小田嶋隆 「二次観戦者の帰還 〜キス・ユア・アスリート」

四大陸選手権は2位だった浅田真央選手。3月にニースで開催される世界選手権での完全復活が期待される 浅田真央選手が自伝の出版を取りやめたニュースが気になっている。

 報道されているところを総合すると、母親の死を書籍の宣伝に利用せんとした出版社のふるまい方が、浅田選手の態度を硬化させたということのようだ。

 たしかに、ことのなりゆきがもし伝えられている通りなのだとすると、最愛の肉親を失って間もない浅田選手が、感情を害したのは当然だ。

 とはいえ、出版中止というのはいかにも極端だ。業界の片隅にいる者として、やはりこの決断には驚愕せざるを得ない。

 だから、私は、このニュースを知った当初、
「まあ、当面は感情的になっているのだとしても、作ってしまった本を出さないというわけにもいかないんだろうし、いずれひと月もすれば書店に並ぶことになるんではないか」
 と思っていた。

 なにしろ、予約だけで10万部を超えると言われているベストセラーだ。出せば売れることがわかっている。こんな物件は、本当に一年にひとつかふたつしか無い。とすれば、それを出さないという決断は、目の前に置いてある数億円の札束をそのまま焼却するに等しい暴挙だ。ありえない。

 が、出版再開の話はいまだに聞こえてこない。どうやら、事態は、このまま本当に発売中止でカタがつきそうな情勢だ。なんというべらぼうな顛末であろうか。

 そんなこんなで、私は、この度の一件以来、浅田選手を見なおしている。

 出版中止の意思を押し通すのは、容易なことではない。かなりとんでもない量の勇気と覚悟がないと、この決断を貫徹することはできない。

 個人的な話をして恐縮だが、私は、依頼が来た仕事を、ほとんどまったく断ることができないライターだ。貧乏性ということもあるが、それだけではない。私がオファーを断らない一番の理由は、先方の顔をつぶす勇気が無いからだ。つまり、小心なのだ。

 最近、さすがにあまりにも失礼なコメント取材のたぐいは断るようにしているが、それでもなお、引き合わない仕事をスケジュールに入れてしまう悪いくせはなおらない。おかげで、ルーティンの大切な原稿を遅らせてしまっていたりする。本末転倒だ。

 まして、既に原稿が上がって宣伝まで済んでいる書籍の出版を拒絶するなんてことは、私には、たとえ太陽が西から昇っても、金輪際、絶対にできない。

 もちろんカネの問題もある。

 が、損得の問題を抜きにしても、それは、とてつもなくデカい精神的な負担をともなう作業であるはずなのだ。

 直接の担当者はもとより、間に立った人々や、その関係者を含めれば、途方に暮れ、顔をつぶされ、嘆き悲しむ人間が、数十人単位で発生している。それらの人々のかわるがわるやってくる悲痛な懇願をひとつひとつ完璧に退けないと、拒絶は完成しない。そう思えば20歳を少し過ぎたばかりのひとりの女の子が、出版の中止という容易ならざるミッションを押し通し得たことは、これはとてつもない達成なのである。

 アスリートが成長するためには、この種の胆力(←オファーを拒絶する根性みたいなもの)が不可欠なのかもしれない。ここのところ、色々な競技の選手を見ていてつくづくそう感じる。一流と呼ばれる選手は、誰もが、非常に頑固な一面を備えている。譲るべきところは譲るとして、自分が決めた一線については、周囲の状況がどうであれ、絶対に譲らない――そういう一徹なところがないと、選手は成長することができないのである。

 恵まれた素質にまかせて活躍できる期間を終えたら、アスリートは自分で自分を鍛えあげなければならない。そして、そのためには、妥協してはいけない一線を、どこか、自分の中で守らなければならないはずなのだ。

