東日本大震災 若林区荒浜





人生トータルで16年、1995〜2003年まで8年間住んでいた若林区の荒浜です。
1981〜1988年(小学2年〜中学3年)までの8年間もここで過ごしており
まさに子供時代の原風景とも言えた場所でした。
荒浜を目指して自転車を走らせる途中にも、破損した建物を発見しました。
外壁がはがれ落ちた仏壇屋。
倒れたブロック塀。このあたりは若林区の遠見塚近辺です。
若林区荒井にあるケーヨーデイツーにも長蛇の列。 若林区の沖野では、八百屋が野菜を売っていました。
カボチャやトマト、レタスなどをゲット。
七郷小学校に行く途中、荒井でにぎりめしの炊き出しをやっていたので
無料でおにぎりをいただきました。家庭用の炊飯器でボランティアが
おにぎりを作ってました。荒浜まで片道17kmくらいあるので助かりました。
ついでに自転車修理コーナーもあったので、俺の自転車のブレーキを修理。
ワイヤーが切れかかっており、ブレーキがほとんど効かなかったのです。
300円で修理できました。ついでに狂っていたハンドルのセンター位置も修正。
荒浜地区の住民が避難している七郷小学校に到着。 中に入ると、被災者の安否情報を求める伝言板がビッシリ書き込まれていました。
俺の知り合いも探しましたが、1人の無事を確認できただけでした。
駐車場と化した七郷小学校のグラウンド。 俺の母校でもある七郷中学校を通過。ここも避難所になってました。
CH-47チヌークが上空を通過。ここは霞の目飛行場が近い場所でもあります。 ついでに霞の目飛行場の周りを回って内部を見てみましたが
チヌークの在日米軍バージョンがありました。初めて見ました。
多用途ヘリUH-1もあります。
ただのデモンストレーションと違い、実戦のオーラが出ています。
うおーすごい数のチヌークだ。
これだけのヘリが被災地の捜索、救助活動に当たっているのです。
他にも多数のチヌークが駐機してありました。
七郷のファミマを通り過ぎたあたりで、隆起したマンホールを発見。
大地震の衝撃のすごさを物語ります。
ファミマ近辺に倒れていた民家の塀傘。
沿岸部から3.2kmほどの地点にある東部道路に到着。ここから先は被害が
大きい地域になります。電気も復旧しておらず、信号機が消えたままです。
東部道路からさらに入って、農業園芸センター付近を通過。
やはり信号機が消えています。ゴーストタウンに突入します。
やはり東部道路を過ぎると被害が目立ちます。
防風林の松の木が、こんなところまで流されてきています。
さらに沿岸部に近づくと、近づくごとにひどさを増していきます。
のどかな田園風景だった場所が、辺り一面ガレキの海です。
田んぼの真ん中まで流されてきた佐藤歯科の屋根部分。
これは確か荒浜にあった歯医者です。2〜3kmは流されてきてます。
普通の田園風景だったところが、変わり果てています。
田んぼの中にポツンとある車。進むごとにこのような光景が見られます。 ここにも車が。何台の車が廃車になるのでしょうか。
進むごとに、いっそうひどさが増していく…。屋根やら車やらガレキやらが散乱。 全体が泥をかぶった車。ということは、津波はこの高さを超えていたことになります。
沿岸部から2kmほどの地点では、残っている住宅も見られます。 さらに沿岸部に近づき、石場付近。ここにも壊れた車とガレキの山が。
無惨に倒れた石場のバス停留所。荒浜まで数百メートルの距離です。 ポリタンクやらタイヤやら住宅やらが田んぼの真ん中に。
津波の水が水田に溜まり、まだ引いていないのが分かります。
ポッキリ折られて鉄骨が剥き出しの電柱。
このへんになってくると、生き残っている電柱は皆無になってきます。
大破した軽トラック。どのようにしたらこうなるのか。
ここにはヤンマー商会の建物があったはずなんですが、基礎だけになっています。 グシャグシャにつぶれてスクラップになった軽自動車。
車だったことすら分からないような鉄くず状態。
ひしゃげた鍋と電気ポット。 沿岸部に近づくにつれ、だんだんとガレキの密集度が増していくのが分かります。
完全に破壊されているコスモ石油。ここが荒浜と仙塩街道を結ぶ交差点です。
あまりにも違う風景に、かつての交差点とは分からず通り過ぎてしまいました。
コスモ石油の構造物だった電灯、柱、隔壁なども、すべて津波で倒されています。
恐るべき破壊力です。
荒浜小学校と体育館だけが生き残っています。
しかし周りの構造物や住宅はまったく残っていません。
荒浜小学校の体育館を覗くも、内部は津波とガレキが入り込みボロボロ。
俺も子供時代に何度も渡った、小学校前にある押しボタン式信号機。
荒浜で唯一の押しボタン式信号機でしたが、無惨に残骸をさらすのみ。
荒浜の象徴とも言える深沼橋。昔からあるコンクリート製の橋です。
この橋と小学校を残して、ほぼすべての建造物が失われました。
深沼橋よりあとに増設された、歩行者専用の荒浜橋。
昭和57年ころに作られた新しい橋です。なんとか残っていました。
