昭和天皇「誰を信用すれば」


  戦前の天皇というのはどういう存在だったのだろう。現人神(あらひとがみ)とは誰も信じていなかった。司馬遼太郎は言う。 
 「もし私が小学校高学年か中学生のころに、−天皇は神さまだ。というようなことを言ったとすれば、漫談でもやりはじめたかと同級生が大笑いするにちがいなく」 
 「現人神とか…(略)…いう言葉は…(略)…それは美称であって天皇が神であるとはどの子供もおもっていなかった」
 「私は青年期になっても、天皇が人間でなく神さまだと信じている友人に出遭ったことがない」
 
 司馬遼太郎と同じく大正生まれの安部公房は言う。
 「満州にあった日本人の学校の生徒たちの中に、天皇を神だと信じていたものは一人もいなかった」
 
 天皇は神でなかったら何なのかといえば人間である。マッカーサー肝いりの「人間宣言」をするずっと前から日本人の頭の中では天皇は人間以外の何者でもなかった。
 
 阿川弘之は言う。 
 「天皇陛下を神様だなんて思ったこと、戦中戦後を通じて一度もありません。海軍へ入ってからも、平気で天ちゃんって言ってましたよ。事実また、海軍には、それを許す空気があったのです。まさか奨励はしませんでしたけどね。」 
 「海軍中将のくせに天ちゃんと言った人の逸話があるんです。昭和の何年か、陛下が連合艦隊へ行幸された時のこと、副官がコチコチになって、『この度、大元帥陛下の連合艦隊行幸に際しまして』とか言うもんだから、『誰が?』『何?』分かっているのにわざと何度も聞き返して、『ああ天ちゃんか』と言ったというんです」
 
 山本夏彦は言う。 
 「陛下のことは『天ちゃん』と呼んでいた。愛称ではないが蔑称でもない。明治天皇があまり英邁だったから、大正天皇は割を食った。昭和天皇には戦前は関心がなかった」
 
 戦時下の学校には奉安殿という建物があり、その中には天皇、皇后の御真影と呼ばれる写真が飾られていたが、余り身近なものではなかったらしい。壺井栄の「二十四の瞳」は昭和初期の小豆島の分教場に女性教師が赴任する話であるが、生徒の仁太という少年は天皇はどこにいるかという問いに「天皇陛下はおし入れの中におります」と答えて、教師はじめ教室中が爆笑するエピソードがある。奉安殿のない学校では、御真影は押入れの中に鍵をかけてしまってあったという。管理職の校長などには御真影は粗相があったら命取りでクビがかかるので、滅多にいじられないように厳重に管理していたものと思われる。しかし肝心の子供たちが御真影の意味をどこまでわかっていたのかは疑問である。

 また昔のニュース映画には「脱帽」という文字の後に、乗馬姿の天皇の映像などが流れる事がよくある。昭和12年、藤山一郎のヒット曲「青い背広で」には「お茶を飲んでもニュースを見ても、純なあの娘はフランス人形」という歌詞があるが、戦前はテレビがないので、映像のニュースというのは映画館で見た。皇室の映像が流れる際には、映画館内で帽子を被っている人はとるように、という意味の「脱帽」なのである。この習慣は現在でもタイなどの国に実際にある。
 
 尊い存在とされていた天皇ではあるが、どういう風に喋ってどういう人柄なのかなどの情報は国民にはほとんど伝わっていなかったため、これといった感情を持ちにくかったかもしれない。日常生活の場では皆、「天ちゃん」と呼んでいたが、これは愛称でも蔑称でもないと山本夏彦は言っている。まさしく天皇は「雲の上の人」で、好きとか嫌いとかいう感情を抱きにくかったのだろう。
 
 戦争末期−。昭和天皇は吹上御所2階の政務室でよく独り言をつぶやいていた。独り言は昭和天皇の癖であったという。「誰を信用すればいいのか」と独り言とは思えぬ大声をあげながら政務室を1人、歩き回る昭和天皇の姿が側近によってしばしば目撃されていた。
 
 昭和20年3月10日未明、東京大空襲、下町一帯を襲ったアメリカ軍の無差別爆撃で民間人8万人超が死亡、午前0時から2時ぐらいにかけてわずか2時間の出来事だった。東京の4分の1がこの空襲で壊滅したという。
 
 宮城(皇居)にいた昭和天皇は大空襲の実態を自ら確かめたいと強く思ったようである。陸相の杉山元や参謀総長梅津美治郎の反対を押し切る形で昭和天皇は3月18日、東京大空襲の焼跡への巡幸(視察)を強行する。杉山陸相や梅津参謀総長が昭和天皇の焼跡視察に反対したのは、昭和天皇が戦争被害のありのままの姿を目にする事で戦争終結の意志を強くする事を恐れたためであった。
 