 何人かの野球選手が引退後のインタビューの中で言っていることだが、野球選手は「ノー」が言える強い気持ちを持っていないと新人の期間を乗り越えられないものらしい。

 どういうことなのか説明する。

 ドラフト上位の有望選手がキャンプに登場すると、彼のまわりには、様々な立場の「自称コーチ」がむらがってくる。これは、避けることができない。

 で、チームのコーチはもちろん、先輩や、OBやメディア専属の大物解説者が、それぞれに勝手なバッティング理論を吹きこもうとする。そういうものなのだ。

 もちろん、コーチたちは、基本的には選手のためを思って指導してくれている。が、そうでない指導者もいる。「◯◯はオレが育てた」という実績作りのために、新人をいじくりまわす人間もいるということだ。でなくても、バッティングには向き不向きがある。ある選手にはぴったりのバッティング理論が、別の選手には無効だったりする。であるから、ドラフト1位の有望新人は、あまたやってくるコーチたちの話のいずれに耳を傾け、誰の話を無視し、誰のオファーを断るのかについて、キャンプ期間中の早い時期に、きちんとした覚悟を固めなければならない。ノーを言う勇気を持つことができず、人の好い顔をしてあらゆる先輩の顔を立てて話をきいていると、自分のバッティングがガタガタになってしまう、と、そういう話だ。

 フィギュアの世界にも、たぶん似た事情があるはずだ。

 スケートそのものについて、技術的な助言をもたらそうとする自称コーチが行列を作るようなことはないはずだ。が、マネジメントやビジネスにかかわる局面については、野球選手以上にさまざまなオファーが殺到する。というのも、フィギュアスケート競技のスター選手は、スポーツマスコミにとって、視聴率と発行部数を運んでくる翼のついた守護天使みたいなものであるわけだし、広告業界にとっても、文字通りの打ち出の小槌だからだ。

 だからこそ、浅田真央が、その最大の支援者であり、マネージャーであり、司令塔であった母親を失ったことは、とてつもなく大きなマイナスであり、彼女の競技者生命を奪いかねない失点だった。

 この状況でもし彼女が、周囲の大人たちにたやすくコントロールされるお人形さんであったら、浅田真央はその時点で、競技者としては成長を終えなければならなかったはずだ。

 が、彼女は、「ノー」を言うことができた。

 それもただの「ノー」ではない。億単位の損失を発生させ、何十人の顔をつぶし、少なからぬ関係者との関係を気まずいものにする「ノー」を、彼女は貫徹した。ということはつまり彼女は、トリプルアクセルを跳ぶことよりもさらに困難な決断を、たったひとりで完結させたということだ。

 これができるのなら、余事はどうにでもなる。

 私は、これまで浅田真央の体型やしゃべり方(自分を「真央」と呼ぶのを聞いたことがある)から、彼女が、年齢よりずっと幼い人格の持ち主で、それゆえ、技術やフィジカルはともかくとして、メンタリティの上では、とてもではないがキム・ヨナには及ばない選手であるというふうに思っていた。

 でも、今回のことで、彼女を見なおしている。

 バンクーバー五輪後の不調と心労(母親の死もさることながら、その後に起きた周囲との軋轢は、相当な負担になったはずだ)の影響は、簡単には拭い去れないだろう。

 しかしながら、それらの影響から立ち直って本来のコンディションに立ち返った時、浅田真央は、以前より素晴らしいスケーターになっているはずだ。

 期待している。

 ソチでは金が取れるはずだ。

 プレッシャーをかけるな、と?

 大丈夫。この程度のプレッシャーは、既に乗り越えている。

プロフィール

小田嶋隆(おだじま・たかし)

1956年東京・赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社するも1年ほどで退社。その後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、コラムニストとして活躍中。また、浦和レッズサポとして、埼玉スタジアムにも出没。都内を自転車で移動する肉体派?な一面も。
近著に『その「正義」があぶない。』(日経BP社)『地雷を踏む勇気〜人生のとるにたらない警句』(技術評論社)『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)など。

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