに、外国人の一家が越してきたの」
それをわざわざ、外国人の私に報告に来た意図をつかみかねてます。
「それがね、ご主人と息子さんは、松崎しげると元広島の衣笠を足して2で割ったような顔をしてるのよ」
それ、どっちも日本人だし。サンコンさんとかボビーさんとか、もっとイメージの近そうなたとえがあるのに、なぜ日本人でたとえる。だいたい、あなたの歳でよく衣笠をご存じですね。
「うちの父がカープファンだったから、こどものころテレビで見てたの。鉄人よ!」
知ってますよ。連続出場記録保持者でしょ。
「奥さんは、日焼けした木の実ナナって感じかな」
だから日本人にたとえるなって……ま、そっちはなんとなくイメージできるか。
要するにあなたがおっしゃりたいのは、引っ越してきたのがアフリカ系の顔の濃い一家だということなんですね。で、その人たちは日本語話せないんですか?
「ううん、あいさつしたけど、日常会話ならほとんど通じる」
じゃあ、問題ないじゃないですか。ぜひ、当店のことも宣伝していただけるとありがたい。
「ワタシが心配してるのは、その人たちがイスラム教らしいってこと。べつに私は人種差別とか偏見とかないわよ。あの人たちもとても紳士的なご一家だけど、イスラム教って、目には目を、とかジハードなんていう宗教じゃない。もしなにかマンション内のルールのことなんかでいざこざが起こったら大丈夫かしらと不安になっちゃうのよね……」
おたくのマンションに住む日本人だって、仏教徒ばかりとはかぎらないでしょ。一戸くらいはクリスチャンの家族もいるかもしれない。それは不安にならないのですか?
「だって、キリスト教は〝愛〟の宗教でしょ」
キリスト教国家がむかしから戦争やってたのはご存じでしょ?
「そういわれれば、そうか……」
ほとんどの日本人は、宗教に関して偏見がないつもりでいるのに、じつはひどく誤ったイメージを持ってます。その原因が、高校の倫理の教科書にあるのではないかと主張するのが、この本、『教科書の中の宗教』です。近年出た比較文化論のなかでもかなりの傑作なのに、新書大賞に選ばれなかったのが不思議です。審査員の目か頭が悪いんでしょうね。
「そういう悪口をちょいちょいいうから、あなた嫌われるのよ」
日本の倫理教科書では、キリスト教の説明に、やたらと〝愛〟を使ってるのだそうです。神の愛、隣人愛、アガペー、ってな感じで。ところが海外の教科書やキリスト教入門書では、愛という単語はほとんど出てこないんです。愛は大事だけど、キリスト教はそれを主軸としてるわけでもない。
しかも日本の教科書での宗教の説明は、仏教とキリスト教の比較にばかり重点をおいてるんですね。現在使われてる教科書の説明を簡単にまとめると、キリスト教は愛。仏教は慈悲。キリスト教が人間中心主義なのに対し、仏教はすべての生き物を大切にしている、と。慈悲によって環境を守り自然と共生していく道を示しているのが仏教だ、みたいな論調で、なんだか仏教のほうがキリスト教よりすぐれてますよ、と布教活動をしてる印象すら受けます。
「でも、それだとまるで、環境保護団体の手先みたいに聞こえるんだけど」
だから本当の仏教徒が倫理教科書を読んだら、そんなこと考えてないよ、と違和感をおぼえるはずです。それはキリスト教徒にとっても同じこと。まるでクリスチャンが人間中心主義で自然をないがしろにしてるかのようないわれかたには、異議を唱えるでしょう。過激な自然保護運動をしてるのがおもに欧米人だという事実からも、倫理教科書の記述がまちがいなのは明らかです。
「そうよね。あの人たちが仏教徒とは思えないものね」
イスラム教にいたっては、申しわけ程度にページをさいてるのみで、その思想すら紹介されません。礼拝・断食・巡礼と形式面だけが教えられます。これじゃ大人になってテロのニュースを見た日本人が、イスラムといえばお祈りと過激派だけというイメージを持ってしまうのも、ムリはありません。
「面目ない」
なにかにつけて「ユダヤの陰謀説」を唱える日本人がいるのは、倫理教科書でユダヤ教を、キリスト教を迫害したヒドい人たちと説明してるせいかもしれません。教科書がトンデモ論の下地になっちゃってるとしたらマズいですよね。
「どうして教科書の内容がそんなふうに偏っちゃったのかしら」
著者の藤原さんがその原因としてあげているのは、ひとつは、宗教学者の専門の狭さです。これはすべての学問分野で起こってる傾向ですが、宗教学でも、テーマを狭く深く掘り下げて研究するのが一般的なので、特定の分野にとても詳しい人はいても、宗教全体をうまく語れる人は少ないのだそうです。だから、執筆する専門家が自分にはまったく偏見はないと思っていても、結果的に、特定の宗教や宗派に肩入れするような文章になってしまう。
そしてもうひとつは、入試対策のため。
「どういうこと?」
海外の学校では宗教の授業があるところも多いのですが、使われてる教科書の記述はとても慎重です。イエスはこういうことをいったとされている、こう信じられている、みたいに、歴史的に事実と証明されたこと以外は極力断定を避ける書きかたをします。
キリスト教信者やイスラム教信者がどういう一日をすごし、宗教や信仰に対しどういう考えかたをしているかをそれぞれの信者が語る形式にしてる教科書もあります。つまり教科書が宗教の知識を押しつけるのではなく、生徒それぞれが異文化について考え、理解を深め、他者を尊重する態度を養うのを目的としてるんです。
ところが日本では、教科書の記述があいまいだと、現場の教師から不満の声があがるそうなんです。倫理が大学のセンター試験の科目だから、教科書はたったひとつの〝正解〟を提示しろということです。教科書を読んだ生徒が異文化に対してそれぞれ異なる意見を持ってしまったら、入試対策にならないという、超現実的な理由で教科書の内容が断定的で偏った記述になります。
「宗教を教えるって、むずかしいのね」
中立的に教えるのはね。海外ではそのためにどんなに長いこと試行錯誤を重ねてきたか。宗教に無知な人ほど、道徳心を養うために日本の学校でも宗教教育をするべきだ、なんて軽々しい発言をするものですが、この本を読んだら、宗教を教える苦労を知って驚くでしょうね。まあ、異文化理解と尊重のために学校で宗教教育をするというなら、私も賛成ですが、入試に関係ない科目になったら、まともに教えない学校がほとんどでしょう。日本人は目先の利益を重視するから。
この本のなかで一個所、笑っちゃったところがあるんです。タイの仏教教科書には、日本人はすぐに結果を求めるから禅宗が流行っている、と書かれてるそうなんです。
「わあ、けっこう図星。企業研修で一日座禅組んだくらいでなにかを得たつもりになってる日本人への皮肉かも」
◆今回紹介した本
『教科書の中の宗教』
藤原聖子
岩波新書 2011
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