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ジックリ考える 紙のリサイクル(5)




 どうもおかしい。まともな専門家で「紙の100%リサイクルが環境によい」などという理屈を構えられる人はいないはずだ。

 

そんなあやふやなものを、小学校の教科書では「環境に良いこと」として書かれ、児童に教えているらしい。大人の世界にはある程度、汚いこともあるが、なぜ、子供にまで紙のリサイクルが無制限に正しいと教えるのだろうか?

 

長じて大学生になり、紙のリサイクルの矛盾に気がつくと、学生はガッカリする。それは「ムダなことをしてきた」という失望ではなく、「あの尊敬していた小学校の先生がボクにウソを教えた」ということである。

 

 そんなことはあってはいけない! テレビではないが「ほっとけない!」という気持ちになった。

 

 そこで「誰が紙の100%リサイクルは環境によい」と言ったのか、また「誰が民間でやっているリサイクルをわざわざ税金を取り立てる官製リサイクルにしたのか」を調べたら意外な結果が出てきた。

 

まるで怪談話なのだが、次のような話が現実にあることを紹介しておこう。そう、官製リサイクルが「江戸前の肴」から始まったというのだ。

 

 日本が高度成長期を迎えると、東京湾の周りにはグルッと取り巻くように石油化学コンビナートができた。そして石油化学コンビナートの隣には発電所、製鉄所、そして小さな加工工場に至るまで長いベルトのように工場が並んだ。

 

それは、横須賀から横浜、川崎、大井まで続き、都心で少し切れてはいたが、江東区から幕張、千葉、そして袖ケ浦から君津に至るまでぎっしりと並んでいたのである。

 

公害対策がそれほど行き渡っていなかった頃である。これらの工場は汚い排水を流していた。でもその頃は、悪意があったわけではなく、汚い排水を流したらどのような結果になるのかということ自体があまり判っていなかったのである。

 

東京湾の海水は閉鎖されているから、たちまち東京湾は汚れ魚はとれなくなった。「江戸前の寿司」というのは有名なように、東京湾は結構、魚がとれるのでそこに働く漁民も多かった。ところが魚が捕れなくなったので漁民は次々と陸に上がってくる。

 

 そうこうしているうちに紙のリサイクル運動が起こった。民間がやっていた紙のリサイクルに自治体が関与するようになると、様相は一変する。使い終わった紙は、子供会、老人会、自治会などが集めてそれをまとめて自治体に持っていく。

 

自治体では集めた紙の量に応じて子供がいや老人会にお小遣いを上げるというシステムになった。もちろんその小遣いは税金だった。

 

 まもなくこの仕事に目をつけた団体があった。紙のリサイクルを民間から自治体がやるようになったので、自治体の首長に話をつけて一気に仕事を回してもらえば良いと考えた。

 

そうなると利権の伴う仕事である。政治家や団体、そしてさまざまな人たちが動き自治体の話をつけ紙のリサイクルシステムは一変したと言われる。

 

 東京の各区にはそれぞれ多くのチリ紙交換屋さんが仕事をしていた。千代田区、中央区、港区などの東京の中心部はそれほどチリ紙交換屋が多くはなかったが、江東区、足立区などの下町には中小のチリ紙交換屋さんが数多くおられた。彼らは政治を信じ東京都を信じて、紙のリサイクルに汗を流していた。

 

自分たちこそ昔からリサイクルをしており、これほど社会がリサイクルに関心を持ってきたのだから自分たちの将来は明るいと思っていた。まさか水面下で特定の団体と東京都話をし、自分でその仕事を取ろうとしていることなど夢ほど考えてはいなかった。

 

 やがて新しい紙のリサイクルのシステムができあがってみると、東京都と契約を結んだ特定の業者だけが古紙を取り扱えようになっていた。政治力のないチリ紙交換屋はたちどころに敗れ、内輪の争いも起こった。

 

 風が吹けば桶屋が儲かるの類と同じこの話は、まるで怪談話である。高度経済成長→東京都の拡大→排水規制の遅れ→石油化学コンビナート→チリ紙交換屋さんの活躍→東京湾の汚染→漁獲高の減少→漁民の離職→環境問題への関心の高まり→熱帯雨林の減少→紙のリサイクルの開始→環境運動家の活動→子供会老人会の活動→環境運動への小遣いの配布→自治体との契約業者問題→政治団体の行動、と続いた。

 

もしこれが本当なら、表面は美辞麗句に飾られた新しい紙の100%リサイクルシステムが発足し、額に汗をしていた人たちが追放された。そして、熱帯雨林の保護の機会は永久に失われてしまったのである。

 

東京都のこの新しいシステムはたちどころに全国に広がり、それまで社会の一員としてリサイクルに協力していた優等生のチリ紙交換屋さんはすっかり舞台から消えてしまった。

 

「無理が通れば道理引っ込む」と言う諺があるが、よく言ったものである。もともと、無制限な紙のリサイクルは森林を守るということ自体が間違いなのだ。その間違いを推し進めると道理もなにもかもまともなことは引っ込んでしまう。

 

 私がこの話を紹介するのは、紙のリサイクル問題以外に思うところがあるからだ。社会が情報化され、ずいぶん多くのことを知ることができるようになったが、その反面、返って発進力の無い人が犠牲になるケースが見られる。

 

仮に明治時代から細々と続けていた「紙のリサイクル業者」が、せっかく「リサイクルの重要性」が認知されてきたのに、表彰もされずに闇の中に消えていく・・・そういう社会はあまり好きではないからだ。

(平成20年1月28日執筆)


武田邦彦



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