 当日午前9時、昭和天皇は極秘で宮城を出発、車には側近など7人が同乗して警備も最小限に留められた。「戦災地のありのままを」という昭和天皇たっての希望で、焦土と化した現地を取り片付けて見た目をつくろうような事は行われなかった。焼け落ちた深川富岡八幡宮の跡地で被災状況の説明を受けた昭和天皇は車で四ツ木橋、汐見橋、錦糸町とまわり、ところどころで車を止めて被災地を歩くなどした。生気を失って歩く人々の姿、放置されたままの焼死体、初めて目にした戦争被害の惨状に昭和天皇が杉山陸相ら軍首脳が危惧したとおり、戦争終結への思いを一層強くしたのは事実である。
 
 この日の焼跡視察を終え、昭和天皇は関東大震災の時も馬で被災地を視察した思い出とオーバーラップさせて、「今度の場合は、はるかに無残な感じだ。コンクリートの残骸などが残っているし、一段と胸が痛む。悲惨だね。侍従長!これで東京もとうとう焦土になったね」という意味の事を藤田尚徳侍従長に語ったという。昭和天皇の大空襲の焼跡視察には取材記者の同行が許されていた。焼跡視察に関する昭和天皇の感想などは無論、報じられなかったが、昭和天皇が焼跡を視察したという事は翌日には国民の知るところとなった。
 
 この東京大空襲、3月10日に行われたのは陸軍記念日を狙ったのだという説が戦後、流布された。しかし昭和53年3月9日、NHK特集「東京大空襲」に出演した、東京大空襲の爆撃命令書を出した第21アメリカ空軍作戦部長、ジョン・B・モントゴメリー准将は「雲のない日を選んだらその日になったのであって、当日が陸軍記念日というのは念頭になかった」と明言している。
 
 昭和20年4月、長野県の松代に巨大な地下要塞が完成、軍は昭和天皇の疎開を求める。しかし昭和天皇は「わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かちたい」と疎開に応じず、松代大本営は幻となった。5月25日には宮城も空襲によって一部の建物が焼け落ちるなどしている。
 
 6月20日、東郷茂徳外相はソ連仲介で戦争終結交渉を進めたいと昭和天皇に上奏、昭和天皇は「なるべくすみやかにこれを終結せしむることが得策である」と戦争終結へ向けての政府内部の動きを支持する姿勢を明らかにした。8月10日、御前会議で阿南惟幾陸相らの戦争継続グループの訴えを退けて、昭和天皇はポツダム宣言受諾の東郷外相案を支持した。
 
 戦争終結後の自身の立場について昭和天皇の覚悟がうかがえる発言が残っている。8月12日のものである。「たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意思によって決めてもらって、少しも差し支えない」「今生の別れとして、ぜひとも一目なりと母君にお会いしておきたい」
 
 8月14日の御前会議では終戦の決定を最終的に下した昭和天皇に、泣きながら取りすがらんばかりに阿南陸相は戦争継続を訴えた。昭和天皇は「お前の気持ちはよくわかっている」と阿南陸相を慰めたという。阿南陸相の戦争継続の訴えというのはアメリカに一撃を加えて日本の立場を今よりも有利にした上で終戦しようというものであった。翌日、8月15日、日本敗戦の日、阿南陸相は自決した。阿南陸相の御前会議での強硬な戦争継続訴えと終戦に際しての自決は、なおも戦争継続の声が大きかった陸軍に結果として冷や水を浴びせ、その後の武装解除を容易にした側面も否定できない。
 
 敗戦後も昭和天皇の宮中での独り言は続く。臣下の者と大声で議論しているかのような激しい独り言は、なぜ適切な時に適切な意思表示をしなかったのかというものだった。「陛下は悩んでおられた。拝見するに忍びないほどだった」と側近は後に漏らしている。8月29日、昭和天皇は自らの責任を退位という形で示したいと木戸幸一内大臣に漏らす。天皇自ら成しえる最大の責任の取り方は退位であろう。裁判にかかって云々というのは戦勝国の決める事で、負けた側のできる責任の取り方は限られている。木戸内大臣は激しく反対した。自ら退位を表明すれば戦勝国は必ず戦犯指定してくるだろうと言うのである。この間、昭和天皇はマッカーサーと会見している。戦勝国側が天皇存続に大きく傾いたのが、この会見の前後からだった。昭和天皇は「私は(臣下の者が)政治、軍事両面で行ったすべての行動と決定に対して責任を取る」と、当時、全日本人の生殺与奪の権限を握っていたマッカーサーに明言した。
 
