アマチュア時代に輝かしい実績を誇った田子ノ浦親方だけに、本名の「久嶋」の方が印象深い。末は横綱かと騒がれてのプロ入り後は不遇の人生。その結末が衝撃的な急死とはやり切れない。
現役時代は誠実な土俵態度を貫き「俺は友達がいないからなあ」と苦笑いしたことも。全ては勝負に徹するためだった。引退届提出の日には「子どもの時から相撲漬けで体はけがだらけ。どこか相撲に飽きていた」と淡々としていたが、弟子育成と相撲の普及に新たな情熱を燃やした。
しかし、2000年の独立後は苦難の道のりが続く。04年にホープと期待された17歳の三段目力士、08年には部屋所属で25歳の呼び出しを亡くした。自身も30代後半に心筋梗塞を患い、現役時代は200キロあった体重を50キロ以上減らした。
悲運に見舞われながら、弟子を連れて地道に小学校や幼稚園を訪問。昨年九州場所で碧山が部屋初の関取になり「白鵬を倒す力士に育てたい」と夢も描いていた。
歌や料理がうまく、読書家で頭脳は明晰。年寄名跡問題で揺れる中で年寄会の副会長を務めていた。真面目な性格ゆえに「心労がたたったのだろう」と気遣う親方衆は多い。(共同)