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今月のコラム第七部
このコーナーは私がホームレスの人たちと触れ合う中で
体験した事、感じた事などコラム風に書き記したものです。
少しでもホームレスの世界をご理解頂ければ幸いです。
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(97)「山谷崖っぷち日記」を検証する(T) 2006・8・1 |
今回のコラムでは、山谷で労務者をしながら、ドヤ生活をしている大山史朗さんの書かれた、「山谷崖っぷち日記」を教材のような形にして、ホームレスの実態を文学的な視点から見つめてみたいと思います。 山谷崖っぷち日記(角川文庫) 第九回 開高健賞を受賞する 作者 大山史朗 1947年生まれ。69年公立大学の経済学部を卒業し、サラリーマンになる 作品の解説 「つまるところ、私は人生に向いていない人間なのだ」大学卒業後、会社勤めに挫折し、 大山さんの大半はドヤでの生活ですが、その合間にはホームレス生活もしたようです。そのような生活の中で、大山さんは冷静にそして淡々とドヤ街の日常や、そこに住む人たちの人間模様を克明に綴っています。 大山さんは日雇いなどの稼ぎで山谷のドヤ生活をしていましたが、50歳を過ぎて、労務者としての現場仕事が減り、いずれ自分もほんとうのホームレスになるしかないという危惧の中にいたようです。しかし、仕事が減るにつれて、その分、ドヤで過ごす時間が急激に増え、原稿用紙の桝目を埋めてみたくなったようです。もともとが文才のある人だと思います。 実は、私が、この本をこのコラムに取り上げた理由が二つあります。 一つ目は、大山さんのように、社会に適応するのが難しく、結果としてホームレスになってしまったというタイプの人を野宿者の世界にも多く見かけることがあるということです。 よくある話ですが、寒さと飢えで死ぬしかないという状態のホームレスが刑務所なら生きられると思い、わざと万引きなどをして、逮捕され、首尾よく刑務所に入れたとか、或は、人との付き合いが極端に苦手で、1人でいられるのなら、たとえ路上がいくら肉体的に辛くても、そのほうが安心感がある、なんて人もおります。 例えば、仮にAさんとします。Aさんは知的レベルも低く、教育水準も極端に低く、肉体労働しか出来ません。その上、自分を上手に表現することも苦手で、集団生活を出来るだけ避けるようにして生きてきました。 |
(98)「山谷崖っぷち日記」を検証する(U) 2006・8.15 |
Aさんは路上生活に戻りたくて、施設を飛び出たわけでなく、施設が地獄のように感じられて苦し紛れに出てしまったのです。行き着く先は、当然、元の路上以外にはありません。 一般の人には、Aさんの心理の推移を理解するのはとても出来ないと思います。私のようにこの世界に何年も関わってみて、やっと理解出来るような事柄です。行政からみても、「Aさんは社会不適応で、どうにも扱いが難しい人」というレッテルを貼られてしまいます。 ホームレス問題は、どうにも複雑で、なかなか糸口がつかめません。何が一番難しいかというと、「ホームレス問題」は人の話を聞いたり、関連書物を読んだとしても、その本質まで理解することは不可能に近いということです。 さて、それでは、「山谷崖っぷち日記」の中から、印象的な部分を抽出しながら、私の感想を加えてみたいと思います。 山谷と西成(釜ケ崎)の違いについての記述部分 山谷に来る前にも短い期間、大阪・西成で労務者見習いのような生活を送っていたことがある。 30歳から33歳にかけての頃だ。 自由で猥雑で殺伐とした、解放区とでもいった雰囲気が、街の一帯を支配していた。近傍から西成・釜ケ崎地区に近づいていくにつれて、ふつうの市民社会の住人とは服装も表情も言語さえもが違う異貌の人々が、そこここにたむろしていて、はじめての人々を脅かすのだ。多くの人々が仕事で出払っているはずの昼間でさえもそうだった。 夜間の釜ケ崎の路上は、さながら、田舎の縁日のような賑わいを呈する。体力と技能に恵まれた、欲望と壮気に充ちた屈強の労務者にとって、20年前の釜ケ崎は確実に刺激的で、面白い場所であったはずだ。 警察との間で、かなりの規模の衝突もしばしば起こっていた。その頃の釜ケ崎はまだ、市民社会からの恩恵と施しを待つ、無力で哀れな人々の街ではなかった。 33歳の時に、上京して、いろいろやってみたが甲斐なく、再び労務者生活に復帰しようとして山谷を訪れたのが昭和62年。40歳になっていた。 山谷の住人たちも、釜ケ崎の労務者のように、周りの世界からくっきりと区分される、市民社会の住人たちを脅かす「異界の人々」のようには見えなかった。建設作業や土木作業に従事する、背広を着てない、ふつうの単身男子労働者という存在でしかないように見えた。 作者の大山さんは、最初は大阪の西成・釜ケ崎に3年程度いて、その後、しばらくして東京の山谷のドヤ街に入って山谷の住人になったようです。両方を経験しただけに、大阪の釜ケ崎と東京の山谷の違いがとても鮮やかに描かれています。大阪と東京の気質の違いが下層労働者の世界にもそのまま反映されているようです。 日本の三大寄せ場とは、「釜ケ崎、山谷、寿町」と言われています。 |
(99)「山谷崖っぷち日記」を検証する(V) 2006.9.1 |
「寄せ場」について、一般の人にはほとんど何のこと分からないと思いますが、要するに、日雇い労働者が仕事を探しに来る街であり、青空労働市場です。 下層労働者が集住する街ですから、おのずと、簡易宿泊施設(ドヤ)なども立ち並び、通常の街とは全く趣の違う重い雰囲気を漂わせています。 三大寄せ場の一つの「寿町」は横浜市中区にあり、JR根岸線の石川町の近くに位置します。僅か250米四方に100軒近いドヤが密集している街で、その中に6000人もの人が生活をしています。 寄せ場も、小さなものなら都市の中には結構あるようです。身近な所では、東京の高田馬場駅周辺に青空労働市場が見られます。もっとも、ここの近くに形ばかりの新宿職安出張所があります。 日本の産業の成長期に、日雇い労働者は貴重な労働力であり、景気の動向に合わせて雇用、解雇(首切り)が自由自在に出来る、資本側からみると大変貴重な存在でした。 というのは、このような場所には「手配師・人夫出し」と呼ばれる業者が、仕事を求めて集まってくる労働者一人一人と相対で雇用契約を行います。 雇用契約と言っても、その場での口だけのものです。従って、これらの業者と顔馴染みになることも必要であり、その為には毎日顔を出しておかなければなりません。 仕事が滅多にない時代に、たまに顔を出して仕事がもらえるというような状況ではないというのが現実です。 手配師というのは、建設会社でも孫請けか更にその下のひ孫請けの会社から、その日必要な数の人夫の注文を受けて、寄せ場に人集めにくる業者です。業者と言えば、聞こえはいいのですが、要するに労働者の賃金の一部を紹介料としてピンハネしているだけで、明らかに違法な存在ですが、寄せ場ではそれが堂々と罷りとっています。 |
(100)「山谷崖っぶち日記」を検証する(W) 2006・9・15 |
