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「かけはし」1999.8.9号より

インド領アンダマン諸島にも韓国人の日本軍「慰安婦」

発見された新しい関連資料
 日本軍の慰安婦として引っぱられていったハルモニ(おばあさん)たちの苦難に満ちた旅路はどこまで続いていたのか。
 「満州」からインドネシアまで東アジアの全域にわたっている慰安所の跡ごとに朝鮮の乙女たちのハン(恨)は涙でにじんでいる。ここに、さらにもう一つインド領アンダマン諸島にも韓国人の軍慰安婦がいたという事実が最近、文献から明らかになった。アンダマン諸島は太平洋戦争において日本が占領した地域のうち、最も西方に位置している。当時、日本軍の最前方だったのだ。

軍属や商社員までもが利用

 「日本軍の慰安婦として連れてきた一団の韓国人女性たち(a batch of Korean women)が居住できるように彼の事務所を貸すことを要求した」。
 インドのドキュメンタリー作家であるイクバル・シンが書いた『アンダマン・ストーリー』(1978)の245ページに出てくる一文章だ。「彼」とは当時アンダマン諸島でインド独立運動をしていたティワン・シンを指している。1942年2月23日、アンダマン島の中心地であるポートブレアに進駐した日本軍は、彼を排除するために反対派が作りあげた話に乗せられて、彼をスパイ容疑で投獄しようとし、そのきっかけをつかむ方便として彼にこのような無理な要求をしたのだという。
 脈絡はともあれ、このひとことの言及はアンダマン島に韓国人の軍慰安婦がいたという事実を証言している。この本は、83年にヘチョのインド巡礼の道を調査中にアンダマン諸島に立ち寄ったコ・ビョンイク元ソウル大総長が、この諸島の歴史に関心を持ち購入、所蔵してきたものだ。コ元総長から、この本についての話を聞いた在米の史学者パン・ソンジュ氏が韓国挺身隊研究所に連絡し、この新たな事実が陽の目を見ることになった。
 アンダマン諸島に日本軍の慰安所があったということは日本の戦争資料センターが発行している季刊誌『戦争責任研究』95年冬号に紹介されたことがある。アンダマン諸島を管轄していた日本海軍第35独立混成旅団所属の第12特別根拠地隊司令部が定めた「海軍慰安所利用内規」を通じてだった。軍慰安婦問題研究家である木村コウイチロウは日本の防衛庁防衛研究所に所蔵されていた資料を引用して記録した。この論文において内規の詳細な事項を、こう紹介している。
 「海軍慰安所の管理と経営は海軍司令部が一括してこれを定める。家屋は業者が無償貸与するものとし、家具調度品などは最小限必要なものを一時貸与する。業者は貸与された物件の保管に責任をとる。軍慰安所の使用券は司令部が発行し、それを各隊が定めた標準によって配布する」。
 このような各条項を通してみるとき、この慰安所は軍が強力な影響力をもって管理、経営の責任者として業者に慰安所の経営を委託していたことが分かる。この資料によれば司令部傘下の慰安所は五カ所で、軍人だけではなく、軍属、司令部の許可を得た商社員もが利用でき、階級、身分を基準に利用時間や料金を定めた。
 今日までビルマ(現ミャンマー)、タイ、インドネシアなど東南アジアに散在した日本軍慰安所に、わが国のハルモニたちが引っ張られて行った事実は証言や文献を通じて明らかになったが、インド領のアンダマン諸島にまで韓国人慰安婦がいたことが確認されたのは今回が初めてだ。インド洋のコバルト色の海と風変わりな植生がぐっと異国的だとして最近の韓国人観光客を誘惑しているが、大洋のまっただ中でその凄絶な生を終えたハルモニたちがいたという事実は、また違う思いにわれわれを誘う。