貞山堀沿いを歩いて荒浜小学校の方向を振り返って撮影。
住宅地だらけで、ここから小学校など見えないはずなのに…。
荒浜橋の方向を振り返ってみる。住宅地も転落防止用の柵も電柱も
すっかりなくなってます。堤防も、海砂で覆われているのが確認できます。
住宅地のあった場所を撮影。もはや、ここがどこだったかすら判別不可能な状態。
貞山堀沿いの道にも海砂が。自転車のタイヤが砂に埋まってハンドルが取られます。 朝日橋を発見。欄干がボロボロに破壊され、すっかり変わり果てた姿に。
元実家があった場所を目指していくことに。ガレキや砂が多すぎて
自転車では無理なので徒歩で突入。ここも住宅地だったところです。
あたり一面ガレキの海です。なにがどうなっているのか。
いま自分がいる場所がどこなのか…。
ガレキの中に液晶テレビもありました。
地デジ移行に備えていた家庭もいっぱいあったんでしょう。
浄土寺というお寺があった方向を目指しましたが、あまりにも
変わり果てており、自分が今どこにいるのかすら分かりません。

変わり果てた風景プラス人の気配どころか生き物の気配がないため
このままここにいたら自分も死んでしまうんじゃないか、という
孤立の恐怖に襲われます。この恐怖はハンパじゃないです。
なんとか荒浜コミュニティセンターを発見。ズーム撮影しました。
しかし、これ以上の捜索は危険なため一旦断念。
自分の自転車があった場所を見失う可能性があったためです。
これは新町方面から撮った写真。いったいここはどこだったのか。
民家の風呂だった場所でしょう。タイルだけが残されています。 元実家の捜索を一旦中止し、海岸を目指すことに。文房具店や床屋、寿司屋や
郵便局、交番、そして住宅が立ち並んでいたはずなのに、何も残っていません。
ただ言葉を失います。生い茂っていた防風林も、スカスカです。
海岸のすぐ近くにあった店です。この建物は比較的頑丈だったのか
残っています。しかし津波が直撃して2階部分まで壊滅。
店内を覗くも、内部はボロボロ。
海岸付近でも、生き残った建物があるようです。
しかしそれは見た目だけで、やはり2階部分まで津波が直撃した痕跡が。
あんなに生い茂っていた防風林が、すっかりなくなっています。
ここにあったはずの海水浴グッズを売る店も、すっかりなくなってます。
鳥居だけが残された東区集会所。どうして鳥居だけ残ったのか不思議です。 深沼海水浴場への入口だった場所も、すっかり見晴らしがよくなっていました。
バッキバキになぎ倒された防風林。左が海岸方向です。 防波堤を車いすでも上がれるように作ったバリアフリー通路。
そこの柵も、津波ですっかり折れ曲がってました。
俺が海岸で唯一「恐い」と感じた光景。ここはトイレだったところです。
津波で地面がえぐられ、トイレの基礎部分が剥き出しになってます。
トイレからさらに遠ざかって防風林側を撮影。何もなくなってます。
海岸を歩いて撮影。地震発生後、この場所で200人前後の遺体が発見されました。
しかし恐怖など感じませんでした。いつも通りの平和な海でした。
海岸にもゴミが漂着。津波が引いていくとき、沖に流されたガレキや
人の遺体があったかも知れませんね。
もしかしたらテトラポッドでせき止められているかも知れません。
すっかり砂丘のようになってしまった荒浜海水浴場。
普段は不法投棄されているゴミも、すっかり津波で洗われてなくなってます。
防波堤側を振り返って撮影。
歴史的に津波被害の少ない地域なのか、防波堤が低いのです。
海岸ゲートから東区側を撮影。バスの終点でもあり
転回場があったはずなのに、何もありません。
バスの転回場だった場所。
まるで畳のように、津波でアスファルト部分がはがされてます。
東区側を見てみると、道路がところどころ寸断されており、先に進めなくなっていました。
ごらんの通り、津波で地面がえぐられている箇所も。マンホールのフタの高さが
本来の地面だったところです。
門だけを残し、津波で流された民家。
このように家を失った人が何万人もいるのです。
深沼橋に戻って北区側を撮影。いっぱいあった住宅が…。 そして南区側を撮影。まるで空襲で爆撃された町だ…。
セブンイレブンがあったはずの場所には何もありませんでした。
それにしても、セブンイレブンの店舗の残骸はどこへ…。
よ〜く探してみると、かすかにセブンイレブンだった痕跡を発見しました。
何度も利用したコンビニだったのですが、残っているのはこれだけ。
セブンイレブン跡地のそばを自衛隊員が大挙して歩いていました。
これは行方不明者の捜索をしているのです。
いまだ1万人以上の行方不明者がいるのです。
もしかしたら自分の足元に埋まっているかも知れないと思うと恐いですね。
どこから流れてきたのか、大きな石が。こんなものは震災前ありませんでした。
新町方向の、サンクックがあった場所から元実家を探すことにしました。
そしてようやく見つけた墓地。俺の家の墓はどこに?