現在のホームレスの主流を占めているのが、上述のような流れの中で仕事を失った人たちです。 この流れを検証すれば、彼らが、決して、怠け者でも仕事をしたくないわけでもないことが分かると思います。 さて、ひとたび正真正銘のホームレスなって路上生活をするようになれば、劣悪な環境の中で、体力、気力を失い、精気のないままに、街中をさ迷ったり、昼、公園のベンチで寝ていたりします。又、食べ物を求めて炊き出しに並んだり、コンビニの廃棄物を探したりします。 世間の人は、「ホームレスが街中でウロウロしている」ことに嫌悪感を持ちがちですから、無意識の内に、「ホームレスになったのは自分が悪い、要するに自己責任だ」と決め付ける心理が働きます。 先日も池袋の炊き出し現場に、突然、ごく普通の一般市民と思われる40前後の男性が血相を変えて私に食ってかかってきました。 私はこのような人の存在を恐ろしいと思いました。自分の考えは絶対で、それ以外はすべて間違っているし、その間違いを絶対に赦さないといスタンスのように思います。 「炊き出し」について考えてみると、毎日ならともかく、週に1回か2回の食事の提供でどれほどホームレスの食に寄与出来ていると言えるでしょうか。 支援者たちが、「炊き出し」をしたからと言って、「ホームレス問題」が改善されるとは誰も思っていないと思います。せいぜい、路上生活の苦しみがほんのちょっとだけ緩和されるぐらいでしょう。 |
(101)「山谷崖っぷち日記」を検証する(X) 2006・10・1 |
もっとも、「炊き出し」に依存して「ダメ」になる人と、そうでない人を峻別することが技術的に可能であれば、それはそれで、「より進化した炊き出し」になるとは思いますが、そんなことは不可能です。 私は池袋で毎週金曜日に行われている、「マザー・テレサ」の教会の炊き出しを、ボランティアとしてお手伝いしております。 炊き出しをしている公園は小さくて、ホームレスが300人も入ると、それこそ一般の人がほとんど入る余地がなくなるほどです。公園というものは、本来地域住民の憩の場であり、誰でもが気軽に使えるべきであるということに異論はありません。 そこで私たちはこの配食にルールを作り、いかに短時間にすまし、ホームレスの公園での滞留時間を最小限にするかを工夫をしました。 このような弊害をなくすために次のようなルールを作りました。 1.整理券を前の週に出し、早く来て並ぶ必要のないようにする。 2.食糧はいくら余っても、一人一回とする。 3.4時半に配食をするので、4時までは絶対に公園に入らない。 4.公園では食べないで、食糧を受け取り次第、すぐに公園を出る。 このようなルールを作ったところ、ホームレスの人が公園に滞留する時間は全部で40分ほどになり、役所も黙認するようになりました。近隣の苦情に対し、役所はルールを守ってやっているので理解して欲しいと説明しているようでした。 ところが、このルールがいつも完璧に守られるとは限らないのがこの世界の難しいところです。 ちょっとでも私たちが気を抜くと、あっという間にこのルールは壊れてしまいます。そして、その間隙をついて、近隣の反対運動がすぐに起きてきます。 さて、近隣の反対がいかに厳しいかを思い知った一例をあげてみます。 私はこの件で、この配食を近所の反対者がいつも見張っていることに気が付きました。それ以来、この配食の命綱は、「ルールを守る」ことだと思い、更に気を引き締めました。 それにしても、いくらルールに反するからといっても、「この暑さの中で、おじさんたちにアイスをたべさせてやりたい」という教会の思いやりすらも絶対に許さないという近所の人たちの心に、ホームレスに対する反感の大きさを改めて知り、暗い気持ちになったものです。 特に、ご商売をしている方は、それこそ命を賭けて仕事をしているわけですから、その人たちの商売の妨害になるようなことはしたくはありません。 よく聞く話ですが、被災国に救援物資を送ってもそれをほんとうに必要としている人たちにきちんと届かないとか、貧しい国に資金援助をしてもそれが正しく使われているか分からないとかということがあるようです。 要するに、困っている人に何か援助したくても、援助する物自体よりも、援助する方法のほうが更に難しいようです。 さて、話題がすっかりそれてしまいましたが、次回のコラムでは「純粋な人たちにも手を焼くことがある」という話をしたいと思います。 |
(102)「山谷崖っぶち日記」を検証する(Y) 2006・10.15 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
マザー・テレサの炊き出しには3人のシスターと教会の関係者と思われるボランティアの10人前後の人たちが、毎週金曜日の朝から教会に集まって、おにぎりを作ったり、その他の食料品を用意して、その後、車3台で配食現場の池袋の公園に4時過ぎにきます。 さて、「純粋の人たち・・・」の話に入ります。それは、今年(2006年)の3月のことでした。この公園を管理する区役所の「公園緑地課」の係長が転勤するとのことで、新たに着任する係長との顔合わせと今後の展開を兼ねて、教会の責任者と私に役所に来て欲しいとの要望が区役所からありました。 どっちみち、苦情を言われるのに決まっていますので気乗りはしないのですが、断るわけにも行かず、教会からは日本人のシスターと最近インドから日本に赴任してきた若いシスターの2人と私の3人が出席しました。 私の解釈は、「そうか、この若いシスターには、お腹を空かしたおじさんたちに食べ物を提供しようとしているだけなのに、役所や地元住民が何かと反対してやめさせようとしている。 若くて純粋な人たちの「一途さ」は、宝石のようにキラキラ輝くものであり、社会の改革への入り口であるに違いありません。 去年ですが、日本で「マザー・テレサ」の映画が上映されました。私はキリスト教には縁のない人間ですが、シスター達に、是非見るように言われて、何となく断りずらくなって見てしまいました。 それは、虐げられた人や見捨てられた人たちを救う為には、あらゆる困難がマザー・テレサの前に、絶えず、立ちはだかるわけですが、彼女はどんな時でも決して諦めずに、ありとあらゆる工夫をして、ついにはその目的を達成してしまいます。 参考までに、生前のマザー・テレサの生涯の略歴がネットにありましたので、下記に貼り付けしてみます。 マザー・テレサの生涯
さて、話を元に戻しますが、その区役所の会議では、その怒り狂った若いシスターに対し、誰も正面から反論する人はいませんでした。というより、その純粋無垢なシスターを納得させる自信は誰にもありませんでした。むしろ、人間の心の原点に触れたような「さわやかさ」を感じていたのかもしれません。 役所の人は、立場上、うるさいことをいいますが、職場を離れれば、一個人としての感性は誰も同じであるに違いありません。 その若いシスターも、かの偉大なマザー・テレサに憧れて修道女になったに違いありません。異国の地で、言葉もよくわからないままに、役所の人に猛然と食ってかかる情熱というか激しさは、私のような年配の人間には「小気味」のいいものでもあり、同時に、ベートーベンの交響曲を聴いているような興奮を感じさせてくれました。 |
