船橋淳監督のドキュメンタリー映画「ニュークリア・ネイション」が、ベルリン国際映画祭で上映される。3月11日の震災とその後の福島原発事故の被害者を取り上げた3本のドキュメンタリー映画うちの1本だ。長さ145分(短縮版が間もなく出る)というこの長編映画は、高校の旧校舎で避難生活を送る1400 人の人々の生活を追ったもので、昨年12月のインタビューまで入っている。JRTはこの映画について船橋監督に取材した。
JRT:震災がこの映画を撮るきっかけになったの言うまでもないが、ほかに何かきっかけになるようなことはあったのか。
船橋:東京で長編の恋愛映画を制作していたが、震災でキャンセルされ、突然3カ月間失業することになった。自分は広島原爆の被爆2世であり(父親は生き延びたが父親の妹は原爆で亡くなった)、長い間そのことについて何かをしなくては、という思いがあった。ただ、原爆について直接何かを感じていたわけではなかった。そこに福島の原発事故が発生した。
JRT:映画には、双葉町民が現状に抗議する場面があるが、政治家は立っているだけで、中にはぎこちなく拍手している者すらいる。多くの政治家はとにかく冷静さを取り繕うことに頭がいっぱいで、完全に沈黙を守っているところを映した。
船橋:それは文化的な問題だ。日本人は間違いを犯すことをいつも恐れているため、政治家は与えられた情報が正しいかどうかを再確認する必要があった。しかし、政治家は過ちを恐れすぎるため、事実をできる限り早急に知らせなくてはならない緊急時に弱い。これは第二次世界大戦でも同じことが言える。米軍に負け続けていたにもかかわらず、政府は連勝していると発表して虚偽と幻想を作り上げていった。実際に起こっていることに対して責任を取らないという心理構造は同じだ。
JRT:日本人はアメリカ人ほどカメラ好きでなく引っ込み思案なところがあるが、避難している町民と打ち解けるのは難しくなかったか。
船橋:町民が心を開いてくれるまで2カ月かかった。メディア関係者は原則として建物の中に入ることは許されず、外の喫煙所のあたりだけで取材を許された。避難所にいる人たちは何もすることがないので、自分は2011年3月末から毎日その辺にたむろして11年12月まで映画を撮り続けた。町民がお酒やお弁当を分けてくれるようになると、自分は最初は遠慮していたが、1-2週間もすると受け入れるようになった。それが、コミュニティの一員として自分を受け入れてくれるプロセスの1つだと思ったからだ。多くの場合はカメラを回すこともなく、ただそこで皆としゃべってお酒を飲んだ。
JRT:では、カメラに収めておけばよかったと思う場面はあるか。
船橋:それはない。録画時間は全部で300分になり、あの場面も入れればよかったと思う日があっても、毎日そこにいれば同じような場面がまた撮れる。
JRT:撮影したのは約20家族だが、映画に出てくるのはその半分しかない。どの家族をカットするか、どのように決めたのか。
船橋:それは映画自体に客観的な見方をした部分だった。震災で1 人亡くなった家族がいるとしても、同じような体験をしている家族がいれば、どちらを映画で取り上げるか、選ばなくてはならない。それは非常に難しかった。映画制作上の決断が、ということでなく、カットしなくてはならない家族に対して、非常に申し訳ないと思った。ベルリン国際映画祭へ行く前に4-5家族に映画からカットさせてもらうことを告げた。
JRT:観客には、マスコミの報道でまだ知られていない何を「ニュークリア・ネイション」から知ってほしいと思うか。
船橋:観客に避難民としての立場に身を置いて欲しいと考えた。震災から1年経った今なお(当初の避難民1400 人のうち)500人が高校の旧校舎で生活している。簡単に忘れてしまいがちなこの待っている時間というものを伝えたかった。1つの教室に20人が同居し、何のプライバシーもない所でお弁当を食べ、自宅に一時的に帰るためのなにがしかのお金をもらって暮らすことを余儀なくされていることは、自分にとっては許しがたいことだ。この映画で、こうした人々がどんなに悲惨な状況にあるかをわかってもらいたい。日本は文明国だと思っていたが、そうではない。首都が地方を搾取している。福島で発電した電力はほとんどすべて東京に送られてきた。必死に働いてきたのは福島の人たちだ。(福島)県民は原発の補助金で(学校や体育館)センターを建てて潤ったのであり、避難生活を強いられているのは自分たちがリスクをとった結果だという人も多くいるが、自分はそれに異議を唱えたい。