沖縄県の宜野湾市長選挙は沖縄防衛局長の処分が先送りされたまま、十二日の投開票を迎えました。防衛省による沖縄への関与は相当に根深いのです。
真部朗沖縄防衛局長は、米軍普天間飛行場を抱える宜野湾市に選挙権のある職員や同市に選挙権を持つ親族のいる職員を集めて業務指導にあたる講話をしました。
立候補予定者二人の主張を説明するとともに普天間飛行場の移設問題に対する政府の立場を説明し、一人の立候補予定者と政府の考えが近いことをにじませました。国会に参考人として呼ばれた真部氏は「誤解を招いた部分は反省する」と述べています。
原点は住民投票への介入
地位を利用した選挙運動が禁じられている公務員がなぜ、投票を誘導したと疑われるような行動をとったのでしょうか。
普天間飛行場の移設候補地となった後、名護市であった住民投票への介入に原点がありそうです。
名護市の住民投票は一九九七年十二月に行われました。何度も取材に訪れるうち、告示二日前になって沖縄防衛局の前身である那覇防衛施設局の職員が大量に名護市に入ってきたのには驚かされました。動員された職員二百人は戸別訪問して移設と引き換えに実施する北部振興策が書かれたパンフレットを配りました。
嶋口武彦那覇防衛施設局長は、賛成票を投じるよう訴える比嘉鉄也市長とともに地区ごとの集会に出席していました。住民が署名を集め、住民投票条例を制定して行った究極の直接民主主義である住民投票に、政府があからさまに介入したのです。
住民投票は公職選挙法が適用されないとはいえ、人も資金も豊富な政府が一方の陣営につくのは民主国家のあるべき姿ではありません。投票結果は政府の意に反し、反対票が過半数を占めました。
掃海母艦で沖縄を威圧
これは報道されていませんが、あきらめきれない那覇防衛施設局幹部はホテルに比嘉氏を呼び出し、移設受け入れを表明するよう説得したというのです。投票の三日後、比嘉氏は上京して橋本龍太郎首相と会い、市長辞任と引き換えに普天間移設の受け入れを伝えました。ほとぼりがさめたころ、防衛庁(当時)は比嘉氏を招き、長官室で感謝状を贈りました。
次に防衛省が「力ずく」で普天間移設に臨んだのは、名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部の環境影響評価でした。民間でもできる海底の調査に海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」を出動させたのです。
地元紙・琉球新報は二〇〇七年五月十八日の社説「辺野古に海自艦 『何から何を守る』のか」で「かつて旧日本軍の戦艦大和は沖縄を守るために特攻に出たと聞く。あれから六十二年、国民を守るはずの自衛隊は、米軍の新基地建設に反対する国民を威圧するために『軍艦』を沖縄に派遣するのか」と怒りをあらわにしました。
腕力に頼った介入は、沖縄の反発を招き、政府が進めたい形での普天間問題の解決から遠ざかるばかりです。
話を選挙に戻します。真部氏は一〇年九月の名護市議選挙の前にも講話を行ったことを認めています。なぜ、名護市議選に着目したのでしょうか。
前年の衆院選挙で民主党は政権をとり、鳩山由紀夫首相が普天間移設先の「県外、国外」を表明します。一〇年一月、名護市長選挙があり、普天間受け入れ反対を訴えた稲嶺進氏が現職を破り、当選しました。三代続けて移設容認だった市長が初めて反対派に代わったのです。
残るのは市議会です。選挙前の議席は与野党が十二人ずつ、中立系が三人で普天間受け入れをめぐって賛否が拮抗(きっこう)していました。真部氏が沖縄防衛局の職員を集めて投票に行くよう呼びかけたのは、こうした状況下でのことです。
賛成派の市議を増やして反対派の市長を揺さぶる、そんな構図を思い描いたと疑われても仕方ありません。
選挙結果は、反対派の圧勝でした。そして迎えた今回の宜野湾市長選挙です。真部氏はワラにもすがる思いで投票を呼びかけたのではないでしょうか。
国外への移設探れ
基地の受け入れを期待して多額の補助金や交付金を注ぎ込み、それでも効果が上がらないとみると民主主義の原点である選挙にまで関与しようとする。普天間飛行場の移設先を沖縄に押しつけるのはもはや無理であることを、政府は熟知しているはずです。
このほど米国から提案された米軍再編の見直しを好機ととらえ、県外、国外への移設を模索しなければなりません。
国内に引受先がないなら国外移設しかないのは理の当然。そう考えるのです。
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