第一部

A
今月のコラム第七部 

このコーナーは私がホームレスの人たちと触れ合う中で
体験した事、感じた事などコラム風に書き記したものです。
少しでもホームレスの世界をご理解頂ければ幸いです。

A


(97)「山谷崖っぷち日記」を検証する(T)    2006・8・1

 今回のコラムでは、山谷で労務者をしながら、ドヤ生活をしている大山史朗さんの書かれた、「山谷崖っぷち日記」を教材のような形にして、ホームレスの実態を文学的な視点から見つめてみたいと思います。

 山谷崖っぷち日記(角川文庫)   第九回 開高健賞を受賞する   

 作者 大山史朗

    1947年生まれ。69年公立大学の経済学部を卒業し、サラリーマンになる
  が続かず、転職を繰り返す。工員生活などを経て、77年大阪西成で労務者になる。
  87年から、東京山谷に移り現在に至る。2000年、本作品にて開高健賞を受賞
  する。

 作品の解説 

   「つまるところ、私は人生に向いていない人間なのだ」大学卒業後、会社勤めに挫折し、
    釜ケ崎で労務者になった著者は、そう結論づけて山谷にやってきた。
タタミ1畳の
    ベッドハウスに泊まり、現場仕事をし、「山谷」という奈落に生きる人間たちの生活と
    心根をつぶさに観察していく。過酷な生存競争の場を静謐な文体で綴った現代の「方丈
    記」であると全選考委員に絶賛されて第九回開高健賞を受賞。

 
 私は、「山谷崖っぶち日記」という単行本をたまたま読んで、すっかりこの本が気に入ってしまいました。

 作者の大山さんは大学まで出て、いったんは普通の社会で働いたものの、集団の中での人との付き合いに、たえず、息苦しさを感じ、社会に対する不適応性を実感していたようです。

 そして、自然の成り行きのように、或は、自らの意思で、その社会からドロップアウトし、辿り着いたのが、釜ケ崎であり、最後は、山谷のドヤ街であり、日雇い労働者としての生活でした。

 本来的には、社会の吹き溜まりのようなドヤ街での生活など、最下層の人たちが押し込まれるような場であり、一般市民から見れば、いわば、ぞっとするような嫌悪感を伴うはずです。

 しかしながら、作者の大山さんは、そこにこそ、自分の生きてゆく場をみつけ、肉体労働をする限り、人との付き合いに気を使わなくて住むドヤ街での生活に心の安心を得たようです。

 大山さんは、「もし、西成とか山谷のような特殊な場が日本に存在しなければ自分のような人間は生きていけなかったと思うとぞっする」とも言っています。普通の人からみれば、まるで対極にあるような感覚かと思います。
             

 大山さんの大半はドヤでの生活ですが、その合間にはホームレス生活もしたようです。そのような生活の中で、大山さんは冷静にそして淡々とドヤ街の日常や、そこに住む人たちの人間模様を克明に綴っています。

 特にこの本に感銘を受けるのは、大山さんの文体です。全体を俯瞰しつつ、細部においては実に深い洞察を持って描く能力は卓越したものを感じます。

 このような奈落の底のような環境にありながら、これほどまでに冷静な文筆運びが出来るのは、彼の人生観に「諦念」という考えが根強く横たわり、自分の周りの出来事に対し、容易に折り合いをつけられることにあるようです。

 ご本人は、自分の不遇感にまともに向き合うだけの生命力が希薄なせいだと述べていますが、多分そういう面もあったのでしょうが、同時に元来が、欲の少ない人であったように気がします。しかし、その分、彼の優れた感性が働いて、ものごとを客観的に捉えることが出来たのかもしれません。

 大山さんは日雇いなどの稼ぎで山谷のドヤ生活をしていましたが、50歳を過ぎて、労務者としての現場仕事が減り、いずれ自分もほんとうのホームレスになるしかないという危惧の中にいたようです。しかし、仕事が減るにつれて、その分、ドヤで過ごす時間が急激に増え、原稿用紙の桝目を埋めてみたくなったようです。もともとが文才のある人だと思います。

 実は、私が、この本をこのコラムに取り上げた理由が二つあります。

 一つ目は、大山さんのように、社会に適応するのが難しく、結果としてホームレスになってしまったというタイプの人を野宿者の世界にも多く見かけることがあるということです。

 もっとも、私の遭遇するこのタイプのホームレスと大山さんとの間には歴然とした違いがあります。それは、知性にあると思います。

 一般的な表現をするならば、漢字を読むことさえ困難な人を含めて、路上の人たちの知的水準は大山さんとはかなり違うと言わざるを得ません。

 しかし、一つだけ大きな類似点があります。それは、「相対的安心感」ともいうべきものです。 大山さんが普通の社会に耐えられずに、釜ケ崎や山谷という、言わば、異境の地で、心の「やすらぎ」を感じ、自分はこのような場所でしか生きられないし、ここで朽ち果てていけばいいと思ったようです。

 しかしながら、この地が天国かというと、大山さんは決してそう思ったわけではないと思います。あくまで、「あちらの辛さにくらべたら、こちらのほうが遥かにマシだ」という、比較の上での「いい場所」に過ぎないと思います。

 ある人にとって、「死ぬほど辛い」ことが、他の人にはそれほどでないことはよくあります。ホームレスの世界でも同じ事です。「死ぬほど辛い」という事柄は、人によって違うという視点に着目することなく、イッパからげて観ていると、この世界は何だかさっぱり分からなくなります。

 よくある話ですが、寒さと飢えで死ぬしかないという状態のホームレスが刑務所なら生きられると思い、わざと万引きなどをして、逮捕され、首尾よく刑務所に入れたとか、或は、人との付き合いが極端に苦手で、1人でいられるのなら、たとえ路上がいくら肉体的に辛くても、そのほうが安心感がある、なんて人もおります。

 又、私がこのコラムで時折、取り上げています、「折角、保護されて施設に入れたのに、すぐに飛び出してしまう」というケースは、正に、「相対的安心感」という心理で説明がつくように思います。

 例えば、仮にAさんとします。Aさんは知的レベルも低く、教育水準も極端に低く、肉体労働しか出来ません。その上、自分を上手に表現することも苦手で、集団生活を出来るだけ避けるようにして生きてきました。

 加齢とともに、肉体労働の仕事もなくなり、他の選択肢のないままに路上に落ちてきました。Aさんと大山さんの違いはAさんにはホームレス以外の選択肢はありませんでした。
 しかし、大山さんにはいくいつかの選択肢の中から、ドヤ生活を選んだとも言えます。

 さて、Aさんは厳しい路上生活で体を壊し、ひょっとするとこのまま路上で死ぬしかないという恐怖に苛まされていたときに、支援者の援助で福祉で保護されて、医療扶助を受けて入院しました。

 幸い、入院で体も快方に向かい、退院し、しばらくは通院のため、保護施設に入り、一部屋
8人の二段ベッドルームでの集団生活を始めました。その施設は病気で病院通いしているホームレスや高齢で保護されているホームレスばかりが100人位収容されていました。

 隣同士のベッドとは仕切りが少しあるだけで、お互いがすかすかで、プライベートな空間は全くありません。いつも人に見られているようで落ち着きません。

 Aさんは二段ベッドの上をあてがわれました。上のベッドでは寝返りを打っても軋んで下のベッドにひびくようで、最初の晩に下で寝ていた人から、「うるせーな、静かにしろ」と怒鳴られました。

 夜になって寝ている時間には、部屋の中は、いびきや寝言のオンパレードで、神経質のAさんはよく眠れません。人付き合いの苦手なAさんは日にちが経つに連れて施設の中でも孤立する存在になってしまいます。

 施設は厳しい管理と規則があるだけで、生活相談とか娯楽とかイベントとか何もなく、将来の展望も皆無のまま、「食っちゃ寝、食っちゃ寝」の毎日です。

 同室の難しい人たちに絶えず気を使い、やがて鬱のような状態に陥り、ついには毎日が檻の中にいるように感じられ、心の平安はなくしていきます。やがて、この場から一刻もはやく逃れることだけを考えるようになり、ついには、前後の見境なく施設を無断で出てしまい、元の路上生活に戻ってしまいます。

 そして、Aさんは、「自分は何をやってもやっぱりダメな人間だ」というふうに思い、ますます自分を卑下するようになります。実は、Aさんのようなケースは非常に多いのです。
      
続く


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(98)「山谷崖っぷち日記」を検証する(U)    2006・8.15

 Aさんは路上生活に戻りたくて、施設を飛び出たわけでなく、施設が地獄のように感じられて苦し紛れに出てしまったのです。行き着く先は、当然、元の路上以外にはありません。

 しかしながら、路上生活は物理的には施設よりはるかに過酷な環境ですが、精神的には、きっと、「ほっと」するものがあったに違いありません。これこそが、「相対的安心感」というものです。

 しかし、世間では、このAさんのような人を、「好きでホームレスをやっている」「食事とベッドのある施設より、気ままに暮らせる路上のほうが好きな人」というふうに見えてしまいます。

 一般の人には、Aさんの心理の推移を理解するのはとても出来ないと思います。私のようにこの世界に何年も関わってみて、やっと理解出来るような事柄です。行政からみても、「Aさんは社会不適応で、どうにも扱いが難しい人」というレッテルを貼られてしまいます。

 ホームレス問題は、どうにも複雑で、なかなか糸口がつかめません。何が一番難しいかというと、「ホームレス問題」は人の話を聞いたり、関連書物を読んだとしても、その本質まで理解することは不可能に近いということです。

 私自身は、愚鈍なせいもありますが、支援活動を始めて半年以上経って、やっと長く支援活動している人の話や関連資料の意味が少しずつ分かってきました。

 かなり大胆で雑駁な説明を許してもらえるなら、ホームレスの世界を彼岸(あの世)とし、普通の社会を此岸(この世)として例えてみます。彼岸と此岸の間には三途の川があると言われています。この川のこちら(この世)からあの世を見てもほんとのことはさっぱり分かりません。これと同じように、一般市民にはあっち側にあるホームレスの世界は分かりにくいものです。

 ほんとに分かろうとするならあっちの世界を体験するしかありません。野宿者運動の活動家と言われる若い人たちは、おじさんたちの境遇を理解するために、一緒に野宿生活をしたという話をよく聞きます。それぐらいしなければ、運動家と言えども、貧困に喘ぐ路上生活者の心の代弁は出来ないのです。

 しかしながら、それでさえ、若く純粋な活動家の体験には限界があります。何故なら、実際に野垂れ死するほどの生死を賭けたおじさんたちの心理には所詮届かないからです。サラリーマン同士がサラリーマンの世界を議論するのとは違うという難しさがあります。

 さて、それでは、「山谷崖っぷち日記」の中から、印象的な部分を抽出しながら、私の感想を加えてみたいと思います。

 私のような感性の鈍い人間には、ホームレスの実態に触れながら、「何となく漠然と感じているけれど、或は、何らかのイメージを持っていても、うまく言葉で表現出来ない」ということが随分とあるものですが、この本を読んで、「なるほど、そうだ、その通り」と得心したことが結構ありました。やはり、文学者の表現能力というか、感性にはすばらしいものを感じます。

山谷と西成(釜ケ崎)の違いについての記述部分

 山谷に来る前にも短い期間、大阪・西成で労務者見習いのような生活を送っていたことがある。 30歳から33歳にかけての頃だ。

 当時は(25年ほど前)国鉄だった環状線・新今宮駅を降りると、そこはもう誰がみてもふつうの街ではなかった。市民社会とは明確に区分された異貌の空間が、眼前に展開しているのだった。

 さまざまな規模の簡易旅館(ドヤ)が一定区域に密集しているのだが、その区域では、それ以外の建造物も、簡易旅館宿泊者の生活上の必要を満たすための各種商店に限られていて、区役所の職員やセメント会社のサラリーマンといった人々が世帯をかまえて住むような、普通の家屋も、ふつうのマンションやアパートも、一戸といえどもその区域には混じっていないのだった。

 自由で猥雑で殺伐とした、解放区とでもいった雰囲気が、街の一帯を支配していた。近傍から西成・釜ケ崎地区に近づいていくにつれて、ふつうの市民社会の住人とは服装も表情も言語さえもが違う異貌の人々が、そこここにたむろしていて、はじめての人々を脅かすのだ。多くの人々が仕事で出払っているはずの昼間でさえもそうだった。

 夜間の釜ケ崎の路上は、さながら、田舎の縁日のような賑わいを呈する。体力と技能に恵まれた、欲望と壮気に充ちた屈強の労務者にとって、20年前の釜ケ崎は確実に刺激的で面白い場所であったはずだ。

 警察との間で、かなりの規模の衝突もしばしば起こっていた。その頃の釜ケ崎はまだ、市民社会からの恩恵と施しを待つ、無力で哀れな人々の街ではなかった。
 むしろ、その逆で、市民社会を脅やかす、荒くれた異貌の解放区といった趣の方が、はるかに濃厚だったのである。

 33歳の時に、上京して、いろいろやってみたが甲斐なく、再び労務者生活に復帰しようとして山谷を訪れたのが昭和62年。40歳になっていた。

 常磐線・南千住駅に着き、駅員に「山谷に行きたいのですが」というと、方向を教えてくれたので、言われたままに歩いてゆくのだが、一向に山谷に着かないのだ。その辺りを歩いていた労務者風の人に同じ質問を向けると、「ここだよ、ここが山谷なの」という返事が返ってきた。

 しかし、周りを見渡しても、一向に「解放区」は見あたらないのだ。交番に赴いて、「ここ、山谷ですか」と言うと、うなずかれた。つまり、釜ケ崎が在るような意味では、山谷は存在しなかったのである。

 釜ケ崎は、普通の市民が住む場所とは明確に区分された異貌な解放区として、具体的、物理的に存在しているのだが、山谷は普通の市民たちが住む、普通の東京の中の下町の中の、ある種の光景に対して向けられる抽象名詞に過ぎなかったのである。

 山谷の住人たちも、釜ケ崎の労務者のように、周りの世界からくっきりと区分される、市民社会の住人たちを脅かす「異界の人々」のようには見えなかった。建設作業や土木作業に従事する、背広を着てない、ふつうの単身男子労働者という存在でしかないように見えた。

 作者の大山さんは、最初は大阪の西成・釜ケ崎に3年程度いて、その後、しばらくして東京の山谷のドヤ街に入って山谷の住人になったようです。両方を経験しただけに、大阪の釜ケ崎と東京の山谷の違いがとても鮮やかに描かれています。大阪と東京の気質の違いが下層労働者の世界にもそのまま反映されているようです。

日本の三大寄せ場とは、「釜ケ崎、山谷、寿町」と言われています。
                    続く


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(99)「山谷崖っぷち日記」を検証する(V)      2006.9.1

 「寄せ場」について、一般の人にはほとんど何のこと分からないと思いますが、要するに、日雇い労働者が仕事を探しに来る街であり、青空労働市場です。

 公設の職安が設置されている所もありますが、ほとんどが私設の求人スタイルで、違法、不可解なシステムが当然のように行われ、また、仕事を求めて集まってくる日雇い労働者も、そのシステムを当然のように受け入れており、何かトラブルが生じても、闇から闇へと消えて行く場所でもあります。

 下層労働者が集住する街ですから、おのずと、簡易宿泊施設(ドヤ)なども立ち並び、通常の街とは全く趣の違う重い雰囲気を漂わせています。

 ある種、普通の社会から切り離された別世界とも言える場所だと思います。日本の高度成長時代には、ビルや道路の建設ラッシュで、人手はいくらでも必要としました。

 その頃は、日雇い労働者はいくらでも仕事があり、1日に1万、2万と軽く稼いで、とても羽振りがよかった時代でした。

 それだけに、「寄せ場」は活況を呈して、労働者の街として、活気に溢れていたとのことです。

 しかし、バブルもはじけ、時代が変わり、そして、当時の労働者が高齢化した現在、どこの「寄せ場」も、どんよりと暗い街になっており、まるでホームレスを生産する工場地帯のようでもあり、絶望と倦怠が渦巻く街に変貌してしまいました。

 三大寄せ場の一つの「寿町」は横浜市中区にあり、JR根岸線の石川町の近くに位置します。僅か250米四方に100軒近いドヤが密集している街で、その中に6000人もの人が生活をしています。

 以前は、横浜港の荷揚げ作業などの港湾労働者の街でしたが、ここも時代の波に飲み込まれ、労働者の街としての活気は消失して、精気のない暗い雰囲気になっています。

 仕事を失い、高齢化した元労働者たちが生活保護を受けて、ひっそり暮らしているようです。住民の8割が生活保護を受けているようで、ドヤで単身で生活しています。

 言うまでもなく、このドヤ街の周辺には福祉の制度に乗れないホームレスが数多く路上生活をしており、この街を更に一層悲惨なものにしています。

 寄せ場も、小さなものなら都市の中には結構あるようです。身近な所では、東京の高田馬場駅周辺に青空労働市場が見られます。もっとも、ここの近くに形ばかりの新宿職安出張所があります。

