2.4月16日



16日正午頃 第一次小山戦(犬塚) 晴れ
凌霜隊・草風(村上)隊・貫義隊


幕軍本隊とは別行動で仁連を出発した貫義・草風・凌霜の3隊は、正午頃、小山東方の犬塚附近(現・栃木県小山市。JR小山駅東南の結城街道周辺)にて、軍監・平川和太郎率いる笠間藩隊他の西軍と遭遇し戦闘。旧装備&少人数の西軍を蹴散らし、3隊の勝利。この戦いで凌霜隊の田中亀太郎が戦死、菅沼銑十郎が負傷。菅沼は7月17日若松病院にて没。
草風隊は仁連or諸川で二手に分れたようで、犬塚で戦ったのは村上求馬の一隊。天野花蔭の隊は、幕軍本隊に合流した模様。貫義隊については不詳だが、草風隊同様に二手に分れていたように思われる。
戦いの後は、凌霜&草風(村上)隊は大平山(おおひらさん/現・栃木市)に登って一泊。貫義隊(の一部?)も一緒であろう。

【小柴重稷殉節の始末】 草風隊
四月十六日、重稷は草風隊の長・村上求馬に従い仁連宿より発足して室川(←諸川)に至り、この路を左に折て間道を経て小山宿を指して赴く。この時草風隊・貫義隊の二隊なりき。是より先、天野花蔭は伝習隊長・大鳥圭介して事を謀るべしとて、人をもて此義を通せしかど、いまだその報を得ず、村上はその事を知らざれば直進みにすすみて、花蔭及び佐久間悌二鈴木弥七郎會藩奥村伊波をあとにのこし、はやその日の未の刻ばかりに小山宿に着しけり。

小山へ向ったのは、草風(村上)隊&貫義隊と凌霜隊。「小柴重稷殉節の始末」には、何故か凌霜隊は一度も出て来ない。
天野花蔭は大鳥と合流しようとしていたとし、他に佐久間・鈴木・奥村の名が残留者としてある。鈴木弥七郎は、この日の午後の武井戦争に出て来る『鈴本弥七郎』の事であろう。奥村伊波は、小柴重稷が最も懇意にした会津藩士らしい。

とみれば官軍なるべし。あまたの兵士この駅中に充満して、敵を待つものに似たり。さらばすすめと先陣にすすみし貫義隊の若者等、各手々に赤き布に結びて合符とし、三手に別れて駅中に馳せ入るに、敵は用心したりけん、駅中に垣を結びて人を通せず、兵士等は形を匿していづこに在りん、その影をだに見ざりしかば、人々その謀あるを懼れて進み得ざりけり。

後の今市戦で、『兵士怯懦にして用ゆるに足らず』(南柯紀行)と酷評される貫義隊。草風隊の村上求馬にも笑われ、罵られている↓。貫義隊の隊長・松平兵庫頭は、小山戦に出ていなかったんだろうか。

隊長村上はこれをみて
嘲い、諸君何とて猶予し玉える、命はかねて無きものと覚悟したるに非ずや、今さら何を憚り何を懼れて進み得ざる、よしよし、我壹人なりとも、やわが破らで止むべきやとののしりながら、直に進んで件の垣を曳き破りしかば、隊長の一言に励まされて、重稷をはじめ五六人つづきて、この垣を越ておどり入るに、敵はかねてあたりの麦畦(むぎばたけ)のうちにかくれてこれを伺い、忽ち小銃を連発す。すわや敵はかしこにあるぞ、のがしなせと、惣勢我も我もとかの畦に向いて打かくる。貫義隊の壮士等はあとよりつづきしが、これをみて、我等こそ今日の先陣なるものを、草風隊に先駆せらるべきに非ずと、忽ち路を横ぎりて敵兵の脇に出て、筒先を揃えて打立たり。

