お気に入り登録
|
ログイン
|
ブログを作る!(無料)
投稿内容
タグ
ブログタイトル
ウェブ全体
IE9ピン留め
トップ
世に倦む日日
critic5.exblog.jp
本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール
今日
昨日
since 2004.9.1
ご意見・ご感想
最新のコメント
田原の仕切る番組だと誰が..
by 読者 at 20:33
仰る通りだと思います。日..
by liberalist at 21:56
論より証拠。 社会..
by シゲノフ at 18:07
〈私自身は、湯浅誠が言う..
by カプリコン at 22:07
予想どうり「ドロ船八策」..
by シゲノフ at 20:41
深く共感することの多いご..
by tajima at 00:05
本日初めて貴ブログに伺い..
by tomo at 22:54
2/4の朝、出張先に向..
by カプリコン at 00:10
2月2日のニュースウォッ..
by haku at 01:06
最新のトラックバック
「時間」は箱より出て 踊..
from NY金魚
以前の記事
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
more...
since 2004.9.1
XML
|
ATOM
skin by
thessalonike5
光市母子殺害事件 - この青年に指導者の地位と役割を
光市母子殺害事件の動きがあると、ネットの中はその問題に関心が集中する。各自が事件と向き合い、事件を考える重い時間を送る。最高裁判決が出て、控訴が棄却され、この事件の裁判は終わったが、ドラマにはまだ続きがあり、人々はドラマの行方を見守っている。ドラマは終わっていない。この国で生きている多くの者にとって、事件の主人公の本村洋は、かけがえのない大事な存在だ。彗星のように何年かに一度接近し、命の重さを一人一人に考えさせる、とても貴重な教育の機会であり、人生を共に歩む教師である。われわれは現代の忠臣蔵を見守り、本村洋の会見の
言葉
を待ちわび、
言葉
に心を打たれ、
言葉
を噛み締める時間を持つ。いつもは醜悪で浮薄な情報を撒き散らして商売しているマスコミも、マスコミに頭を漬け込まれ、お笑いの悪ふざけに精神を腐らせて中毒になっている国民も。何年かに一度、本村洋が降臨した瞬間だけ、日本人は正気に戻り、お笑いの毒素で心が冒される前の内面と環境を思い出す。本村洋は日本社会のコスモクリーナーだ。本村洋の
言葉
の中に本当の日本語がある。テレビに登場する者たちの中で、日本人が日本語を語っているのは本村洋だけであり、そこに忘れられた理念型の姿がある。刑が執行され、事件が終わったとき、そのとき、また本村洋はわれわれの前で
言葉
を発する。忠臣蔵は最終幕へとさしかかった。
人は何のために生きているのか。人の命は何のためにあるのか。結局のところ、人の命は他人のためにあるのである。そのことを考えさせられる。福田孝行の生命と人生が意味を持つのは、不幸なこの男が反省して、自らが犯した罪と向き合い、判決を受け入れて絞首台に臨むことで、そのことで達成される。そうすれば、福田孝行の命は無駄にはならない。社会の中で役立ち、ずっと生き続ける。人の人生は、他人の心の中で生きるためにあるのだ。正義が実現されるとは何だろうか。それは、福田孝行が絞首されて絶命することではない。福田孝行が、自らの過ちを正視し、その非道と罪科を認め、その由って来るところを明らかにし、自ら自らを断罪することである。殺された者の苦痛へ自身を運び、身をもって償うことである。死刑は確かに残酷だが、このような経路を辿る形でしか、社会正義が実現されるということはないのではないか。今回の場合、もし判決が死刑でなければ、福田孝行が心から後悔し、殺した二人に謝罪することはなかっただろう。殺人事件は無数に起きている。ほとんどの場合、正義は実現されていない。官僚司法の事務処理の中で受刑者の反省などないまま、数年で社会復帰が果たされ、そして凶悪な
再犯
が行われている。官僚司法の現実の中で正義が実現されるためには、被害者の側に本村洋のような主体性が要る。
13年前、ニュースステーションに出演した23歳の本村洋は、久米宏と私の前でその壮絶な法哲学を述べた。淀みなく滔々と、気高く崇高な言葉で。死刑とは、罪を悔い反省し善良な人間に生まれ変わった人間の、その純粋に改心した者の尊い命を社会が非情に奪い取ることであり、その冷酷な行為によって罪である殺人の残酷さを明らかにし、殺された者の命の重さを等価だと知ることだと。命の尊厳は刑の残酷さによって啓示され、裏返しの真理として覚知されるのだと。そのとき、私は、死刑廃止論から死刑存置論へと信念を変えていた自分に、言わば「理論武装」の最終的な根拠と確信を得た。その気分は今でも続いていて、何年に一度か本村洋の言葉に接するたび、教義への信仰を深めることが続いている。その神聖な法哲学の説得力をリプレイスする刑罰論に接していない。死刑は、確かに「国家による殺人」だろうが、同時に「社会による殺人」であり、社会による制裁と復讐でもあるのだ。善良な人間に生まれ変わった死刑囚を、執行によって命を奪うことは、それは殺人行為である。われわれは加害者である。絞首台の床板のボタンを押す刑吏は、われわれの税金で雇われた代理人だ。われわれは人を殺している。近代国家の制度と機構が、その間に距離と切断を置き、われわれを無自覚にしているだけだ。近代国家の高層建築を解けば、残酷な真実は露わとなる。