 新宿や池袋の路上生活者の中には、「俺はいつもヤマで仕事を探している」と言う人が随分います。「ヤマ」とは高田馬場の青空労働市場を指して言っているようです。

 この辺りに朝の5時頃に行くと、仕事を求めて100人以上のおじさんたちが建築現場で使う道具を入れたバッグをかついでたむろしています。この中には普段は路上生活をしている人が多くいるのですが、ハードな肉体労働をしているだけあって若い人は当然ながら、年を取った人でも頑健な体をしています。

 朝の5時に来て、必ず仕事が見つかれば、その人は路上で生活をする必要はないのでしょうが、実際に、仕事が出来るのは1週間に1回とか、1月に1回とかが実情のようです。

 1回でも仕事に行ければ1万円とかそれ以上を稼げるのですが、月に1回や2回ではドヤに泊まることなど不可能で、路上で寝泊りするしかありません。

 今の時代、労働市場が縮小し、かつ、産業構造が変化して、50歳、60歳のロートル労働者に廻す仕事がないのが現実です。

 「人は何故ホームレスになるのか?」とい疑問に対し、この寄せ場の状況ほど単純で分かりやすい姿はないと思います。勿論、ホームレスに転落する理由は人様々でしょうが、ホームレスへの転落の一つの大きな流れであることは間違いないと思います。

 日本の産業の成長期に、日雇い労働者は貴重な労働力であり、景気の動向に合わせて雇用、解雇(首切り)が自由自在に出来る、資本側からみると大変貴重な存在でした。

 このような景気の調整弁としての労働力によって、日本の産業は未曾有の発展をなしとげたとも言えます。彼らの大半は、貧しい農家の出身で、ろくに義務教育も受けないままに都会に放り込まれ、肉体労働の専従者として、日本中の工事現場を渡り歩き、年を重ねて来た人たちです。

 彼らの生活は工事現場の飯場などでの単身者同士の共同生活が主で、他の仕事に就くことや、或は、結婚して世帯を持つような機会などもめったになかったようです。

 従って、体を使う単純肉体労働以外に使い道がなく、言わば、「つぶしの利かない」人たちでした。ですから、建築業界が不況になり、しかも彼らが高齢化し、仕事場で、「もうあなたはいらない」といわれれば、その瞬間に仕事を失うしか選択肢がありません。

 しかも、労働者としての階層は最下層ですから、失業保険、年金などの社会保障には無縁の存在でした。

 月に1回とか2回しか仕事がない人でも、毎朝、5時には寄せ場に顔を出しています。いつ仕事が入るか分かりませんし、第一、顔を出していないと、ますます、仕事が廻って来ません。

 というのは、このような場所には「手配師・人夫出し」と呼ばれる業者が、仕事を求めて集まってくる労働者一人一人と相対で雇用契約を行います。

 雇用契約と言っても、
その場での口だけのものです。従って、これらの業者と顔馴染みになることも必要であり、その為には毎日顔を出しておかなければなりません。

 仕事が滅多にない時代に、たまに顔を出して仕事がもらえるというような状況ではないというのが現実です。

 手配師というのは、建設会社でも孫請けか更にその下のひ孫請けの会社から、その日必要な数の人夫の注文を受けて、寄せ場に人集めにくる業者です。業者と言えば、聞こえはいいのですが、要するに労働者の賃金の一部を紹介料としてピンハネしているだけで、明らかに違法な存在ですが、寄せ場ではそれが堂々と罷りとっています。

 それでも、寄せ場に集まった労働者たちは、そのような手配師から声を掛けてもらうしか生きて行けません。 普通のイス取りゲームならイスの数より人間が1人が2人ぐらい多いだけですが、今の寄せ場ではイスひとつに10人とか20人が群がるという感じでゲームにもなりません。

 生死を賭けた過酷な現場が今の寄せ場の実情です。この現象が一時的であれば何とか凌いで行けるのでしょうが、その傾向は
ますます顕著になり、年老いた労働者はまるでゴミのように掃き捨てられて行き、遂には正真正銘のホームレスになって行きます。 
               続く


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(100)「山谷崖っぶち日記」を検証する(W)    2006・9・15

 現在のホームレスの主流を占めているのが、上述のような流れの中で仕事を失った人たちです。 この流れを検証すれば、彼らが、決して、怠け者でも仕事をしたくないわけでもないことが分かると思います。

 もし、仮に、寄せ場に行けば、その人の能力に見合った仕事が全員にあるのであれば、それをしない人たちを「怠け者、ヤル気のない人」と言っていいと思います。

 さて、ひとたび正真正銘のホームレスなって路上生活をするようになれば、劣悪な環境の中で、体力、気力を失い、精気のないままに、街中をさ迷ったり、昼、公園のベンチで寝ていたりします。又、食べ物を求めて炊き出しに並んだり、コンビニの廃棄物を探したりします。

 このような姿をみて、世間の人は、「あいつら怠け者なんだ。仕事なんて死ぬ気になればいくらでもあるよ。あいつらヤル気がないだけだ」と決め付けてしまいます。

 世間の人は、「ホームレスが街中でウロウロしている」ことに嫌悪感を持ちがちですから、無意識の内に、「ホームレスになったのは自分が悪い、要するに自己責任だ」と決め付ける心理が働きます。

 従って、「ホームレスに何故なったのか」というプロセスを思い遣るだけの気持ちが働きません。従って、どうしても自分の思考や想像力にブレーキをかけてしまいます。

 一般市民が街で目にする、汚く、得体のしれない、「嫌悪すべき」ホームレスの姿は長い路上生活の結果として、そのように見えるのであって、「ホームレスに何故なったのか、或はホームレスになる前はどのような人だったのか」とは分けて考えるべきです。

 しかし、世間の人は、「原因と結果」をきちんと分けて認識することが出来ません。従って、「昼間から何もしないでフラフラしてだらしなく見えるホームレス」をみて、「だからホームレスになった」と思い込んでしまい、自分の偏見に自信を深めてしまいます。

 もっとも、「原因まできちんと遡って、その原因を取り除けばホームレス問題は解決」かというとそうではありません。むしろ、知れば知るほど複雑な問題が横たわり、「こりぁ、無理だ」と思うかも知れません。

 しかし、少なくとも、ホームレス問題の本質が理解出来ると思います。そして、より多くの国民がホームレスの実態を知ることこそ、「ホームレス問題」の解決に繋がる大きな一歩かと思います。
 しかし、今の現状は、「ホームレス問題」の本質への追求を忌避し、表層的な現象のみに終始して、安易な結論を出しているように思います。ですから、偏見・差別の解消が一向にすすまないだけでなく、ホームレスに対する子供たちの襲撃事件なども起きてしまいます。

 先日も池袋の炊き出し現場に、突然、ごく普通の一般市民と思われる40前後の男性が血相を変えて私に食ってかかってきました。

 彼は、「貴方たち、炊き出しなんてしてはダメですよ。そんなことをするからあの人たちは怠け者になって働かなくなるんですよ。あの人たちをダメにしているのは貴方たちですよ。すぐにやめなさい」と一気にまくしたてました。

 その方の真剣そのもの顔を見て、私は、「この方は心の底からそのように信じているのだ」と思いました。私はこのように一つのことを一途に思い込んでいる人は苦手です。この手の人は自分の考えに反する人に対し聞く耳を持っていないので、議論すればケンカになるに決まっています。

 そこで、私は、「皆さんにはご迷惑を掛けないようにしていますし、いろいろな考え方があるのも認めて下さい。ちょっと忙しいので失礼します」と言って、その人から離れてしまいました。その方は憮然とした表情で立ちすくんでいました。

 私はこのような人の存在を恐ろしいと思いました。自分の考えは絶対で、それ以外はすべて間違っているし、その間違いを絶対に赦さないといスタンスのように思います。

 この手の人が権力でも持てば、世の中のバランスや価値観の多様性など無視して一直線に突き進み、大変なことになりかねません。

 本人は自分が正義だと信じ込んでいますから、そのエネルギーには集中力が漲りすごいパワーになります。皮肉なことに、視野がせまいほどそのパワーは強くなります。

 昔、よく聞かれた赤軍派とか全学連などの『内ゲバ』なども、このような心理の延長線が起きたことのように思います。

「炊き出し」について考えてみると、毎日ならともかく、週に1回か2回の食事の提供でどれほどホームレスの食に寄与出来ていると言えるでしょうか。

 まして、「ホームレスをダメにする力」などどこにあるのでしょうか。たしかに、10人のうち1人ぐらいは「炊き出し」とかを当てにして、仕事をさぼる人もいるに違いありません。「怠け者やずるい人」はどこの世界にも一定の割合でいるものです。

 しかしながら、あとの大半ののホームレスはどうでしょうか。その人たちは、失業、病気、高齢化などが重なって、どうにも自立するだけのお金を稼げない人たちです。

 それでも、彼らの半分以上は、都市雑業と称する、雑誌拾い、アルミ缶集め、カンバン担ぎ、並び(野球のチケットを取るアルバイト)などをやっています。しかし、この手の仕事では一日中頑張っても月に1−3万円程度しか稼げません。

 又、路上には、長引く過酷な環境で、既に体力、気力を失い、「なるようにしかならない」という諦めの境地で「生きる希望」のない人たちも多く見かけます。この人たちは、「炊き出し」のない日は、コンビニなどのゴミ箱を漁って飢えを凌いでいるようです。
 しかし、「炊き出し」で温かい物が食べられるのが楽しみのようです。

 支援者たちが、「炊き出し」をしたからと言って、「ホームレス問題」が改善されるとは誰も思っていないと思います。せいぜい、路上生活の苦しみがほんのちょっとだけ緩和されるぐらいでしょう。

 まして、「炊き出し」がすべてのホームレスをダメにするなんてこともあり得ません。こんなことはちょっと考えればすぐに分かる事なのに、ヒステリックに、「炊き出しがホームレスをダメにする」と私に食ってかかってくる人がいるわけです。

 の人が真面目そうな人だけに、ホームレスに対する偏見の大きさを感じずにはいられません。
 ある意味、その人は一般市民の大多数の偏見の代弁者であるかもしれません。それだけに、ホームレス問題の難しさを感じてしまいます。

           続く

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(101)「山谷崖っぷち日記」を検証する(X)      2006・10・1

 もっとも、「炊き出し」に依存して「ダメ」になる人と、そうでない人を峻別することが技術的に可能であれば、それはそれで、「より進化した炊き出し」になるとは思いますが、そんなことは不可能です。  
 
 さて、炊き出しをしている私たちボランティアには上述のような偏見のある「正義の人」には手を焼きます。一方、「炊き出し」を支援する側の、「純粋すぎる人」にも「いい意味」で手を焼くことがあります。

 私は池袋で毎週金曜日に行われている、「マザー・テレサ」の教会の炊き出しを、ボランティアとしてお手伝いしております。

 始めてから3年にもなりますが、参加しているホームレスの数が300人からの大人数ということで、近隣の住民や商店街から区役所にちょいちょい苦情が入ります。

 区役所としては住民の苦情も無視することも出来ず、一方、飯も食えないほどの困窮者であるホームレスへの民間の支援を中止させることも出来ず、その間に入って苦しい立場にたっています。

 近所の苦情が電話で入ると、地域密着の行政をを標榜する役所としては、真偽を確かめるために、取り敢えず、区役所の公園緑地課という部署の係長が自転車で駆けつけてきます。

 私がたまたま炊き出しの管理責任者のような立場になっているため、係長は真っ先に私に文句を言ってきます。私は係長の話をよく聞いて、近隣の人の苦情がもっともであると思えば、「分かりました。今後そのようなことのないように気をつけます」と言います。

 しかし、苦情が事実でなかったり、誇張されたものであったり、或は、実行不可能な無理な要求であれば、その旨を説明して、係長に納得してもらいます。

 炊き出しをしている公園は小さくて、ホームレスが300人も入ると、それこそ一般の人がほとんど入る余地がなくなるほどです。公園というものは、本来地域住民の憩の場であり、誰でもが気軽に使えるべきであるということに異論はありません。

 しかしながら、炊き出しをする場所が公園以外にないことも事実です。もっとも、この炊き出しは、教会がおにぎりやパン、果物などを配るだけで、炊き出しというよりは配食です。

 そこで私たちはこの配食にルールを作り、いかに短時間にすまし、ホームレスの公園での滞留時間を最小限にするかを工夫をしました。

 それまでは、早く来て前の方に並べば、配食の量が多い場合は、二回、3回ともらえるチャンスがあるため、どうしても早く来てしまいます。逆に量が少ない場合は後ろに並んだ人には廻らないというケースもおきたりします。

 ホームレスの人たちに取っては死活問題ですから、一部の人は夕方から始めるのに朝から来て公園で待っているようになってしまいます。そして、商店街の口の悪い人は、「あそこは浮浪者の溜まり場よ」と言い出しました。

 このような弊害をなくすために次のようなルールを作りました。

1.整理券を前の週に出し、早く来て並ぶ必要のないようにする。

2.食糧はいくら余っても、一人一回とする。

3.4時半に配食をするので、4時までは絶対に公園に入らない。

4.公園では食べないで、食糧を受け取り次第、すぐに公園を出る。

 このようなルールを作ったところ、ホームレスの人が公園に滞留する時間は全部で40分ほどになり、役所も黙認するようになりました。近隣の苦情に対し、役所はルールを守ってやっているので理解して欲しいと説明しているようでした。

 ところが、このルールがいつも完璧に守られるとは限らないのがこの世界の難しいところです。 ちょっとでも私たちが気を抜くと、あっという間にこのルールは壊れてしまいます。そして、その間隙をついて、近隣の反対運動がすぐに起きてきます。

 炊き出しに関するルールを守るということに関し、ほとんどのホームレスは自分たちの立場を理解しており、ルールを守る必要性を感じており、事実99%の人たちは守ろうとしています。

 しかしながら、ほんの何人かはアウトロー的な人もおり、これらの人をいかにおとなしくしてもらえるかが支援者の重要な仕事であり、それに成功するかしないかで、炊き出しの雰囲気が変わってきます。

 さて、近隣の反対がいかに厳しいかを思い知った一例をあげてみます。
 去年の夏は酷く暑かったのですが、教会の人たちが、「たまにはおじさんたちにアイスクリームを食べさしてあげたい」ということで、アイスクリームを配りました。

 他の食糧と違って、アイスはすぐに食べないと溶けてしまいます。そこで、アイスに限っては公園で食べていいことにしました。

 ところが、すぐに役所の係長が飛んできて、「近所の人からの電話で、公園でホームレスたちが食糧を食べている。約束が違うと怒っている」と私に文句を言って来ました。

 私は、「アイスクリームだけですよ。すぐに食べないと融けちゃいますから。これくらい大目にみて下さいよ。何年に一度のことですよ。おじさんたちはあんなに喜んでいるじゃないですか」と言うと、係長はブツブツ言いながら、私に、「頼むよ、中村さん」と訳の分からないことを言って帰って行きました。

 私はこの件で、この配食を近所の反対者がいつも見張っていることに気が付きました。それ以来、この配食の命綱は、「ルールを守る」ことだと思い、更に気を引き締めました。

 それにしても、いくらルールに反するからといっても、「この暑さの中で、おじさんたちにアイスをたべさせてやりたい」という教会の思いやりすらも絶対に許さないという近所の人たちの心に、ホームレスに対する反感の大きさを改めて知り、暗い気持ちになったものです。

 私自身はホームレスの支援者であると同時に市民の1人ですから、炊き出しのためならいくら近隣や商店街に迷惑をかけてもしょうがないというような考えはありません。

 特に、ご商売をしている方は、それこそ命を賭けて仕事をしているわけですから、その人たちの商売の妨害になるようなことはしたくはありません。

 そこで、私の目指すのは「共生」ということです。勿論、炊き出しなどする必要のない世の中になるのが理想ですが、そうなるのはもっと先のようです。

 ですから、今、現在をどうするかと考えれば、やはり、お互いが譲りあっていくしかありません。お互いが、「まあしょうがないか」という線を作っていくしかありません。その仲介をするのが私たち支援者の役割のように思います。

 よく聞く話ですが、被災国に救援物資を送ってもそれをほんとうに必要としている人たちにきちんと届かないとか、貧しい国に資金援助をしてもそれが正しく使われているか分からないとかということがあるようです。

 要するに、困っている人に何か援助したくても、援助する物自体よりも、援助する方法のほうが更に難しいようです。

 「炊き出し」もそのような側面があって、いくらお腹の空かしたホームレスが気の毒だと思って、心優しき人たちが、食を提供しようと思っても、それが簡単には出来ないのが今の日本の現状のようです。

 さて、話題がすっかりそれてしまいましたが、次回のコラムでは「純粋な人たちにも手を焼くことがある」という話をしたいと思います。
                    続く

目次



(102)「山谷崖っぶち日記」を検証する(Y)   2006・10.15

 マザー・テレサの炊き出しには3人のシスターと教会の関係者と思われるボランティアの10人前後の人たちが、毎週金曜日の朝から教会に集まって、おにぎりを作ったり、その他の食料品を用意して、その後、車3台で配食現場の池袋の公園に4時過ぎにきます。

