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幕軍本隊とは別行動で仁連を出発した貫義・草風・凌霜の3隊は、正午頃、小山東方の犬塚附近(現・栃木県小山市。JR小山駅東南の結城街道周辺)にて、軍監・平川和太郎率いる笠間藩隊他の西軍と遭遇し戦闘。旧装備&少人数の西軍を蹴散らし、3隊の勝利。この戦いで凌霜隊の田中亀太郎が戦死、菅沼銑十郎が負傷。菅沼は7月17日若松病院にて没。 草風隊は仁連or諸川で二手に分れたようで、犬塚で戦ったのは村上求馬の一隊。天野花蔭の隊は、幕軍本隊に合流した模様。貫義隊については不詳だが、草風隊同様に二手に分れていたように思われる。
戦いの後は、凌霜&草風(村上)隊は大平山(おおひらさん/現・栃木市)に登って一泊。貫義隊(の一部?)も一緒であろう。
【小柴重稷殉節の始末】 草風隊
四月十六日、重稷は草風隊の長・村上求馬に従い仁連宿より発足して室川(←諸川)に至り、この路を左に折て間道を経て小山宿を指して赴く。この時草風隊・貫義隊の二隊なりき※。是より先、天野花蔭は伝習隊長・大鳥圭介と合して事を謀るべしとて、人をもて此義を通せしかど、いまだその報を得ず、村上はその事を知らざれば直進みにすすみて、花蔭及び佐久間悌二・鈴木弥七郎・會藩奥村伊波をあとにのこし※、はやその日の未の刻ばかりに小山宿に着しけり。
※小山へ向ったのは、草風(村上)隊&貫義隊と凌霜隊。「小柴重稷殉節の始末」には、何故か凌霜隊は一度も出て来ない。
天野花蔭は大鳥と合流しようとしていたとし、他に佐久間・鈴木・奥村の名が残留者としてある。鈴木弥七郎は、この日の午後の武井戦争に出て来る『鈴本弥七郎』の事であろう。奥村伊波は、小柴重稷が最も懇意にした会津藩士らしい。
とみれば官軍なるべし。あまたの兵士この駅中に充満して、敵を待つものに似たり。さらばすすめと先陣にすすみし貫義隊の若者等、各手々に赤き布を臂に結びて合符とし、三手に別れて駅中に馳せ入るに、敵は用心したりけん、駅中に垣を結びて人を通せず、兵士等は形を匿していづこに在りん、その影をだに見ざりしかば、人々その謀あるを懼れて進み得ざりけり。※
※後の今市戦で、『兵士怯懦にして用ゆるに足らず』(南柯紀行)と酷評される貫義隊。草風隊の村上求馬にも笑われ、罵られている↓。貫義隊の隊長・松平兵庫頭は、小山戦に出ていなかったんだろうか。
隊長村上はこれをみて嘲い、諸君何とて猶予し玉える、命はかねて無きものと覚悟したるに非ずや、今さら何を憚り何を懼れて進み得ざる、よしよし、我壹人なりとも、やわが破らで止むべきやとののしりながら、直に進んで件の垣を曳き破りしかば、隊長の一言に励まされて、重稷をはじめ五六人つづきて、この垣を越ておどり入るに、敵はかねてあたりの麦畦(むぎばたけ)のうちにかくれてこれを伺い、忽ち小銃を連発す。すわや敵はかしこにあるぞ、のがしなせと、惣勢我も我もとかの畦に向いて打かくる。貫義隊の壮士等はあとよりつづきしが、これをみて、我等こそ今日の先陣なるものを、草風隊に先駆せらるべきに非ずと、忽ち路を横ぎりて敵兵の脇に出て、筒先を揃えて打立たり。