すべてが破壊され、もう何がなんだか分からない状態です。
自分の家の墓を探しましたが、ごらんの通り。そこら中に墓石が散乱。
どれが誰の墓なのか、まったく分からない状態。
ガレキだらけで歩けないため、他人の墓を踏みながら歩くしかありません。
謝りながら歩きました。
これは元実家のナナメ向かいにあった住宅です。
これのおかげで、位置関係をつかんで元実家のあった場所が特定できました。
元実家の前の通りだったところ。微妙に面影を残していたので判別できました。
そして元実家のあった場所に到着。前方の基礎すらない痕跡が、納屋だったところ。
コンクリートが敷いてあり、倒れたカーブミラーの支柱が残っていたので
なんとか判別できました。
元実家の裏手に当たる部分。
ブロック塀で囲まれていたはずなのに、何も残ってません。

思い出の品がないか探しましたが、津波で流されて何もありませんでした。
これは子供時代に遊んだ伊勢公園。もはや公園だったことすら分からない状態。 なんとか生き残っていた荒浜コミュニティセンター。
これも、失われた風景の位置関係を割り出すのに役立ちました。
コミュニティセンターから裏に回って伊勢公園を撮影。
やはりどう見ても、そこが公園だったとは思えない。
3月11日のあの一瞬で、ただの荒れ地に変貌しました。
新町側から他の細い道に入ろうとしても、道路が寸断されています。
大きな水たまりもできており、通行不可能。
日が傾いてきたので、捜索活動を断念。仙塩街道に戻りました。
しかしごらんの通り。歩道がゴッソリなくなってます。
比較的無事な民家がチラホラある荒浜新町地区。しかしこれも見た目だけ。
2階部分まで津波に浸かって、多数の住民が溺死したと思われます。
シオセやスーパーラーメンなど、コロコロ入れ替わった仙塩街道沿いの店。
このときは米沢ラーメンの店になっていました。
なにげにこの建物、3階立てだったのですね。
荒浜の老人ホーム。建物は無事なように見えますが、果たして内部は?
農道は津波で寸断され、危険な状態。自衛隊車両が行く道に従い
閖上側から自宅に戻ることにしました。このとき午後4時。
ここから自宅まで15kmもあります。そろそろ帰らないとヤバイのです。
こちらはすっかり寸断されたあぜ道。自分のそばを自衛隊の車両が
次々と通過していきます。またも、孤立の恐怖が俺を襲います。

それを必死に耐えながら自転車キコキコさせて帰ります。。。
防風林の松の木が、根っこごと引っこ抜かれて流されてました。
恐るべし自然の猛威。
少し閖上方面に向かったところにある井土浜。ここは海浜公園になっており
住宅地はありません。復興後の荒浜もこのような無人地帯になるのだろうか。
井土浜から海岸のほうで、防災ヘリらしきヘリコプターが旋回していました。 帰り道の途中でも、流された住宅が田んぼの真ん中に。
たまたま、警察が遺体を2体ほど収容している現場に遭遇。
遺体をブルーシートで隠し、収容してました。さすがにあからさまに撮影したら
不謹慎なので、一旦通過したあと振り返って撮影。
だいぶ閖上に近いところまで来ました。歩道も残されてます。
しかし、電柱が倒れており通行できず。自転車でも車道を走ります。

いたるところが壊滅しているため、ものすごく長い道に感じます。
■荒浜地区の震災前後の比較写真■
これより下は、過去の写真との比較です。震災前と震災後、どのように変わったかを見てみましょう。
左が震災前、右が震災後の写真です。
震災前の荒浜方面へ向かう道。2003年撮影。 震災後の写真。田んぼだったところに多数のガレキ。
震災前のコスモ石油。2005年撮影。 震災後。撮影したのは昼ですが、変わり果てた姿に。
震災前のセブンイレブン。2003年ころ撮影。 震災後、ほぼ同じ地点から撮影。後ろの住宅ともども、店舗そのものがなくなりました。
震災前の荒浜小学校。2006年撮影。 震災後の小学校。学校だけを残してすべて破壊されているのが分かります。
震災前の荒浜橋。2006年撮影。 震災後の荒浜橋。完全に同じアングルなのでわかりやすいですね。
