競輪選手 南雲孝之さん

室内で練習する南雲孝之さん=千葉県の松戸競輪場で
  「カンカン、カン」。レース最終周を知らせる鐘の音が、場内に鳴り響いた。6月1日、神奈川県の小田原競輪場。南雲孝之(40)は、最後の力を振り絞ってペダルを踏んだ。

  8台を振り切り、南雲の自転車が先頭をきってゴールラインにすべりこむ。1着になったのは、半年ぶりのことだ。

  この7月で、選手生活は20年目を迎える。各地での大会を年に30以上こなすが、最近は勝率が1割を切ることも少なくない。
  「甲子園球児」だった。82年春、南雲は二松学舎大付の遊撃手として、選抜大会に出場。決勝でPL学園に2−15と大敗したものの、準優勝に輝く。

  その夏の東東京大会。春夏連続の甲子園出場を目指した二松学舎大付は、4回戦で1−4で足立(現在の足立学園)に敗れた。

  投手だった市原勝人(39)が隣で悔し涙を浮かべていた。

  だが、南雲は、悔しさの反面、どこかほっとした気持ちでいたことを覚えている。「もう、自分の野球人生に満足していて、あれですっきりしたんだろうね」

  同期生からは、プロ野球に2人進んだ。そして日大に進学し社会人野球で活躍、現在は二松学舎大付の監督を務める市原。有望な選手たちの実力を前に、自分の限界を知った。
  野球部を引退してもやりたいことが見つからず、弁当店でアルバイトをしていた時、チームメートから「受けてみないか」と競輪学校のパンフレットをもらった。

  軽い気持ちで入った競輪学校の練習は、予想以上の厳しさだった。野球ではグラウンドに8人の仲間がいつもいた。だが、競輪場ではレースで競うほかの8人は、すべて賞金を争うライバル。入校中、レース中の事故で選手が2人死亡した。

  「これはとんでもない道を選んじゃったな」。最初はそう、思った。

  それでも勝負の世界は水に合っていた。「頑張る分だけ、賞金も上がる。20代のころはただもう、夢中で いでいた」。
  40歳になった今の自分にとって、競輪は「生活の糧」という意味合いのほうが強いかも知れない。妻と、育ち盛りの男女2人の子供。

  純粋に勝負の楽しさを追求していたころとはもう、違う。だが、守るべきものがある人生も悪くないな、と感じている。
  休みの日には、小学6年の長男、大雅くんが所属する少年野球でコーチを務めている。試合の前になると、わくわくして夜、眠れなくなることがある。
  「自分の試合の時より、なぜか緊張しちゃうんだよね。野球は、今でも一番『大好き』なもの」
  監督として甲子園の土を踏んだ市原を正直、うらやましく思う。だが、現役の競輪選手として、ペダルを漕ぎ続けている自分に、揺るぎない誇りを持っている。体力が下降線に入ってきたのは自覚していても、勝利へのこだわりは失ってはいない。7月からワンランク上のS級二班でレースに挑む。

  「現役であり続けたい。高校野球の3年間が今を支えてくれている」

宮内 英雄主将

今は愛犬のために「球」を握る。「野球にも競輪にも、後悔はない」という

損得抜きで夢中になれた 大歓声、今も克明に

  あの夏。第56回全国高校野球選手権大会は、宮内で始まり、宮内で終わった。
  47歳。今は神奈川県内に住む宮内英雄は、開会式で選手宣誓をし、閉会式で優勝旗を受け取った。強烈な日差し。大歓声。30年前の場面は、いつでも克明によみがえらせることができる。

先頭打者本塁打
  準決勝の前橋工(北関東)戦。1回の裏、先頭打者は宮内。1球目は外側への甘い直球。見逃してしまった。ボールをはさみ3球目は、変化球のかけそこないだった。内側に食い込んでくる球を、「頭にカーッと血が上った状態」で振り切った。打球は左翼のラッキーゾーンにライナーで飛び込んだ。チームは一気に波に乗った。

  この大会で、宮内は17打数1安打。唯一の安打が、準決勝での先頭打者本塁打だった。

  個性派集団・銚子商の主将で遊撃手。厳しい練習に仲間が不満をもらすこともあった。しかし、名監督として知られた斉藤一之監督には、生半可な抵抗はできなかった。仲間の視線に押し出され、宮内は何度も盾突いた。返事の代わりに、何度も殴られた。

「限界を感じ」て

  銚子商を卒業後、三菱自動車に入社。野球部に籍を置いたが、1年で退社する。大好きだった野球からも、この時、離れた。その理由を、「限界を感じた」とだけ、宮内は言う。

  宮内は新聞記事で見た「競輪選手募集」に、活路を見いだした。22歳でプロデビュー。川崎競輪場に所属し、函館から熊本まで年間約90レースを走った。

  「新聞の競輪記事には宮内(神奈川)と載るが、野球好きの仲間やファンからは『銚子商の宮内』と呼ばれた」

  競輪は、支える仲間がいないプロの世界。「頼れるのは自分の脚力だけ。飯を食うために、体のメンテナンスを続けた」と振り返る。

競輪で人生半分

  42歳で引退するまで、通算21年。「気づいたら、人生の半分は競輪だった」と宮内。毎年、一定の成績下位に「クビ」が言い渡される競輪の世界で、プロに残るためにペダルを踏み続けた日々だった。

  6年前から、川崎競輪場で警備の仕事に携わっている。肩と太ももの筋肉の隆起が、服の上からでもわかる。

  「プロとしての21年間より、銚子商の3年間の方が鮮明に記憶に残っている。プロとしての苦労は当たり前。高校野球は損得抜きで夢中になれたから、思い出深いのかもしれない」

  色あせることのない銚子商での3年間。時として憎んだ斉藤監督も、89年に他界した。生前、「宮内はどうしてる。元気だろうか」と家族に話していたという。

  各地の競輪場を転戦していた宮内は、卒業後、1度も監督に会えなかった。

  「なぜ、自分を主将に選んだのか」

  聞いてみたかった。
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