Jellyに会いました★ 元気でした★
今日、Jellyに会いました。
支援下さった方々への感謝の気持ちをいっぱいに笑顔で
話してくれました。長い時間はみなさんに頂いたお手紙が嬉しくて、
何度も何度も何度も読み返していたという事です。
この感謝の気持ちを今後、大切にして行動していきたいという思いです。
2年前の自分個人としての行動の至らなさについては、自身を恥じると、2年前の事については
償うのが筋ですし、その点においては、どれだけ小さいこと大きいことにかかわらず反省しなくてはなりません
また多大なご迷惑を反省をおかけしたと真摯な素直な気持ちを
感じていました。
また、いろいろな人のお手紙から、おつるに対する現在の状況も
知ったらしく、自分の事より「おつるさん、元気ですか、大丈夫ですか」と心配してくれてとても優しかったのです
ただ、信頼していた友達、仲間だと思っていた人たちに
ついては本当にショックを受けていました。
今回の事のそのきっかけが、友達や仲間の行為に
よるものだという事が一番 ショックだったようです。
悪口や中傷とかなら、いくらでもいいけれど
今回の事で、表には出さない彼女の夢、希望をいくつもあきらめなければならなかった事 彼女の人生を変えられた事、
打ち砕かれた事に深く深く傷ついていました。
普通は誰でも
親兄弟や友達や仲間、恋人などの事を嫌いでも、腹がたったりしても
もし傷つけられたりしたとしても 恨んだりしても
今回のような事と同じ事は絶対しないはずです。
私も彼女も不法行為を正当化するつもりはありません。
私も誰も日常で、不法行為を犯した事はないのかといえば
嘘になるからです。
ヨハネによる福音書第8章3節-11節1
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた「わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
私はこのお話が頭に浮かびます。
私など、ついうっかりシートベルトをし忘れたり
制限速度30キロと気づかず、50キロで走ってしまって違反になったり
すぐ移動させようと思いながら、駐車違反をしてしまった事なども
あります。ゴ−ルド免許はく奪です。
2年も前なら、そういう悪い事なら私もいっぱいしてしまってます。
もちろん反省はしていますけど
だから、私には彼女を責めることなんてできるはずもありません。
彼女を擁護する事がいけないというように言われますが
擁護ではなく、私も罪多い人間なのに責める事などできるはずも
ありません。
そういう法的な罪に対して
友達の裏切り、仲間の裏切り 信じているものからの卑劣な行為
というのは法的に裁かれる事はないでしょう。
学校での子供のいじめとか、死に至らない親からの子への虐待なども
恋人の裏切りも、夫の軽い浮気などと同じで
よほどでなければ、バレなければ法的に裁かれる事はないです。
でもそういう事をされた人にとっては、死を考えるくらい
つらい事だと思いますし、一生消えない傷となると思います。
友達を裏切らない、仲間を裏切らない、親しき中にも礼儀あり
とは昔からいいますが、何があっても親や子、友を守り、大切にする
こういう精神というのは
武士道や、道徳的な問題、信仰心的、道義というものなのかもしれませんが 私は、人にとっては一番 大切な事であり
それが、現在の日本から人から失われつつある
教育から失われつつある事を憂います。
たとえば、交差点の歩道で、信号が点滅して赤になってしまい
立ち往生しているお年寄りや子供を見た時
赤信号はわたっちゃいけないというルールを守る事と
信号無視しても助けにいくのと、どちらが大事かというような
究極の選択に迫られた時、人として本当に何をおいても大切な事は
「人」としての道だと思います。
政治家としてどうとか、教育者としてどうとかいう人がいますが
私はその肩書きや自己の立場欲しさに、もし
「人」としての道をはずれてまで
しなければならない事があるとしたら
そんな肩書きはいらない。
「義によって倒るるとも不義に生きず」を貫いて
それが我を通すことだとしても 損得勘定で損だとしても
何をいわれても
かまわない。
私も至らなさを彼女に謝罪しました。
今日は、彼女の元気で可愛い、心配かけまいと
精一杯の笑顔を見て
その彼女の人生の希望までつぶし、
ここまで苦しめた理不尽に対して
心からの悲しみとともに憤りを感じました。
もし 心ある方なら彼女の傷と人生に対して感じてほしい
そして同じ事をもし自分がされたらどうだろうと一度
自分の立場に置き換えて考えて頂ければと思います。
この強い私でも同じ事をもしされたら
発狂するくらい悲しいでしょう
といいながら
私も日々、知らないうちに人の心を傷つけているかもしれません。
自省とともに
彼女の心の傷が一日も早く癒えるようにと思います。
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2012-02-16 22:56
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現代撫子倶楽部 |
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