(103)「山谷崖っぷち日記」を検証する (Z) 2006・11・1 |
さて、今回は「山谷崖っぷち日記」の文章の中から、山谷にある簡易旅館、いわゆる「ドヤ」についての記載の部分を抜書きしてみます。 山谷にはたたみ一畳の個室はなかったので、一部屋に二段式ベッドが四ケ所、合計で8つのベッドのある、ベッドハウスと呼ばれる簡易旅館に泊まることにした。スペースには問題はなかったが、一部屋に6人から7人いる他人を46時中見なければならず、他人からも46時中見られるという生活に耐えられずに、最初のベッドハウスから3週間ぐらいで出た。 同じベッドでも、カーテンでかこって同部屋の人の視線を遮ることのできるドヤがあると聞いたので、そこを探して移った。ここには西成の一畳の個室にはなかったテレビが置かれ、かなりの大きさの、鍵のかかる荷物収納庫ともいうべきものが備え付けられてあった。これは快適である。 他人の視線を遮断するために(同じことだが、他人が見えてしまうという事態から逃れるために)、カーテンで区切られたスペースをさらに段ボールで補強して、もう少し閉鎖性を強めることにした。カーテンで区切られていても、灯りがつくとカーテンの向こう側が透けてみえるのだ。 まだ音と臭いが残るが、臭いは私にはそうたいした問題ではなかった。おならの臭いはそう頻繁なものでなく、あってもすぐに消失する。 私が入ったベッドハウスは、料金的には山谷でも最低ランクのところで、区の福祉事務所の指定旅館になっていた。正月や盆など、長い連休が続く時などには、区の「無料宿泊」に集まった路上生活者たちが何日間か泊まっていくことがある。臭いの問題でいちばん困ったのがこのときだ。 人の身体の臭いは、入浴しない日数がおよそ1週間から10日ぐらいの時に、まず最初のピークに達するように思われる。入浴しないということは、衣類を変えないということであるから、この臭いが身体本体からのものか、衣類からのものか判別することは出来ないのだが、ともあれこの最初の臭いのピークは、異臭というより悪臭という方がふさわしいようなものだった。 しかし、この段階の悪臭の範囲はかなり小さい。相当近づかないと、最初の、この有機的で突き刺さってくる悪臭には気付かないものだ。この悪臭が、どれほど経てば無機的な感じの、相当の範囲の拡がった「漂ってくる異臭」に変わるのかは定かでないが、入浴から1ケ月も遠ざかれば、人の体臭はおそらくやや無機的で、一種乾いた感じの、この「漂う異臭」に変化するものと思われる。 1週間から10日の、突き刺さってくる「有機的な悪臭」は、その範囲が狭いうえに、一瞬嗅覚に突き刺さったあと、しばらくは空無化してしまう趣があるのだが、1ケ月以上の「漂う異臭」は範囲が広汎であるとともに、臭いが持続的で途絶えないという特徴があった。 隣や下段のベッドにくる路上生活者の臭いが、この1ケ月以上の「漂う異臭」であったことは明らかだった。この異臭の発生源はむろん、人の身体本体なのだが、明らかにその臭いの重心はすでに衣類に移行してしまっているので、その人が入浴しても異臭は消失しないのである。 部屋の住人の誰かが抗議の声を放つのではないかと期待しつつ待っていたのだが、誰も何も言い出さず我慢しているようであり、私も我慢しないわけにはいかなかった。 ベッドハウスの集合生活でいちばん困るのは、何といっても音(音声)の問題である。視線が遮られていない、むき出しのベッド生活では、物音や音声をも抑制することにつながっていたわけだが、カーテンと段ボールで視線がある程度遮断されている中では、音声の問題は気付かれにくいのである。 いびきは最大の問題になり得るのだろうが、私は幸い、この問題にはそれほど深刻な形では直面しなかった。時に酒が入った状態になるといびきをかく人もいるにはいたが、幸いその人はすぐに出て行ってくれた。 とにかく、人の放ち得るすべての物音は、隣人の聞き取るところとなっているものと考えなければならない。おならやげっぷ、新聞や本をめくる音、寝返りの衣擦れ、テレビのチャンネルの変換音(備え付けのテレビはリモコンではなかった)、缶コーヒーなどのフタを引きあける音、飲食の咀嚼音。私のたてる、これら全ての音声を隣人は聞き取っているのであり、隣人のたてるこのような音声のすべてを私は聞き取らなくてはならない。 音声の問題はだいたい次のような形をとる。つまりそれは多くの場合、威信の問題とつながるのだ。 我々はベッドから出る(上段の場合は、降りる)場合にも、ベッドに戻る(上がる)場合にも、カーテンを引かねばならないのだが、このとき、カーテンのレールが「シャーッー」という、かなり鋭く緊迫した音をたてるのである。そのことに気付いた人の大部分は、このレールの音を抑制しようとして、そろそろとゆるやかにカーテンを開け閉めしようとするのだが、十人に1人ぐらいの割合で、このレールの開閉時の「シャーッー」に自らの威信を込め様とする者が出てくるのだ。 だれかが「帳場」(管理室、管理人)に抗議にゆくまで、このような男たちの威信の発揚は続き、我々はそれに耐え続けるのである。不必要までに強烈な、入室時のドス、ドスという足音や、大きく破裂するくしゃみやおならの音、テレビのチャンネル変換の激しいプッシュ音に、自らの容赦のない男振りを込めるような者たちに、何が言えるだろう。 このような男たちの威信の顕示にひっそり耐えつつ、彼らがいなくなるのを待つか、時には「帳場」への抗議によって、彼らに行動様式の変換を求めてもらうかするのである。 山谷で簡易旅館の帳場の職責を全うするには、このような男たちを押さえ込むための、暴力の能力に裏付けられた押し出しと気迫は明らかに不可欠の要素であろう。
今回の文章は「ドヤ」についてですが、さすがに、文筆家の表現は「ドヤ」での生活をリアルに描いています。この文章を読めば、普通の生活をされている人で、「ドヤ」に泊まってみたいと思う人はあまりいないと思います。よっぽど、何かで「切羽詰った」状態でなくては、「泊まるのは勘弁してよ」というのが正直なところだと思います。 通常、「ドヤ」といわれる簡易旅館は、日雇い労働者の集まる街にあります。料金は一泊1000円から2500円程度で、素泊まりが多く、正に寝るだけの場所です。単身の日雇い労働者や建築現場で働く人たちの常宿ともいうべきものですが、仕事が減ったり、高齢化で宿代も稼ぐことが出来なくなると、路上生活に陥ってしまいます。 このような「ドヤ」は福祉事務所が保護した路上生活者の一時的な宿泊にも使います。新宿や池袋近辺の「ドヤ」には、自分のお金で宿泊する人より、保護された人たちのほうが圧倒的に多いようです。 先日のことですが、私は、○○福祉事務所で保護してもらった路上生活者に付き添ってある「ドヤ」に行きました。その路上生活者は、白内障が悪化して道端の看板もよく見えなくなっており、一人ではその「ドヤ」に行くことが難しそうだったので、私が同行することになったのです。 私はすぐに、「私はボランティアの支援者です」と説明すると、かえって興味を覚えたらしく、「ホームレスの現状」のような話になってしまいました。 私はその話の中で、「こういうドヤの経営というのはいろいろと苦労が多いでしょうね」と水を向けると、その経営者は、「いやいや、もう20年もやっていますからそうでもないですよ。やはりこういう経営もノウハウですよ」といってニコニコしていました。 私がこのドヤに関し、以前からいろいろな噂を聞いていました。ドヤの宿泊客同士の暴力による警察沙汰や、最近では、結核患者がドヤの客からみつかり、保健所がそれ以前に宿泊した人も含めていっせいに検査をしたりということもありました。 |
