生活保護化する原発就労補償 震災から1年 被災地雇用の現実
WEDGE 2月21日(火)12時14分配信
昨年9月の就任演説でこう強調し、12月には東京電力福島第一原発の冷温停止状態を宣言した野田佳彦首相。だが、現場からは「国の方針が見えない」「雇用の受け皿がない」など、厳しい声ばかり聞こえてくる。1月下旬、南相馬市を訪ねた。取材を通じて、原発就労補償が“生活保護化”する現実が広がりつつある実態が見えてきた。
■飯舘村でトラック数十台とすれ違う
降り積もった雪が残るJR福島駅から車で南相馬市へ向かった。国道114号線から県道12号線を進み、しばらくすると、飯舘村に入る。原発から20キロ圏外だが、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトとなる計画的避難区域で、全村避難を強いられている。人の気配はまったく感じられない。途中で寄った道の駅は、「臨時休業します」の張り紙が貼られたままだった。
だが、車はひっきりなしに往来し、ガレキを積んでいるわけでもない、何十台ものトラックとすれ違った。後で、海岸沿いの国道6号線が原発事故で不通となったため、南相馬市から南関東に向う工業製品などを乗せたトラックが迂回しているのだと聞いた。
また、「除染モデル事業実施中」の立て看板が目に付いた。日本原子力研究開発機構が公募し、大手ゼネコンを中心とする共同事業体(JV)が現在、除染作業を行っているためだ。
■赤ちゃんが消えてスーパーも開かない
「震災以降、放射能汚染を恐れ、この町から、主婦と赤ちゃん、そして、子供たちが消えました」
南相馬市議会議員の奥村健郎さんは、ため息交じりにつぶやいた。奥村さんによると、震災前には約7万3000人いた人口も今では約4万人に減少している。また、市内にある太田小学校は震災前、約130人もの児童がいたが、現在は50人近くまで減少しているという。
最大の課題は、除染をどう進めていくかということだ。除染なくして、復興はない。「20キロ圏内の警戒区域には200〜300人の従業員を雇用する工場がいくつかありました。4月1日をメドに警戒区域を解除するとの方針が示されましたが、自由に出入りできるのか、できないのか、まったくわからず企業も困っているはずです」(同)。
事実、ゴルフのシャフトなどを製造する藤倉ゴム工業小高工場は、昨年2月に100名規模の工場を稼働させたばかりだった。「どのように対処すべきか検討中」(同社総務・広報チーム)というように、撤退か存続か、多くの企業が悩んでいることは間違いない。
問題はそれだけではない。人手不足で、一部のスーパーでは再開のメドが立たないために住民は、不自由な生活を強いられている。「赤ちゃんや子供と一緒に多くの主婦が避難したため、再開しようにも、従業員が集まらない」(ハローワーク相双統括職業指導官の菊池正広さん)という状況が続いているからだ。
■“民”の力を結集した除染プロジェクト
南相馬市はいま、警戒区域と計画的避難区域とそれ以外と、3つの区域に“分断”されている。車を走らせると、市内の至る所に「立入禁止」の立て看板があり、警察官の姿も見える。道路一本を挟んで向かい合う、整備された農地と荒れ果てた農地が“分断”を象徴している(写真)。
南相馬市は昨年11月、除染計画をまとめ、2014年3月末までに、除染を行うことを決めた。住宅や学校などの生活圏を担当する市の除染対策室によると、「2月中に作業を開始できるように現在、業者を選定中」だという。
だが、除去土壌等の仮置き場が決まらない中、計画どおりに進むとは限らない。このままでは人口流出がますます進む恐れもある。こうした事態を乗り越えようと、南相馬市の原町商工会議所青年部を中心に有志メンバーによる除染プロジェクトが立ち上がった。
「炎天下の昨年6月に、汚染された畑を何とかしようとするおじいさんの姿に心を打たれました。行政や東電に任せていても、ほとんど進みません。自分たちの手で、この町をなんとかしようと決意しました」
こう語るのは、建材の販売施工会社の経営者で、みなみそうま除染企業組合理事長の但野英治さん。組合員は約20人で、業務もさまざまだ。但野さんは言う。
「足場、塗装、掃除、土建など、多岐にわたります。除染方法は検討中ですが、みんなで手を組めば、住宅の屋根や壁の除染ができると考えています。今後は、福島大学や東北大、北里大の研究チームとも連携する予定です」
但野さんは、このプロジェクトが地元住民の雇用の受け皿になることも視野に入れている。
「行政の除染計画では、大手の建設会社に発注することになります。そうなれば、地元の会社は下請けになり、黙っていたらゼネコンにピンハネされる可能性もあります。そのためにも自分たちの力でやらなければ」
背景にあるのは、「原発事故に伴う就労補償が生活保護のようになってしまっている」ことに危機感を覚えているためだ。「もちろん、仕事ができない状態にした東電の責任は大きい」と怒りを押し殺しながら、但野さんはこんな事情を教えてくれた。
「就労不能になれば、以前の収入の不足分は補償され、人によっては、原発事故以前よりも1.5倍ほどの収入になったと聞きます。というのも、家族が町から避難すれば、1人あたり10万円ということもあるからです。もちろん、そうなることを望まない人もいるでしょうが、以前の収入よりも、原発事故に伴う補償のほうが多くなり、就労意欲が著しく失われる人が見受けられます」。話し終えると、但野さんはやりきれないという表情を浮かべた。
南相馬市では、工場が閉鎖されるなどして雇用が失われる一方で、人が戻ってこないことや、就労意欲が削がれることで労働力不足が生じていた。
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最終更新:2月21日(火)12時14分
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