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取材が下手,
2011/9/26
レビュー対象商品: 少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》 (新潮文庫) (文庫)
少年犯罪を扱ったルポルタージュ。2部構成となっていて,第一部は主に1994年に長野県で起こった集団暴行死事件について書かれている。第二部は1997年に起こった別の事件を取り上げている。
第一部については,調書や資料からの引用が多すぎて読みづらいことこの上ない。ちょっと考えられない書きぶりだ。ひょっとしたら,供述調書をそのまま引用するのが,客観的なルポの方法だと思っているのかもしれないが,完全な誤解だ。膨大な資料のうちからどれを「引用」するかを考えている時点で,すでに書き手の作為が入っているのだから。本書のように無軌道に引用を続けられると,「引用していない箇所は何が書かれているんだろう」と気になって,むしろマイナスだ。
数多く引用されている新聞記事も,ほとんど不要。ここで中途半端なマスコミ批判を始めても,焦点がぼやけるだけで何の意味もない。内容を掘り下げて書く技量がないまま,ページを埋めるためだけに攻撃対象を拡大して不明瞭な文章を作り上げてしまうのが,この著者の悪い癖だ。
むやみに引用するのではなく,本来ならば執筆者が資料を読み込んだうえで,情報を再構成して,時系列で事件を記すのが分かりやすく読みやすい書き方だ。引用を増やしたところで内容の信憑性が増すわけでは全くない。むしろ文章力や構成力(つまり俯瞰的に事件を捕捉する能力)の乏しさを露呈しているだけである。
試みに本書第一部がどれくらいの「引用」をしているのか,本文の行数(見出しを除く)を数えて計算してみたら,およそ42%が引用で占められていた(引用1189行/本文2804行。ここで引用とは地の文からは独立している,調書や新聞記事などをいう。著者が「再構成」して書いている,事件現場での会話などは引用に含めていない)。ちなみに,著者が「8〜9割は調書からの引用」(『
秘密とウソと報道』p.75)として批判した『
僕はパパを殺すことに決めた』で同様に計算したところ,調書の引用率は約51%だった(1741行/3392行。調書以外の新聞記事などの引用も含めると約60%)。これらの本と同じく,裁判所が関与した事件のルポである『
でっちあげ』の場合は,わずか20%である(899行/4454行)。これらの引用文の差を,そのまま著者たちの実力差としても良いくらいに,綺麗に結果が分かれた。
第二部は,第一部よりも読みやすい。取材のパートナーがいたからだろう(p.320参照)。しかし,事件関係者(加害者の親)に対する著者のインタビューが,すごい下手(pp.266-267,pp.307-311など)。本書で引用されている,検察官や弁護士による被告人質問(pp.237-239)や当事者尋問(pp.77-79など)と比較すると,一層際立つ。
インタビューというのは,相手に答えさせたいことを前もって考えてから行うものだ。そのために問題となりそうな点を把握して質問事項を吟味しておく必要がある。あいまいな回答ではぐらかされないためのテクニックも要求される。著者は,インタビューと称して脈絡もなく自分の考えを語っているだけである。皇居の周りをグルグル走るヒマがあるなら,法廷傍聴にでも出掛けて弁護人や検察官の尋問技術を勉強することをおすすめする。
本書のオビには「加害者を利する少年法の矛盾を告発する慟哭の書」とある。一体どこで少年法の矛盾を告発しているのだろう? 「現行少年法は万引きも殺人も同じ『非行』と一括してしまうという致命的な欠陥をもつ」(p.184。p.38も)と述べるが,何故それが致命的な欠陥なのか,そもそも少年法が「『非行』と一括」している理由は何なのかが,まったく示されていない。判断のしようがないではないか。この点に関して言えば,まず逆送決定(少年法20条)の際には事案の重大性も考慮するから(「保護(処分)不適」と言われる),著者の上記指摘は不正確だ。これを措くとしても,犯行の結果を過大視しない少年法の立場は,少年の「人格の未成熟性と可塑性」で説明されることが多い。たとえば,成年の犯罪者の中には,繰り返し万引きなどをする困った人がいる。出所後も再度同じ事をしてしまうが(可塑性がない),だからと言って窃盗が高じて殺人犯になったりはしない。この意味である程度合理的な行動を取っていると言える。つまり成熟している。一方,少年の場合は,喫煙やら深夜徘徊などの些細な悪事から,気づいてみたら重大事件を起こしていたというケースがままある。つまり人格の未成熟がダイレクトに犯罪に直結するのである。これらは経験的に分かることだろう。以上が,万引きと殺人を,とりあえずは「非行」と一括することの意味だ。
少年法「に理不尽を感じて大学は法学部を選」(p.223)び,「厖大な少年法関連文献を読ん」(p.177)だ著者なら,こんなことはマルっとお見通しだろう。どんな理由があって,説得的な論証を放棄したんですか?
第一部の最後の方では,「中学生だった私の弟が殺されて」と,自らも少年犯罪の被害者であったことを述べているが(p.214。pp.223-225),具体的な記述もないうえ内容も錯綜しており,どんな事案であるのかはっきりしない。「両親は,教師たちの過失による『事故』だと,今でも信じようとしている」(p.223)と述べていることなどに鑑みれば,弟が「殺された」と思っているのは,日本中で著者だけだ,としか言いようがない。
弟さんが若くして亡くなったのはお気の毒だが,事件であれ事故であれ,本書の評価とは何の関係もないだろう。この点,解説の飯田芳弘は「本書を読む者は,この書物が日垣隆氏にしか書くことができないもの,そして日垣隆氏が必ず書かなければならなかったものであることをはっきり知る」(p.348)と書いているものの,後段はともかく前段は一体何を言いたいのか。犯罪被害者でなければ「少年法の矛盾を告発」できないというワケでもないだろう。
なお,飯田教授は学習院大学法学部に所属しているが,専攻はヨーロッパ政治史である。どういう経緯で本書の解説を引き受けたのか。お門違いも甚だしい。
「増補改訂版」と銘打っておきながら,法改正のフォローが不十分である点,和暦と西暦をどちらかに統一せず混同して用いている点などの体裁の不備については,この著者の本に関する限り,もう腹も立たなくなってしまった。書物に対して真摯に向き合おうとする人は,もはやお呼びではないという趣旨なのだろうね。★1つ。
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