(104)「山谷崖っぷち日記」を検証する([) 2006・11・15 |
さて、今回はこの本から適当な箇所を抜粋しながら、私なりの感想を加えて行きたいと思います。 「山谷の住人において、簡易旅館宿泊所(ドヤ)と路上生活者との間に重要な階級差の境界がないことは、長谷川さんの例からも明らかであろう。 徳永さんはホームレスといっても、それは彼の生活の本拠が高速道路下の青シート家屋にあるというにすぎず、徳永さんが得意とするパチンコ(パチスロ)で大きなお金を得たり、就労できる日が続いたような場合、彼は青シート家屋を放置したまま何週間も、時には2,3ケ月も簡易旅館に宿泊するのである。ホームレスといって、このような生活形態の人は少なくないのである。」 ホームレスの生活形態は地域によって全然違うことを説明しておかないと、理解しにくいと思います。 従って、通常の家屋とは較べようがないものの、曲りなりにも自分の生活の根拠地として、プライベートの生活も出来ますし、最低限の生活用品(寝具、簡単な食事を作る携帯コンロやナベ、釜など)も揃えることが出来ます。 しかし、アパートを借りて生活するには、とても無理な金額ですし、年齢的に言っても、今後、収入が飛躍的に伸びる気配は全く無いので、ホームレス生活から抜け出る可能性も限りなくゼロに近いと思います。 一方、新宿や池袋という都会型では、公園などにテントを張って生活しているホームレスもそれなりにいるようですが、圧倒的に多いにはダンボールハウスや駅の構内などにそのまま寝てしまうスタイルです。 この本の作者は、山谷周辺のホームレスを念頭において、記述しているので、ドヤ住民とホームレスの間に重要な階級差がないということになります。ただし、その場合のホームレスとはテントや小屋などに定住している人たちを指しています。 しかしながら、一般の人には、やはり何となく分かりにくいような気がします。 テント生活のホームレスの人で、保護を受けても施設に入ることを嫌う人が多いのは事実ですが、その理由は、主に、集団生活のわずらしさにあるようです。 私は、福祉の利用する大人数を収容する施設を見ていると、表現は悪いですが、何かそれが養鶏場のイメージにダブって見えたことがあります。 それでは、動物と同じになってしまいます。動物と違って人間には心があり、複雑とも言うべき精神的な存在でもあります。 心許せる相手と会話をする。好きなテレビ番組を好きな時に見られる。時には好きなお酒をチビチビやる。何か自分の娯楽があり、生きることに多少の張り合いやメリハリを見出すことが出きる。などと言うことがあってこそ人は心に落ち着きを持つことが出来ます。 私は福祉事務所が利用する第二種社会福祉事業の宿泊施設によく行きます。自分が関わった人に面会するためですが、その施設の中の雰囲気の暗さにはいつも暗澹たる思いです。 昼間でも、二段ベッドには多くの人がゴロゴロしており、その人たちの顔には生気がなく、その表情のない虚ろな眼には正直ビクッとすることがあります。「魂を抜かれた」とでもいう表現も決してオーバーではありません。人間と言うものは、先の展望もないままに、ただ、絶望のうちに生きるということがいかにむごいことかが身に沁みる光景です。 もっとも私のよく知っている施設の中で、他と全く雰囲気の違う施設が一つだけあります。それも最初からということではなく、今の寮長へ変わってから、全く違う雰囲気になりました。それ以前はやはりこの施設の中の雰囲気は暗く重いものでした。しかし、今は違います。 この施設で保護を受けている人たちはとても明るく、顔を合わすと必ず挨拶してくれます。それに、お互いに和気藹々という感じです。 |
(105)「山谷崖っぷち日記」を検証する(\) 2006・12・1 |
山谷における重要な階級差の境界は、住居の有無ではないと思う。では、それは何かといえば、私は食べ物を漁るか否かだと思う。住まいがないのと、食べ物を漁るのとでは、明らかに惨めさの程度が違うのである。 徳永さんは(私と同様)労働意欲において欠けるところのある人であり、路上生活をすることにはさほど抵抗感をもたない人だが、食べ物を漁るか否かというところまで追い込まれれば、この転落には徳永さんもおそらく激しく抗うだろう。 山谷において真のホームレスというべき人々とは、食べ物を漁る人々なのだと言っていいのではないか。 ここで言う住居の有無とは、(有)はお金を出して泊まっているドヤ(簡易旅館)に居ることであり、(無)とは公園や川べりにあるテントなどでのことを指しています。 もっとも、私が日常的に接する池袋近辺のホームレスは、テントもないしドヤもないので、山谷の真のホームレスよりワンランク下の存在といえます。 山谷の真のホームレスが、完全な労働市場から排除された老人であるのは、いかな山谷の住人とはいえ、この最後の転落に直面すれば必死の抵抗を示すからであろう。 日本国憲法が生存権を保障したり、「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文を文字通り解釈すれば、路上で生活するホームレスの困窮度は間違いなく憲法で規定する範囲、否、それ以下に入ると思います。 しかしながら、65歳を超えると、健康であっても、働く意思がなくても、本人さえ希望すれば行政は彼らを保護するようになってきました。 食べ物を漁るという、山谷における真の階級差の境界を越え出た人々の群れは、キリスト教団体が催す、雑炊やすいとんなどの炊き出しの行列において見出される。 つまり、どこまでも彼らは黒々としており、そして暗いのであった。仔細にみれば、行列の中には三十代と思われる若い人もおり、屈強な身体つきのの壮年も混じっているのだが、遠くから一見しただけではそのような人々の存在には気付かないのだ。 この人たちの上を、とても過酷なものが通り過ぎていったことは明らかであり、この人たちはこの苛烈なるものの襲来からついに身をかわすことが出来なかったという印象を受ける。 作者の言う「食べ物を漁る」という意味は、お金がなくて自分で食料を買えないので、炊き出しなどを利用することのようです。 炊き出し: 炊き出し情報を集めて移動してゆく人も多いようです。 福祉事務所でカンパンやクラッカーをもらう: 毎日もらえる福祉事務所もあれば、週に一回の所もある。福祉事務所を渡り歩く人もいるようです。 教会:ミサに出席することが食料をもらう条件になるようです。 食べ物を配るボランティアからもらう:決まった曜日にホームレスの居るところへ配りにきてくれる。 コンビニなどでの賞味期限切れの食料品を集める:けっこう豪華な弁当が手に入る事もあるようです。 残飯漁り:レストランなどの裏手においてあるポリバケツの蓋をあけて残飯を拾う。 さて、炊き出しですが、私は、5年前にたまたま池袋の公園で炊き出しというものに遭遇しました。順番を待つホームレスの長い列にびっくりして、思わず、「何だ、これは」と思ってしまいました。 |