 ホームレスの参加人数は300人から400人の間ですが、突然多くなったり、或は、突然減ったりして、予めは数の予測がつきません。しかも、整理券を予め配っているので、足りなくなったら大変です。

 そこで、予想される最大限の数を用意してきます。ですから、いつもは大体余るようですが、一人一食と限定していますので、余った分は池袋とは全く違う場所で配っています。

 さて、「純粋の人たち・・・」の話に入ります。それは、今年(2006年)の3月のことでした。この公園を管理する区役所の「公園緑地課」の係長が転勤するとのことで、新たに着任する係長との顔合わせと今後の展開を兼ねて、教会の責任者と私に役所に来て欲しいとの要望が区役所からありました。

 どっちみち、苦情を言われるのに決まっていますので気乗りはしないのですが、断るわけにも行かず、教会からは日本人のシスターと最近インドから日本に赴任してきた若いシスターの2人と私の3人が出席しました。

 役所側は課長、係長、其の外2名でした。新任の係長はどういうわけか、出てきませんでした。

 話合いは会議室で行われ、まず、役所の課長が、「最近、また商店街や近隣から苦情が多くなっています。是非、ルールをきちんと守ってやって頂きたい。あまり、苦情が多くなると区としても対処のしようがありません」というような趣旨の話をしました。

 それに対し、私が言い訳したり、反論したりのやり取りをしていましたが、突然、若いシスターが怒り出し、英語で何か訴えるような口調でバンバン言い出しました。

 私たちはあっけに取られていました。一通り言い終わったところで、日本人のシスターが通訳しました。
 その内容は、「日本人はどうして日本人をいじめるのか私には理解できません。日本では困った人を助けてはいけないのですか。随分酷い話です。どうしても信じられません」というような趣旨でした。

 私も役所の人たちもその瞬間、何のことか分からず、きょとんとして、会議室は一瞬、静寂に陥りました。しかし、すぐに、それぞれがその意味を分かったようで、何となく苦笑いしていました。

 私の解釈は、「そうか、この若いシスターには、お腹を空かしたおじさんたちに食べ物を提供しようとしているだけなのに、役所や地元住民が何かと反対してやめさせようとしている。
 同じ日本人同士が助け合うのは当たり前なのに、それを邪魔するのがどうしても自分には理解出来ない。まして日本は豊かな国だし、一体どうして?」ということだと思います。

 若いシスターの考えは純粋ではありますが、あまりに単純明快すぎて、私たち日本人にはすぐにはピントこなかったように思います。

 日本では縦割り行政の弊害や、法律の理念と運用の実態の乖離や、市民感情や総論賛成各論反対の現実などなどが、重なり合って、社会そのものが複雑化しています。ですから、「炊き出し」一つをとっても、「ああだ、こうだ」と揉めに揉めているわけです。

 それに対し、インドという、恐らく日本とは宗教観や価値観を多少とも、異にしている国の、しかも、若くて一途な修道女に取っては、困っている人たちを援助するだけのことに、このようにいがみ合っている私たち日本人が、「何か穢らわしいもの」に映ったに違いありません。

 何というか、このシスターには「困っている人」を見れば、反射的に「助ける」ことしか頭に浮かばず、その途端、周りのことなど一切が見えなくなってしまう、とでもいいましょうか。

 それはそれで素晴らしいことだとは思いますが、日本のように多様な価値観と複雑化した社会では、このシスターの気持ちはよくわかるのですが、やはり、どうしてもちょっと無理があるように思います。

 もっとも、外国人であるシスターからの視点で、日本をみて、日本人というのは「しょうもない人たち」と言われれば、たしかにその通りかもしれません。

 若くて純粋な人たちの「一途さ」は、宝石のようにキラキラ輝くものであり、社会の改革への入り口であるに違いありません。

 しかしながら、実際に社会を動かすには、「純粋さ」や「一途さ」だけでなく、そこに「知恵」が加わる必要があるかとは思います。この「配食」を行っている教会の創始者はマザー・テレサです。この方はノーベル平和賞を受けたほどの大変偉い人のようです。

 去年ですが、日本で「マザー・テレサ」の映画が上映されました。私はキリスト教には縁のない人間ですが、シスター達に、是非見るように言われて、何となく断りずらくなって見てしまいました。

 たしかに、その映画は素晴らしいものでした。マザー・テレサの「一途さ」というか「優しさ」は、もう私たちとは全く次元が違うように思えました。しかし、私は其れとは別なことにも深い印象を受けました。

 それは、虐げられた人や見捨てられた人たちを救う為には、あらゆる困難がマザー・テレサの前に、絶えず、立ちはだかるわけですが、彼女はどんな時でも決して諦めずに、ありとあらゆる工夫をして、ついにはその目的を達成してしまいます。

 弱者を助けたいという「一途の思い」だけでなく、知恵が縦横無尽に働いていたように思いますし、又、すさまじく行動的でもありました。だからこそ、絶対に不可能と思われた事業を次々になしとげてしまったのです。それ故に、宗教というものから離れて世界中の人を等しく感動させたし、ノーベル平和賞の受賞にまで結びついたように思います。

 もっとも、マザー・テレサは多くの偉業をなしとげても、決して自分がやったとは言わないで、「神が私を導いただけだ」と言うと思います。

 宗教的には、たしかにそういう表現になるのとは思いますが、しかし、私には、マザー・テレサという方は、そのような一宗教の枠を超えた、もっともっと大きな人のように思います。


 ついでに、「次元の違う優しさ」というものに言及するなら、ホームレス支援団体の中に、時々そのような人をよくみかけます。

 私たち普通の人間と言うものは、「優しい行為」をするときに、「生来の優しさ」と、「人間は優しくあるべき」という親や社会の規範の強い刷り込みによる「作られた優しさ」が、その割合は別として、合体したものであるように思います。

 しかしながら、「次元の違う優しさ」とは、「生来の優しさ」が限りなく100%に近い人たちのように思います。要するに、理屈なしに、分析もなしに、差別もなしに、又、我が身に降りかかるかもしれない危険もかえりみずに、「思わず」手を差し伸べてしまう人たちです。

 参考までに、生前のマザー・テレサの生涯の略歴がネットにありましたので、下記に貼り付けしてみます。

マザー・テレサの生涯


1910明治43

スコピア(現マケドニア)のアルバニア商人の家庭に生まれる。
両親はアルバニア系の熱心なカトリック教徒

1928年昭和3

アイルランドのロレッタ修道会に入会し、カトリックの修道女としてインド・ダージリン
の修練院に送られる。

1931昭和 6

ロレッタ修道会修道女として初誓願を立てる。
修道名はシスター・テレサ
カルカッタにあるロレッタ修道会経営のセントメリー高等学校に赴任。
歴史と地理を教え、その後校長を務める。

1946昭和21

黙想のためダージリンへ向かう汽車の車中で神の召命を受け、修道会を出て
貧しい人々の中に入ることを決意する。

1948昭和23

イギリスの植民地から独立したインドで、貧困救済の活動に入るため、
派遣伝道師としての身分の除籍をローマ法王に申請。
(修道女のまま修道院外で働く許可)
スラム街にまず最初に「青空教室」を開設。
(薬を買って粗末なサリーをまとい貧民街に立ったとき、所持金わずか5ルピー。)
「富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。」

1950昭和25

インドに帰化。 12人のシスターと共に、貧しい中の最も貧しい人に仕える修道会
「神の愛の宣教者会」設立
総長に就任して「マザー・テレサ」と呼ばれるようになる。

1952昭和27

路上で死にそうになっている人を連れてきて、最期をみとるための施設
「死を待つ人々の家」(Home for Sick and Dying Destitutes)を開設。
(地元住民の強い反対と施設撤去を求める誓願。何しろ、ヒンズー教徒の国ですから、キリスト教のシスターは良く思われません。また、どうせ死ぬ人のためにそんなに苦労してもあまり意味がないのではないかという批判もあったそうです。でも、マザーは、最期の一瞬だけでも人間らしく扱われることの大切さを知っていました。)

ある日、コレラで死にそうなヒンズー教徒の僧を引き取り、死をみとったことをきっかけに、住民の彼女を見る目が変わる。

「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

1955年昭和30

孤児のための施設「聖なる子供の家」を開設する。

1957年昭和32

ハンセン病の巡回診療を開始する。

1965年昭和40

インド国外での最初の修道院をベネズエラに開設する。

1968年昭和43

西ベンガル州にハンセン病患者のコミューン「平和の村」を開設する。

1975年昭和50

学校・病院・作業所持つ複合センター「プレム・ダム」を開設する。

1979年昭和54

ノーベル平和賞受賞
「わたしは受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けま
した。」
(ノーベル平和賞と言っても、政治家や活動家が受賞する際には、委員会の中でも意見が分かれることが多いそうですが、マザーの受賞の時には、満場一致だったそうです。彼女は、賞金の全額を寄付しました。また、受賞後に問題が生じることもあるようですが、マザー死去の報を聞き、委員長は、
「マザー・テレサの平和賞受賞はわれわれが大きな喜びと満足感を持って振り返ることのできる受賞だった」と語っています。

受賞後も、朝4時に起床、シスター達と一緒に、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活をほとんど変えずに行い続けた。

1981年昭和56

この年と翌年に二年連続して来日し、各地で講演を行う。

1984年昭和59

三度目の来日。

1997年平成 9

3月病気のため総長を引退。新総長にシスター・ニルマラが選ばれた。

1997平成 9

95日(日本時間96日午後6時)
「もう息が出来ないわ」の言葉を残し永眠913日インドで国葬が行われた。 国家元首でも首相でもないのに、異例の国葬です。マザーがどれほどインドの人々に愛されていたかが、わかります。

 さて、話を元に戻しますが、その区役所の会議では、その怒り狂った若いシスターに対し、誰も正面から反論する人はいませんでした。というより、その純粋無垢なシスターを納得させる自信は誰にもありませんでした。むしろ、人間の心の原点に触れたような「さわやかさ」を感じていたのかもしれません。

 役所の人は、立場上、うるさいことをいいますが、職場を離れれば、一個人としての感性は誰も同じであるに違いありません。

 その若いシスターも、かの偉大なマザー・テレサに憧れて修道女になったに違いありません。異国の地で、言葉もよくわからないままに、役所の人に猛然と食ってかかる情熱というか激しさは、私のような年配の人間には「小気味」のいいものでもあり、同時に、ベートーベンの交響曲を聴いているような興奮を感じさせてくれました。
 
 しかし、この「一途な」というか、「一途過ぎる」シスターには、これから「弱者を助けて行く」過程において、きっと多くの困難が待ち受けているに違いありません。

 でも、天国のマザー・テレサがこのシスターをきっと優しく見守り、その都度、素晴らしい知恵を授けるものと思います。ぜひ、頑張って頂き、マザー・テレサのようになって下さい。

          続く       

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(103)「山谷崖っぷち日記」を検証する (Z)     2006・11・1

 さて、今回は「山谷崖っぷち日記」の文章の中から、山谷にある簡易旅館、いわゆる「ドヤ」についての記載の部分を抜書きしてみます。

 山谷にはたたみ一畳の個室はなかったので、一部屋に二段式ベッドが四ケ所、合計で8つのベッドのある、ベッドハウスと呼ばれる簡易旅館に泊まることにした。スペースには問題はなかったが、一部屋に6人から7人いる他人を46時中見なければならず、他人からも46時中見られるという生活に耐えられずに、最初のベッドハウスから3週間ぐらいで出た。

 同じベッドでも、カーテンでかこって同部屋の人の視線を遮ることのできるドヤがあると聞いたので、そこを探して移った。ここには西成の一畳の個室にはなかったテレビが置かれ、かなりの大きさの、鍵のかかる荷物収納庫ともいうべきものが備え付けられてあった。これは快適である。
 たたみ一畳のスペースを、自分の身体ひとつがまるまる使うことが出きるのである。これは広すぎると言ってもいい。広さには全く問題はない。問題は別にあったのだ。

 他人の視線を遮断するために(同じことだが、他人が見えてしまうという事態から逃れるために)、カーテンで区切られたスペースをさらに段ボールで補強して、もう少し閉鎖性を強めることにした。カーテンで区切られていても、灯りがつくとカーテンの向こう側が透けてみえるのだ。
 ということは、向こうからもこちらが透けて見えてしまうわけだ。カーテンの布地はそう薄くはないのだが、こちらが暗く、向こうが明るいという状態では、カーテンごしに隣の人の動静が丸見えになってしまう。これを避けるために、カーテンを段ボールで裏打ちすることにしたのだ。視線の問題についてはこれ以上のことはできない。

 まだ音と臭いが残るが、臭いは私にはそうたいした問題ではなかった。おならの臭いはそう頻繁なものでなく、あってもすぐに消失する。
 仕事から帰った隣人の足の臭いは、時に強く部屋に漂うこともあるが、これは、こちらも同じ臭いの発生源となることもあり、お互いさまだ。という以上に、私は足の臭いにはかなり耐性があった。私にも耐えられぬほどの足の臭いというものもなくはないが、一日の仕事のあとの足の臭いぐらいは、私にはさほど悪臭には感じられないのである。

 私が入ったベッドハウスは、料金的には山谷でも最低ランクのところで、区の福祉事務所の指定旅館になっていた。正月や盆など、長い連休が続く時などには、区の「無料宿泊」に集まった路上生活者たちが何日間か泊まっていくことがある。臭いの問題でいちばん困ったのがこのときだ。

 人の身体の臭いは、入浴しない日数がおよそ1週間から10日ぐらいの時に、まず最初のピークに達するように思われる。入浴しないということは、衣類を変えないということであるから、この臭いが身体本体からのものか、衣類からのものか判別することは出来ないのだが、ともあれこの最初の臭いのピークは、異臭というより悪臭という方がふさわしいようなものだった。
 漂ってくるというより、突き刺さってくるのであり、無機的というより「有機的な臭い」、つまり、動物の体が発する悪臭といった趣に充ちたものだ。

 しかし、この段階の悪臭の範囲はかなり小さい。相当近づかないと、最初の、この有機的で突き刺さってくる悪臭には気付かないものだ。この悪臭が、どれほど経てば無機的な感じの、相当の範囲の拡がった「漂ってくる異臭」に変わるのかは定かでないが、入浴から1ケ月も遠ざかれば、人の体臭はおそらくやや無機的で、一種乾いた感じの、この「漂う異臭」に変化するものと思われる。

 1週間から10日の、突き刺さってくる「有機的な悪臭」は、その範囲が狭いうえに、一瞬嗅覚に突き刺さったあと、しばらくは空無化してしまう趣があるのだが、1ケ月以上の「漂う異臭」は範囲が広汎であるとともに、臭いが持続的で途絶えないという特徴があった。

 隣や下段のベッドにくる路上生活者の臭いが、この1ケ月以上の「漂う異臭」であったことは明らかだった。この異臭の発生源はむろん、人の身体本体なのだが、明らかにその臭いの重心はすでに衣類に移行してしまっているので、その人が入浴しても異臭は消失しないのである。

 部屋の住人の誰かが抗議の声を放つのではないかと期待しつつ待っていたのだが、誰も何も言い出さず我慢しているようであり、私も我慢しないわけにはいかなかった。

 ベッドハウスの集合生活でいちばん困るのは、何といっても音(音声)の問題である。視線が遮られていない、むき出しのベッド生活では、物音や音声をも抑制することにつながっていたわけだが、カーテンと段ボールで視線がある程度遮断されている中では、音声の問題は気付かれにくいのである。
 ベッドハウスの一室で、7〜8人の他人同士がどれほど(物理的に)近接して生活しているかが、意識の中に入ってこないのだ。もちろん、このことを意識の中に入れていないからこそ、何年間も平穏に生活してゆけるのだろうが、しかし同時に、この無意識さが時にトラブルの種になってしまうのである。

 いびきは最大の問題になり得るのだろうが、私は幸い、この問題にはそれほど深刻な形では直面しなかった。時に酒が入った状態になるといびきをかく人もいるにはいたが、幸いその人はすぐに出て行ってくれた。

 とにかく、人の放ち得るすべての物音は、隣人の聞き取るところとなっているものと考えなければならない。おならやげっぷ、新聞や本をめくる音、寝返りの衣擦れ、テレビのチャンネルの変換音(備え付けのテレビはリモコンではなかった)、缶コーヒーなどのフタを引きあける音、飲食の咀嚼音。私のたてる、これら全ての音声を隣人は聞き取っているのであり、隣人のたてるこのような音声のすべてを私は聞き取らなくてはならない。
 
 したがって、しばらくすると、これらの音声は当然の生活音としてさして気にならなくなる。人間が生きて動いている以上、これらの物音はたてないでいることはできないのである。このことを認識し得ないほど愚昧な人が、これまで私のベッドのある部屋に来たことはなかった。