敵は我兵を思う壷に引入れたりと思いしに、以外の横矢に気を奪われてたじろぐにぞ、得たりと両隊力を合せ、無二無三に進みしに、敵はなおも伏兵あり、麦畦の隙より忽ちどっと打出す。砲丸の雨霰よりしげかりければ、我隊兵・今井鎌吉これが為に股に傷つく。鎌吉打たすなと、小柴重稷は元込の小銃をもてかの伏兵を目がけて一発するに、あやまたず一人の敵を打斃せり。我兵はこれに気を得て民家に放ち、畑の下より撃て入れば、敵は大にあわて、隊を乱してのがれ去りしかば、この時分取しらるは大砲十一門、その外弾丸旗差物まで数うるに暇あらず。

斯く我兵は、
大平山に趣きて営陣を要害の地に設くべしとて、この地を引揚げ、かの山さして行軍せり。(中略)此日はいとかりしかば、満身汗になりて、その苦悩いうべからず。黄昏富田に至り、ここより山路をすすみて、夜亥の時ようやく山上に登り、その夜はここに一宿

仁連周辺の地元民の記録に、「仁連町御泊之御人数は、翌十六日同町出立、小山宿へ御継立之処戦争に相成、同所継立差支人馬之内立戻り候分も有之候得共、富田宿・大平山等迄継候分も有之」と、大平山まで人馬の継立を行った事が出てくる。‘富田’は足利の富田(とみた)ではなく、大平山南の富田(とみだ)。

【心苦雑記】 凌霜隊
十六日、早天出立。
結城近く進む処、斥侯のもの追々走り帰り、結城にはそれぞれ人数配り之有る申に付、表の方へは七連隊・草風隊相廻り、裏口は貫義隊・凌霜隊也。扨、貫義隊・凌霜隊追々敵陣近く進み、七八町此方の森、又は畑よりサグリを打ち、敵の模様を見合わせ(此敵、彦根・笠間・宇都宮・壬生也)、放射しつつ進みけれ共、敵には更に放射せず(中略)、味方双方にて討ち取る首十四五、大砲十二門、弾薬箱拾棹、器械長持沢山分捕り、大勝利也。
(戦いの後)夫より直に、小山宿を
左へ大瀬川を歩行渡り、貫義隊を始、残らず引揚げる。

矢野原の言う‘七連隊’については不詳。大山柏「戊辰役戦史」以下多くの本で、この存在は無視されている。
大瀬川というのは、小山の西を流れる思川(おもいがわ)の事と思われる。

【慶応兵謀秘録】 草風隊・貫義隊小山之駅に至る。此時宇都宮・壬生・結城・笠間・薩之人数此駅を守る。終に戦争に及ぶ。宇都宮・笠間・其他之藩、我が短兵に馳立られ、器械を打捨海道さして敗走す。此所にて草風・貫義両隊にて首数十級、大砲八門、弾薬数荷得る、携て終に大平山に寄る。此日笠間隊長之首級、草風隊にて得之。翌日首級を大平山に掛け、神祖霊を祭る。

【風説異聞日記】 八ツ時、小山より結城道穢多有之候場に而大合戦、笠間様大隊首被取大筒弐挺、官軍勢拾六人打死、大筒三挺、壬生敗軍大筒壱挺皆被奪。(鹿沼宿役格・福田弥九郎の日記/鹿沼史林)

分捕った大砲の数は史料によってマチマチだが、旧館林藩士の回顧談によれば「19日に40人程引連れて大平山へ登ったところ、大砲備え付けの場所に車台8挺あり。人足に命じて全て車台から引き降ろし、持参の他車に乗せて引取った。脱走兵は19日夕刻までに宇都宮の方へ出発しており、後には大砲附の僅かな人数と(大平寺の)僧侶しかおらず、彼等はこちらの兵が何百人いるかと危惧して無事に(手向かう事無く)大砲を渡した」らしい。大平寺の住職は「兵隊が大砲を持って来て境内に置いて行った。当方は甚だ迷惑」していた模様(史談会速記録 合本40 第302輯)。


↑霊峰・大平山(栃木市)