(106)「山谷崖っぷち日記」を検証する(10) 2006・12・15 |
下記に抜粋した部分は、集団生活やテントの住人同士での人付き合いがいかに難しいかを、微に入り、細にわたり記述しています。 徳永さんに聞くところでは、彼の近隣の小家屋の人々の間にはほとんど人付き合いはなく、徳永さんに到っては誰ともあいさつすら交わしたことがないということだった。 ドヤの同部屋の人との交際についても同じことが言える。あまり交際に積極的でなさそうな人に対してなら、目礼ぐらいはしてもよいのだろうが、あけっぴろげでいかにも交際好きな人からのあいさつは、気付かないふりをしてでも無視した方がいいのでないかと、私も考えている。 ドヤでのベッドハウスの同部屋の人との親密なつきあいは、多くの場合災厄に終わる。もちろん、例外はあるのだろうが、これはかなり確実な経験則のように私には思われるのだ。 上記の人間関係の難しさは何もホームレスの世界に限ったことでなく、どこの世界でも似たような現象があり、また、ほとんどの人が思い当たる事柄のように思います。 人間に取って、ストレスの大半は、家族間での軋轢、夫婦、嫁と姑、職場などでの、複雑に入り組んだ人との関係にあるようです。 ホームレスの世界での人付き合いの難しさも、また、格別なものがあるようです。例えば、ホームレス同士のグループに入ると言うか、、簡単に言うと仲間の一員になる場合、どのような種類の人たちの仲間に入るかによって、その人の運命が決まるということです。 最初から路上脱却のなど全く視野にないような仲間に入れば、その人も自然にそのような生活になれてしまい、社会復帰は遠のいてしまいます。 一方、路上生活から何とかして抜き出したいという意欲のある仲間に入れば、当然、前向きな情報が入ってきて、その人にもチャンスが転がって来るというものです。 しかしながら、ホームレスになりたての時は、それこそ右も左も分からず、何となくどこかのグループに入ってしまい、運がよければ、それが自分に取っていい仲間であったり、運が悪ければとんでもない仲間であったりします。 ですから、路上に出てしばらくはどこの仲間とも、着かず離れずの距離を保ち、それとなく様子を探ることが賢明のように思います。 ホームレスが保護されて入る寮は集団生活で、一部屋6人とかが多いのですが、中には2人部屋もあります。実は2人部屋の方が問題が起こりやすいのです。 路上やテント生活をしていて、行政から保護されて、施設に入り、その後、居宅保護に切り替わり、アパートでの生活になった元ホームレスは相当数います。 先日も、新聞に1人暮らしのおじいさんの30%は近所付き合いが全くないとの記事が出ていました。このように、集団生活も難しい、アパートでの1人暮らしもいろいろ問題があるという中で、その問題を解消するために努力している支援団体もあります。 若くて熱い志のある若者たちによって設立された、ホームレスを支援するNPOに、「もやい」という団体もその一つです。 「もやい」はこの事業を始めてからもう5年になりますが、その間、保証人になったのは1000世帯にもなるそうです。 「もやい」のキーマンといわれる若者たちは、一流大学出身者ですが、社会や行政から見捨てられた野宿者の世界の悲惨さを目の当たりにして、就職もせずにひたすら彼らのために支援活動を始めました。 もっともホリエモンは大きな落とし穴に落ち、今や法の裁きの真っ最中のようです。私の考えを言わして頂くなら、ホリエモンの今回の挫折は当然の帰結だとは思いますが、まだ若いうちでのよかったと思います。 さて、「もやい」の話が長くなりましたが、前述したように、「もやい」とは、ホームレスだった人が路上から脱却してアパートに入り、地域住民に戻れる為の支援であり、その為の保証人を提供しています。 そこで、「もやい」が連帯保証を提供したアパート住居人同士のつながりを深めるために、下記のような互助会や交流サロンを作って、お互いが孤立しないようにしています。 互助会 続くちは、続くアパート入居続くに際して連帯保証人を提供するシステムを構築すると共に、共通の課題 |
(107)「山谷崖っぷち日記」を検証する (11) 2007・1・1 |
次の記述は路上生活がいかに危険かを描いています。 こんなことがそう煩雑にあろうとは思えないが(しかし12年前の私の場合、2週間に2度だった)、一度でも襲われれば、また襲われるかもしれぬという恐れが安眠を阻む。 高校生にもなって路上のホームレスを襲おうと考える者はいないだろう。彼らにとって自己証明のハードルは、恐らくもっと高いはずだ。路上の無力のホームレスを、大人であるという理由で自らの存在証明のためのハードルだと考えられるのは、まずは中学生までだろう。
ちょうど、このコラムを書いている最中に、テレビで69歳の女性のホームレスが中学生たちに襲われて殺されたというニュースが流れて来ました。 山谷の路上での安眠を阻む危険性は、何年か前までは、子供たち(子供によるホームレス襲撃事件)の他にもうひとつあった。 数年前までは、契約仕事を終えて山谷に帰ってきた人々を狙う「もがき」と呼ばれる強盗(窃盗)事件が頻発していたのだ。 普通一般の人からみると、路上で寝ているホームレスから金品を盗むということは、ピンとこないかも知れません。ところが、このような事件は路上の世界ではしょっちゅう起きています。 しかしながら、寝るところがなくて、やむなく路上や駅の構内で寝ているホームレスが、寝ている間に荷物をそっくり盗まれるというのは、何とも悲惨なことであり、また、現実に信じられないぐらいちょいちょいあります。誰が盗るのかは分かりませんが、盗る人も路上生活をしているホームレスのようです。 特に、ホームレスになりかけた人や、なりたての人が狙われるようです。所詮、お金は大して持ってないようですが、免許証や知人の連絡先を書いた手帳、金融機関の書類など、そっくり持って行かれ、自分を証明するものがなくなり、そのまま、正真正銘のホームレスに転落する人が後を絶ちません。 ただでさえ、ホームレス状態になって、パニックなっている時に、自分の最後の持ち物である財布や貴重品を盗られたとしたら、それこそ、絶望のドン底にに陥ることは想像に難くありません。 支援団体が、「夜回り」と称して、ホームレス一人一人の安否を気遣いながら路上や駅構内を廻りながら、「体の具合はどうですか?福祉の制度は分かりますか?」と丁寧に聞きますが、その中に、そ知らぬ顔をした、「ハイエナ」のようなホームレスが含まれているとしたら、何とも悲しい気持ちになるはずです。 私なんかも、ホームレスになりたてと思える人が、荷物を持っていると、まず、注意することは、「荷物に気をつけて、あっという間に盗られてしまうよ。寝るときは特に体に縛り付けるぐらいにしないと危ないよ」ということです。 ところで、上記の中に、「もがき」という言葉が出てきていますが、「もがき」をするのは常習犯で犯罪組織にも繋がっているようです。 |