今村昌平の「
楢山節考
」を覚えているだろうか。あの映画の中に、この制裁原理がプリミティブな形で、また、きわめてリアルに描かれている。小さな山村共同体の集落での処刑の場面である。食料を盗んだ一家が夜中に村人たちに捕縛され、一家全員が穴埋め(坑)の刑に処されてしまう。窃盗が一家の先代から重ねた再犯だったため、家系を絶たなければならぬという厳しい村の掟があり、断罪されて刑が執行されるのである。この「
楢山節考
」に登場する村落共同体は小さな国家だろう。「国家による殺人」を拒絶する死刑廃止論者たちから見て、「楢山節考」の物語は、史実と無関係な空想のフィクションだろうか。あるいは、この共同体は死刑以外の別な刑罰を選択すべきなのだろうか。山奥の小さな孤村だから、水利、灌漑、普請、祭事など、共同事業をするのに人手が要り、少しでも人員を失うのは痛手だろう。力仕事ができる若い男子、子どもを産むことができる若い女子。けれども、それ以上に食料の盗難は重罪なのであり、共同体の維持存続を危うくさせる厳禁の行為なのだ。前近代社会だから、ここには近代の人権はない。だが、ラストの「お山参り」の場面も含めて、人の命の尊厳が軽く扱われているという印象は受けないのである。蛇足ながら、「楢山節考」とほぼ同時期に公開され、若い田中美佐子が出演した「
丑三つの村
」でも、同じような村落共同体による私刑の場面が出る。
今回の本村洋の会見を見て感じるのは、本村洋が、次第にこの事件と距離を置き始めていることだ。関心が薄くなっていると言うと語弊があるが、新しい人生の方向を向いている。それは、会見の中で何度も登場する「生活を立て直す」という言葉からも窺える。それでいいのだけれど、私は別のことを思った。それは、何週間か前に放送していたNHKの「危機の時代のリーダー」についての
特集番組
である。例によって、出しゃばりの三宅民夫が司会をする討論番組だが、日本に有能なリーダーが存在しないという問題と、どうすればそれを育成できるかというテーマで無駄話を続けていた。スタジオには、自ら「新しいリーダー」だと自惚れているに違いない、マスコミで顔を売り出し中の若い連中が揃えられていた。そこでは、若いリーダーを作るために、エリート教育を充実させ、国が積極的に海外留学の費用を出せとか、制度的に機会を増やせとか、そういう提案ばかりが繰り返し出された。NHKでこうして紹介した以上、文科省から法案となって出るに違いない。スタジオの面々の言うリーダーの条件とは、一にも二にも海外の経験と人脈だった。その主張を言いつつ、自分を売り込んでいるわけだ。番組が唱え続けたのは、リーダーとはエリートであるという定義と、日本のリーダー不足はエリート教育不足が原因だという指摘である。途中でチャンネルを変えたが、4年ぶりに本村弘を見て、このNHKの番組を思い出した。
6年前とか4年前の時点では、こう思っていたものだ。この国には、政治や官庁やマスコミなどの中枢には人材は皆無で、無能な暗愚ばかりが貴族のように戯れているだけだが、民間の現場には本村洋のような優秀な人間がいて、それが日本の社会を支えているのだと。今は違う。どこにも人がいない。優秀な指導者がいないと思う。本村洋のような人材は稀有で、ほとんど絶滅種の存在なのだ。だから、この男をこの国のリーダーに立てなくてはいけない。総理大臣でもいい。法務大臣でもいい。最高裁長官でもいい。とにかく、人と組織を指導し差配するところに本村洋を置かなくてはいけない。指導者として権力を行使させなくてはならない。日本人と日本国が生き残るために。Twitterを見ていると、愚かにも、大衆が本村洋に対して、このまま社会の表面に出ず、ずっと静かに穏やかに暮らして下さいなどと言っている。昨日(2/21)の朝日の
天声人語
では、「後半生で『無名の幸せ』を取り戻して欲しい」などと言っている。朝日の記者など、100人でも200人でもすぐに消えていいのだ。朝日の幹部たちこそ、築地を去って「無名の幸せ」に即いたらどうだ。日本人は矛盾している。これほどリーダーを欠き、人材がいないいないと言いながら、これほど傑出した人格が目の前に登場すると、「無名のままで末長くお幸せに」と言っている。どうして本村洋をリーダーにしようとしないのか。ゴミやカスにリーダーをさせ続け、嘆息して喜んでいるのか。
意味が分からない。なぜ、尊敬する人間をリーダーにしないのか。軽蔑する人間をリーダーに置くのか。これほど完璧な若者がいるのに、社会の指導者の地位と役割を与えないのか。私は、本村洋に、せめて、テレビ報道で刑事事件の解説を担当するコメンテーターになって欲しい。大澤孝征も舌を巻くほどの、刑法、刑事訴訟法、刑事捜査、裁判手続、司法制度の知識、何より、苛酷な経験を通じたところの、刑事事件に関する卓越した法哲学と人権論。本村洋以上に優れた解説ができ、事件解説がそのまま視聴者の教育機会になり、国民の知性と教養が高まるという人間はいないだろう。
by
thessalonike5
|
2012-02-22 23:30
|
Trackback
|
Comments(
0
)
トラックバックURL :
http://critic5.exblog.jp/tb/17848877
トラックバックする(会員専用)
[
ヘルプ
]
名前 :
URL :
非公開コメント
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード
昔のIndexに戻る
国会で橋下徹の「思想調査」への... >>
ブログパーツ