 音声の問題はだいたい次のような形をとる。つまりそれは多くの場合、威信の問題とつながるのだ。

 我々はベッドから出る(上段の場合は、降りる)場合にも、ベッドに戻る(上がる)場合にも、カーテンを引かねばならないのだが、このとき、カーテンのレールが「シャーッー」という、かなり鋭く緊迫した音をたてるのである。そのことに気付いた人の大部分は、このレールの音を抑制しようとして、そろそろとゆるやかにカーテンを開け閉めしようとするのだが、十人に1人ぐらいの割合で、このレールの開閉時の「シャーッー」に自らの威信を込め様とする者が出てくるのだ。

 このような人は、レール音に味をしめてからは、それ以外の生活音においても、あえて必要以上に大きな音をたてるようになる。その成り行きが、いかにも部屋の他の住人たちの動静をうかがいつつ、というのがありありなのである。
 「ここまで大丈夫か、これではどうだ」というように、自らの威信の発揚と部屋の住人の反応とを慎重に秤にかけつつ、音声のレベルを上げてゆくのだ。部屋の住人の人となり(危険性)を見きわめつつ、これをやってゆくのだ。

 だれかが「帳場」(管理室、管理人)に抗議にゆくまで、このような男たちの威信の発揚は続き、我々はそれに耐え続けるのである。不必要までに強烈な、入室時のドス、ドスという足音や、大きく破裂するくしゃみやおならの音、テレビのチャンネル変換の激しいプッシュ音に、自らの容赦のない男振りを込めるような者たちに、何が言えるだろう。

 このような男たちの威信の顕示にひっそり耐えつつ、彼らがいなくなるのを待つか、時には「帳場」への抗議によって、彼らに行動様式の変換を求めてもらうかするのである。

 山谷で簡易旅館の帳場の職責を全うするには、このような男たちを押さえ込むための、暴力の能力に裏付けられた押し出しと気迫は明らかに不可欠の要素であろう。

 今回の文章は「ドヤ」についてですが、さすがに、文筆家の表現は「ドヤ」での生活をリアルに描いています。この文章を読めば、普通の生活をされている人で、「ドヤ」に泊まってみたいと思う人はあまりいないと思います。よっぽど、何かで「切羽詰った」状態でなくては、「泊まるのは勘弁してよ」というのが正直なところだと思います。

 通常、「ドヤ」といわれる簡易旅館は、日雇い労働者の集まる街にあります。料金は一泊1000円から2500円程度で、素泊まりが多く、正に寝るだけの場所です。単身の日雇い労働者や建築現場で働く人たちの常宿ともいうべきものですが、仕事が減ったり、高齢化で宿代も稼ぐことが出来なくなると、路上生活に陥ってしまいます。

 このような「ドヤ」は福祉事務所が保護した路上生活者の一時的な宿泊にも使います。新宿や池袋近辺の「ドヤ」には、自分のお金で宿泊する人より、保護された人たちのほうが圧倒的に多いようです。

 現実問題として、お金を出して泊まる労働者からみれば、保護されて一時的に泊まっている路上生活者と一緒の部屋にいることに抵抗があるかもしれません。

 先日のことですが、私は、○○福祉事務所で保護してもらった路上生活者に付き添ってある「ドヤ」に行きました。その路上生活者は、白内障が悪化して道端の看板もよく見えなくなっており、一人ではその「ドヤ」に行くことが難しそうだったので、私が同行することになったのです。

 「ドヤ」に着くと受付にちょうどそこの経営者がおりました。白髪の年配の方でした。私は、「○○福祉事務所から、今日からこちらにお世話になることになった方をお連れしました」というと、その経営者は私を福祉事務所の職員と勘違いしたようで、「まあどうぞ、お上がりください」と言って、私たち2人を事務所のような所に案内してコーヒーを入れてくれました。

 私はすぐに、「私はボランティアの支援者です」と説明すると、かえって興味を覚えたらしく、「ホームレスの現状」のような話になってしまいました。

 私はその話の中で、「こういうドヤの経営というのはいろいろと苦労が多いでしょうね」と水を向けると、その経営者は、「いやいや、もう20年もやっていますからそうでもないですよ。やはりこういう経営もノウハウですよ」といってニコニコしていました。

 私が、「こういうドヤの経営は採算的にどうですか」と聞くと、「うちはほとんどが生活保護の人ですから、まあ、経営は安定してますよ」と満更でもないような顔をしていました。

 私がこのドヤに関し、以前からいろいろな噂を聞いていました。ドヤの宿泊客同士の暴力による警察沙汰や、最近では、結核患者がドヤの客からみつかり、保健所がそれ以前に宿泊した人も含めていっせいに検査をしたりということもありました。

 もっとも、その経営者にとっては、その程度の事件はどうってことが無いのかもしれません。その程度のことをいちいち気にしていたら、「こんな商売はやっていられない」のかもしれません。


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(104)「山谷崖っぷち日記」を検証する([)   2006・11・15

 さて、今回はこの本から適当な箇所を抜粋しながら、私なりの感想を加えて行きたいと思います。

「山谷の住人において、簡易旅館宿泊所(ドヤ)と路上生活者との間に重要な階級差の境界がないことは、長谷川さんの例からも明らかであろう。
 現にドヤにしがみついている私は、ホームレスである長谷川さんよりはるかに少ない収入しかなく、また、ドヤからはじき出された青シート村の住人に転落している徳永さんとも、ドヤ代を除けばその消費水準においておそらくほとんど差はないのである。

 徳永さんはホームレスといっても、それは彼の生活の本拠が高速道路下の青シート家屋にあるというにすぎず、徳永さんが得意とするパチンコ(パチスロ)で大きなお金を得たり、就労できる日が続いたような場合、彼は青シート家屋を放置したまま何週間も、時には2,3ケ月も簡易旅館に宿泊するのである。ホームレスといって、このような生活形態の人は少なくないのである。」

 ホームレスの生活形態は地域によって全然違うことを説明しておかないと、理解しにくいと思います。

 まず、山谷地区は日本の三大寄せ場といわれる、日雇い労働者の街ですが、近年、労働市場の変化により、その労働者の多くがホームレスに転落してゆき、都内でも圧倒的にホームレスの数の多い場所で、ホームレスの本場とも言われる所以です。

 この地域のホームレスの多くが公園や河川べり、或は高速道路高架下などにテントを張ったり、小屋を作った生活をしています。

 従って、通常の家屋とは較べようがないものの、曲りなりにも自分の生活の根拠地として、プライベートの生活も出来ますし、最低限の生活用品(寝具、簡単な食事を作る携帯コンロやナベ、釜など)も揃えることが出来ます。

 僅かな収入とはいえ、大半の人が仕事を持って稼いでおり、はっきりしたことは分かりませんが、月にして3万から5万程度はあるようです。ですから、生活コストがゼロであれば、何とか食べるだけであればやっていけるわけです。

 しかし、アパートを借りて生活するには、とても無理な金額ですし、年齢的に言っても、今後、収入が飛躍的に伸びる気配は全く無いので、ホームレス生活から抜け出る可能性も限りなくゼロに近いと思います。

 しかし、元々が、建築現場の労働者が多いので、野宿に耐え得るような体力があり、また、それほどの抵抗感もなく、そのような生活をこなしているように見えてしまいます。

 一方、新宿や池袋という都会型では、公園などにテントを張って生活しているホームレスもそれなりにいるようですが、圧倒的に多いにはダンボールハウスや駅の構内などにそのまま寝てしまうスタイルです。

 このスタイルのホームレスは毎日寝る場所が決まっておらず、荷物も毎日持ち歩いており、テント生活のホームレスの生活とは、正に天国と地獄ほどの違いがあり、厳しい生活が強いられます。
 
 特に、冬場は命に係るほど過酷な環境と言えます。ですから、一口にホームレスと言っても、生活環境は随分違います。

 この本の作者は、山谷周辺のホームレスを念頭において、記述しているので、ドヤ住民とホームレスの間に重要な階級差がないということになります。ただし、その場合のホームレスとはテントや小屋などに定住している人たちを指しています。

 しかしながら、一般の人には、やはり何となく分かりにくいような気がします。

 テント生活のホームレスの人で、保護を受けても施設に入ることを嫌う人が多いのは事実ですが、その理由は、主に、集団生活のわずらしさにあるようです。

 一つの部屋に何人もの人が詰め込まれる生活にはかなり辛いものがあるようです。それに較べれば、テント生活は様々な困難や不自由さはあっても、少なくとも、プライベートの生活を維持出来るという側面は何事にも変え難いようです。

 一般市民から見れば、「保護を受ける身で、施設が嫌だとか、集団生活に耐えられないとか贅沢を言うのはおかしい」と思うかもしれません。しかし、人間は、「パンのみにて生きるにあらず」という諺がある通り、食事さえ与えられれば、檻の中だろうと、籠の中だろうと、そのまま生きていけるものではありません。

 私は、福祉の利用する大人数を収容する施設を見ていると、表現は悪いですが、何かそれが養鶏場のイメージにダブって見えたことがあります。

 小屋の前のエサ箱に頭を突っ込むようにして、何百という鶏がいっせいにエサを食べている様は、正に、食事だけは出すけどあとの自由はほとんどない施設の実態が浮かんできます。

 それでは、動物と同じになってしまいます。動物と違って人間には心があり、複雑とも言うべき精神的な存在でもあります。

 たしかに、長い飢えの後では、食べるものは何であってもおいしいと思います。戸外の寒さで打ち震えていれば、いくら粗末な作りでも屋内は天国に感じます。

 しかし、それはその人が極めて異常な状態に陥っていた直後だから、そのように感じたのであって、やがて肉体面が正常な状態に近づくに連れて、精神が人間らしさを求めてきます。これこそが、人間が人間たる所以であり、自然なことです。

 心許せる相手と会話をする。好きなテレビ番組を好きな時に見られる。時には好きなお酒をチビチビやる。何か自分の娯楽があり、生きることに多少の張り合いやメリハリを見出すことが出きる。などと言うことがあってこそ人は心に落ち着きを持つことが出来ます。

 私は福祉事務所が利用する第二種社会福祉事業の宿泊施設によく行きます。自分が関わった人に面会するためですが、その施設の中の雰囲気の暗さにはいつも暗澹たる思いです。

 昼間でも、二段ベッドには多くの人がゴロゴロしており、その人たちの顔には生気がなく、その表情のない虚ろな眼には正直ビクッとすることがあります。「魂を抜かれた」とでもいう表現も決してオーバーではありません。人間と言うものは、先の展望もないままに、ただ、絶望のうちに生きるということがいかにむごいことかが身に沁みる光景です。

 もっとも私のよく知っている施設の中で、他と全く雰囲気の違う施設が一つだけあります。それも最初からということではなく、今の寮長へ変わってから、全く違う雰囲気になりました。それ以前はやはりこの施設の中の雰囲気は暗く重いものでした。しかし、今は違います。

 この施設で保護を受けている人たちはとても明るく、顔を合わすと必ず挨拶してくれます。それに、お互いに和気藹々という感じです。

 もっともこの施設は収容人数が20人以下の小規模なもので、寮長が1人1人の特質を把握して上手に指導されています。話によると月に一回必ず全員で会議を開き、施設での生活の規則を自分たちで決めるそうです。そして、お互いがそれぞれの役割を担うようにして、生活リズムを作るそうです。

 よく、施設は寮長次第といいますが、正に、このことを言うのだと思います。そもそもこのような施設に入る事事態が、難しい問題を抱えた人たちとも言えます。このような人たちを寮長が使命感を持って、指導しようとするか、或は、只、単に規則で縛り上げて管理だけをしてゆくかで、その施設の雰囲気がまるで違います。

 この雰囲気のいい施設は福祉事務所でも人気がありますが、人気ゆえに、いつも待ちがあり、入りたくてもすぐには入れないという難点があります。
              続く

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(105)「山谷崖っぷち日記」を検証する(\) 2006・12・1
 山谷における重要な階級差の境界は、住居の有無ではないと思う。では、それは何かといえば、私は食べ物を漁るか否かだと思う。住まいがないのと、食べ物を漁るのとでは、明らかに惨めさの程度が違うのである。

 徳永さんは(私と同様)労働意欲において欠けるところのある人であり、路上生活をすることにはさほど抵抗感をもたない人だが、食べ物を漁るか否かというところまで追い込まれれば、この転落には徳永さんもおそらく激しく抗うだろう。
山谷において真のホームレスというべき人々とは、食べ物を漁る人々なのだと言っていいのではないか。

 ここで言う住居の有無とは、()はお金を出して泊まっているドヤ(簡易旅館)に居ることであり、()とは公園や川べりにあるテントなどでのことを指しています。

 要するに、ドヤだろうとテントだろうとそんなに心理的に大きな違いはないのであって、問題は食べ物を自分のお金で調達できるか、出来ないかである。
 簡単に言えば、テントの人で、食事代さえ稼げれば、ドヤに泊まろうとテントにいようと両者の間にはそれほどの違いはないと述べているものと思われる。

 たしかに、テント生活はトイレや水などが身近にあれば、それなりにやっていけるし、それに多少の収入があって食べ物を調達出来れば暮らして行けると思います。
 あとは、そのような生活をする上での心の問題で、なれてしまって何ともない人もいると思いますし、嫌で嫌で早く抜け出したい人もいると思います。

 もっとも、私が日常的に接する池袋近辺のホームレスは、テントもないしドヤもないので、山谷の真のホームレスよりワンランク下の存在といえます。

 池袋近辺のホームレスの生活形態は大きく分けて3種類になります。
 
 最下層ともいうべきは、駅の構内などにそのまま寝る人たちです。
 
 中ともいうべきは、ビルの軒下にダンボール・ハウスを作って寝ますが、大体、決まった場所をそれぞれが持っています。しかし、朝になるときれいに片付けてその場を立ち去り、夜遅くになってから再びダンボール・ハウスを作り直します。
 
 上ともいうべきは、高速道路高架下にダンボール・ハウスを作り、そのまま置きっぱなしにします。ある意味、テントに近い定住型で、そこを生活基地にして、カン集めや雑誌拾いなどをしている人が多いようです。しかし、高架下はいろいろ問題があり、行政からの追い出しにたえず晒されているようです。ですから、山谷のテントなどの定住と較べると、はるかに不安定の状態です。

 山谷の真のホームレスが、完全な労働市場から排除された老人であるのは、いかな山谷の住人とはいえ、この最後の転落に直面すれば必死の抵抗を示すからであろう。
 労働市場に残り得る人々は、おそらく、この最後の転落の危機に際しては労働市場に残るため全ての力を傾注することを厭わないだろう。
 山谷の真のホームレスが、この最後のあがきが功を奏さなかった老齢者に限られているのはこのためだろう。

 さらに老齢になれば(65歳ぐらいで)福祉の手が伸びてくるらしいのだが、労働市場から排除されてから福祉の手の中に飛び込むまで、端境期とでもいうべき時期があり、この時期の人々が山谷の真のホームレスを形成しているのではないかと思われる。

 日本国憲法が生存権を保障したり、「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文を文字通り解釈すれば、路上で生活するホームレスの困窮度は間違いなく憲法で規定する範囲、否、それ以下に入ると思います。

 しかし、実際にはたくさんのホームレスが福祉から排除されています。行政では、65歳未満は稼働能力があるものとして、健康である限り保護の対象にはなりません。

 現実に仕事があろうがなかろうが、又、仕事に従事するだけの一定の能力があろうがなかろうが、又、住所不定になって普通の就職など現実に出来ようが出来まいが、65歳未満のホームレスには福祉の手は伸びてきません。
働きたくても働く場所がないという現実は無視されます。

 しかしながら、65歳を超えると、健康であっても、働く意思がなくても、本人さえ希望すれば行政は彼らを保護するようになってきました。
 現実問題として、50歳を過ぎて64歳までのホームレスにはまともな仕事は見つかりません。さりとて、福祉は助けてくれないので、この時期を端境期と称しています。

 最近のホームレスにはこのような保護に関する情報が大分届いているようで、「65歳まで、あと1年だ、あと2年だ」と思って必死に歯を食いしばって路上生活に耐えている人をよく見かけます。

 食べ物を漁るという、山谷における真の階級差の境界を越え出た人々の群れは、キリスト教団体が催す、雑炊やすいとんなどの炊き出しの行列において見出される。

 彼らの群れは遠くから眺めると、暗くて黒い人々という印象を作り出していた。季節を問わず一様に服装が黒っぽく、顔を戸外生活のためつねに黒く日焼けしているのだ。
 彼らとてそれぞれに異なる性格の持ち主であるはずなのだが、一見する限りでは冗談や軽口など言い出しそうにない、むっつりと押し黙った暗鬱な表情で統一されているという印象を受ける。

 つまり、どこまでも彼らは黒々としており、そして暗いのであった。仔細にみれば、行列の中には三十代と思われる若い人もおり、屈強な身体つきのの壮年も混じっているのだが、遠くから一見しただけではそのような人々の存在には気付かないのだ。

 この人たちの上を、とても過酷なものが通り過ぎていったことは明らかであり、この人たちはこの苛烈なるものの襲来からついに身をかわすことが出来なかったという印象を受ける。
 彼らの表情と姿態の上にのしかかっているものの重圧は、音が聞こえそうなほど明白に感じられた。明らかに、彼らはこの重圧に押し潰されてしまったように見える。