これを見ると、たくさんあったはずの住宅がなくなっているのが分かります。
震災前の朝日橋。2006年撮影。 震災後の朝日橋。ひどく破壊されています。
震災前の貞山堀。これは荒浜橋方向(前方の赤い橋)を撮影したもの。
2005年撮影。
ちょっと位置が違いますが、ほぼ同じ地点から撮影。
住宅地がなくなり、白い柵もなくなり、そこにはないはずの海砂が。
震災前、貞山堀の南区側を撮影したもの。2005年撮影。 ほぼ同じ場所から撮影。やはりたくさんの住宅が消えています。
震災前の伊勢公園。遊歩道も整備され、大きな敷地を誇る公園でした。
2005年撮影。
震災後の公園。公園だったようには見えません。前方に見える
赤い屋根の建物で、なんとか同じ場所だと分かる程度です。
震災前の元実家前の写真。右側が墓地でした。2006年撮影。 震災後。左にかすかに残ったブロック塀の跡と、右側のフェンスと植えてある植物。
そして前方の木。かすかに面影を残しているのが分かります。
元実家前にあったカーブミラー。2006年撮影。 震災後も、カーブミラーの支柱部分だけは残されており、なんとか判別できました。
震災前の元実家の裏手はこんな感じでした。2005年撮影。 震災後。ブロック塀の痕跡だけを残して、何も残ってません。
残った道路が原型をとどめているため、なんとか同じ場所だと分かる程度。
震災前の荒浜コミュニティセンター。
数々のイベントなどで使われた公共施設でした。
2006年撮影。
震災後のコミュニティセンター。無事なように見えますが
一階部分が水に浸かってボロボロなのが確認できます。
震災前の墓地。2006年撮影。 震災後。ただただ絶句です。自分の家の墓すら見つけられない…。
荒浜地区全体の墓を運営していた浄土寺。住職がハワイアンを趣味にしており
夏には盆踊りなども開かれました。2006年撮影。
しかし震災後はごらんの通り。浄土寺の跡地そのものも、5月になって
自衛隊か土木業者がガレキと海砂をある程度除去し、道路だった部分を
切り開いてくれたから分かったのです。
震災前の元実家の付近。中央の赤い屋根の建物を覚えていてください。
小学校もこの写真だと見えないですよね。
2005年撮影。
撮影位置は微妙に違いますが、左写真で写っている赤い屋根の
建物があるのが分かります。風景がまるっきり変わってます。
いろいろと入れ替わった店でした。このときはラーメン屋。2006年撮影。 震災後はこういう状態に。一階部分の色が塗り替えられてますが、同じ建物です。
震災前の深沼海水浴場入口付近。住宅地方向を撮影したもの。2005年撮影。 震災後。電柱も周りの住宅も消滅してます。
海岸から東区側(南側)に歩いて撮影したもの。
ここは本当に海の真ん前、海岸から100mくらいの距離です。2006年撮影。
震災後。もはや同じ場所だったかどうかすら疑ってしまうような光景です。
撮影位置は微妙に違いますが、ここは間違いなく東区。
左の防風林、右の住宅、どっちも津波で流されているのが分かります。
震災前の深沼海水浴場入口。普通の海水浴場の入口です。2006年撮影。 震災後はこのような姿に。防風林がなくなり、柵や看板も消滅しています。
ただ、倒れてはいますが、オレンジ色のカーブミラーの支柱部分が
残っているので同じ場所だと分かります。
震災前の海岸トイレ付近。2006年撮影。 震災後。防風林がどれだけ津波で奪われたか分かります。
左写真にあった漁業組合の建物もごっそりなくなっています。
震災前の深沼海水浴場。夏の撮影のため、海水浴客でにぎわっています。
2005年撮影。
震災後。ここが海水浴場として再開するのはいつになるのか…。
ただの荒れ果てた海岸になってます。しかし、地震発生が3月でよかったですね。
これが夏の遊泳期間中だったら、さらに犠牲者が増えていたことでしょう。
震災前のテトラポッド。2006年撮影。 震災後。砂の色だけではなく、なんかテトラポッドの様子が変わってませんか?
少し沈み込んでいるような。地盤沈下したのか、ただ海面の潮位が
上がっているだけなのか。まさかテトラポッドが津波で欠けたとか?