祖父は、船方。 父は、電気関係の仕事の、ごく一般的な家庭に生まれました。家計は厳しかったようですが、父や母の配慮で、他の家庭の子どもと同じように育ててくれたことに、感謝しています。
小さな頃から、プラモデルやラジオなどの電気製品が大好きで、真空管ラジオなど部品を買い集めては、時間も忘れ、組み立てたりしていました。
ある時、電気回路の勉強をするNHKの通信講座があり、母に受講したいと言ったら、お金がないので無理だと言われました。その時に母が、父が受講した本があるから見てみればといわれ、確認したら、驚いた事に二十年前に父が、全く同じ講座を受講していた事でした。血は争えないと感じました。
中学校の頃から、フォークソングが好きで、あの頃、はやっていたギターを買って、仲間たちと弾いていました。
音楽の授業は大嫌いだったのに、なぜか歌う事は好きでした。音楽でも体操でもそうですが、学校の授業では、本当の楽しさを知る事が出来なかったのかなと思います。
高校は、東電学園という企業内高校に進みました。この学校は奨学金制度があり、その中から寮費や食費などを全て支払うことができましたので、家庭に負担をかけずに済みました。
クラブは、体育会系ではアーチェリークラブ、文化系のクラブも同時に入れる事となっていたので、コンピュータ同好会に入りました。
コンピュータは、オキタックのミニコンで、今の電話機の性能にも負けるんではないかと思います。言語は、科学技術計算用のフォートランでした。今のC言語の原型だと思います。
高校3年生の時に、自転車を担いで行って、北海道をまわりました。シュラフ一個を持って駅前に泊まりながら旅をしたことも、いい思い出です。
高校卒業後、東京電力の千葉支店に配属となり、社会人としてのはじめの勤務地は千葉営業所でした。
配電の現場で保守の対応をしていました。高所作業、高圧電線の活線作業、重量物の取り扱い、車両運転など、危険がかなり潜んでいる職場でした。
今も労働災害は無くなっていませんが、その頃と比較すると1割以下に減少しています。 その後、実家のある銚子営業所へ転勤をしました。
社会人となり、様々なものに興味を持ちました。スキー・テニス・釣り・サーフィン・オートバイツーリング・キャンプ・山歩き・カメラなどなど、興味を持ったものに次々挑戦。自分が楽しいと感じるものは是非みんなにも経験してもらいたい、楽しんでもらいたいという意識が大変強かったと思います。
26歳頃には、ベアーズというアウトドア-クラブを作って自称会長として、様々な行事を計画し、みんなを誘って週末には遊びに行きました。
同僚たちに囲まれ、幸せなサラリーマン時代だったと思います。
銚子営業所に勤務しているときに委員長に誘われて組合の執行委員になりました。
仕事も忙しく、正直に言って、はじめは嫌だったのですが、活動を続けるうちにやりがいを感じるようになりました。
自分が取り組む事が、組織や組合員の役に立つという事が実感できたからです。
組合の原点は相互扶助だと思います。お互いに支え合うその一つの役割が、組合の役割です。「良いものは良いと人に伝えたい」という思いと、うまくマッチしたのだと思います。
その後、銚子支部の書記長、東電労組千葉総支部の専従者、そして2000年には連合千葉へ派遣となりました。
労働組合について、厳しい見方をしている市民の方も多いと思います。ストをして自分たちの賃金を上げるために社会に迷惑をかけていると思っている人も多いのではないでしょうか。残念ながらマスコミを通じて写るのはその様な姿です。
組合の役割は、平和な社会を築く事や労働者の労働条件・生活条件の向上です。
そして、労働条件の中で一番大切なことは、労働災害を防ぐ事です。安全衛生員会を通じて経営側と真摯な話し合いをおこない、労働条件の整備に努めてきました。また、労働災害の減少にも大きく寄与してきた事は、間違いの無い事実だと思います。 もちろん賃上げなど労働条件の向上にも取り組んでいますが、安全確保第一で取り組んでいるという事があまり理解されていないと感じています。
ずいぶんと前から、組合活動を通じて、政治に関わっていましたが、自分が政治家にという意識はありませんでした。
政治を強く意識するようになったきっかけは、2000年から3年間連合千葉という、労働団体に派遣された時です。
千葉県や市町村に政策提言を行い、県民市民生活の向上を目指し取り組んでいました。もちろん多くの政治家の皆さんとも接する機会も多く、議員の皆さんの意気を直接感じ取った事もあります。
