写真:仙台の会社事務所に届いた物資を選り分ける嶋津さん。
「行政にはボランティアも安心して活動できるように、町再興のビジョンを早く示してほしい」=仙台市青葉区立町
JR仙台駅東口で営む弁当店の切り盛りを家族やスタッフに任せ、4月上旬から連日、宮城県南三陸町で支援活動を続ける。担うのは、救援物資の調達と町内への配送。行政には難しい柔軟・迅速な対応で、地元で厚い支持を得る活動の陣頭指揮を執る。
3年前のこと、友人に送ってもらったタコの味に驚いた。「今までで最高の味!」。買った店を尋ねると「南三陸町志津川の『さかなのみうら』だよ」。南三陸町はタコが特産品。すぐに電話して追加注文。以来、年に何度か店を訪ねる関係になった。
震災後、店と三浦保志社長の安否が気になりネットで検索した。すると、三浦社長が地元で支援物資配送の中心になっていることが分かった。すぐに電話し支援を約束。翌4月6日、食糧や飲料、軍手など、すぐに欲しいと言われた品々をかき集め、届けた。
「さかなのみうら」は、必要な物資を被災者から聞き取ってインターネットで発信し、全国の個人・団体から提供を受ける「ふんばろう東日本プロジェクト」(西條剛央代表)の現地窓口になっている。志津川港近くにあった店舗は津波で壊滅。高台に借りた倉庫に物資を集め、それを避難所や仮設住宅に配り歩く。そうした取り組みの中で、嶋津さんは必要な物資の品目や数量をネットで発信しながら、配送の動きを調整する中心的な役割を果たしている。
プロジェクトのルート以外にも、個人的な人脈を駆使。毎年仙台で開かれるみちのくYOSAKOI祭りの実行委員長を務める父・紀夫さん、仙台市にある一番町四丁目商店街婦人部の元会長の母・千枝子さんのつながりでも全国各地から物資を調達。「両親のルートを含め、自分が仲介して南三陸町に届けた物資は4、5000万円は下らない」と話す。
仙台─南三陸の移動は通常、高速道路を使えば片道2時間以内の距離だ。だが震災後は深刻な渋滞が日常化し、倍近く要する日々が続いた。朝5時前には仙台の自宅を出て、深夜に帰る生活。資金的にも体力的にもきついと判断し、4月中旬以降は車の中や物資倉庫の一角などで現地に寝泊り。「支援を始めてからこれまで、自宅で寝たのは10日あるかどうか」と苦笑する。
物資を配り届ける対象は、当初の避難所から仮設住宅へ移りつつある。避難所では、食糧を含めさまざまな物資が行政を通じても届けられたが、仮設住宅入居後は「自立」が原則。だが嶋津さんは「車もなければ仕事もない入居者も多い。歩いていけるような距離に買い物できる場所もない。そんな地域で『自立しろ!』と叫んだところで、人々は途方にくれるだけ。困っている人がいる以上、できる限りの支援は続けたい」と声を大にする。
この夏はプロジェクトがかき集めた扇風機を町内でも1400台配布した。今は既に冬に備え、ストーブやコタツなどの暖房器具をいかに調達するか、知恵を絞る。
生活物資の支援だけでなく、漁師の生活再建には欠かせない漁船の調達にも動き回る。「船があれば漁師はすぐにも働けるし、魚介類の水揚げが活発になれば、商売も回りだす」と、募金などを元手にインターネットオークションで中古漁船2隻を落札。地元漁師に渡し、再起の一歩にしてもらう計画だ。
支援活動を続ける中で、被災地住民の間では行政への不満が日に日に高まっていると感じる。商売を再開しようにも浸水した地域では認めなれないこと。だからといって、新たな街を築く場所はどこになるのか、方向性が依然示されていないこと。嶋津さんは「行政はもっと被災者の不安や不満に寄り添って、できるところから早く実行してほしい」と語気を強める。
支援を始めた当初、「関わるのは南三陸のタコが食べられるようになるまで」と言っていた。だが、あの美味を再確認できた今も、「現場に状況を考えれば、まだ当分は足は洗えそうにない」と考えている。