【慶応日記】 今日昼九ツ時ちと過て、小山の方に当り大炮小銃之響夥敷大騒成。暫時過て男女足早に門先を欠通り候もの有之に付、呼止め候処、我々は塚崎村之者に有之、小山宿へ買物に相越候処、俄に東の方より大炮打欠、小山において合戦相始り、漸逃来候もの也と言間も無之内、小山御別宅召仕共逃来る。物語に騎馬の士乗廻し、宿内之もの怪我いたし候ては不宜間、逃せ々々と申内、益炮声頻也。暫時過て火の手見える。是は徳川脱走の人数(塩沢村=現・小山市 旗本知行所名主 吉光寺梶之助日記)

地元民による記録。通行人を呼び止めて状況を聞く間にも、戦闘は激化していった。「戊辰戦争全史」(新人物往来社)は、人々が怪我をしてはよろしくないから「逃せ!」と叫び回っていた騎馬の武士は、先に攻撃を仕掛けた幕軍側の人物であろうとしている。塚崎は現・小山市(中心部の南方)。

【仁連町江口坪 鈴木長右衛門日記】 四月十六日、仁連町泊之人数は小山へ参り、然る処是も小山に官軍屯集罷在、依之塚崎弁当にて小山裏畑耕地へ陣取り、大合戦にて歩兵方勝利、大砲をうばい取、同日大平山へ屯集致候事、当町人足小山より帰り候ものも有之、又大平迄り候ものも有之候得共、壱人も怪我無之帰り申候。(三和町史)

【南柯紀行】 本日小山にて戦争せしは、草風隊と結城宇都宮より来りしを敵として、草風隊并に貫義隊大に勝利を得て、敵将の首級を得たる由後に承知せり。

【北戦日誌】 昨十六日、我前軍の第一大隊、此処に陣したる敵を破り、下野国大平山に據る、と云える報告あり。

我先鋒伝習第一大隊、桑名士官隊
、草風隊総計七百人餘、下総国関宿より古河の間道を経て、四月十六日、小山駅の敵に捷ち、一時、下野国大平嶽に墟り、十八日の夜、宇都宮を距る一里半、雀の宮と云える駅に到る。

下妻&下館に向った伝習第一大隊&桑名藩他の前軍と、凌霜・草風・貫義の3隊が激しくごっちゃになっているが、これは浅田サンに限った事では無く、東西両軍とも多くの人が似たような事を書き残している。小山での数度の戦闘は規模が小さく混戦であり、かつ、ほぼ同時に前軍がすぐ近くの下妻&下館を襲っていた為に、情報が錯綜したと思われる。ごっちゃの記録の中では、3隊が小山戦の後北上して宇都宮を攻めたというパターンが目立つ。

【明治、戊辰宇都宮城】 官軍諸兵の多くは、刀槍隊にして、旧式戦法を用いるに反し、敵は小銃を以て散開戦闘法を用い、挙止整々、訓練甚だ可なり。且つ兵力許多、寡兵当り難く、或は戦い、或は退く。笠間藩の死傷者最も多く、此所に於て、青木貞兵衛隊及び大砲組止まりて諸藩兵を援け、攻撃に努めたるも、遂に弾薬悉くつき、官軍大いに敗れて結城に向って走る(中略)小山に至れば、敵は既に大行寺(←現・栃木県小山市)に於て、思川を渡り、栃木(大平山)に去れり。時既に黄昏、兵卒の疲労大なるを以て、官軍之を追撃せず、小山及び大町新田に宿営す。此の日青木隊は最も奮戦し、敵首八級を得たり。(岡部正一/下野史談)

著者は戦争当事者ではないが、執筆に当っては旧・宇都宮藩士他のお世話になったとしているので入れておく。

【総督府日記】 昨十六日九ツ時頃、小山駅に於て草風隊と唱う賊徒と一戦、勝敗不決、互に引分れ、一里半計相隔対陣、賊三百人計、官軍彦根一小隊半、壬生大砲二門、笠間槍隊三十人計と戦う。身方六人即死、敵の死傷、数多に有之、の字の袖印之者も七八人斃居候。此夜、賊は生駒宿に陣す。