敵は我兵を思う壷に引入れたりと思いしに、以外の横矢に気を奪われてたじろぐにぞ、得たりと両隊力を合せ、無二無三に進みしに、敵はなおも伏兵あり、麦畦の隙より忽ちどっと打出す。砲丸の雨霰よりしげかりければ、我隊兵・今井鎌吉これが為に股に傷つく。鎌吉打たすなと、小柴重稷は元込の小銃をもてかの伏兵を目がけて一発するに、あやまたず一人の敵を打斃せり。我兵はこれに気を得て火を民家に放ち、畑の下より撃て入れば、敵は大にあわて、隊を乱してのがれ去りしかば、この時分取しらるは大砲十一門、その外弾丸旗差物まで数うるに暇あらず。
斯く我兵は、大平山に趣きて営陣を要害の地に設くべしとて、この地を引揚げ、かの山さして行軍せり。(中略)此日はいと熱かりしかば、満身汗になりて、その苦悩いうべからず。黄昏富田に至り、ここより山路をすすみて、夜亥の時ようやく山上に登り、その夜はここに一宿す※。
※仁連周辺の地元民の記録に、「仁連町御泊之御人数は、翌十六日同町出立、小山宿へ御継立之処戦争に相成、同所継立差支人馬之内立戻り候分も有之候得共、富田宿・大平山等迄継候分も有之」と、大平山まで人馬の継立を行った事が出てくる。‘富田’は足利の富田(とみた)ではなく、大平山南の富田(とみだ)。
【心苦雑記】 凌霜隊 十六日、早天出立。結城近く進む処、斥侯のもの追々走り帰り、結城にはそれぞれ人数配り之有る申に付、表の方へは七連隊※・草風隊相廻り、裏口は貫義隊・凌霜隊也。扨、貫義隊・凌霜隊追々敵陣近く進み、七八町此方の森、又は畑よりサグリを打ち、敵の模様を見合わせ(此敵、彦根・笠間・宇都宮・壬生也)、放射しつつ進みけれ共、敵には更に放射せず(中略)、味方双方にて討ち取る首十四五、大砲十二門、弾薬箱拾棹、器械長持沢山分捕り、大勝利也。 (戦いの後)夫より直に、小山宿を左へ、大瀬川を歩行渡り、貫義隊を始、残らず引揚げる。
※矢野原の言う‘七連隊’については不詳。大山柏「戊辰役戦史」以下多くの本で、この存在は無視されている。
大瀬川というのは、小山の西を流れる思川(おもいがわ)の事と思われる。
【慶応兵謀秘録】 草風隊・貫義隊小山之駅に至る。此時宇都宮・壬生・結城・笠間・薩之人数此駅を守る。終に戦争に及ぶ。宇都宮・笠間・其他之藩、我が短兵に馳立られ、器械を打捨海道さして敗走す。此所にて草風・貫義両隊にて首数十級、大砲八門※、弾薬数荷得る、携て終に大平山に寄る。此日笠間隊長之首級、草風隊にて得之。翌日首級を大平山に掛け、神祖霊を祭る。
【風説異聞日記】 八ツ時、小山より結城道穢多有之候場に而大合戦、笠間様大隊首被取大筒弐挺※、官軍勢拾六人打死、大筒三挺※、壬生敗軍大筒壱挺※皆被奪。(鹿沼宿役格・福田弥九郎の日記/鹿沼史林)
※分捕った大砲の数は史料によってマチマチだが、旧館林藩士の回顧談によれば「19日に40人程引連れて大平山へ登ったところ、大砲備え付けの場所に車台8挺あり。人足に命じて全て車台から引き降ろし、持参の他車に乗せて引取った。脱走兵は19日夕刻までに宇都宮の方へ出発しており、後には大砲附の僅かな人数と(大平寺の)僧侶しかおらず、彼等はこちらの兵が何百人いるかと危惧して無事に(手向かう事無く)大砲を渡した」らしい。大平寺の住職は「兵隊が大砲を持って来て境内に置いて行った。当方は甚だ迷惑」していた模様(史談会速記録 合本40 第302輯)。

↑霊峰・大平山(栃木市)
【慶応日記】 今日昼九ツ時ちと過て、小山の方に当り大炮小銃之響夥敷大騒成。暫時過て男女足早に門先を欠通り候もの有之に付、呼止め候処、我々は塚崎村之者に有之、小山宿へ買物に相越候処、俄に東の方より大炮打欠、小山において合戦相始り、漸逃来候もの也と言間も無之内、小山御別宅召仕共逃来る。物語に騎馬の士乗廻し、宿内之もの怪我いたし候ては不宜間、逃せ々々と申内※、益炮声頻也。暫時過て火の手見える。是は徳川脱走の人数(塩沢村=現・小山市 旗本知行所名主 吉光寺梶之助日記)