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(108)「山谷崖っぷち日記」を検証する(12) 2007.1.15 |
このような行列は山谷地区内のみでなく、隅田川公園や、私の散歩コースである高速道路下の空き地で行われていることもあった。そこであたたかい食べ物にありつくまでに、賛美歌を歌わされたり、礼拝の文句を唱和させられたりするのである。 何度もテレビで取り上げられたことがあるという、有名なキリスト教名物おばさんがいたが、この人は炊き出しの食べ物目当てに行列に並ぶ人々に向かって、布教と言うよりも露骨に説教を垂れ、態度がなっていない人たち(酔っぱらっていたり、悪態をついたりする人たち)の横っ面を恐れ気もなく張り飛ばし、追い返したりもするらしいのである。 自分たちがいいこと(救済活動)をするための対象として、山谷住人が彼らキリスト教ボランティアたちに依存しているよりはるかに深い意味で彼らは山谷住民に依存しているのだが、この有名なキリスト教おばさんたちには、このことについての自覚がなさすぎるように思われるのだ。
ホームレスにとって「食にありつく」というのは、生きてゆく基本であり、その意味では、炊き出しはとても貴重です。炊き出しを行う団体などを分類してみると、圧倒的に宗教団体、特にキリスト教関係が多いようです。そのキリスト関係もカトリックとプロテスタントというように分かれます。 炊き出しに関して、様々な意見があるようですが、私のような支援者の立場でいうと、どこがやろうがやってもらうほうがありがたいと思います。 例えば、支援活動中、三日もご飯を食べていないというようなホームレスに出会えば、「今日は何時からあそこで炊き出しがありますよ、明日はどこそこでおにぎりを配る方がいますよ、あそこの教会に行けば着るものがもらえますよ」というような情報を伝えることが出来ます。 都内に限って言えば、キリスト教会関係のホームレスへの食の提供への貢献度はかなりのものだと思います。これらの支援がなければ餓死などという悲劇が相当起きたのに違いありません。 ある韓国系の教会が余りに熱心にホームレス支援をしていたので、私は何か裏でもあるのかと不信に思い、その教会を訪問したことがありました。 訪問してみて余りに大きな教会なのでびっくりしました。何百人も入れる聖堂があり、地下の調理室には、私が以前よく見かけた人が白い調理衣を着てきびきびと働いていました。 私が池袋で支援活動をしている話をすると、その牧師は気の毒なホームレスを助けるためにどんなことでもしたいと、目を輝かせながら私にいろいろとアドバイスを求めて来ました。 この教会の聖堂はミサなどの時に座る信者の座席は一階、二階、三階に分かれており、どの階からも正面の祭壇がみえるようになっています。私はクリスチャンでないので、このような形が一般的なのか特殊なのかは全然分かりませんが、要するに、劇場のような感じでした。 私は、その牧師の並々ならぬ情熱に圧倒されてしまい、又その牧師の一途な思いに私が少しでも疑いを持ったことが恥ずかしく思われました。 帰りがけに、スタッフの方から、「牧師の書かれた本です。よろしかったらお持ち下さい」と、一冊の本を進呈されました。 その本にはその牧師とご主人の牧師が日本に布教しに来ることになった経緯や、想像を絶する困難をその都度神のお告げによって乗り切った、というような内容でした。 日本人としては、「ほっといてくれよ」という心理になりますが、その動機が思い違いであれ、何であれ、日本のホームレスが空腹を満たすことが出来れば、それはそれで大いにありがたいと思うのが、ホームレスと日常的に接している支援者の偽らざる心境でもあります。 |
(109)「山谷崖っぷち日記」を検証する(13) 2007・2・1 |
山谷におけるホームレス支援団体に関する記述です。『』内です。
山谷は元来は労働者の街であり、高度成長時代は建築現場や道路工事などへの労働者の巨大な供給源でした。 このように、山谷地区のホームレスの前身は、そのほとんどが肉体労働者であるということが新宿や池袋のホームレスとは大きく違います。 新宿や池袋のホームレスには、勿論、建築現場の日雇いから落ちてきた人も随分いますが、それ以外に借金問題を抱えた人や普通のサラリーマンや工員だった人が失業などで路上生活者になった人も結構な割合でいるようです。 山谷では、路上生活をしていても、仕事が入ると現場に行くので、ホームレスでありながら労働者であり、仕事が増えさえすればたちまちドヤの住人の戻れる人も多く、ホームレスというより失業者という色合いが強く、「野宿労働者」とも言われたようです。 このような「日雇い労働者」や「野宿労働者」を支援するために山谷に入ってきた支援団体は、当然、労働組合に何らかの繋がりのある人たちではないかと思います。その人たちは、労働組合の活動のノウハウもあるでしょうし、行政への働きかけも相当強力なものであったと思います。ですから、支援者と言うより活動家と言われていたようです。 キリスト関係の支援団体は政治には無関心であり、いわゆる「慈愛の精神」を実践していたのでしょうが、山谷の活動家の主目的は、「野宿労働者」「日雇い労働者」の権利を守ることであり、野宿者を生みだす社会そのものを変える運動であったように思います。 実は、私自身は労働組合運動とか左翼思想には全く縁のない人生を送ってきた人間なので、その世界のことは全くわかりません。 最下層に位置する労働者を騙して使ったり、賃金不払いの悪質経営者とか、ホームレスを食いも物にするヤクザとかに対し、体を張って弱い立場の人たちを守ろうとする人たちでもあります。 私の勝手な解釈ですが、山谷の過激な支援団体は、元々は日雇い労働者の集まる山谷で、労働者と資本家という対立軸の中で政治活動をしていたと思います。 そして、その移行の段階で、支援の質も変わり、当然、支援者の質も変わったに違いありません。何故ならば、ホームレスというのは、その大半が路上生活をしながらアルミ缶を集めたり廃品回収などをして、月に何がしかの稼ぎがありますが、そのような類の労働は労働組合などが対象としている労働者ではありません。 支援者の質が変わったということはどういうことかと言いますと、労働運動は対象が労働者であり、労働者の待遇改善とか社会的地位の向上を目指すものですが、ホームレスは労働市場からの退場を余儀なくされた平均年齢57歳前後の路上生活者です。 支援する対象は、全くの負の存在であり、一般社会から忌避され、断絶された世界であり、凍死、飢え死に、病死などが日常的に起き得るホームレスの世界です。 上手に説明できませんが、立派な論文を書ける人が、即、立派な人格とは限りませんが、立派なホームレス支援活動家は、同時に、立派な人格を有しているということです。 私は、ホームレスの支援団体の集まりにごくたまに顔を出すことがありますが、それぞれの支援団体のリーダーたちをみていると、それぞれの出自は労働運動の活動家であったり、元学生運動家とか左翼思想の過激家であったりしても、一人一人は、とても気のいい人、というか、誠実というか、飛び切り優しいというか、そういう人ばかりです。 ところで、ホームレス支援活動家というものの評価は、世間の人たちはいくら口では、「立派だね、大変だね」、と言っても、内心では、「お前馬鹿だね、そんなことしててどうするの、自分の生活や将来を少しは考えろ」と思っているような気がします。 ホームレス支援の活動家の主たる仕事は支援団体を通して「ホームレス問題」の改善を促進することだと思いますが、支援団体自体がほんの僅かな奇特な人たちのカンパでかろうじて運営されているだけで、活動家自身の生活は経済的には全く保障されていません。 私がこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、自分の子供のような年の30歳代、40歳代の熱心な活動家をみると、「世間から完全に見捨てられた哀れな人たちを救おうとして必死に闘っているこの若い人たちは実に素晴らしい。でもこの人たち自身は自分の生活基盤のないままに年を重ねたらどうなっちゃうのかな。どうも心配だな」と思ってしまいます。 でも、私にはどうしても気になることがあります。それについては、次回、述べて見たいと思います。 続く |
