2011年12月19日 12時8分 更新:12月19日 13時43分
【北京・米村耕一】北朝鮮国営の朝鮮中央放送、平壌放送、朝鮮中央テレビは19日正午(日本時間同)、特別放送で一斉に訃告を発表し、最高指導者の金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記(国防委員長)が17日午前8時半、現地指導に向かう途中で急病のため死去したと報じた。69歳だった。朝鮮中央通信は、移動中の列車の中で急性心筋梗塞(こうそく)を起こし「激しい心臓性ショックを併発した」と伝えた。葬儀は28日に平壌で行われるが、外国の弔問団は受け入れない。国家葬儀委員会の名簿筆頭には、三男の金正恩(キム・ジョンウン)党中央軍事委員会副委員長の名が読み上げられた。金総書記の死去で、北朝鮮は本格的に後継者である正恩氏の時代に入るが、後継体制の行方は不透明で、経済難や情報の流入など不安定要素も多い。核兵器開発や日本人拉致問題、対立する南北関係を抱える朝鮮半島情勢は、一気に不透明さを増すことになる。
朝鮮中央放送は、金総書記が「心臓・脳血管の疾病で長期にわたって治療を受けていた」と伝えた。訃告は「今日わが革命の陣頭には、主体革命偉業の偉大な継承者である金正恩同志が立っている」として、正恩氏が権力を継承することを示唆した。
正恩氏の後継者としての地位は10年9月の朝鮮労働党代表者会で、党中央軍事委員会副委員長として公式の場に登場したことで確定。その後は軍や治安機関を中心に権力掌握を進めてきたとされるが、まだ若く、実務面での経験不足は否めない。
金総書記は73年9月に党組織・宣伝担当書記に就任。翌年2月には父親の金日成(キム・イルソン)国家主席の後継者に決まった。80年10月の第6回党大会で政治局常務委員、書記、軍事委員に就任し、表舞台に姿を現した。
94年7月に金国家主席が死去した後、3年間は喪に服し、97年10月8日に党総書記に就任。98年9月に開かれた最高人民会議第10期第1回会議で、国家最高ポストに位置付けられた国防委員長に再選され、権力世襲を完成させた。
金総書記は国防委員長就任後、軍隊の重視・強化を先行させる「先軍政治」の理念を国家運営の根幹に据え、軍事力を背景とした体制維持を推進。核兵器やミサイルの開発に国家資源をつぎ込み、06年と09年には、それぞれ連続して弾道ミサイルの発射実験と地下核実験を実施。自ら「核保有国」を名乗り、国際的な孤立を招いた。
一方で軍需産業に資源をつぎ込みすぎたことや自然災害の影響もあって90年代中盤から経済状況は急速に悪化。餓死者とともに大量の脱北者も続出し、金総書記は経済再建の道も探った。01年の訪中で経済発展が進む中国南部を視察。一時は中国をモデルにした「改革・開放」政策にも意欲を示したかに見えたが、最終的には体制維持を優先し、本格的な改革・開放には踏み切れなかった。09年末には逆に計画経済へと引き戻す狙いでデノミネーション(通貨単位の変更)を実施。民間の力で発達してきた市場を圧迫したが、かえって国内経済は大きく混乱した。
対外関係では00年6月に金大中(キム・デジュン)、07年10月に盧武鉉(ノ・ムヒョン)の両韓国大統領(当時)との南北首脳会談、02年9月と04年5月には小泉純一郎首相(同)との日朝首脳会談に踏み切るなど積極外交を展開したこともあった。小泉首相との会談では、自ら日本人拉致を認め、02年10月には拉致被害者5人の帰国を実現させた。しかし、その後は「拉致問題は解決済み」との立場を崩さず、再調査にも応じなかった。