 作者の言う「食べ物を漁る」という意味は、お金がなくて自分で食料を買えないので、炊き出しなどを利用することのようです。
 通常、お金のないホームレスが食べ物を手に入れている方法はいくつもあります。

炊き出し:  炊き出し情報を集めて移動してゆく人も多いようです。

福祉事務所でカンパンやクラッカーをもらう:  毎日もらえる福祉事務所もあれば、週に一回の所もある。福祉事務所を渡り歩く人もいるようです。

教会:ミサに出席することが食料をもらう条件になるようです。

食べ物を配るボランティアからもらう:決まった曜日にホームレスの居るところへ配りにきてくれる。

コンビニなどでの賞味期限切れの食料品を集める:けっこう豪華な弁当が手に入る事もあるようです。

残飯漁り:レストランなどの裏手においてあるポリバケツの蓋をあけて残飯を拾う。
         住宅街のゴミ袋から食べ物を探して歩く人もいる。(*作者の言う「食べ物を漁る」     ということと、「残飯漁り」は大分違うように思います。)

 さて、炊き出しですが、私は、5年前にたまたま池袋の公園で炊き出しというものに遭遇しました。順番を待つホームレスの長い列にびっくりして、思わず、「何だ、これは」と思ってしまいました。

 それは、ちょうど2月の厳冬期の薄暗くなりかけた夕方で、小雪がチラチラ降っていました。 正に、暗く黒い集団で、その重苦しい雰囲気に私の方が押し潰されそうになりました。

 人間は誰でも免疫の出来てない出来事にぶつかると予想以上に大きな衝撃をうけるものですが、なにしろ、ホームレスが何百人も並んでいる光景を見たのは生まれて始めてで、それまでは、それがこの社会のまぎれもない現実とは思いもよりませんでした。

 まして、私のような寒がりには、食べるときはともかく、寝るのも外にいるということがどうにも想像出来なくて余りにも悲惨に思えました。

 私がその時、「この人たちはアウシュビッツのような刑務所にいるのと同じだ。勿論、刑務所のような塀はないから、物理的にはどこにも行ける自由はあるけれど、お金も家も着る物もなければ、実質的にはこちらの方がきついかもしれない。
 
 正に、塀のない刑務所に収容されているようだ。別に何か犯罪を犯したわけではないのにどうしてこのような境遇に落ちたのだろう。
 
 よく聞く話ですが、職を失い生活が苦しくなってどうにもならなくなって、路上に落ちたけど、このままでは死ぬしかない、いっそう何か犯罪でも犯して刑務所に入れれば死なないですむかもしれない、というのも満更ないことではないな」というような考えが浮かんでしまいました。
 
 それがきっかけで「ホームレス問題」に対する研究をしてみようと思いました。

        続く


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(106)「山谷崖っぷち日記」を検証する(10)   2006・12・15

 下記に抜粋した部分は、集団生活やテントの住人同士での人付き合いがいかに難しいかを、微に入り、細にわたり記述しています。

 徳永さんに聞くところでは、彼の近隣の小家屋の人々の間にはほとんど人付き合いはなく、徳永さんに到っては誰ともあいさつすら交わしたことがないということだった。

 こういった集落で近隣の人と深く交際していてそれが壊れた場合、どちらかが居場所を変えなければならなくなる(そういう事例を何度もみてきているらしい)ので、いくら不自然に感じられても、結局はそのほうがいいのだと徳永さんは考えている。これは私の経験から十分うなずける考え方だ。

 ドヤの同部屋の人との交際についても同じことが言える。あまり交際に積極的でなさそうな人に対してなら、目礼ぐらいはしてもよいのだろうが、あけっぴろげでいかにも交際好きな人からのあいさつは、気付かないふりをしてでも無視した方がいいのでないかと、私も考えている。

 ドヤでのベッドハウスの同部屋の人との親密なつきあいは、多くの場合災厄に終わる。もちろん、例外はあるのだろうが、これはかなり確実な経験則のように私には思われるのだ。

 ベッドハウスにおける、互いに限りなく近接した中でのつきあいでは、ほんの僅かな不協和音も、距離による消滅に到らないため、どこまでも膨らんでいかざる得なくなるのである。

 お互いにわだかまりを抱き合って、その時その相手から離れていったとしても、ふつうの場合なら、しばらくの間その人とは会わなくなるだろうが、その間に忘却の効果が働いてくれて、わだかまりは自然消滅していくことが出来るだろう。

 互いにわだかまりを抱き合った人とは次に出会うまでには、かなりの時間を置くだろうから、会えばある種の懐かしさの要素さえ働き、つきあいはあたかもわだかまりなどなかったかのように再開することも可能だろう。

 しかし、ベッドハウスの同部屋の人ではそうはいかない。忘却と隔絶の効果が働くことが出来ず、はじめに抱いた僅かのわだかまりが減少したり、消滅したりする機会をもつことが出来ないため結局、関係は衝突に向けて膨れ上がっていき、どちらかが部屋を出ざるを得ない破目に陥る。私の周りでも、このような事例をいくつも見てきているのだ。

 上記の人間関係の難しさは何もホームレスの世界に限ったことでなく、どこの世界でも似たような現象があり、また、ほとんどの人が思い当たる事柄のように思います。

 人間に取って、ストレスの大半は、家族間での軋轢、夫婦、嫁と姑、職場などでの、複雑に入り組んだ人との関係にあるようです。

 ホームレスの世界での人付き合いの難しさも、また、格別なものがあるようです。例えば、ホームレス同士のグループに入ると言うか、、簡単に言うと仲間の一員になる場合、どのような種類の人たちの仲間に入るかによって、その人の運命が決まるということです。

 最初から路上脱却のなど全く視野にないような仲間に入れば、その人も自然にそのような生活になれてしまい、社会復帰は遠のいてしまいます。

 一方、路上生活から何とかして抜き出したいという意欲のある仲間に入れば、当然、前向きな情報が入ってきて、その人にもチャンスが転がって来るというものです。

 しかしながら、ホームレスになりたての時は、それこそ右も左も分からず、何となくどこかのグループに入ってしまい、運がよければ、それが自分に取っていい仲間であったり、運が悪ければとんでもない仲間であったりします。

 ですから、路上に出てしばらくはどこの仲間とも、着かず離れずの距離を保ち、それとなく様子を探ることが賢明のように思います。

 路上の世界から普通の世界に、見事、戻った人の話を聞きますと、「絶対に誰とも親しくしちゃだめだ。付き合っちゃうと、いろいろなしがらみができ、路上からの脱出が出来にくくなる」というような事を言いますが、何となくその辺の流れが分かるような気がします。

 ホームレスが保護されて入る寮は集団生活で、一部屋6人とかが多いのですが、中には2人部屋もあります。実は2人部屋の方が問題が起こりやすいのです。

 何故かと言うと、自分のすぐそばに1人しかいないので、気が合えばこれほどいい事はありませんが、そうでなければ、これほど嫌なことはないわけです。このような場合、結局、どちらかが、出て行くようになるそうです。

 よく、「持つべきものは友だ」とか、「語るべき友がいる幸せ」などといいますが、一方、人との付き合いで死ぬほど辛い思いもしますので、人間関係は
そのどちらかに転ぶかで、「諸刃の剣」ともいうべきものになるようで難しいものですね。

 路上やテント生活をしていて、行政から保護されて、施設に入り、その後、居宅保護に切り替わり、アパートでの生活になった元ホームレスは相当数います。

 それで、全部が全部幸せに暮らせるようになったかというとそうではありません。特に高齢の人は孤独になり、また、地域に溶け込むことも出来ず、孤立した状態で酒びたりになったり、中にも孤独死などという悲劇も少なくありません。

 先日も、新聞に1人暮らしのおじいさんの30%は近所付き合いが全くないとの記事が出ていました。このように、集団生活も難しい、アパートでの1人暮らしもいろいろ問題があるという中で、その問題を解消するために努力している支援団体もあります。

 若くて熱い志のある若者たちによって設立された、ホームレスを支援するNPOに、「もやい」という団体もその一つです。

 ここでは、社会復帰にするにあたり、住居を借りる場合、「連帯保証人」の有無が大きな壁になっていることに着目して、「連帯保証人」の便宜を図る支援を始めました。

 せっかく居宅保護の許可がおりても保証人がいないため、居宅保護を諦めたり、自立支援システムを利用して首尾よく仕事が見つかり、いざ、自立しようとしても保証人がいないためアパートを借りることが出来なかったという例も現実に多くあります。

 勿論、ビジネスとしての保証人提供会社もありますし、保証人がなくても貸すアパートもありますが、しかし、それでは金銭的や物件的に極めて不利な条件になります。

 「もやい」はこの事業を始めてからもう5年になりますが、その間、保証人になったのは1000世帯にもなるそうです。

 当初は、私も含めて大方の人たちは、「怖いもの知らずの若者がとんでもないことを始めたものだ。弱者を支えたいという気持ちは分かるか、ホームレスへの保証人になるとは余りにリスクが大きすぎる。すぐに破綻するに違いない」と、思ったものです。

 しかし、彼らは優秀な頭脳で、リスクを巧みにヘッジしながら素晴らしいシステムを考え出し、とうとうやりぬいたようです。

 先日も、ある福祉事務所に行ったときに、「もやい」の話が出ましたが、その時、福祉の職員は「もやい」のことを、「あの無謀な若者たちはよくやるね」というような言い方をしていました。

 「もやい」のキーマンといわれる若者たちは、一流大学出身者ですが、社会や行政から見捨てられた野宿者の世界の悲惨さを目の当たりにして、就職もせずにひたすら彼らのために支援活動を始めました。

 親子ほど年の違うおじさんたちと、時には、共に野宿したりしながら、行政に対する働きかけをして、様々な方法で福祉行政の改善を迫ってきました。

 そのような活動の中で、行政ではどうしても手の届かない保証人問題を自らの手で始めたのが、「もやい」というNPOでした。

 世間ではホリエモンとか村上某などという、一流大学を出た後、お金の為なら、「なんでもあり」という人たちが闊歩しているようですが、一方では、社会の片隅で、同じ若者が、「弱者の為に」わが身を捨てるようにして頑張っています。

 私はこの若者たちに心の底から、敬意を表したいといつも思っています。同じ頭脳を使っても、悪い知恵に使うのと、いい知恵に使うのでは大きな違いです。

 それぞれの方向性は全く逆とはいえ、この2者は極めて極端な例であり、特に、「弱者の為に」活動する若者に対しては、一般的には「世の中にはこういう奇特な人たちもいるんだな、だけど、オレには関係ないな」という話で終わるとは思います。しかし、どうでしょうか、ホリエモンみたいな人には多くの若者があこがれたのではないでしょうか。

 もっともホリエモンは大きな落とし穴に落ち、今や法の裁きの真っ最中のようです。私の考えを言わして頂くなら、ホリエモンの今回の挫折は当然の帰結だとは思いますが、まだ若いうちでのよかったと思います。

 彼はまだやり直しがききますし、これを教訓に彼が自分の生き方を方向転換し、こんどこそ、世の中の共感を呼ぶような人間になれれば正に、彼にとって「災い転じて福となす」ということになります。

 それに、彼の頭脳と馬力をもってすればそれも可能なように思います。
 しかしながら、裁判の進行状況を見る限り、彼の悪い側面ばかりが目に付いてしまうのが残念ではありますが。

 私がいつも気の毒だと思うのは、政治の世界であれ、経済の世界であれ、功をあげ、名をなした人たちが晩年になって、悪事が暴露され、世の中から寂しく退場してゆく姿です。正に、「晩節を汚す」ことこそ、人間として哀れなことはないと思います。

 さて、「もやい」の話が長くなりましたが、前述したように、「もやい」とは、ホームレスだった人が路上から脱却してアパートに入り、地域住民に戻れる為の支援であり、その為の保証人を提供しています。

 しかし、その活動の経験から、アパートに入ることが社会復帰とは必ずしも一致しないという事例を多く見て痛感したことは、「折角、念願かなってアパートに入っても、それは必ずしもゴールとはいえなくて、むしろ孤立する人が多く、真の社会復帰とはアパート生活をいかに維持できるかであり、その為には人と人とのつながりが大事である」ということでした。

 そこで、「もやい」が連帯保証を提供したアパート住居人同士のつながりを深めるために、下記のような互助会や交流サロンを作って、お互いが孤立しないようにしています。

 互助会
 
 アパート入居後の孤立化を防ぐため、互助会「もやい結びの会」を軸として、食事会や行楽など互助会員(入居支援事業利用者など)同士の交流の場をつくります。


 交流サロン
 
 気軽に立ち寄れる「寄り場」としての交流サロン「サロン・ド・カフェこもれび」を互助会員が主体となって運営します。

 「もやい」としては、保証人になることが目的でもなく、又、アパートに入れるようにすることも目的ではありません。あくまで、社会復帰のための自立を応援することが目的ですから、当然、さまざまな方法によって、持続可能な生活を支援しています。「もやい」のサイトを参照して下さい。素晴らしい団体だと思います。皆様も是非、応援して下さい。
   
続くちは、続くアパート入居続くに際して連帯保証人を提供するシステムを構築すると共に、共通の課題

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(107)「山谷崖っぷち日記」を検証する (11) 2007・1・1

 次の記述は路上生活がいかに危険かを描いています。

 新宿に来る直前(だから12年ほど前のことだ)、2ケ月ほど、高田馬場で日払い仕事を拾いながら、新宿駅周辺でホームレスをしていたことがあった。

 西口の京王デパート近くに、通称「大砲」と呼ばれていた大きな通気孔があり(今もあるだろう)、その「大砲」のそばの芝生で寝ていたのだ。襲われたのは短い間に2度、一度はその芝生の上で、もう一度はビルの植え込みの陰で寝ていた時のことだった。

 時日は接近していたが(2週間ぐらいの間隔をおいて襲われたのだ)、襲ったのは同じグループの子供でないように思われた。

 あるいは同じグループが2度襲って来たのかもしれないが、危険を誇張して受け取った私が、別のグループだ(それほどに危険は普遍的だ)というふうに思い込んでしまったかもしれない。

 はじめは「大砲」のそばの芝生の上、初夏の、暑くなり始めた頃のことだった。午後11時頃、5,6人の子供が車道をはさんだ向こうの歩道から石を投げつけてきたのだ。

 顔を上げて石の来る方向を見、子供らのあまりの幼さに気づき、(12,3歳以上には見えなかった)、心配なかろう、すぐにいなくなるだろうと考えて場所を移し、別の通気孔の裏側で再び寝ようとしたのだったが、子供たちは「こじき、こじき」と叫びながら、場所を移動させつつ石を投げつけてくるのをやめなかった。

 そして、股のあたりに痛烈な石が当たったので、立ち上がると彼らが危険な所まで近づいているのに気づいた。とっさにカバンを肩にかけ、寝袋を盾にしながら一目散に逃亡した。その最初の襲撃のことはかなり鮮明に記憶に残っている。子供たちの幼さに驚いたからだ。小学生だったのではないか。

 こんなことがそう煩雑にあろうとは思えないが(しかし12年前の私の場合、2週間に2度だった)、一度でも襲われれば、また襲われるかもしれぬという恐れが安眠を阻む。

 快適な路上での睡眠のためには、子供たちの襲撃の可能性が限りなくゼロに近い環境を選ばなくてはなるまい。孤立した路上生活を営めないのはこのためである。

 高校生にもなって路上のホームレスを襲おうと考える者はいないだろう。彼らにとって自己証明のハードルは、恐らくもっと高いはずだ。路上の無力のホームレスを、大人であるという理由で自らの存在証明のためのハードルだと考えられるのは、まずは中学生までだろう。

 小中学校の長期休暇の期間は緊張すると、12年前の新宿の本格ホームレスの人が語っていたが、今もおそらく事情は変わっていないのではないか。

 ちょうど、このコラムを書いている最中に、テレビで69歳の女性のホームレスが中学生たちに襲われて殺されたというニュースが流れて来ました。

 ホームレスという一番社会的に弱い立場の人を、まだ人間的に未熟な中学生が、面白半分に人を殺すという行為の絶望さ加減に唖然としてしまいます。

 このような事件は、一見、「くそ餓鬼」の仕業に思えますが、実際はそんな単純なものではなく、社会の病理から滲み出てきた一つの現象だと思います。


 所詮、親である大人たちの「ホームレスはゴミみたいなもので、単なる怠け者で虫けら同然」だという偏見とか、弱いものを労わる気持ちの希薄さが、子供に伝染して、未成熟な子供たちが罪の意識のないままに犯行に及んだものです。

 親や教師は子供に対し、「ホームレスも同じ人間です」というような「人権尊重論」を教えても、それがうわべだけの話であれば、子供はその「偽善性」をすぐに見破って、かえって、「ホームレス襲撃」のきっかけになるという話を聞いたことがあります。

