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ジックリ考える 紙のリサイクル(6)




 紙の偽装事件があったので、この際、と思って「ジックリ考える紙のリサイクル」を執筆し始めて6回目になる。

 

 私は、なぜこのような汚れたことを子供たちに教えてきたのだろう?としばしば筆が止まる。美しいこと、楽しいこと、将来が拓けていることなら書いていても力が湧いてくるが、紙のリサイクルは何ともいやらしい。

 

 でも、仕方がない。ともかくケリがつくまではハッキリしたい。気を取り直して、最後の一踏ん張りをする。

 

 「紙と環境」というのを真正面から考え、その結果を子供たちに伝えたい。

 

 まず、森林は年々、育っていくのだから生育量とのバランスを取ってそれを利用していくのは問題が無い。そして、民間の会社が負担することはできないが、環境という点ではできるだけ日本の森林を利用することも大切だろう。

 

 日本の森林を大切にするということは、森林が利用されずうち捨てられている状態ではスギの花粉にしろ、景観にしろ、また海を含めた自然循環にしろ良いことではないからだ。でも、日本のように高度に工業化し、さらに山が急峻なところでは、広い大地から樹木を伐採することに比較してコスト高になることは間違いない。

 

 そこで、まず日本の森林については、当面、自然林と人工林の比率を少し自然林に傾け、そのガイドラインを作って管理し、森林管理に要する経費こそある程度の環境保全費として国が負担すべきだろう。それは「リサイクル関係の税金」でまかなえる。

 

 従って、たとえば、日本の紙は500万トン程度が日本の森林から、1500万トン程度が外国の森林から、そして1000万トン程度がリサイクルというのが適正だろうと考えられる。もちろん、統制的に行うのは感心しないが。

 

 さらに、リサイクルを30%程度に抑えた方が良いという理由は、第一に繰り返し紙を利用するとう言うのは高分子材料としての紙の限界があるからであり、第二にリサイクルには石油をよけいに使うということだからだ。

 

 もしこれらのことが実施できれば、基本計画にそって「自然と共存して資源を生かす紙」という明確なメッセージを出し、それを子供たちにも教える。自分たちが紙を多く使えば、森林を伐採する必要があるが、森林伐採自体は悪いことではなく、むやみに伐採することがあれば、それが問題だというぐらいのことは理路整然と教えることができる。

 

 また、ある程度の紙のリサイクルが経済活動として意味があるなら、自然に紙のリサイクルが進むはずである。かつてのちり紙交換がいかにも旧時代的なら、新しいシステムで合理的な民間企業が出現するのは健全な社会の活動だろう。

 

 日本はすでに20年来にわたって、紙のリサイクルをしてきて、環境問題も毎日のように議論されている。だから、環境と経済を調和させた紙の製造と消費という問題を深く考えることは可能である。

 

 そのためには、まず一にも二にも「情報公開」である。この情報公開は「企業秘密」を含む必要はない。製紙工業が経産省や環境省に言われもないイジメを受けたときにはそれをそのまま公表する勇気とか、もちろん、国民の公僕たる官庁が自らのメンツや天下りに心を配ることがあってはいけない。

 

 また表示の問題もより厳密にしなければいけないだろう。古紙含有率なども現実に混入した割合を表示するのがよいし、もともと古紙含有率を表示する必要があるかも考える必要がある。

 

 「私はよいことをしています」ということは口に出さなくても良いとイエス・キリストが教えているように、もし古紙を利用することが良いことなら、それを表示するのではなく、紙の品質そのものを表示するのが正しいメーカーの態度ではないかと思う。

 

 しかし、今回の紙のリサイクル偽装事件は、紙のことですら、すでに日本社会が「製紙会社」だけでどうにもコントロールできなくなっていることを示した。なにしろ大手5社が全部、偽装したということは、行為が犯罪ではなく、システムが犯罪をもたらしたと考えるべきだからだ。

 

 政府、専門家、環境運動家、そしてマスメディア・・・このような集団に飲み込まれ、矛盾の中で藻掻いた日本の代表的業界・・・それは日本のこれまでの繁栄に寄与し、その中核を為した業界・・・に起こったことを、紙に関係のない国民も共に深く反省しなければいけないだろう。

 

 

(平成20130日執筆、平成20年3月10日修正)


武田邦彦



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