(110)「山谷崖っぷち日記」を検証する(14) 2007・2・15 |
今回のコラムではホームレス支援団体のキーマンたる人たちについての私の感想を述べてみたいと思います。 「ホームレス問題」を社会や国の体制に起因しているとみて、政治的な運動をする団体、或は、人権問題として行政と対峙する団体、或は、福祉的な立場から現状の福祉行政の制度を利用して支援する団体、或は、行政が十分に機能しない分野を補完する支援団体、或は、宗教団体などにみられる「食の提供」を主体とする支援団体などがあると思います。 これはあくまで大雑把な分け方で、当然、一つの団体がいろいろな事をしているケースも多くあります。 宗教団体は別として、それ以外の団体はほとんどがボランティアによるもので、その運営は困難を極めております。ホームレス支援というと、どうしても特殊な世界のような印象を与えてしまい、一般の人からは敬遠されているのが現状です。 最近になって、ほんの一握りの支援団体がNPO法人となって、行政からホームレス関連の事業を受託するなどして、運営を軌道にのせている団体も出てきているようです。 ホームレスの支援団体にはもう一つの特徴があります。日本にホームレス支援団体が生まれたのは古いもので20年ほど前、大半は15年前後に遡ると思います。 そして、どの支援団体も設立者の出自はいろいろあるにしても、正義感の旺盛な一途な若者たちの情熱によって始められました。 私が気になるのは、多少の例外はあるにしても、10年、20年前に始めた支援活動のリーダーが、今も変わらず、そのままリーダーであることです。 読者の方は、「それのどこが問題なの?」と思うでしょうが、私には、少々、問題のように思います。一番の問題は今のリーダーの後継者がいないということです。 実際問題として、ホームレスに対する行政の取り組みは、4,5年前に較べると格段の進歩をしています。 さて、今回のコラムのテーマは支援団体のリーダーは10年も20年もずっと同じ人が最初から変わらずやっていることの背景を、私の勝手な憶測でお話しすることにあります。 10年、20年前には労働組合運動も今よりは盛んで、社会を変えようと意気込む若者が結構いたのではないかと思います。 しかし、「ホームレス問題」が改善されたとはいえ、まだまだ難問題は山積みです。ここで支援団体がこけたら元の木阿弥です。野宿者の世界は、ある意味で沈黙の世界でもあります。社会からどんなに酷い扱いを受けても、弱りきった人たちには抗議の為の声をあげることも出来ません。 その話はさておき、何故、同じ人がずっとリーダーかというと、その人に代わるリーダーが出てこないからだと思います。 |
(111)「山谷崖っぷち日記」を検証する(15) 2007.3・1 |
リーダーともなればその責任は重く、単なるボランティアの支援者であれば自分の都合に合わせてで支援活動をすればいいのですが、リーダーとなるとまず支援活動があり、その合間に自分の食い扶持をかせぐことになります。 「ワーキングプア」と言われる時代は、一生懸命働いてもちゃんとした生活が出来ないのですから、支援活動の合間にしか働けなくてはどうにもなりません。 このような環境では、とても後継者が出るわけがありません。 普通の商売であれば、例えば、時代に合わなくなって成り立たなくなったので廃業しようとすれば、それはそれで本人だけの問題で済みますが、ホームレス支援団体ともなれば、自分たちの都合だけでやめるわけには行きません。 ですから、後継者がいなければ自分自身がずっと続けるしかありません。仮に、何かの事情で他の事をしなくてはいけないとか、或は、別の生き方をしてみたいと思っても、後継者が見つからない限りやめるわけにはいかないのではないかと思います。 私の余計な心配は子供を思う親の気持ちのようなものです。親であれば、自分の子供に「世の中の役に立つ人間になって欲しい」と思っているに違いありません。 私が何を問題としているか、否、問題というと語弊があるので、言葉を変えると、私が何を感じているかというと、「ホームレス問題」には解決不能な難しさがあるように、支援者の世界にも同じような難しさがあるということです。 私のように、自分の人生の大半を終えて(いいことも悪いことも含めて、やりたいことはほとんどやって)、定年後に、その徒然なるままに、しかもボランティアとして、そして、年金生活の中で、支援活動を行うのであれば、誰も文句を言う人もいなければ、ましてや、「そんなことをしててどうするの」と言って心配してくれる人もいません。 ところで、このコラムではもうひとつ「裏テーマ」があります。私の愚痴ということで聞いていただければ結構ですが、私としては深刻に悩んでいます。 実は、私の悩みは私にも後継者がいないということです。私は今年でもう65歳です。 私が現在関わっている仕事は池袋の支援団体「てのはし」への「ボランティア福祉相談員」としての参加と、「マザー・テレサ」の炊き出しでの管理責任者としての役割です。 私が今、一番危惧しているのは毎週金曜日に行っている「マザー・テレサ」の炊き出しの管理です(このサイトの「今月のコラム」の「マザー・テレサの炊き出し顛末記NO.66〜73」を参照して下さい)。 私が3年間ずっと続けて来られたのは現役をリタイアした人間なので平日に動けたのと、300人もののホームレスの食を確保しようという責任感からでした。 ということは、私のような管理責任者がいなくなれば、恐らく、1、2ケ月のうちに、ルールが破られ、近隣の苦情が多発して、役所もそれに耐えられず、公園の使用を禁止することになるに違いありません。 私は仕事を持って働いている人間ではないので、やれるうちはやりますが、いざというときの「後釜」が全くいないという不安感はいつも付きまとっています。 |
(112)「山谷崖っぷち日記」を検証する(16) 2007・3・15 |