 山谷の路上での安眠を阻む危険性は、何年か前までは、子供たち(子供によるホームレス襲撃事件)の他にもうひとつあった。

 数年前までは、契約仕事を終えて山谷に帰ってきた人々を狙う「もがき」と呼ばれる強盗(窃盗)事件が頻発していたのだ。

 10日なり15日の契約期間が終えた人々は、山谷に帰りつくまでに、すでにもうかなりきこしめていることが多いのだが、山谷に着くとさらにタガがゆるんで飲み続け、へべれけになっては作業バックを枕に寝込んでしまう。

 彼らの懐には契約労働の10日分(15日分)の収入が入っているのである。さらに以前には、路上で寝込んでいる人たちも、今のように完全に無一物ということはなかった。こういう人々を狙って、2,3人連れの「もがき」たちが出没していたのだ。

 彼らは泥酔して完全に寝込んでいる者の懐からこっそりと金品を抜き取り、物音で起き出す者に対しては、2,3人で袋叩きにした上で金品を強奪していた。

 普通一般の人からみると、路上で寝ているホームレスから金品を盗むということは、ピンとこないかも知れません。ところが、このような事件は路上の世界ではしょっちゅう起きています。

 私には真相はよく分かりませんが、このように路上の人に窃盗を行う専門の人たちがいるようです。酔ぱらって寝ている人が帰る家のある普通の人であれば、「いい鴨」かもしれませんし、上記の、「仕事帰りの労働者」であれば、それなりのお金があると思います。それに、路上で酔って寝てしまえば、窃盗にあっても、「あなたも悪いよ」という話になると思います。

 しかしながら、寝るところがなくて、やむなく路上や駅の構内で寝ているホームレスが、寝ている間に荷物をそっくり盗まれるというのは、何とも悲惨なことであり、また、現実に信じられないぐらいちょいちょいあります。誰が盗るのかは分かりませんが、盗る人も路上生活をしているホームレスのようです。

 特に、ホームレスになりかけた人や、なりたての人が狙われるようです。所詮、お金は大して持ってないようですが、免許証や知人の連絡先を書いた手帳、金融機関の書類など、そっくり持って行かれ、自分を証明するものがなくなり、そのまま、正真正銘のホームレスに転落する人が後を絶ちません。

 ただでさえ、ホームレス状態になって、パニックなっている時に、自分の最後の持ち物である財布や貴重品を盗られたとしたら、それこそ、絶望のドン底にに陥ることは想像に難くありません。

 このように、弱いものが更に弱いものを食い物にするという絶望的な世界でもあります。路上に放り出された人が、生きるため、というより、死なないために、思わず、人のものに手を出すということは、誰にでもあることかも知れません。

 しかし、そのような行為に味をしめ、常態化したとしたら、正に、サバンナのハイエナのようなもので、絶対に許すことは出来ません。

 支援団体が、「夜回り」と称して、ホームレス一人一人の安否を気遣いながら路上や駅構内を廻りながら、「体の具合はどうですか?福祉の制度は分かりますか?」と丁寧に聞きますが、その中に、そ知らぬ顔をした、「ハイエナ」のようなホームレスが含まれているとしたら、何とも悲しい気持ちになるはずです。

 私なんかも、ホームレスになりたてと思える人が、荷物を持っていると、まず、注意することは、「荷物に気をつけて、あっという間に盗られてしまうよ。寝るときは特に体に縛り付けるぐらいにしないと危ないよ」ということです。

 しかし、いくら注意しても、ピンと来ないようです。というよりも、ホームレス状態の人は、いつも睡眠不足ですから、寝る所があれば、恐らく、荷物のことなど忘れて寝入ってしまうようです。そして、そういう姿をどこかでハイエナのような人がじっと見ているわけです。何とも恐ろしい話です。

 ところで、上記の中に、「もがき」という言葉が出てきていますが、「もがき」をするのは常習犯で犯罪組織にも繋がっているようです。

 私の聞いた話では、「もがき」をするにも、それぞれのテリトリー(シマ)が決まっており、そのシマを仕切る「その筋」に上納金を払うようです。

 大都会ではこのような事が深い闇の中で日常的に起きているのでしょうが、都会に朝が来て、日が昇れば、闇はすっかり消えて、何事もなかったように、都会の一日が始まるわけです。

 都会の華やかさが輝けば輝くほど、闇の深さは底なしに深くなるようです。
  続く

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(108)「山谷崖っぷち日記」を検証する(12)     2007.1.15


 下記はボランテイアに関する作者の印象を記述している部分です。『』内です。


『山谷はある意味では東京周辺のキリスト教ボランティアらにとってのメッカとでもいうべき地域なのであり、新旧(カトリック、プロテスタント)入り乱れていくつもの団体が入り込み、様々な救援活動をしていた。

 普通の民家風の家屋に「○○教会」という看板が掲げられている前に、夕刻、多くの山谷住人(あの「黒く暗い人々」だ)が行列を作っていることがある。

 その先頭まで行けば、数人のキリスト教信者らしい若い男女が大きな釜を前に、発泡スチロールの食器が積み重ねられた段ボール箱の傍らにたたずんでいるのに気付く。

 このような行列は山谷地区内のみでなく、隅田川公園や、私の散歩コースである高速道路下の空き地で行われていることもあった。そこであたたかい食べ物にありつくまでに、賛美歌を歌わされたり、礼拝の文句を唱和させられたりするのである。

 私も何度かこのような列に並んだことがあるが、
賛美歌や礼拝をやらせるところへは二度と行こうと思わなくなった。

 何度もテレビで取り上げられたことがあるという、有名なキリスト教名物おばさんがいたが、この人は炊き出しの食べ物目当てに行列に並ぶ人々に向かって、布教と言うよりも露骨に説教を垂れ、態度がなっていない人たち(酔っぱらっていたり、悪態をついたりする人たち)の横っ面を恐れ気もなく張り飛ばし、追い返したりもするらしいのである。

 現場に行き、直接目撃しない限り、この有名なキリスト名物おばさん(おばあさん)のふるまいを評価することはできないが(実はこの光景が決して陰湿なものではなく、ほのぼのとして麗しい人生模様のひとこまだったということがないとも限らない)、

 しかし、この話の輪郭だけからは、私はかなり嫌なものを感じる。自分たちがいいこと(キリスト教の「愛」の実践だろう)をしていることについてのこの人たちの羞恥心のなさが感じ取られ、私はやはり反発を感じずにはいられないのである。

 自分たちがいいこと(救済活動)をするための対象として、山谷住人が彼らキリスト教ボランティアたちに依存しているよりはるかに深い意味で彼らは山谷住民に依存しているのだが、この有名なキリスト教おばさんたちには、このことについての自覚がなさすぎるように思われるのだ。

 山谷住人にとっては、行政がもっと大掛かりに救援活動に乗り出してくれれば、もうこういう人たちを必要としなくなるわけだが、キリスト教ボランティアの方では、山谷住人と言う困窮者の存在を、自らの信仰上の救済証明のために欠かすことのできぬ人々として、いつまでも必要としていくはずなのだ。

 その活動のたたずまいに、いいことをしていることについての羞恥心が感じられないのは、私には致命的だと思われる。いかにもよそ者たちという印象を、キリスト教ボランティアたちに対して抱かざる得ないのは、恐らくはこの彼ら自身の無自覚さのためではないか。』




 ホームレスにとって「食にありつく」というのは、生きてゆく基本であり、その意味では、炊き出しはとても貴重です。炊き出しを行う団体などを分類してみると、圧倒的に宗教団体、特にキリスト教関係が多いようです。そのキリスト関係もカトリックとプロテスタントというように分かれます。

 炊き出しに関して、様々な意見があるようですが、私のような支援者の立場でいうと、どこがやろうがやってもらうほうがありがたいと思います。

 例えば、支援活動中、三日もご飯を食べていないというようなホームレスに出会えば、「今日は何時からあそこで炊き出しがありますよ、明日はどこそこでおにぎりを配る方がいますよ、あそこの教会に行けば着るものがもらえますよ」というような情報を伝えることが出来ます。

 都内に限って言えば、キリスト教会関係のホームレスへの食の提供への貢献度はかなりのものだと思います。これらの支援がなければ餓死などという悲劇が相当起きたのに違いありません。

 しかしながら、食の提供の仕方はそれぞれの教会によって随分違います。私がお手伝いしているマザー・テレサの炊き出しはおにぎりやパンなどを配るだけですが、韓国系の教会の炊き出しは食を出す前に必ずミサを行いお説教や賛美歌を歌います。

 見方によっては食事と言うエサをぶら下げて布教しているみたいでホームレスには気の毒に思います。この本の筆者のように、「そのような炊き出しには二度と行きたくない」と思う気持ちもよく分かりますが、それは他にも食を得る方法のある人が言えることではないかと思います。

 何日も食べてない人には、食べ物がもらえるなら「何でもいい、誰でもいい、どんな方法でもいい」というのが現実のようです。

 ある韓国系の教会が余りに熱心にホームレス支援をしていたので、私は何か裏でもあるのかと不信に思い、その教会を訪問したことがありました。
 私の知っている人たちの多くが週に2回もこの教会に通って、食事を受けたり、衣類の提供、シャワーなどをしています。

 訪問してみて余りに大きな教会なのでびっくりしました。何百人も入れる聖堂があり、地下の調理室には、私が以前よく見かけた人が白い調理衣を着てきびきびと働いていました。

 私は最初から牧師に面会を求め、「こちらの教会でホームレス支援を行っているのを知りお話をお聞きしたいのですが」と挨拶をすると、あいにく牧師は出張中でしたが、奥さんである牧師にはおめにかかることが出来ました。

 私が池袋で支援活動をしている話をすると、その牧師は気の毒なホームレスを助けるためにどんなことでもしたいと、目を輝かせながら私にいろいろとアドバイスを求めて来ました。

 そして、ご自身の苦労談も聞かせてくれました。それによると、ホームレスの支援を始めた当初はその教会の従来の信者たちが、「そんなことをしたら普通の信者がいなくなってこの教会は潰れてしまう」といって猛反対したそうです。

 それに対し、牧師は挫折しそうになりながらも、「このような人たちを助けるのは私たち神に仕える者の使命です。私が全責任を持ちます」と言って、反対する信者を必死に説得したそうです。

 この教会の聖堂はミサなどの時に座る信者の座席は一階、二階、三階に分かれており、どの階からも正面の祭壇がみえるようになっています。私はクリスチャンでないので、このような形が一般的なのか特殊なのかは全然分かりませんが、要するに、劇場のような感じでした。

 ミサを行うときには、一般の信者とホームレスとは別の階に坐るようにしているとのことです。ホームレスの参加する数は200人を超すそうです。ホームレスのほとんどはミサの後の食事が目的で、ミサ中は寝てる人が多いようです。

 その牧師は、「それでも、その中に1人でも2人でも目覚めてくれる人がいればいいのです」と仰っていました。

 私は、その牧師の並々ならぬ情熱に圧倒されてしまい、又その牧師の一途な思いに私が少しでも疑いを持ったことが恥ずかしく思われました。

 帰りがけに、スタッフの方から、「牧師の書かれた本です。よろしかったらお持ち下さい」と、一冊の本を進呈されました。

 その本にはその牧師とご主人の牧師が日本に布教しに来ることになった経緯や、想像を絶する困難をその都度神のお告げによって乗り切った、というような内容でした。

 信者にとっては涙が出るようなありがたい話であるとは思います。
 ただ、その中の記述に、「日本人は石や木で作った仏像を拝んでいる。何と霊性の低い民族だろう。私は日本人の霊性を高めるためにキリスト教を日本に広めなくてはならない」というくだりがありました。

 日本人としては、「ほっといてくれよ」という心理になりますが、その動機が思い違いであれ、何であれ、日本のホームレスが空腹を満たすことが出来れば、それはそれで大いにありがたいと思うのが、ホームレスと日常的に接している支援者の偽らざる心境でもあります。

 正論を述べたり、人権を声高に唱えたりはするけれど、何もしてくれない人より、今日明日の飯に飢えている人には、その動機がどうであれ、今を支えてくれる人こそがありがたい存在に違いありません。

   続く

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(109)「山谷崖っぷち日記」を検証する(13)    2007・2・1

 山谷におけるホームレス支援団体に関する記述です。『』内です。

 『組合活動家も、本来はキリスト教ボランティアたちと同様、政治的動機から山谷に入り込んできたよそ者たちであったが、明らかに彼らのほうが、はるかに深く、そして無理なく山谷に土着化しているように見える。
 よそ者として山谷に入り込んできた活動家自身が、自らも労務者として建設作業員として働くようになっているし、山谷の住人である労務者たちの中にも組合活動に参加する人々が出てきているからである。



 山谷は元来は労働者の街であり、高度成長時代は建築現場や道路工事などへの労働者の巨大な供給源でした。

 しかしながら、長い不況から低成長の時代に入り、産業構造も大きく変わり、労働者自身も高齢化した中で、山谷はホームレスを多く生みだす街に変容してしまいました。

 山谷地区の労働者は日雇いが主体であり、好景気の時は、ほとんどが単身で山谷のドヤに住んでいました。しかし、景気の後退に従い、仕事が減るとドヤ代が払えなくなり、やむをえず野宿したようです。

 当初は、仕事が入り賃金が貰えた時は、ドヤに泊まり、仕事がなくなると野宿するという形でしたが、徐々に本格的な路上生活者になっていったようです。

 このように、山谷地区のホームレスの前身は、そのほとんどが肉体労働者であるということが新宿や池袋のホームレスとは大きく違います。

 新宿や池袋のホームレスには、勿論、建築現場の日雇いから落ちてきた人も随分いますが、それ以外に借金問題を抱えた人や普通のサラリーマンや工員だった人が失業などで路上生活者になった人も結構な割合でいるようです。

 山谷では、路上生活をしていても、仕事が入ると現場に行くので、ホームレスでありながら労働者であり、仕事が増えさえすればたちまちドヤの住人の戻れる人も多く、ホームレスというより失業者という色合いが強く、「野宿労働者」とも言われたようです。

 このような「日雇い労働者」や「野宿労働者」を支援するために山谷に入ってきた支援団体は、当然、労働組合に何らかの繋がりのある人たちではないかと思います。その人たちは、労働組合の活動のノウハウもあるでしょうし、行政への働きかけも相当強力なものであったと思います。ですから、支援者と言うより活動家と言われていたようです。

 キリスト関係の支援団体は政治には無関心であり、いわゆる「慈愛の精神」を実践していたのでしょうが、山谷の活動家の主目的は、「野宿労働者」「日雇い労働者」の権利を守ることであり、野宿者を生みだす社会そのものを変える運動であったように思います。
 いわゆる「左翼思想」の傾向の強いものだったと思います。

 実は、私自身は労働組合運動とか左翼思想には全く縁のない人生を送ってきた人間なので、その世界のことは全くわかりません。
 しかしながら、このような野宿者運動のリーダー格の人に接して感じることは、主義主張は別として、いずれも正義感の強い誠実な人柄であるということです。

 最下層に位置する労働者を騙して使ったり、賃金不払いの悪質経営者とか、ホームレスを食いも物にするヤクザとかに対し、体を張って弱い立場の人たちを守ろうとする人たちでもあります。
 現に、山谷での支援団体の人が2人もヤクザの組織から惨殺を受けています。

 私の勝手な解釈ですが、山谷の過激な支援団体は、元々は日雇い労働者の集まる山谷で、労働者と資本家という対立軸の中で政治活動をしていたと思います。

 ところが、時代の推移と共に、山谷の労働者はドヤの住人から野宿者になり、支援対象の主体も労働者から野宿者に移行していったのではないかと思います。

 そして、その移行の段階で、支援の質も変わり、当然、支援者の質も変わったに違いありません。何故ならば、ホームレスというのは、その大半が路上生活をしながらアルミ缶を集めたり廃品回収などをして、月に何がしかの稼ぎがありますが、そのような類の労働は労働組合などが対象としている労働者ではありません。

 要するに、ホームレスというのは正規の労働市場から外された人たちであり、二度と再びそこに戻れない人たちが大半を占めています。

 支援者の質が変わったということはどういうことかと言いますと、労働運動は対象が労働者であり、労働者の待遇改善とか社会的地位の向上を目指すものですが、ホームレスは労働市場からの退場を余儀なくされた平均年齢57歳前後の路上生活者です。
 要するに労働運動というより、福祉の領域に深く入って行きます。当然、支援の方法が変わります。

 支援する対象は、全くの負の存在であり、一般社会から忌避され、断絶された世界であり、凍死、飢え死に、病死などが日常的に起き得るホームレスの世界です。

 この世界にあえて身を投じていけるような人は、単なる労働運動家には無理のような気がします。そこに人間的な優しさのようなものがないと続きません。

 上手に説明できませんが、立派な論文を書ける人が、即、立派な人格とは限りませんが、立派なホームレス支援活動家は、同時に、立派な人格を有しているということです。
 人格というとちょっと語弊があるので、「人間的な優しさというか、弱者を見捨てることが出来ない性分」と定義づけると分かりやすいかと思います。

