【新刊】キム・ジョンホ著『朝鮮の貪食家』(タビ社)
朝鮮王朝の建国が一般民衆の食生活にもたらした変化は、まず土地改革でコメを食べるようになったこと、次いで肉食が広まったことだった。高麗時代には、あまり牛肉は食べなかった。殺生を罪と見なす仏教文化に加え、牛は人の代わりに土地を耕し、穀物を植えられるようにしてくれる上、重い荷物を運んでくれたため、牛を「食用」と見る雰囲気はなかった。肉食文化は、元の支配下に置かれていたときに支配層の間で復活し、儒教を統治理念とする朝鮮王朝が建国されると、前例のない牛肉ブームが起こった。
「牛を食べる日」もあった。洪錫謨(ホン・ソクモ)の『東国歳時記』(1849)には、陰暦10月のソウルの風習として「火鉢に炭火をおこし、焼き網を乗せる。牛肉にごま油、しょうゆ、鶏卵、ネギ、ニンニク、粉唐辛子などを加えて調味し、火鉢を囲んで焼きながら食べる。これを煖炉会(だんろえ)と呼ぶ」という記録がある。煖炉会は、18世紀の実学者、燕巌・朴趾源(パク・チウォン)や正祖が書いた文章にも登場する。正祖の文集『弘斎全書』(1814)には、正祖5年(1781)の冬、正祖が深夜に仕事をしている奎章閣(歴代国王に関する文書を保管する機関)、承政院(王命の伝達と報告を行う機関)、弘文館(国王に儒教の経書や歴史の講義を行う経筵〈けいえん〉を担当し、王宮内の経書や史書を管理する機関)の儒生たちを呼び、煖炉会を開いたと書かれている。
「牛心炙(しゃ)」は、東晋の周ギ(ギは豈に頁)が牛の心臓をあぶり、誰よりも先に王義之に与えたという故事に出てくる料理だ。その後、牛心炙は、徳の高い人物や知人を敬意を込めて接待するときに出される、名誉ある料理として、ソンビ(学者)の間で広まった。牛の心臓を薄く切り、ヤンニョムカンジャン(薬味を入れたしょうゆ)で味を付けて焼く料理なので、しこしことした歯応えがあり、味もいい。朝鮮王朝最大の詩文集『東文選』の責任編集者だった徐居正(ソ・ゴジョン)の『四佳集』(1488)には「若いころはいつも牛心炙のことを考えていた(常懐少日牛心炙)」という文言が登場し、茶山チョン・ヤギョンの詩にも牛心炙が出てくる。