生駒は現・小山市で大平山の手前。大平山の事を言っているのだろうか?
會の袖章を付けた7〜8人は草風隊に属していたと思われるが、姓名は不明。


16日午後 武井戦争 晴れ
伝習第二大隊・七連隊・草風(天野)隊


凌霜・草風(村上)・貫義の3隊と西軍(軍監・平川和太郎隊)による犬塚附近での戦闘は正午頃。その後、この戦闘を知って繰出した在結城の西軍(参謀・祖式金八郎隊)と、諸川からの伝習第二大隊等が武井附近(現・茨城県結城市)で衝突。戦いは幕軍の勝利で終り諸川に凱旋、大鳥は町の外まで行って兵を出迎えた。軍は前日に続き諸川に泊。祖式隊は結城に戻る。

【南柯紀行】 早起、小山へ出んとして支度せしに、小川の方に当り大小砲の響聞ゆる由注進あるに依て、草風隊鈴本弥七郎斥侯として遣わせしに、途中より引帰し来り、小山の戦争は様子明かに分り兼ぬれど、此駅より一里余も小山の方に敵兵と覚しきもの百人計屯聚し当駅の方へ押寄せ来る勢あり、早く戦闘の用意をし給えと云。是に於て重立ちし者を呼集め軍議を為し、先ず武井村の方(武井村は結城道にして諸川より一里に近し)へ伝習隊二小隊を出して追て又二小隊を応援の為遣わせり。諸川には伝習二小隊、七連隊并に草風隊を残し置き予備と為し、斥侯を出し様子を見せしめしに、間もなく大砲の声遠雷の如く聞え、いよいよ戦端開けしことを知れり(中略)手始の一戦勝利を得、吉左右なりと一同奮発、何れも愉快の思を為し、夕方諸川の四方へ番兵を出し不慮に備えたり。夕方に至り敵又東の方より襲来るの注進ありしに由り、歩兵を出し草風隊を伏兵と為し待かけたれども遂に来らず。

↑の「小柴重稷殉節の始末」に、『天野花蔭は大鳥圭介と合して事を謀るべしとて、人をもて此義を通せしかど、いまだその報を得ず』『(村上求馬は)花蔭及び佐久間悌二・鈴木弥七郎・會藩奥村伊波をのこし〜』とあるので、残留した天野等は、その後大鳥本隊に合流したのだろう。佐久間は翌日、飯塚方面へ斥候に出ている。

【結城藩戊辰始末】 午後武井宿を発し、探偵賊に遇い臺仙坊(←大戦防。武井のすぐ南)に戦う。数刻賊千餘、時に小山口彰義隊草風隊来る。関本口(←結城の南方)亦賊の七連隊襲来すと、三方の報頻に至る。弊藩戦争以来人甚だ少なく、且弾薬器械悉皆之を失う。而て今三方に分遣す、其僅少知るべし。

【水野忠愛家記】 結城藩
午時過、
武井宿北茂呂の間、字台仙坊と申所にて戦争相成、死傷尤多し。同日、小山口よりは彰義隊、草風隊等、結城へ来襲の風聞之有。

【北戦日誌】 兵総て弐百人、諸川を発し進む事半里、武井邑と云えるに達す。近傍叢樹鬱怱として四境を菽う。余等、其伏兵有らん事を懼れ、暫く軍を止め斥侯を撤列して探ら令む。忽然人有り、右より出て左の叢林に入る。直ちに声有り、撃てと云(中略)申の中刻、悉く軍を収めて諸川に凱旋す。大鳥圭介、街外に出迎いて軍を労う。

戦いの結果は、浅田によれば「斬首七級、四斤の戦争砲一門、弾薬函七箇、小銃刀槍等を分捕す。而て我兵傷く者四人、戦死する者弐人也」。

【野奥戦争日記】 九ツ頃官軍勢押来、其勢二千人程諸川宿を取巻。味方よりも右半大隊繰出し、横合より打出、無何官軍追拂。此戦争に味方手負壱人、討死二人、官軍手負討死数不知、大砲一門、小銃三十挺分捕。中軍本陣迄引揚、其夜は当宿にて泊る。