だれがいたのかは分からない

 アンダマン諸島は19世紀中葉、英国の植民地支配に立ち向かったインドの政治犯たちが幽閉されていた「セルラー」という監獄で有名だ。その監獄のそばで、死ぬまで同じ夜を送らなければならなかった一群の朝鮮の乙女たちは、独立という言葉を口にのぼせることさえもできたのだろうか。
 韓国挺身隊研究所カン・ジョンスク研究員は今回、明らかになった事実について「日本軍が行った所なら韓国人慰安婦も必ず行ったと言える」と言い切った。アンダマン諸島は日本の敗戦後、連合軍が管理したのだから軍慰安所についての記録は英国などに残っているだろう、というのがカン研究員の主張だ。だがいまのところ、ここにどんな顔の、どこ出身の、だれが生きていたのか、われわれは知ることができない。(「ハンギョレ21」第268号、99年7月29日付、パク・ヨンヒョン記者)


55回目のヒロシマ・ナガサキを前に もし日本が先に成功していたら

発見された仁科博士の原爆研究記録

 1945年8月6日と同9日、2発の爆弾が日本に投下された。そして30万人の命が地球上から消えてしまった。広島に落ちたのは「リトル・ボーイ」で長崎に落ちたのは「ファットマン」だった。
 おそらく人類の戦争史において、これほど多くの人命が短時間に失われたことはないだろう。それで悲劇の当事者である日本人たちは自分らが世界で唯一の被爆被害者だという点を強調する。そのうえ原爆にかかわる事柄には極めて敏感に反応する。昨年、米国政府がスミソニアン博物館に原爆「リトル・ボーイ」を投下したB29戦略爆撃機「エノラ・ゲイ」を永久展示しようとした際、政府レベルの抗議を通じて計画自体を変更させたのは、その一例だ。
 ところで日帝の植民地を経験した多くのアジア人たちは、このような日本の「悲劇」に頭では共感しつつも、心の奥底からにじみでる「情緒的共感」は感じられない。その最も大きな理由は日本が過去に対して心から謝罪してはいないからだろう。
 けれども、ここにはまた違う理由もある。それは日本が米国との原爆開発競争において敗北して「被爆国」になったにすぎず、仮に勝利していたなら「加爆国」となっていたかも知れないという歴史的事実のゆえだ。

開発失敗は「不幸中の幸い」だった

 「仁科研究室のU(ウラニウム)研究状況」と「ウラニウムについて」という標題の二つの資料には核分裂のための研究進行が詳しく整理されていた。仁科博士は日本陸軍航空本部の委託で1942年から本格的な原子爆弾の研究を進めた。だが「不幸中の幸い」なことに核分裂の連鎖反応を制御する構造を誤って理解し、結局、原爆開発に失敗してしまったというものだ。
 原爆を開発するための研究は、仁科博士が主導したこの化学研究所だけではなかった。京都大学のアラカス教授が主導したもう一つのチームもまた日本海軍の依頼によって原爆の開発を必死になって試みていたのだ。特にこのチームにはノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士もが含まれていた。
 日本軍が原爆を製造するためにウラニウムを収集したという具体的な証言や資料もある。アラカス教授の下で働いていた清水京都大名誉教授は自身も酸化ウラニウム10「ゥ程度を収集したと証言してもいる。そればかりか日本軍は本土で採掘できるウラニウムがごく限られており、韓半島や中国東北部でまでウラニウム採掘を試みた。また1944年末には中国・上海のヤミ市場で130「ゥの酸化ウラニウムを購入し、日本に搬入したりもした。
 仮に日本が米国よりも先に原爆を開発していたなら、どうなっただろうか。満州731部隊の生物化学兵器の開発や使用を考えれば、日本軍による原爆先制攻撃の可能性は高かったのではないだろうか。
 今年も8月15日の「終戦記念日」(敗戦記念日ではない)になると日本人たちは再び三たび広島や長崎の悲劇を繰り返し語るだろう。だが被害者である自分たちもまた原爆を開発することに必死だったが、ただ成功できなかったにすぎないという歴史的事実を、どの程度、知っているのだろうか。(「ハンギョレ21」第268号、99年7月29日付、東京=ウィ・ジョンヒョン通信員)


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