 私は、ホームレスの支援団体の集まりにごくたまに顔を出すことがありますが、それぞれの支援団体のリーダーたちをみていると、それぞれの出自は労働運動の活動家であったり、元学生運動家とか左翼思想の過激家であったりしても、一人一人は、とても気のいい人、というか、誠実というか、飛び切り優しいというか、そういう人ばかりです。

 もっとも、私の個人的な感想では、日本のホームレス支援運動には政治的な主義・思想はあまり関係ないように思います。というのは、日本の憲法や法律には、「生存権の保障」や「最低限の生活をする権利」がはっきり謳われていますので、行政がそれをそのまま実行すれば、大方の問題は解決するのであって、何も国の体制を根本的に変えるほどのことはないように思います。

 ところで、ホームレス支援活動家というものの評価は、世間の人たちはいくら口では、「立派だね、大変だね」、と言っても、内心では、「お前馬鹿だね、そんなことしててどうするの、自分の生活や将来を少しは考えろ」と思っているような気がします。

 ホームレス支援の活動家の主たる仕事は支援団体を通して「ホームレス問題」の改善を促進することだと思いますが、支援団体自体がほんの僅かな奇特な人たちのカンパでかろうじて運営されているだけで、活動家自身の生活は経済的には全く保障されていません。

 従って、自分自身が活動の合間に日雇い仕事をしたり、塾の講師をしたりして、自身の生活費を稼いでいるのが実情です。労働組合に所属する活動家であれば、それなりに生活は成り立つのでしょうが、ホームレス支援活動家はほとんどの場合が経済的にはボランタリであり、それだけに、相当の志のある人でなければ続けることは出来ないと思われます。

 もっとも、中には支援団体をNPO法人にして、行政から事業を受託したりして、理事や職員としての収入を得るようになっている人もいるようですが、しかし、それとて、どれほど安定したものかは疑問です。

 私がこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、自分の子供のような年の30歳代、40歳代の熱心な活動家をみると、「世間から完全に見捨てられた哀れな人たちを救おうとして必死に闘っているこの若い人たちは実に素晴らしい。でもこの人たち自身は自分の生活基盤のないままに年を重ねたらどうなっちゃうのかな。どうも心配だな」と思ってしまいます。

 もっとも、彼らにとっては私の心配は余計なお世話に違いありません。「人のことを考えれば、自分の事を犠牲にするのは当たり前だ」と、一喝されてしまいそうです。

 でも、私にはどうしても気になることがあります。それについては、次回、述べて見たいと思います。    続く


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(110)「山谷崖っぷち日記」を検証する(14)    2007・2・15

 今回のコラムではホームレス支援団体のキーマンたる人たちについての私の感想を述べてみたいと思います。

 ホームレスの支援団体を一口に言うことは難しいと思います。というのは、支援団体にはいくつもの種類があり、目的は「ホームレス支援」には違いありませんが、その手法や支援の動機はそれぞれ違います。

 「ホームレス問題」を社会や国の体制に起因しているとみて、政治的な運動をする団体、或は、人権問題として行政と対峙する団体、或は、福祉的な立場から現状の福祉行政の制度を利用して支援する団体、或は、行政が十分に機能しない分野を補完する支援団体、或は、宗教団体などにみられる「食の提供」を主体とする支援団体などがあると思います。

 これはあくまで大雑把な分け方で、当然、一つの団体がいろいろな事をしているケースも多くあります。

 宗教団体は別として、それ以外の団体はほとんどがボランティアによるもので、その運営は困難を極めております。ホームレス支援というと、どうしても特殊な世界のような印象を与えてしまい、一般の人からは敬遠されているのが現状です。

 最近になって、ほんの一握りの支援団体がNPO法人となって、行政からホームレス関連の事業を受託するなどして、運営を軌道にのせている団体も出てきているようです。

 しかしながら、大半の支援団体は「綱渡り」のような状況下で活動が行われています。どこがどのように「綱渡り」かというと、運営がうまくいっているようなNPO法人も含めて、それぞれの支援団体のリーダーに運営存続のすべてがかかっているということです。

 そのリーダーの「志」とか、「ヤル気」とか、「力量」とかを求心力にして、その周りに一般のボランティアがいるという構図です。逆に言えば、リーダーが何かの事情で抜けたり、或は、求心力が落ちたりすればたちまちにして、その団体は崩壊の危機に陥ってしまいます。

 ホームレスの支援団体にはもう一つの特徴があります。日本にホームレス支援団体が生まれたのは古いもので20年ほど前、大半は15年前後に遡ると思います。

 そして、どの支援団体も設立者の出自はいろいろあるにしても、正義感の旺盛な一途な若者たちの情熱によって始められました。

 私が気になるのは、多少の例外はあるにしても、10年、20年前に始めた支援活動のリーダーが、今も変わらず、そのままリーダーであることです。

 読者の方は、「それのどこが問題なの?」と思うでしょうが、私には、少々、問題のように思います。一番の問題は今のリーダーの後継者がいないということです。

 私の勝手な推測の範囲という前提で話を進めて行きますが、当初、支援者たちがホームレス問題に関わったきっかけの多くは、多分、路上で野宿する人たち、そして時には餓死したり、時には凍死したりする人たち、その悲惨な現実に直面して衝撃を受け、「何とかしなくては」と思って知らず知らずのうちにこの道に入ったように思います。

 そして、支援者たちは、自分の人生を後回しにして、無我夢中で、救済活動を始めたものと思います。

 炊き出しをしたり、行政に対し、ホームレスに対する人権向上や、福祉の処遇改善などを求めて、行政闘争をしました。また、立法府に働きかけて、「ホームレス自立支援法」などの成立を勝ち取り、自立支援制度の拡充にも大きな力を発揮しました。

 実際問題として、ホームレスに対する行政の取り組みは、4,5年前に較べると格段の進歩をしています。

 ちょっと前まではホームレスのような住所がない人は福祉の対象にならず、それこそ、道端に捨て置かれていましたが、最近では他の条件を満たせば住所不定でも生活保護を受けられるようになっています。

 このようにホームレスに対する福祉行政が格段に向上したのは、支援団体の働きかけがあったことは否めません。もし、行政に対し、誰も文句を言うことがなければ、極論かもしれませんが、野垂れ死ぬホームレスが今でも後を絶たなかったに違いありません。

 しかながら、日本における「ホームレス問題」がこれで解決したわけではありません。たしかに、行政の施策により、助かった人もいますが、いまだにホームレスは全国的には
2万人とか3万人とかの人が路上生活を強いられているのが現状です。

 行政も「ホームレス問題」の改善にまだまだ試行錯誤を重ねているようですし、事実、決定的に効果のある施策は実現していません。

 さて、今回のコラムのテーマは支援団体のリーダーは10年も20年もずっと同じ人が最初から変わらずやっていることの背景を、私の勝手な憶測でお話しすることにあります。

 10年、20年前には労働組合運動も今よりは盛んで、社会を変えようと意気込む若者が結構いたのではないかと思います。

 そのような風潮の中から最貧困層であるホームレス問題に関わる若者が出てきて、支援活動を始め、やがて支援団体を結成し、活動の幅を広げて行き、今日の組織を築き上げたのです。

 しかしながら、その組織は前述したように「綱渡り」の組織ですから、リーダーが少しでも気を抜けばたちまち崩壊してしまいます。

 組織が崩壊するとは、どういうことかと言うと、路上で苦しむ人たちを放り出すことに繋がります。簡単に言うと、「二階にあげて梯子をはずす」という表現が適当のように思います。

 今まで、炊き出しなどして食の提供を行い、路上から脱却の為の情報を提供し、困窮者を福祉につなぎ、又、行政に働きかけて社会復帰のためのシステムを構築し、偏見や差別の除去のための啓蒙活動を行い、そして、ホームレスの人たちをもう少しの辛抱、もう少しの我慢と言って蒸気機関車のように引っ張って来ました・

 しかし、「ホームレス問題」が改善されたとはいえ、まだまだ難問題は山積みです。ここで支援団体がこけたら元の木阿弥です。野宿者の世界は、ある意味で沈黙の世界でもあります。社会からどんなに酷い扱いを受けても、弱りきった人たちには抗議の為の声をあげることも出来ません。

 行政も支援団体との緊張関係がなくなれば、行政は世間の偏見や差別をこれ幸いと、ホームレスへの処遇改善は振り出しに戻るかもしれません。ですから、支援団体はまだまだ消滅することは許されません。

 もっとも、「ホームレス問題」は従来型の、即ち、肉体労働者の高齢化によるものから、新しいというか、質の違う「ワーキングプア」型の延長とも言うべき、従来型とは比較にならない、より深刻な、より大規模な「ホームレス問題」が浮上してくるようには思いますが。

 その話はさておき、何故、同じ人がずっとリーダーかというと、その人に代わるリーダーが出てこないからだと思います。

 今の若者の風潮には、ボランティアとしてならホームレス支援をする人は結構いるかと思いますが、自分の生活を犠牲にしてまで活動に全責任を負うだけの若者というのは今の時代では、もういないのかも知れません。もっとも、そんなことをしていたら自分までがホームレスになってしまうという心配があります。
    
続く


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(111)「山谷崖っぷち日記」を検証する(15)  2007.3・1

 リーダーともなればその責任は重く、単なるボランティアの支援者であれば自分の都合に合わせてで支援活動をすればいいのですが、リーダーとなるとまず支援活動があり、その合間に自分の食い扶持をかせぐことになります。

 しかも、ある意味で特殊な世界ともいえる路上生活者支援活動のリーダーともなれば、時には体を張るしかないようなことも起きると思います。

 「ワーキングプア」と言われる時代は、一生懸命働いてもちゃんとした生活が出来ないのですから、支援活動の合間にしか働けなくてはどうにもなりません。

 このような環境では、とても後継者が出るわけがありません。

 普通の商売であれば、例えば、時代に合わなくなって成り立たなくなったので廃業しようとすれば、それはそれで本人だけの問題で済みますが、ホームレス支援団体ともなれば、自分たちの都合だけでやめるわけには行きません。

 まして、リーダーたちは、元々が「人が困っているのを見捨てることが出来ない」人たちです。路上にはまだ多くのホームレスがわんさといますし、ホームレス予備軍はもっといます。

 いままで長きに渡って培った支援のノウハウを駆使して、「ホームレス問題」の解決に立ち向かわなくてはなりません。

 ですから、後継者がいなければ自分自身がずっと続けるしかありません。仮に、何かの事情で他の事をしなくてはいけないとか、或は、別の生き方をしてみたいと思っても、後継者が見つからない限りやめるわけにはいかないのではないかと思います。

 いつまでかというと、ホームレス問題が解決するまでです。
5年先、10年先、20年、いや、いや、いつの時代にもホームレス問題はあるのかもしれません。

 私の余計な心配は子供を思う親の気持ちのようなものです。親であれば、自分の子供に「世の中の役に立つ人間になって欲しい」と思っているに違いありません。

 しかし、同時に、「人並みに、家庭をもって欲しいし、又、ある程度、経済的にもそれなりの生活をして欲しいし、出来れば、ある程度の社会的地位も築いて欲しい」というような親としてのささやかな願いがあると思います。

 私が何を問題としているか、否、問題というと語弊があるので、言葉を変えると、私が何を感じているかというと、「ホームレス問題」には解決不能な難しさがあるように、支援者の世界にも同じような難しさがあるということです。

 私のように、自分の人生の大半を終えて(いいことも悪いことも含めて、やりたいことはほとんどやって)、定年後に、その徒然なるままに、しかもボランティアとして、そして、年金生活の中で、支援活動を行うのであれば、誰も文句を言う人もいなければ、ましてや、「そんなことをしててどうするの」と言って心配してくれる人もいません。
 
 そして、私に対して、ホームレスといつも一緒にいるホームレス風の怪しげなおじさんという評判はかなり定着しているようですが、私としては、年のせいか、誰にどう言われようが、一向に気にならなくなってしまっています。

 さて、私としては、支援団体のリーダー達が若いだけでなく、余りに素晴らしい人たちだけに、ついつい余計な心配をしてしまいます。まあ、しかし、年寄りの大きなお世話と言うことでしょう。

 ところで、このコラムではもうひとつ「裏テーマ」があります。私の愚痴ということで聞いていただければ結構ですが、私としては深刻に悩んでいます。

 このコラムでは、若いリーダーに対し、自分の人生をホームレス支援一筋にかけるのは素晴らしいことだし、大いなる敬意の対象になります。

 でも、私の立場からみれば、息子、娘のようなリーダーたちがある一定の期間を過ぎれば、後は後輩に任して、自分たちは新たなる道に挑戦して欲しいなと思います。何より、色々な分野での、より多くの体験を通して人間としての幅を広げて欲しいと思います。しかし、後継者がいなくては、続けるしか選択肢がないのが実情です、という話でした。

 実は、私の悩みは私にも後継者がいないということです。私は今年でもう65歳です。
 勿論、健康である限り、支援活動をやめる積りはありませんが、私自身、持病を抱えて病院通いしている身なので、いつか急に活動が出来なくなることも有り得るわけです。それに、年齢による体力、気力の低下もいずれ起きるに違いありません。

 「別に貴方のような年よりはそのまますーと消えて行けばいいんじゃないの」と思われるかもしれませんが、そんな簡単なものではありません。責任者ともなると、やめたくても辞められないのは若い人だけでなく、私のような年寄りにもあてはまってしまうというのが、このホームレスの支援者の世界でもあります。

 私が現在関わっている仕事は池袋の支援団体「てのはし」への「ボランティア福祉相談員」としての参加と、「マザー・テレサ」の炊き出しでの管理責任者としての役割です。

 私が今、一番危惧しているのは毎週金曜日に行っている「マザー・テレサ」の炊き出しの管理です(このサイトの「今月のコラム」の「マザー・テレサの炊き出し顛末記NO.66〜73」を参照して下さい)。

 この炊き出しは、既に
3年間、池袋の公園で行われていますが、私が事の成り行き上、管理責任者として3年間、頑張ってきました。

 その間、多くのボランティアが入れ替わり立ち代りお手伝いに来てくれましたが、炊き出し日が平日の金曜日ということが大きなネックで、どうしても1人の人が長く続けるのは無理のようです。

 現在も何人かの熱心なボランティアがお手伝いしてくれていますが、それぞれの事情からみていつまでもというわけにはいきません。学生であれば、卒業や就職がありますし、フリーターのような人でも仕事が変われば、休める曜日も変わってしまいます。

 
通常、支援団体の炊き出しというのは、支援者やボランティアが時間をあけられる土曜日か日曜日に行われます。それだけに、金曜日に炊き出しは都内ではどこもないようです。その為、都内一円からホームレスが集まり、大人数になりますが、その分、平日の炊き出しは大変貴重な存在になってしまいます。

 支援者の立場からみれば、通常、炊き出しはどうしても週末になります。しかし、福祉行動や行政との交渉は役所の空いている平日にしか出来ません。ですから、支援団体に平日に動けるスタッフがどれだけいるかによってその活動の幅は大きく違ってきます。

 私が3年間ずっと続けて来られたのは現役をリタイアした人間なので平日に動けたのと、300人もののホームレスの食を確保しようという責任感からでした。

 この炊き出しは、小さな公園に
300人以上のホームレスが集まるため、厳格なルールを作って行わない限り、あっという間に無秩序になり、即、公園の使用が難しくなります。

 ということは、私のような管理責任者がいなくなれば、恐らく、1、2ケ月のうちに、ルールが破られ、近隣の苦情が多発して、役所もそれに耐えられず、公園の使用を禁止することになるに違いありません。
 それに、役所が禁止の処置をとっても、それに抗議したり、対策を打ち出す責任者が炊き出し側にいなければ、そこで炊き出しは消滅するしかありません。

 私は仕事を持って働いている人間ではないので、やれるうちはやりますが、いざというときの「後釜」が全くいないという不安感はいつも付きまとっています。

 せめて私と同じことをする人がもう
1人2人は欲しいと思います。出来れば私のように現役を離れたシニアの方がいいですね。今、団塊の世代が定年を迎えて大量におられることだし、年配同士、私と一緒にやりませんか? ご興味のある方、是非、私にご連絡ください。

 では、次回は、シニアの方が何故、ホームレス支援に最適かということについて述べてみたいと思います。
 続く

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(112)「山谷崖っぷち日記」を検証する(16)      2007・3・15

 私は「ホームレス問題」に取り組んで5年になります。その間、福祉行政を研究し、生活保護に関わる法規制とその運用実態をつぶさに見てきました。

 また、数多くの路上生活者と日常的に接し、「ホームレス問題」の本質を探る努力をしてまいりました。しかしながら、正直言って、「ホームレス問題」の背景は余りに複雑なため、何が抜本的な解決策なのかは自分には確たるものがありません。

 しかし、路上で苦しんでいる人の苦しみを、根本的な解消は無理ですが、少しだけ和らげるノウハウは随分と培ってきたと思います。

 いくら頑張っても人が他人の人生を変えることや、人の宿命を
180度変換することは望むべくもありません。そのような大それたことは考えないほうがいいと思います。

 ホームレス状態の人にも、その困窮度において、多岐多種に分類が出来ます。僅かな情報を提供するだけで社会復帰する人もいれば、支援の手間はかかるにしても路上脱出が可能な人や、もはや支援者にも行政にも援護の手段のない人もいます。