 その後、昭和天皇は戦前とは打って変わった国民の中にある天皇として新しい天皇像を模索していったのは誰もが知る話である。
 
 東京大空襲の話には後日談がある。大空襲を立案したのはカーチス・エマーソン・ルメイ少将、イギリス軍のドイツ、ドレスデン無差別爆撃を参考にしたとの話であるが、民間人8万人超を殺害するような無差別空爆は世界史上、例を見ないものである。昭和39年12月4日、ルメイは航空自衛隊の育成に貢献したという理由で勲一等旭日大綬章を受けている。時の首相は後にノーベル平和賞を受賞する佐藤栄作。勲一等旭日大綬章は政府部内の協議で授与を決めるものだが、理由はどうあれ、何で東京大空襲の立案者が勲一等なのかという疑問は誰もが持つだろう。

 「週刊文春」誌上で小林信彦がNHK番組のナレーションからの引用としてルメイの勲一等について「<航空自衛隊の育成に貢献>したとして、昭和39年12月4日に、天皇からあたえられたものである」と記している。事実そうならこれは劇的なシーンとなるが、現実には昭和天皇はルメイとは面会しておらず、そもそもがルメイの叙勲自体が極めてイレギュラーな手続きで進んでいる。勲章を誰に与えるかを決めるのは政府だが、勲章を授与するのは本来は天皇の仕事である。しかしルメイに関しては天皇と面会どころか宮中へ参内すらしていない。12月4日の閣議によって叙勲が決まり、12月6日に来日したルメイは12月7日に航空自衛隊の入間基地で幕僚長から勲章を授与され、同日に防衛庁を訪問して防衛事務次官にお礼の挨拶を行っている。

 当然ながら昭和39年当時、戦災者をはじめとしてルメイの叙勲への批判は強く、佐藤首相すら来日したルメイとの面会は取り止めたようである。政府部内からルメイ叙勲の報告を受け、昭和天皇がルメイの大戦で果した役割を知っていればの話だが、一体、どういう思いが去来したか、どういう反応を示したのかは一切わからない。自ら被災地に立った東京大空襲の惨禍に思いを馳せたのだろうか。だがそうしたルメイの前歴をわざわざ昭和天皇の耳に入れる側近や政府関係者がいたかどうかとなるとかなりの疑問ではある。
 
 なぜルメイが叙勲されたのか。毎日、読売、日経は報じずに朝日と産経だけが当時、報じた12月4日の突然のルメイ叙勲の閣議決定の翌日である12月5日、かねてから佐藤首相が懇願していたもののアメリカの都合で実現していなかったジョンソン大統領との会談が急転直下、決定して昭和40年1月には佐藤、ジョンソン会談が実現している。同会談の3ヶ月前の昭和39年10月16日には中国が東京五輪にぶつける形で初めて核実験を行っており、長く日米首脳会談が途絶したままとなっていた日本側が自国の防衛に関して激しい焦りを感じて首脳会談開催を熱望していた事は想像に難くない。実はこの昭和40年の佐藤、ジョンソン会談では日本をアメリカの“核の傘”の下に組み入れる事が決定している。この事実は長く伏せられていたが、平成に入ってから九州大学の菅英輝教授の手によって判明した。

 以下は推理である。東京大空襲の戦争責任をアメリカに問わない(ルメイへの叙勲)のと引き換えに、日本はアメリカの国際的な核兵器戦略の「庇護」の中に組み入れられたのだったとしたら。この少し前の昭和37年には旧軍人の源田実がアメリカからリージョン・オブ・メリット勲章の叙勲を受けており、先の大戦での被害を日米相互に免責する事でより強固な軍事同盟を実現させたと見れなくもない。源田実はこの頃、訪米しているが、現地では真珠湾攻撃に関与した人間をアメリカとして栄誉ある人物として迎え入れるのは認められないと退役軍人らを中心に大変な批判が巻き起こっている。そうした空気がありながら、アメリカはあえて源田を叙勲した。これに対する日本側からの「返礼」の意味が強いルメイ叙勲であるが、この動きと軌を一にして日本がアメリカの“核の傘”入りを果たしているのは単なる偶然であろうか。
 
参考
阿川弘之「国を思うて何が悪い」 1987
朝日新聞東京版各記事など 1945〜1964
黒田勝弘/畑好秀「天皇語録」 1974
司馬遼太郎「歴史と視点」 1974
週刊文春「小林信彦・本音を申せば よみがえる3・10の記憶」 2004
壷井栄「二十四の瞳」(新潮文庫版) 1957
保阪正康「天皇が十九人いた」(角川文庫版) 2001
山本夏彦「誰か『戦前』を知らないか」 1999
読売新聞東京版「佐藤首相1月訪米決まる」記事 1964
琉球新報「社説 暴かれた非核の裏舞台 重い世論形成と情報公開」 1998
<映像>NHK「東京大空襲」 1978
<音楽>藤山一郎「青い背広で」 1937


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