※地元民による記録。通行人を呼び止めて状況を聞く間にも、戦闘は激化していった。「戊辰戦争全史」(新人物往来社)は、人々が怪我をしてはよろしくないから「逃せ!」と叫び回っていた騎馬の武士は、先に攻撃を仕掛けた幕軍側の人物であろうとしている。塚崎は現・小山市(中心部の南方)。
【仁連町江口坪 鈴木長右衛門日記】 四月十六日、仁連町泊之人数は小山へ参り、然る処是も小山に官軍屯集罷在、依之塚崎弁当にて小山裏畑耕地へ陣取り、大合戦にて歩兵方勝利、大砲をうばい取、同日大平山へ屯集致候事、当町人足小山より帰り候ものも有之、又大平迄り候ものも有之候得共、壱人も怪我無之帰り申候。(三和町史)
【南柯紀行】 本日小山にて戦争せしは、草風隊と結城宇都宮より来りしを敵として、草風隊并に貫義隊大に勝利を得て、敵将の首級を得たる由後に承知せり。
【北戦日誌】 昨十六日、我前軍の第一大隊※、此処に陣したる敵を破り、下野国大平山に據る、と云える報告あり。
我先鋒伝習第一大隊、桑名士官隊※、草風隊総計七百人餘、下総国関宿より古河の間道を経て、四月十六日、小山駅の敵に捷ち、一時、下野国大平嶽に墟り、十八日の夜、宇都宮を距る一里半、雀の宮と云える駅に到る。
※下妻&下館に向った伝習第一大隊&桑名藩他の前軍と、凌霜・草風・貫義の3隊が激しくごっちゃになっているが、これは浅田サンに限った事では無く、東西両軍とも多くの人が似たような事を書き残している。小山での数度の戦闘は規模が小さく混戦であり、かつ、ほぼ同時に前軍がすぐ近くの下妻&下館を襲っていた為に、情報が錯綜したと思われる。ごっちゃの記録の中では、3隊が小山戦の後北上して宇都宮を攻めたというパターンが目立つ。
【明治、戊辰宇都宮城】 官軍諸兵の多くは、刀槍隊にして、旧式戦法を用いるに反し、敵は小銃を以て散開戦闘法を用い、挙止整々、訓練甚だ可なり。且つ兵力許多、寡兵当り難く、或は戦い、或は退く。笠間藩の死傷者最も多く、此所に於て、青木貞兵衛隊及び大砲組止まりて諸藩兵を援け、攻撃に努めたるも、遂に弾薬悉くつき、官軍大いに敗れて結城に向って走る(中略)小山に至れば、敵は既に大行寺(←現・栃木県小山市)に於て、思川を渡り、栃木(大平山)に去れり。時既に黄昏、兵卒の疲労大なるを以て、官軍之を追撃せず、小山及び大町新田に宿営す。此の日青木隊は最も奮戦し、敵首八級を得たり。(岡部正一/下野史談)※
※著者は戦争当事者ではないが、執筆に当っては旧・宇都宮藩士他のお世話になったとしているので入れておく。
【総督府日記】 昨十六日九ツ時頃、小山駅に於て草風隊と唱う賊徒と一戦、勝敗不決、互に引分れ、一里半計相隔対陣、賊三百人計、官軍彦根一小隊半、壬生大砲二門、笠間槍隊三十人計と戦う。身方六人即死、敵の死傷、数多に有之、會の字の袖印之者も七八人斃居候。此夜、賊は生駒宿※に陣す。
※生駒は現・小山市で大平山の手前。大平山の事を言っているのだろうか?
會の袖章を付けた7〜8人は草風隊に属していたと思われるが、姓名は不明。
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