 又、支援者の視点からみたホームレスの分類というものもあります。
 全力で応援してあげたくなるようなホームレス、法規の範囲で機械的に援助してあげればいいと思えるホームレス、出来れば無視したいホームレスというような極めて支援者の主観に満ちた仕分けの仕方だと思います。

 分かりやすく説明しますと、対象になるホームレスの人柄とか、ホームレスになった原因が自己責任の色彩の強いものか、社会的な要因の方が大きいのか、というような極めて判断の難しい分類です。行政の人であれば、基準は法の定めに則って判断すればいいので、ある意味で単純な作業でもあります。

 生活保護法では、「無差別平等」という原則があり、今現在、その人が法の基準にマッチした困窮状態であるかが基本であり、何故、その人が困窮状態になったかとか、その人の生き方とかどんな人柄とかは二の次です。

 しかし、ボランティアというのは、あくまで一人一人が自分の基準をもっているはずです。
  例えば、困窮者に対し、福祉の制度が利用出来るように支援する場合を考えてみます。
 
 もし、その対象者が、「こんなに酷く悲惨な人生を歩いて来ても、明るく前向きで、尚、立ち直ろうと頑張っている」というような人柄であれば、ボランティアとしては、その方のために、どんなことでもしてあげたいと思います。それこそ、福祉の運用現場の経験とノウハウを駆使してその方を応援してしまいます。

 しかし、もし、その対象者が、
 「この方はたしかに法律的には保護の基準に合致している。しかし、この方の仲間内での評判はすごく悪い。今は病気で元気がないが保護を受けて病気も治ればまた周りの人に害を及ぼすに違いない。このような人に税金を使って保護を受けるお手伝いは遠慮したい」
 というような人であれば、「死ぬか生きるかの急迫状態」は別として、通常であればなるべく支援しないようにするのも、それこそボランティア自身の基準で決めることだと思います。

 となると、この基準が重大問題になってきます。基準は個々の支援者の価値観で決まるとすれば、その基準にはその支援者の生き様が反映されると思います。

 実は、もっと難しい問題があります。自分の基準を決めたとしても、突然、眼の前に現れた困窮者が自分の基準に合致した人であるかどうかの判断こそ、私たち支援者を悩ませる問題です。
 その判断には時に人の命に関わることもあるくらい重い決断になります。

 もっとも、どこかの支援団体に所属して活動する場合は、その団体の理念とか方針に従うことになると思います。

 さて、福祉につなぐと言うことは、国民の血税を使うということと大体イコールです。私もお恥ずかしい話ですが、今まで随分、判断ミスを繰り返してきました。「いい人」かと思っていたら、「とんでもない人」であったり、「酷い人」だと思ったのが、実は「自分の仲間をかばって、自分が罪を被った」というような「義侠の人」だったりします。

 ところが、保護の対象者は、「いま現在、生活に困窮しており、このままではとうてい生きて行く事が出来ない」と判断された人たちです。ですから、時間をかけてじっくり観察など出来ません。
 実に難しい仕事です。短期間に人の本質を見抜くことなど不可能に近いのですが、「どうするか」を決めるしかありません。

 日本の財政が潤沢にあり、困った人がいればその全員を掬い上げられるだけのお金があるのであれば、私たち支援者は困窮者をひたすら福祉につなげばいいと思いますし、そうなれば、ある意味で、極めて単純なボランティア活動が出来るはずです。

 しかしながら、現状、日本には保護基準以下の人たちが、保護を実際に受けている人の
5倍はいると言われています。そんな状況でも、政府は保護費の予算を削ろうとしています。そういう政治がいいのか悪いのかは別として、それが現実です。

 また、聞いた話では、福祉事務所のケースワカーの抱える被保護者の人数は一人当たり、大体
80人とかに決まっているそうですが、被保護者の新規が増えれば、増えた分だけ、現在の被保護者を削る努力をしなくてはいけないそうです。(勿論、行政内でそのような取り決めをしているかどうかは分かりませんが、噂としては随分聞く話です)。

 ですから、ボランティアとしての支援活動の中で、
1人を福祉につなげば、結果として、今現在福祉を受けている別の方の保護が切ることになりかねません。

 若くて過激な支援者や人権擁護を謳う人たちだと、「行政に受け入れ態勢がないとか、予算がないとかというのは国の責任だろ。法律に決められているようにすぐにやれ」という論法になり、私のような人間は「生ぬるい」と脅かされてしまいそうです。

 しかし、私のような年ですと、物事をいろいろな視点で考える習慣がついており、一面だけを強調して声高になるようなことはとても出来ません。
 まあ、そんなこんなで、福祉活動は結構、神経を使いますし、たえず、「どうするべきか」という葛藤に悩まされます。

 また、世の中には福祉の制度の空白地帯にすっぽりはまり込んで身動きが取れない困窮者が大勢いると思います。

 例えば、知的障害者としての判定を受けることが出来れば、行政の様々な支援が受けられます。しかし、知的障害に限りなく近くても行政の認定がなければ、普通の健常者としての扱いになります。
 知的障害に限りなく近い人が健常者の世界に放り出されてもうまく行くはずがありません。すぐに、孤立してしまいます。

 実はこのように普通の人と障害を持つ人との間に位置するボーダーラインの人たちが路上にも一定の割合でいますが、私たちはその人たちを「処遇困難者」と称します。

 困窮していることが誰の目にも明らかなような状態でも、行政としては、法律上の規定がなければ「どうすることも出来ず」、支援者の方は、もっと、「どうすることも出来ず」、正に、支援者自身が、「途方に暮れる」ことになります。

 世間の人たちは、そのような処遇困難者(自力でも生きていけないし、行政の支援も受けられない人)の人たちが昼間、ブラブラしたり、公園などでベンチに坐って、虚ろな目でボーとしているのをみて、「仕事もしない怠け者」としてみてしまい、「あんなだからホームレスになったのだ」と納得してしまい、更なる偏見を強めてしまいます。

 なかなか出口の見えないホームレス問題に理と情のバランスを取りつつも、うまくいったり、ダメだったりしながら、ストレスを溜めずに、淡々と活動をするには、やはり、年の功のあるシニアにピッタリかと思います。

 よく見聞する事ですが、比較的若い人たちがホームレスの世界に触れて、「この国は何と酷い国だ。ホームレスだって自分たちと同じ人間だ。あの人たちを道端に放り捨てて顧みない行政や社会が許せない。すぐにでも救済に立ち上がるべきだ」と言って憤慨します。

 そして、それこそ自分のすべてを捧げるようにして支援活動を初めますが、すぐに壁にぶつかり、矢折れ、刀尽きて、挫折して、いつの間にかその世界から退場してしまう、なんていうことがよく見受けられます。実際に[燃え尽き症候群」のような現象がよく見受けられます。


 長い人生経験から生まれるシニアの智慧こそ、この複雑なホームレスの世界で強く求められるように思います。退職されて何か社会に役に立つボランティアをしてみたいと考えておられるシニアはたくさんいらっしゃるはずです。

 リタイヤしたシニアの中には、現役時代には企業利益のみに生きてきて、振り返ると、社会の役に立つようなことは何もしてなかったとか、企業人として、利潤追求を第一義に考え、心ならずも社会に害を及ぼしたかもしれない、と反省モードに入っている方もいらっしゃるかもしれません。

 実は、私自身が正にそれの典型人間でして、退職した後は少しは社会の為に役に立つことをしないととても自分自身の人生にバランスが取れないと嘆いている一人でもあります。

 ボランティアの世界では、どの分野でも人生経験豊富なシニアの参加を求めていると思いますが、ホームレス関連の支援活動こそシニアが活躍されるに相応しいボランティアかと思います。
 
 何故かと言うと、ホームレス支援はごく簡単な作業から相当高度な判断を要求される仕事までバリエーションが豊富で、その人の希望や力量に沿った内容があります。

 例えば、炊き出し現場で飯を炊く仕事、列の整理をする仕事、福祉の相談、行政との交渉の窓口、更に、支援団体の運営に参画、更に、根本的な解決を目指した政治的な運動など、結構、色々な仕事があり、その人の特性とか、どこまでこの問題に関わりたいかによって自由に選択出来ます。

 ただし、社会の、もうこれ以下の世界はないという程の最下層の人たちを支援するので、時には地獄絵図を見ることもあり、やはり、それなりの「志」がないと、苦痛そのものになり続かないのではないかと思います。

 それと、もうひとつ、シニアの方は平日にも活動出来ることが非常に大きな力になります。どこの支援団体でも平日活動出来る人材は最高に歓迎されると思います。

 さて、私の話を聞いて、それでは自分も何かやってみようと思われる方がいらっしゃいましたら、私にご連絡ください。それぞれのご希望や地域を聞いて、そのご希望に相応しい支援団体をご紹介出来ると思います。

 勿論、私と一緒にやってみたいという方は大歓迎です。私の今までの経験を全部お伝えしたいと思います。

 連絡先:masakayo23@yahoo.co.jp  中村です。    お待ちしています。
              

        


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(113)「山谷崖っぷち日記」を検証する(17)  2007・4・1 最終編

「山谷崖っぷち日記」は今回のコラムで終わりたいと思います。

 山谷住民の人間性を述べた箇所を抜粋して私なりの感想を付け加えてみます。非常に重たいテーマであり、ある意味で、ホームレス問題の本質に触れるとも言えます。


『私は西成で三年、山谷で十二年、都合十五年間の労務者生活を送って来たわけだが、その私の目には、世の中の底辺にあるはずだという人間の気高さや美しさを見出すことはできなかった。

 山谷住人のマジョリティの姿は、私の何年間の一般市民社会での見聞と照らしていえば、一般社会の住民と同じ程度には気高くも美しくもなかった。

 山谷住人の陋劣さは、一般社会の住人の陋劣さよりも洗練と多様性に欠け、はるかに単純で露骨だった。無知と卑屈と傲慢の三位一体を体現したような人々とは、腐るほど出会ってきた。
 知識自体にはさほどの意味はないだろうが、知識を手に入れる過程で身につく教養なるものは、なるほど重要なものなんだなということが、これら三位一体を体現した人々と接触するたびに痛感させられるのだった。』


 上記の文章に出てくる山谷住人とは、労務者あり野宿者ありと解釈してみたいと思います。労務者である山谷住民とは限りなく野宿者に近い存在であり、高齢化とか病気障害でドヤと路上を往復しつつ次第に野宿生活が定着する存在でもあります。

 作者の大山さんはその文章の中で、「陋劣」という言葉を多用しており、また、「陋劣」なる山谷の住民と自分自身の間に一歩、距離を置かざる得ない心境を述べているように思います。

 たしかに、大山さんの述べてることは、その通りであるかもしれません。ですから、大山さんのように、大学も出て、教養も知識も十二分に有している人間の視点に立てば、山谷の住人が「無知」であり、「陋劣」であることに、時に腹ただしく感じるのももっとのことのように思います。

 しかしながら、支援者の視点からみると、山谷住民たちが、「無知、陋劣、卑屈、傲慢」というようなキーワードを身に纏っていることに対して、「だからどうなの、彼らの人生の軌跡を辿れば、ある意味当然じゃないの」と思い、それでも、「支援するか、しないか」ということであり、支援者は「それでも、否、それだからこそ」支援するしかないと考えるのです。

 さて、「陋劣」なる言葉は普段はほとんど聞きなれない言葉で、その意味は、辞書に拠ると、「卑しく、軽蔑すべき。下劣。卑しく劣っている」等と書かれています。

 私は多くのホームレスと接していて、常々、感じることですが、ホームレスというのは物質面では極貧そのものですが、精神的貧しさという面でも底辺にいるように思います。要するに、物質面でも精神面でも不遇な人たちとも言えます。

 精神的貧しさとは、往々にして、生まれながらの貧困故に、不十分な愛情、不十分な躾、中学を出たか出ないか程度の教育、十分とはいえないIQ、長年に渡る建築現場での飯場や寮生活という環境で社会の常識を身に付ける機会のないままに年齢を重ねた人たち・・・・といような条件下で、「陋劣」という雰囲気を身に付けることは、まあまあ、避けがたいことではないかと思います。

 「陋劣」であることは、いい響きではありませんが、だからといって、ホームレスの世界に限って言えば、取り立てて、責め立てることでもないと思います。

 話は飛びますが、私が考えるに、「陋劣」には2種類あると思われます。一つは、必ずしも本人の責任で「陋劣」になったとは言い難いケースと、もう一つは、人並み、或は、それ以上の恵まれた環境や能力を持ちながら、「陋劣」状態に陥っている人たちです。

 前者は、ホームレスに多く見られると思いますし、後者は自分の私利私欲のために、欲望を膨らませ、社会に害毒を流す人たちで、例えば、名声を成し遂げた社会的地位の高い人たちで、人生の最後で悪事を働き、「晩節を汚す」事件がよくあります。

 これも立派な「陋劣」であり、社会的には前者の「陋劣」より、はるかに悪質な「陋劣」ではないかと思います。

 私のホームレス支援の動機の一つに、実は「陋劣」であることをあげることが出来ます。ホームレスの多くが、「清く、貧しく、美しく」であれば、世間のホームレスを見る目も大分違ってくると思います。
 しかし、無理を言っても仕方ありません。「衣食住」が足りなくて、「清く、貧しく、美しく」なんていうのは聖人君子にしか出来ません。

「陋劣」なるが故に、世間から嫌われ、社会から排除されているからこそ、また、彼らが、不幸な人生の中で、「陋劣」なる状態に作り上げられたという側面がよく分かる故に、支援者は彼らの為に、時には、世間や社会を敵に廻してまで、支援するのではないかと私は思います。

 作者の大山さんは、「世の中の底辺にあるはずだという人間の気高さや美しさを見出すことはできなかった」と述べていますが、この部分は私にはいまひとつよく分かりません。大山さんが底辺の人に何を期待しているのでしょうか。

 さて、大山さんの期待したものと合致しているかどうか分かりませんが、底辺にはとてつもなく「馬鹿正直」な人がごく稀に見受けられます。

 何年か前ですが、池袋の駅構内には、特に寒い冬場にはホームレスの人たちが構内の通路で寝ています。暖房が効いているので、少しでも不潔な状態ではシラミが発生して、そこで寝ているホームレスに移ることがよくありました。

 私たち支援者はシラミのついたホームレスを見つけると、福祉事務所に連れて行き、シャワーを借りて、衣類を総取っ替して、さっぱりしてもらいました。

 この手のシラミはコロモジラミと称して人間の衣類の中にもぐりこみ、人間の肌から血を吸って生きています。ですから、体をきれいにして、衣類を取り替えればシラミはいなくなりますので、極めて処理は簡単ですが、しかし、そのままにしておくと、シラミはねずみ算方式に増え続け、ついには貧血で死ぬこともあります。

 多少のシラミであれば、一度の処理でおしまいですが、体中シラミにやられて、全身の皮膚の色素が沈殿して真っ黒になるほどの人に対しては処理の後、保健所の専門家が細かい注意を与えます。

 まず、清潔にすること、下着はまめに取りかえること、毎日、同じダンボールで寝ないこと、同じ場所で寝ないこと、着替がない場合は、シラミがついた衣類を黒いビニール袋に入れて密閉し、太陽光線にしばらくあてておくこと・・・・・・などです。

 Aさんは大量にシラミがついた人でしたが、処理の後も、いつもの場所と全く同じ場所で寝ていました。
 Aさんのシラミの処理に苦労した私は、思わず、「Aさん、同じ場所で寝てはいけないと保健所の人に言われたでしょ、ダメじゃないの」とやや強く言ってしまいました。

 Aさんはシラミの痒みで体中を引っ掻いて、肌が血だらけになっていたため、皮膚科に連れて行き、殺菌を施し、抗生物質まで飲んだことを思い出して、ついついきつく言ってしまったのです。

 ところがAさんは無邪気な顔をして、「他の人がここで寝たらシラミが移ってしまい、悪いですから」と言いました。私は、「何という発想!」とびっくりしました。

 Aさんは、「頭がちょっと弱い」と仲間内で言われていましたが、その「人の良さ」は正に、「馬鹿」がいくつもつくほどでした。

 私は、Aさんをみてて、「人間とは、頭のよさと人柄とはまったく別物だ」としみじみ思いました、が、同時に、知恵もなくてはこの世を生き抜いていくことは出来ないと思いました。

 知恵もあり、人柄もよければ一番いいのでしょう。また、人柄が多少悪くても知恵があればこの世は何とかなります。
 一番問題なのは、人柄が飛び切りよくて、知恵のない場合だと思います。正に、Aさんその人です。

 実は、Aさんのような、「馬鹿お人よし」がホームレスの中に、多くはないと思いますが、時々、まれにいることがあります。

 Aさんのような人を、「泥沼に咲いた一輪のきれいな花」と言えるかどうか分かりませんが、真っ暗闇のホームレスの世界だからこそ、ちょっとした光がまぶしいくらいに輝くのかもしれませんね。  完

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