野間大坊
平成10年7月。 無人駅を出ると、稲穂が揺れる一面の水田風景であった。 一緒に電車を降りた数人の高校生達は、駅前に置いてあった自分達の自転車に飛び乗ると、蜘蛛の子を散らすように、あっという間に居なくなった。 夏の日差しが暑い駅前に、私と妻だけがとり残された。黄色い稲穂が揺れる一面の田園風景。人影は誰も見えない。 海が近いのだろうか、かすかに潮のにおいがする。 それにしても懐かしい風景だ。ふと、昔ここに来たことがある、と感じた。しかし、それが間違いであることは分かっている。それくらい、私が子供の頃に見た田舎の風景を思い出させるものだった。 ここは愛知県知多半島にある「野間」。名古屋鉄道・知多線で名古屋から約1時間30分、田園や山の中を走り抜けて、終着駅のひとつ手前の野間駅に降りたったばかりである。 今回の旅行の目的はここに来ることだった。この地に鎌田正清の墓がある。それを訪ねてきたのだ。 案内板を見つけ、目的の「大御堂寺」まで歩ける距離であることを知った。駅前に町営バスの停車場があったが、いつまで待っても来そうにない雰囲気であった。 暑い日差しの中、田んぼ道を10分ほど行くと、民家がいくつかあり、その向こうにお寺らしき屋根が見えた。 想像以上に大きな寺であった。境内には大きな木が生い茂り、その下で老人が何人か涼んでいた。この寺は、地元では「野間大坊」と呼ばれて親しまれているらしい。 目的のものはすぐに見つかった。「源義朝公御廟」と書かれたところに、源義朝の墓があった。写真で見たのと同じ、木刀が何百本も手向けられている。そして、その横に鎌田政家(正清)とその妻の墓があった。 鎌田正清は、我が家の先祖と云われている人である。我が家の本家では代々そう伝えられてきたそうだ。しかし、それの確たる証拠はない。ただ、決して有名ではないが、歴史の中に少しだけ登場する人物なので、興味は持っていた。 とは言っても、この時点では、源義朝の家来で、平治の乱に敗れ、関東へ落ちる途中、この地で義朝とともに殺された、といった程度の知識しかなかった。 源義朝のお墓にお参りし、鎌田正清の墓の前に立った。 突然、木の葉がザザッと揺れ、生暖かい風がサァーッと通っていった。 私はゾクッとした。そして、何かを感じた。 この時から、私の先祖探しの旅が始まったといっていい。 |
野間大坊 本堂 源義朝公御廟 源頼朝の父義朝が、東国に落ち延びる途中、家臣長田忠致により入浴中に暗殺された。 「我に小太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん」との一言をのこされたことから、慰霊のために小太刀を献ずる慣わしができたという。 奥に見えるのが鎌田政家とその妻の墓。 |
野間大坊では、「源義朝公ご最期のご絵解」というものがある。大きな掛け軸に、源義朝が暗殺される様子が物語風に絵に描かれており、ご住職がそれを説明してくれる。それが絵解きである。 我々が行った時、客は我々夫婦の二人だけだったが、ご住職はこころよく説明してくれた。 我々には現代風の解説をしていただいたが ここにはその時いただいた絵解きの説明文(現代カナ使いに直しましたが)をそのまま載せることにする。 名古屋城の初代藩主である徳川義直公が、この絵を寄付された当時から、伝承されている説明文であるという。何百年もの間、代々の住職がこの絵解きをする時の説明に使ったものであろう。 |
源義朝公ご最期 RUBY>のご絵解 さて、この絵は当国ご藩祖源敬 そもそも左馬頭 宿の長者大炊 この時、義朝公の仰せには、これより東国へ下るとも、一先 玄光 厨 お供の銘々 この時、平賀四郎義宣は母の重病により御暇 長田ふと逆心 我が君これより東国 長田は保元 死骸 さて、翌朝三日に至り、義朝公を御湯殿 長田かねて討つ謀 (この時、義朝公御年 しををせて、三人共に湯殿を出るところへ金王丸帰り合わせ、中の体 この時、金王丸十八歳。鷲栖玄光大音 この時、長田の家来あえて近づく者なく、ただ遠矢 あと静かになりて後、長田父子池に臨 その後、天下ある一国 これより、長田父子御首を持って京都清盛 この時、長田父子大いに望 その後、頼朝公天下ご一統あそばされ、御父 その節の本堂は二重屋根に檜皮葺 「ながらえて 命ばかりは壱岐守 かく詠じまして、諸人 その骸 |
頼朝の父義朝を殺した長田親子が頼朝に許しを請うと、「これからの戦い振りによっては、美濃尾張(みのおわり)を与えよう」といった。長田親子は必死で手柄を上げるが、最後に賜ったのは「身の終り」だったという、よくできたお話でした。民衆に聞かせるには、こういう物語が受けたのであろう。 ともあれ、源義朝とその家来・鎌田正清がここで長田親子に殺されたのは、古来より有名で、浄瑠璃や芝居の題材になったという。 私は、この物語を聞き、鎌田正清を調べてみようという気になった。 |