画家 松井冬子
 
現代において氾濫する複雑な芸術作品の刺激は、かつて「美」と言われてきたものの美的価値の基準を喪失させてきています。
ここでは日本美術の作品に特に注目して論じていきたいと思います。
美術作品の存在と基本構造を
「攻撃性自己顕示実践型」「受動性自己犠牲変容型」「局地的領域横断型」
として大きく3つに構成し説明したいと思います。 
 

攻撃的な感情を呼び起こすべく計算された、「攻撃性自己顕示実践型」の作品の例としては、 鎌倉時代の地獄草子、江戸時代の幽霊画などがあげられます。
これらの作品は、観る者を怖がらせる、あるいは、いましめる、などの目的を持って制作されています。穢土(えど)に執着すべきものはないとして、悟りの道を求めなさい、という教えから発生しています。いかにも恐ろしい醜悪な残虐行為や、歪んだ人物の形相、酸鼻を尽くしたあらゆる陰惨な趣きを、次から次へと徹底的に描写することで、見る者に嫌悪感を抱かせることに成功しています。その責め苦の詳細を如実に見せることにより、恐怖心をかき立て、罪の恐ろしさを思い知らせる、といったものです。
江戸時代の幽霊画は、" 魔をもって魔を制す"という考えから、
主人の留守中に床の間に幽霊画を飾り、家財を暴漢からを守ろうとしたと伝えられています。
その幽霊画が恐ろしければ恐ろしいほど、目的が昇華されるということです。
 

次に、受動的な感情を呼び起こすべく計算された「受動性自己犠牲変容型」の作品をとりあげます。多くの力強い美術は、痛みやトラウマの研究に捧げられています。  
言葉であれイメージであれ、誰もが感じるものの中には、翻訳不可能な「恐怖」があります。個人の感覚が持つ「内側」の恐怖は孤独なものです。
この「恐怖」「痛み」「トラウマ」を、美術家はどのように形にし、伝えているでしょうか。
例えば 上村松園の「焔」という作品では、うねった黒髪とともにゆったりと浮かび上がる女性が、眉をひそめてうつろな目をして髪の毛をつかんでくわえています。
この作品では上村松園自らの身体に由来すると思われる痛みや、精神的な辛苦といったものを、モチーフの中心的な主題にすえている、と見る側に伝わります。
作品から発せられる壮絶な憎悪の力は、画家の技量によって増幅され、見る側に憑依させる効果を生み出しています。
 
次に、他者への攻撃に徹したものでもなく、かといって自己処理のものでもない、
痛覚を漂白させているか、あるいは内側で受動と攻撃が行き来している
「局地的領域横断型」については、鎌倉時代の「九相図」を例に挙げます。

「九相図」とは、ある女性が死んで、その屍が腐敗し、変色し、膨らみ、動物に食べられ、白骨化し、風化する有り様を描いたものです。
人が死んでから、屍体が変化してゆく姿を見て、肉体に対する執着を除くために、
それについて思いをこらすために描かれています。
鎌倉時代の美術に共通する写実志向が、殺伐さを発揮していますが、
そこであらわしているものは、残虐性ではなく、死という現実で私は美術作品は解剖学的に所在を追求し、 記号を作り、いかに共振できるのかを解明すべきであると考えています。
芸術作品が自らを叙述するものとして把握されるということは、美術作品が真理へ通じる何かを宿しているということに他なりません。
それをふまえた上で、これから私自身の作品について叙述し、座標点を探っていきたいと思います。
 
「世界中の子と友達になれる」(2002年) という作品ですが
少女と藤、黒い帯状のスズメバチ、赤ちゃんのいない揺り籠、などのモチーフは、
「神経症や狂気、堕胎、ヒステリー」を意味するものとして描いています。
「窮鼠猫を噛む」という言葉のように、緊張が狂気に変わるその直前のような、
「心の崩壊の予兆」のようなものを表現しています。
作品左に背中を丸めて、抜け殻のように立つ少女は、肉体に欠損がなかろうと、
いつでも感覚や精神が不自由であるということを示しています。
黒い帯状のスズメバチの大群は、いつ狂うか分からないという恐怖を表しています。

「世界中の子と友達になれる」とは、幼少時代に心の中ではっきりと思った言葉です。
私は静岡県の森町という自然の美しい田舎に育ち、
小学生の時は友達と遊ぶことが楽しくて仕方がありませんでした。
そして本気で「世界中の子と友達になれる」と思ったのです。
しかしながら大人になるにつれ、
目の前にいるたった一人ですらコミニュケーションがとれない、という状況になっていきます。
この幼児の全能力の言葉、あるいは現実逃避のような狂気の言葉である
「世界中の子と友達になれる」を、作品を集約するものとしてというタイトルにしました。


「夜盲症」(2005年)という作品について

幽霊というものに対し、実在しないものにもかかわらず、
多くの人がある程度の共通するイメージを持っており、そして、
それを見たという人の心理的な脅迫観念と、集団妄想をテーマとしています。
そして思考が妄想に支配される事を示しています。
 ただし幽霊の出現の原動力が、怒りを伴っているという点において
私は共感をもって受け止めています。情念と重力には共通の関係を見いだせるのです。
「気が落ち込む」という言葉通り、心理的外傷にさらされた場合、
心は重力に引っ張られるように落ち込み、這い上がれない状態となります。
パラドクスのようだが、幽霊は重さを伴いながら浮遊し、ただふわふわしたものではなく、
情念を伴った重力感のある浮遊であることが、この上なく魅力的な素材であると感じています。


「浄相の持続」(じょうそうのじぞく2004年)という作品について

 女性の体というのは生殖器官(子宮)を発達させるために、エネルギーの大部分を消費しています。
 この女は自ら腹を切り裂き、赤児のいる子宮を見せびらかしています。
「私はこんなに立派な子宮をもっている」という誇らしげかつ攻撃的な態度と、
防衛としての破壊的な衝動を描いています。
彼女の周りに咲く花々も、彼女に同一化するかのように切断し、雌しべをみせびらかしています。
女性のもつ同一化に関する優れた能力は、卵をつくる、分身をつくる、
という子宮を持つ者の強い力である、という事を示しています。


さて、私の視点による日本美術の分類と、私自身の作品について言及してまいりました。
あまりにも整理されすぎた現代の日本に生きていると、
五感がいささか鈍くさせられていくといっても過言ではないでしょう。
攻撃的な作品には、視覚によって防衛本能を蘇らせ、
リアリティを呼び戻す事が出来るのではないか、
また、インタラクション【相互作用】を伴うメッセージとなるのではないかと考えて制作しています。
意識の孤独を解き放ち、客体化するための手段としての可能性を
美術家は握っていると考えています。
また、痛覚は、われわれの身体的共感を持ち、直感的なるものを暗示し、
美術としてアウフヘーベンさせ、飛躍させられることを私は信じています。