‐仕事仲間としてのアンドレは。
「非常に評判がいい人だった。アンドレは好きな人は好きで、嫌いな人に対しては非常にシビアな扱いをしていた。私自身は最高の関係を持てたと思う」
‐なぜ、あのタイミング(81年末)に新日本から全日本へと移籍したんですか。
「川崎市体育館にアブドーラ・ザ・ブッチャーが来た(81年5月8日)時の衝撃‐あの時ハルク・ホーガンと控室で話したんだが、来るなんていうことをまったく知らされていなくて。その後、ディック・マードックも全日本から来たことで『全日本からこうやってトップ選手が来ると、私たちの新日本におけるポジションはどこに行ってしまうんだ?』と非常に不安感を覚えた。それが移籍のきっかけだ」
◆当時のブッチャーは日本で最も有名な外国人の1人。文字通りのスーパースターだった。マードックも80年にジャンボ鶴田からUNヘビー級王座を奪取するなど、全日本のトップ外国人の1人だった。
「個人的に猪木とビジネスの話をしたことは実は1回もない。将来のレスリングビジネスの話をしたことも。だから、猪木と個人的ないさかいはいっさいない。すべてオフィスを通じて、オフィスの人間といろいろやっていた。猪木と直接ではない。新日本とはちゃんとやっていると思っていたし、自分たちで潤っていると思っていたし、彼らがブッチャーやマードックを欲する理由が本当に分からなかった。それで不安にかられた。将来の自分のポジションがどうなるのか、という。もちろん、それが私の個人的な理由なのは分かっている。新日本プロレスにとっては(ブッチャーやマードックが加わるのは)素晴らしいんだろうけど、ハンセン個人としては『オレたちでいっぱいなのになんで新たな人を入れるんだろう?』という思いはあった。まあビジネスだよ。会社対雇用者というね。どのビジネスでも同じだと思うよ」
「そういうバランスが崩れた時に他団体に行ったのは自然な動きだったし、単にそういうことだったと思う。今思えばね」
‐そこでテリー・ファンクから全日本への移籍話があったのは、タイミングとして非常に良かったということですか。
「テリーから電話があったんだけど、最初は『興味あるか?』と言われて『興味はあるけど、今のところ新日本のビジネスには非常に満足している』と、一度は断った経緯があるんだ」
‐移籍して82年から馬場との抗争が始まったわけですが、ライバルとして戦い初めて感じたレスラーとしての馬場は。
「馬場には移籍するにあたって『オレはドリー・ファンクJr.やハーリー・レイスのような典型的にNWAスタイルの試合はやらないよ』と明言して、馬場が『それでいい』と言ってくれたのが一番うれしかった。オレのスタイルをそのまま全日本でも貫き通すという条件で移ったので、そのままのスタイルで馬場と戦えたというのは非常に良かった。その結果、馬場と名勝負ができた。新しい敵を見つけたな、という喜びは今でも忘れられない。馬場を非常に評価している」
‐当時、馬場は全盛期の終わりごろ(82年2月4日のシングル初対決時で44歳)だったのではないかと思われますが、彼はどんなところが優れていましたか。
「私は彼がまだまだ元気なレスラーだったと思うし、彼によって自分のプロレススタイルに息吹が感じられたのも事実だ。プライムタイム(全盛期)ではなかったかもしれないが、まだまだ人々が馬場に信頼を寄せられる時代だったと思うよ」
‐あなたと戦うことによって馬場がよみがえったとは思いませんか。
「結果としてあの時代の後、馬場を人々が見直してくれたと思う。馬場は私との試合でプロレス大賞のベストバウトに選ばれたにもかかわらず、その後は必ずしも自分のエゴを通して私との試合を続けず、すぐに鶴田であり天龍(源一郎)でありテリーであり(ブルーザー・)ブロディを、私の相手として代えてくれた。自分のエゴを押し殺してスタン・ハンセンをプロモートしてくれた人だった。私の方がエゴは強かったかもしれないよ」
‐あなたの時代、アメリカのプロレスラーは数カ月でテリトリーを移ることが常識でしたが、あなたは引退(00年10月28日、日本武道館大会がラストマッチ)するまでずっと全日本に定着していました。なぜ全日本はそんなに居心地が良かったんでしょうか。
「日本を主戦場にしようと考えたのは、新日本のころだった。日本(の興行)はシリーズ単位で、その後1回アメリカに帰国して何週間かオフをとれるシステムだった。日本では家族に会えなくても、シリーズの合間に家族と集中的に会えるメリットがあった。アメリカだと年がら年中サーキットに出ていて家族に会えないというデメリットがあった」
「日本のスタイルを私が多少なりとも形作っていったっていう自負もあったし、そういう意味で日本のリングを好んで選んだということはあると思う。ご存じのようにアメリカではその日の客入りによってパーセンテージでギャラが全然違ってくるけど、日本は客入りにかかわらず週何ドルという契約で来ることができたから、ギャラシステムという点でも日本がいいマーケットではないかと考えた。ギャラで決められている方がいいと思ったのは大きい」
‐中でも全日本に長くいたのはなぜですか。
「馬場だろうな。最初の3年間だけは契約書があったが、残りの17年は1回も契約はなく、すべて握手で終わっていた。相互の信頼によって成り立った典型的なビジネスの例かもしれない。馬場と私は1回もお互いを疑ったことはないし、だからこそ20年も全日本にいられたんだ」
【3へ続く】
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