石井輝男監督はひと頃「昭和のデビット・リンチ」と呼ばれていた。すいません、デビッド・リンチがハリウッドの「石井輝男」だったかもしれません。この二人の世界観にはかなり共通点がありまして、人工美に満ちた端正な世界、おおむねそれは「劇場」というビジュアルで現されます。ベルベット地の重厚な幕が開くとそこは舞台だ。スポットライトの向こうにカメラがずんずん進んでいくと、そのカーテンの裏側にはグロテスクでおぞましい異形が住んでいる。その発想のオリジンは石井輝男の場合は江戸川乱歩の小説、デビッド・リンチの場合は犯罪orSFパルプマガジンだったりするんでしょうけど。
そういった石井輝男監督のパノラマ世界は、デビュー数本目の「鋼鉄の巨人・怪星人の魔城」で、既にその萌芽がある。地球に細菌テロを仕掛けるカピア星人は「謎の舞踊団の公演」を装っている。(装ってる割にはダンスの振り付けも舞台装置も本格的だし、何だか楽しそうなんだけど)ダンスといっても「宇宙人が考えたダンス」だから、とてもビザールな代物だ。白と黒がシンメトリーに配置されたコスチュームと前衛的な舞台デザイン。これは50年代カルチャーでいうところの「ビートニク」ってやつですな。
音楽は新東宝で三原葉子や万里昌代が踊ってる、ドンドコしたキャバレー音楽なんですが。(音楽は後に「人造人間キカイダー」や「宇宙刑事」シリーズで活躍する渡辺宙明)
この幾何学的にデザインされたダンサーが、舞台上でターンを決める時、一瞬爬虫類のような、ただれたような宇宙人の素顔が見える。ここらへんの感覚が、すごいデビッド・リンチ的ですよね、(こっちのほうが30年ぐらい早いんだけど)
スーパージャイアンツと宇宙人の格闘シーンは、一種の舞踊劇、ミュージカルのような演出がされていて、ボディダブルを効果的に使った立体的な構成。凝ったトリックはほとんど使われてないのに「宇宙人の戦いとはこんな感じなんだ」と、観客を不思議な気分にさせる。ちょっとしたシーンにアイデアが一杯で「ああ青年監督・石井輝男がノッて撮ってるな」という感じ。逆に今の特撮アクションにはこのあたりのライブ感が欠けているような気がしますよ。
「劇場」というのは観客と演じ手が隔てられているわけじゃないですか。舞台と観客席は空間的にはつながってるんだけど、概念的には切り離されている。それは「この世」と「あの世」ぐらい違う。そこを乗り越えるのは大変なタブーなんですよね。不用意に観客が舞台に上ったら、不審者・暴漢としてつまみだされます。
舞台を見に行くのは「異世界を覗き見る」わけですから、「この世側」の観客はそれなりに正装してくるわけです。そのへんのキチンとしてる「坊ちゃん嬢ちゃん」っぽい感じが石井輝男やデビット・リンチのキモだと思うんですよね。「ツインピークス」も50年代的な田舎町に「ボブ」という60年代の長髪ヒッピーみたいなヤツがきて崩壊していく。
スーパージャイアンツ=宇津井健も、石井監督がその後タッグを組む吉田輝雄や高倉健も、端正な顔立ちの二枚目なわけですよ。観客と演じ手、客席と舞台の間に横たわる、超えてはならないボーダーラインを「禁欲的に守れる顔」の人たちなんですよね。昔の言い方で言うと、それが「スタア」の顔なわけですよ。
石井輝男監督の映画世界には「舞台」が頻繁に出てきますし、あと「覗き見る」という行為もよくでてきますよね。窓から向こうの窓が見えて、そこの向こうで誰かがキスしてたり構図が何回も出てくる。画面の中にフレームがいくつもある感じ。「見る」VS「見られる」の図式は、すでに「スーパージャイアンツ」の中で全部提示されてるんですよね。
「幼稚な子供番組」「モッコリ」と言われ続けていても、半世紀の歳月を経てまだ観られ続ける「スーパージャイアンツ」には、やっぱり得体の知れないパワーがありますよね。