当時、ちょうど小泉総理が全盛期の時代で、新自由主義に基づく政策が推し進められていました。様々な規制緩和の中で、雇用労働の部分に関連する改革が行われ、このまま進められたら日本が崩壊してしまうという危機感を持ちました。 この流れを止められるのは、政治の力しかないという強い気持ちを持った訳です。
また、連合という立場で様々な労働組合の労働条件を見てきたのですが、組合員の労働条件を決めるのは、大企業は企業、中小企業は法律だと感じていました。
要するに労働基準法でも最低限度の条件を法律で定めている訳ですが、中小企業の労働条件はその法律が示した基準が最高条件、大企業はその法律の基準にどれだけ条件を上乗せをするかという事だと思います(この表現をすると大企業の皆さんには怒られると思いますが・・・ )。
中小企業に働く方の労働条件を引き上げるには、法改正しかない。政治の力が必要だと感じました。
ちょうどその頃、先輩の県議会議員が勇退されることになり、私に抜擢の話がありました。県議選に挑戦するにあたっては、当然ながら不安がありましたが、「真面目に働くものが報われる社会を実現したい」という、強い想いがあり、この国を、この社会を変える一つの力として、全力を注ぎたいと、決意を固めました。
選挙戦では、たくさんの方々のご支援に、毎分毎秒、感謝感謝の連続でした。当選を果たし、県議会へ送っていただいた時、ご支援くださった方々、また市民・県民に対し、責務を果たしていかなければと誓った想いは、今もそのままの熱さで胸にあります。
元々「人間はタフでなくてはいけない」という気持ちを強く持っていました。そこで興味が沸いたのは、トライアスロンです。スイム3.8km・バイク180km・ラン42.195kmとういう距離を走破する過酷な競技。精神面でも肉体面でも、一から鍛え直さないと、完走は難しいことは、挑戦する前からわかります。
そこで、29歳の時にたばこを止め、オートバイを売って自転車を購入し、一大決心をして、フルトライアスロンの完走を目指したのです。
はじめに筑波マラソン(フルマラソン)に挑戦をして、完走をしたのですが、その時に半月板を損傷してしまい、 後々の練習にまで大きな影響がありました(今も正座が出来ない状況です)。
その後、仕事の勤務地が変わり千葉まで毎日通勤する事となり、練習の時間をあまりとれない日が続きましたが、何十回というハーフタイプまでの距離のトライアスロンに参加して、1996年36歳の時に念願の佐渡のフルトライアスロンに参加しました。
苦しみもがきながらも何とか完走し、完走時間は13時間40分52秒、815人の完走者中572番目という結果でした。途中リタイヤした人も100名位います。完走後、多分泣いてしまうと思っていましたが、疲れすぎと満足感でボーッとしていた記憶があります。
私の故郷の銚子市でも、2004年から「銚子マリーナトライアスロン大会」が、行われています。2010年にはゆめ半島千葉国体の公開競技として、トライアスロンが行われました。男子は細田選手、女子は上田選手と千葉県勢がアベック優勝をしました。
銚子でトライアスロンが開催されるようになったきっかけは、2003年に銚子有料道路の無料化が行われるという話を聞き、この道路をバイクコースにして、銚子市でもトライアスロンの大会が開けないかという話が、仲間内でもちあがりました。
急遽、銚子市トライアスロン協会を立ち上げようという話となり、会長には、石毛県議会議員、理事長にはなぜか私が着任。 毎週1から2回はみんなで集まり、開催するトライアスロンの議論に花が咲きました。
しかし、開催する事は容易い事では無く、乗り越えていかなくてはならないハードルは大変高いものでした。それを乗り越えられたのも、千葉県トライアスロン連合の園川理事長をはじめ多くの連盟の皆さん、稲毛区の山根さんや青山さん、銚子市、地域の皆さん、県警、様々な団体など、本当に多くの皆さんのご協力の賜です。
大会開催の目的は、スポーツの振興と地域の活性化です。誇れるアスリートを育てていきたい。元気のない地域をもっと元気にしていきたい。その思いで大会を開催してきました。
今では、参加者も800名を超え、関東地方でも大きな大会にまで成長する事が出来たのは、トライアスロンを愛する人、地元の千葉県・銚子市を愛する人の力だと思っています。