私は「ホームレス問題」に取り組んで5年になります。その間、福祉行政を研究し、生活保護に関わる法規制とその運用実態をつぶさに見てきました。 生活保護法では、「無差別平等」という原則があり、今現在、その人が法の基準にマッチした困窮状態であるかが基本であり、何故、その人が困窮状態になったかとか、その人の生き方とかどんな人柄とかは二の次です。 しかし、ボランティアというのは、あくまで一人一人が自分の基準をもっているはずです。 となると、この基準が重大問題になってきます。基準は個々の支援者の価値観で決まるとすれば、その基準にはその支援者の生き様が反映されると思います。 また、世の中には福祉の制度の空白地帯にすっぽりはまり込んで身動きが取れない困窮者が大勢いると思います。 なかなか出口の見えないホームレス問題に理と情のバランスを取りつつも、うまくいったり、ダメだったりしながら、ストレスを溜めずに、淡々と活動をするには、やはり、年の功のあるシニアにピッタリかと思います。 ボランティアの世界では、どの分野でも人生経験豊富なシニアの参加を求めていると思いますが、ホームレス関連の支援活動こそシニアが活躍されるに相応しいボランティアかと思います。 例えば、炊き出し現場で飯を炊く仕事、列の整理をする仕事、福祉の相談、行政との交渉の窓口、更に、支援団体の運営に参画、更に、根本的な解決を目指した政治的な運動など、結構、色々な仕事があり、その人の特性とか、どこまでこの問題に関わりたいかによって自由に選択出来ます。 それと、もうひとつ、シニアの方は平日にも活動出来ることが非常に大きな力になります。どこの支援団体でも平日活動出来る人材は最高に歓迎されると思います。 さて、私の話を聞いて、それでは自分も何かやってみようと思われる方がいらっしゃいましたら、私にご連絡ください。それぞれのご希望や地域を聞いて、そのご希望に相応しい支援団体をご紹介出来ると思います。 勿論、私と一緒にやってみたいという方は大歓迎です。私の今までの経験を全部お伝えしたいと思います。 連絡先:masakayo23@yahoo.co.jp 中村です。 お待ちしています。 |
(113)「山谷崖っぷち日記」を検証する(17) 2007・4・1 最終編 |
「山谷崖っぷち日記」は今回のコラムで終わりたいと思います。 山谷住民の人間性を述べた箇所を抜粋して私なりの感想を付け加えてみます。非常に重たいテーマであり、ある意味で、ホームレス問題の本質に触れるとも言えます。 『私は西成で三年、山谷で十二年、都合十五年間の労務者生活を送って来たわけだが、その私の目には、世の中の底辺にあるはずだという人間の気高さや美しさを見出すことはできなかった。 山谷住人の陋劣さは、一般社会の住人の陋劣さよりも洗練と多様性に欠け、はるかに単純で露骨だった。無知と卑屈と傲慢の三位一体を体現したような人々とは、腐るほど出会ってきた。 上記の文章に出てくる山谷住人とは、労務者あり野宿者ありと解釈してみたいと思います。労務者である山谷住民とは限りなく野宿者に近い存在であり、高齢化とか病気障害でドヤと路上を往復しつつ次第に野宿生活が定着する存在でもあります。 作者の大山さんはその文章の中で、「陋劣」という言葉を多用しており、また、「陋劣」なる山谷の住民と自分自身の間に一歩、距離を置かざる得ない心境を述べているように思います。 しかしながら、支援者の視点からみると、山谷住民たちが、「無知、陋劣、卑屈、傲慢」というようなキーワードを身に纏っていることに対して、「だからどうなの、彼らの人生の軌跡を辿れば、ある意味当然じゃないの」と思い、それでも、「支援するか、しないか」ということであり、支援者は「それでも、否、それだからこそ」支援するしかないと考えるのです。 さて、「陋劣」なる言葉は普段はほとんど聞きなれない言葉で、その意味は、辞書に拠ると、「卑しく、軽蔑すべき。下劣。卑しく劣っている」等と書かれています。 私は多くのホームレスと接していて、常々、感じることですが、ホームレスというのは物質面では極貧そのものですが、精神的貧しさという面でも底辺にいるように思います。要するに、物質面でも精神面でも不遇な人たちとも言えます。 精神的貧しさとは、往々にして、生まれながらの貧困故に、不十分な愛情、不十分な躾、中学を出たか出ないか程度の教育、十分とはいえないIQ、長年に渡る建築現場での飯場や寮生活という環境で社会の常識を身に付ける機会のないままに年齢を重ねた人たち・・・・といような条件下で、「陋劣」という雰囲気を身に付けることは、まあまあ、避けがたいことではないかと思います。 話は飛びますが、私が考えるに、「陋劣」には2種類あると思われます。一つは、必ずしも本人の責任で「陋劣」になったとは言い難いケースと、もう一つは、人並み、或は、それ以上の恵まれた環境や能力を持ちながら、「陋劣」状態に陥っている人たちです。 前者は、ホームレスに多く見られると思いますし、後者は自分の私利私欲のために、欲望を膨らませ、社会に害毒を流す人たちで、例えば、名声を成し遂げた社会的地位の高い人たちで、人生の最後で悪事を働き、「晩節を汚す」事件がよくあります。 「陋劣」なるが故に、世間から嫌われ、社会から排除されているからこそ、また、彼らが、不幸な人生の中で、「陋劣」なる状態に作り上げられたという側面がよく分かる故に、支援者は彼らの為に、時には、世間や社会を敵に廻してまで、支援するのではないかと私は思います。 作者の大山さんは、「世の中の底辺にあるはずだという人間の気高さや美しさを見出すことはできなかった」と述べていますが、この部分は私にはいまひとつよく分かりません。大山さんが底辺の人に何を期待しているのでしょうか。 さて、大山さんの期待したものと合致しているかどうか分かりませんが、底辺にはとてつもなく「馬鹿正直」な人がごく稀に見受けられます。 何年か前ですが、池袋の駅構内には、特に寒い冬場にはホームレスの人たちが構内の通路で寝ています。暖房が効いているので、少しでも不潔な状態ではシラミが発生して、そこで寝ているホームレスに移ることがよくありました。 私たち支援者はシラミのついたホームレスを見つけると、福祉事務所に連れて行き、シャワーを借りて、衣類を総取っ替して、さっぱりしてもらいました。 多少のシラミであれば、一度の処理でおしまいですが、体中シラミにやられて、全身の皮膚の色素が沈殿して真っ黒になるほどの人に対しては処理の後、保健所の専門家が細かい注意を与えます。 まず、清潔にすること、下着はまめに取りかえること、毎日、同じダンボールで寝ないこと、同じ場所で寝ないこと、着替がない場合は、シラミがついた衣類を黒いビニール袋に入れて密閉し、太陽光線にしばらくあてておくこと・・・・・・などです。 Aさんは大量にシラミがついた人でしたが、処理の後も、いつもの場所と全く同じ場所で寝ていました。 Aさんは、「頭がちょっと弱い」と仲間内で言われていましたが、その「人の良さ」は正に、「馬鹿」がいくつもつくほどでした。 私は、Aさんをみてて、「人間とは、頭のよさと人柄とはまったく別物だ」としみじみ思いました、が、同時に、知恵もなくてはこの世を生き抜いていくことは出来ないと思いました。 知恵もあり、人柄もよければ一番いいのでしょう。また、人柄が多少悪くても知恵があればこの世は何とかなります。 実は、Aさんのような、「馬鹿お人よし」がホームレスの中に、多くはないと思いますが、時々、まれにいることがあります。 |