【慶応兵謀秘録】 中軍の先鋒、於中途小山宿にて敗走する処之結城勢に逢い、戦争に及。於之米田桂次郎後軍之一小隊を引卒し、戦争の様子を伺わんとする処、並木の内にて敵兵に逢い少しく戦争に及ぶ。敵兵退去、依之引揚げ、総軍同駅に宿す。

【仁連町江口坪 鈴木長右衛門日記】 四月十六日、茂呂(現・茨城県結城市。武井の隣)松並木迄、諸川に泊り居候歩兵繰出し候処、官軍は武井の原迄繰出し同所にて戦争に相成、北茂呂迄歩兵繰引きに引取、民家の間より鉄砲を打出し、然る処官軍東茂呂村より横合に廻り、北茂呂十文字寺の前にて大に戦え双方死人も有之、官軍は関本(関城町)辺へ引取、歩兵は諸川へ引取同所へ泊る。

【館林須坂両藩兵戦記】 館林藩(祖式隊)
今十六日、下総国武井村に於て、祖式参謀指揮の下に館林石川喜四郎隊、須坂小林要右衛門・永井牧太の両隊及び大砲隊、江戸脱兵と衝突し、銃戦数時に亘り、相互に死傷あり。石川隊長、大砲隊杉本勝蔵の負傷、隊士山澤與四郎戦死せり。又須坂隊にも死傷者若干名あり。
同日は独り武井に止まらず、小山に於ても、亦た脱兵と官軍彦根兵等の間に戦闘ありし由なるが、官兵利あらず、今は小山は全く脱兵の有に帰せり。

祖式金八郎隊に属した館林藩の記録。館林藩は石川喜四郎隊と関口喜兵衛隊の二つで、著者の藤野金太郎は後者にいた。この頃、関口隊は一揆の警戒の為真岡に行っており、16日の武井戦を戦ったのは石川隊。
関口隊は同日中に結城に呼び戻され、17日の第三次小山戦に参加。結城に戻る前後には、『関口隊長を始め隊兵等は、無想だも描かざる江戸脱兵との戦争には、驚異の眼をみはって互いに呆れしが、只肝腎の機会に出逢わざりしは、返す々々も遺憾とせり』とか、小山の本陣には結城で分捕った武器類を保管し、館林5名+須坂5名の藩士を残しておいたが、『脱兵の小山宿に入るや、官兵の本陣に宿泊し居るを探知し、急に本陣を襲うて保管人等を追い散らし、分捕品を悉く奪取せり』等と出て来る。

武井戦については、関口隊を真岡へ呼びに行った同藩の川上勝之進による手記が、同書に引用されている↓

『徳川の脱兵江戸を発し、総野の野に向うとの取り沙汰頻りにして、結城界隈人心恟々(きょうきょう)として、孰れも恐怖に囚われ、家業に安んせずして在りき。既にして果して風聞に違わず、大鳥等の大兵小山に来り、方さに結城に向わんとの注進櫛の歯を引くが如し。於是結城滞陣の祖式参謀は、結城に敵を引け付けるの不利を曉(さと)り、直ちに館林須坂の両藩兵及び大砲隊を引率して、敵を武井村に迎い、此処に之を喰い止めんとせり。祖式一行隊急行して武井村に至る。敵未だあらず。祖式参謀部署を定めて街道の要所に砲列を敷き、其右翼は石川隊、其左翼は須坂隊、各々戦線を持して敵影の至るを待てり。

敵兵等は斯る防備のあることは露知らず、悠々と街道を闊歩し、今や武井村に蒐らんとする刹那、大砲弾高く唸って脱兵等の頭上に、轟然たる音響と共に破裂せり。敵兵等不意を喰って颯っと麦圃内に展開するや、忽ち銃音諸方に起り、弾丸は相互の戦線内に舞い、喊声、銃声四隣に鳴りて、修羅場を実現す。然るに敵の最も目標とせるは、街道砲隊の陣地に在れば、敵弾の多くは茲に集中して、砲隊漸く苦戦に陥る。(中略)祖式隊遂に破ぶれて、同日薄暮結城に帰る』

2の付記 史料TOP
1